第七話 痛みの“残響”
(痛みは空気に残る)
それは詩音にとって、仮説ではなく“実感”だった。
誰かが苦しんだ部屋には、必ずと言っていいほど奇妙な重さがある。
湿度でも、温度でも、物理的な匂いでもない。
それでも、感じる――“そこに何かがいた”という質感。
研究所の環境観測室。
天井に近いダクトから小型の粒子採取装置がゆっくりと稼働音を立てていた。
詩音は白衣を脱ぎ、グレーの作業着に着替えると、カートにセンサーを詰め込んだ。
手には、旧式の空間成分解析端末。
今から向かうのは、先日“無反応状態”に陥った職員が座っていた、セクション5・第2観察室。
「……準備できた?」
遼が入り口で気まずそうに立っていた。
白衣のポケットに検体バッグを詰めているが、顔が少し引きつっている。
「……あの部屋、正直まだちょっと気味悪いな」
「それが、“残響”です」
詩音は振り向かずに言う。
「人の感覚は、無意識に空間の微細な変化を拾います。
痛みの反応は、音よりも先に届く。光よりも鋭く、記憶よりも残る」
「……って言われてもなあ」
「大丈夫です。今回は“測る”だけ。あなたは私の後ろを歩いて、記録だけしていればいい」
扉が開く。
再び訪れた第2観察室は、前よりもずっと静かだった。
清掃もされ、空気も入れ替えられている。
けれど――あの重さだけは、変わっていなかった。
詩音は足を止め、手首のモニターに表示される数値をじっと見つめる。
(空間微粒:通常時の2.4倍……反応性アルデヒド類の残留……)
遼はノートを広げながら小声で聞いた。
「それって、何の成分?」
「神経伝達を阻害する“痛覚干渉物質”の痕跡です。
一般的な空間では検出されません。
……つまり、“何か”がここに痛みを置いていった」
遼が身じろぎする。
その時だった。
「――あっ……」
彼が、突然額を押さえた。
「どうしました?」
「なんか……急に、頭がズキッとして……」
詩音は一瞬で距離を詰め、遼の目の動きを確認する。
瞳孔、わずかに拡張。顔面の筋肉が軽く痙攣している。
皮膚には発赤なし。だが、額には汗がにじみ始めている。
「……痛みの転移反応」
「え、なに……それ……」
詩音は遼の手からノートを取り上げ、淡々と症状を記録し始めた。
「視界は?」
「ちょっと、霞んでる……」
「音は?」
「……こもって聞こえる」
詩音の顔に、明確な緊張が走った。
(痛覚転移の“初期型”。この速度……速すぎる)
本来、痛みの残響は“弱い人間”にゆっくりと蓄積する。
だが遼は、それを“短時間で取り込んでしまった”。
「遼さん、今すぐこの部屋を出ます。ゆっくり呼吸して、私の声だけ聞いてください」
「う、うん……」
詩音は彼の腕を軽く取り、背中に手を添えて歩かせる。
一歩、また一歩。
部屋を出た瞬間――遼の表情がすっと緩んだ。
「あ……マシになった」
「やはり、あの空間が“発信源”になっている。
そこにあった“痛み”が、まだ消えていない」
詩音は無言で記録端末を操作し、分析レポートを走らせる。
その手つきは冷静だったが、内心はざわついていた。
(これはもう、“残響”ではない。
――感染に近い)
彼女の中で、新たな仮説が芽生える。
痛みは、誰かの記憶から漏れ出して、空間を媒介して、他者へ届く。
それが“偶然”であれば、まだ収束はできる。
だが――意図的にばらまかれているとしたら?
詩音は空を見た。
天井の奥、監視カメラの死角。
そこに、さっきの赤い封筒と同じ――銀の“刻印”の紙片が、静かに貼られていた。
まるで、誰かが見ているように。
「……また、来ている」
詩音の声が、遼には聞こえなかった。