第五話 封筒に、痛みは宿るか
封筒は、朱色だった。
光に透かせば中の紙がうっすら見えるが、封はしっかりと閉じられていた。
封蝋の代わりに貼られていたのは、細い銀のシール。
見覚えのない刻印。記号でもなく、文字でもない、何かの“模様”。
(記録にある標準フォーマットではない。個人の私物か……)
詩音は観察用の手袋を装着し、封筒の端にピンセットを添えた。
ゆっくりと開封する――まるで、壊れそうな器官に触れるように。
中から現れたのは、二枚の紙。
一枚目は、印刷された記録表。
そして、もう一枚。手書きの、細い文字が連なった便箋。
「……手紙?」
遼が思わず声に出す。
詩音は手袋をつけたまま、それを読み上げ始めた。
【観察記録:被験者F】
最終実験日:9月15日
使用薬剤:A-K1 微量拡散式(非公式)
副作用:神経遮断反応/幻痛/感情連結消失
特記事項:
――“痛みを取り除くことは、存在そのものを薄くすることに似ている”
そこまで読んで、詩音はふと黙り込んだ。
紙の端が、微かに震えているのに気づく。
自分の指ではない。
紙そのものが、かすかに“ふるえていた”。
室内は無風。機械の振動もない。
それでも、便箋は確かに、震えていた。
(共振……?)
詩音はゆっくりと視線を下に落とし、手書きの手紙を読み始める。
その筆跡は、震えがちで、どこか幼い。
『――君がこの手紙を読むころ、ぼくはもう“世界とつながって”いないかもしれない。
君の言っていた“本当の痛み”って、もしかしてこういうことだったのかな。
何も感じないって、こんなにも孤独で、
こんなにも、自分が“自分”じゃない気がする。
でも、もう戻れない。君の言う“痛みの地図”に、ぼくは入れなかった。
ごめん。君は、最後まで痛みの中で、生きていける人だったんだね。
それは、ほんとうにすごいことだと思う。』
「…………」
遼が言葉を失ったまま、黙って立ち尽くしている。
詩音は、読み終えた便箋を無言でケースに入れた。
その表情は、何も変わっていない。
でも、目だけが――ほんの一瞬だけ、揺れていた。
「……知ってたのか、その“被験者F”って」
「ええ」
「友達?」
詩音は、静かに首を横に振った。
「私の“対照”です。
私が“痛みに耐える被験者”として記録されたとき、
彼は、“痛みを除去された被験者”だった」
「つまり……」
「同じ場所で、同じ時間に、
“痛み”というテーマに、真逆の角度から触れた、
――唯一の人です」
遼が、言葉を詰まらせる。
詩音の声に感情はなかったが、それでも――何かが、あった。
その何かは、感情というには淡すぎて、
でも“痛覚”というには、優しすぎた。
「彼は、私にこう言ったんです」
詩音がぽつりと言う。
「“痛みが怖いから、それをなくすのが研究なんだろ”って」
そして、詩音はそれにこう返したのだった。
“私にとっては、痛みこそが、生きている証なんだけど”――と。
あの時、彼は笑っていた。
それは優しい笑顔だったけれど、どこか寂しげで。
そして今日、その彼の手紙はこう締めくくられていた。
『ぼくの“痛み”は、君にあげる。
もし、君がまだ探しているのなら――
君の世界で、痛みを定義してください。』
詩音は、静かにノートを開く。
そこに、たった一行を書き加えた。
【被験者Fより:転移性記憶痛の可能性。検証対象へ】
そして、小さくつぶやいた。
「……痛みは、手紙にも宿るらしいわね」
彼女の声は変わらず無感情で、
けれどその背中は、わずかに何かを抱えていた。