第二話 感覚閾と金属椅子
(新しい観察係の印象――)
詩音は記録用紙に、数行だけ鉛筆を走らせた。
【真木遼】
男。26歳前後。平均的な体格。
表情の動きに乏しいが、瞳孔反応は素直。
皮膚の緊張が遅れて解けるタイプ。痛みに弱い可能性。
服装に乱れなし。清潔。
第一印象:神経の太さは普通。悪くない。
(少なくとも前任よりは使えそう)
前の観察係は、スキンパッチの実験中に「やっぱ無理」と叫んで逃げた。
詩音としては、記録の途中で被験者が消えるのが一番困る。
その点、この新しい係は質問もせず椅子に座った。
言われたとおりに腕を出し、装置の取り付けにも抵抗を見せない。
(理解していないのか、あるいは……興味が勝っているのか)
どちらでも構わない。
今は、“反応”を観たい。
詩音は銀色の小さなパッチを遼の前腕に貼りつけた。
すぐに低周波刺激が皮膚を這い、細胞の奥に微かな震えを送る。
「う……く、っ……」
呼吸が、ひとつ詰まった。
詩音の瞳がわずかに細まる。
それは、彼女にとって――最も美しい瞬間。
「刺激レベル、現在12。痛覚閾の初期反応」
詩音はノートに記しながら、横目で遼の額に滲む汗を見ていた。
この程度の刺激で、汗が出るのは平均より感受性が高い証拠だ。
もしかすると、“記録向き”かもしれない。
「……なあ、ちょっと聞いていい?」
「どうぞ」
「……この部屋って、どうしてこんなに無音なんだ?」
詩音は、答えなかった。
代わりに、装置のスイッチを切り、静かにパッチを外す。
遼が痛みの余韻でぼんやりしている間、詩音は指先で空気をつかむように動かした。
「この部屋は、音と匂いと光の“濁り”が抑えられている。
すべて、痛覚の純粋な反応を記録するためです」
「……なんか、隔離部屋みたいだな」
「実際そうです。ここは“痛み”のための部屋。
あなたが何を話しても、ここでは記録されません。
代わりに、あなたの神経は、すべて記録されます」
淡々と話しながら、詩音は自分の左腕に同じパッチを貼った。
遼が驚いたように言う。
「お前もやるのか?」
「当然です。自分の反応を知らずに他人の記録など取れません。
比較対象のない記録は、“誤解”と同じです」
「……あのさ、それ、普通の人間は“やらない”んだよ?」
詩音は答えなかった。
ただ、刺激が走るとき――ほんの一瞬だけ、彼女の指先がぴくりと震えた。
表情は変わらない。
けれど、そこには確かに、“感じている”反応があった。
(この痛みは、36度。神経反応も安定している。
でも……やはり、違う)
自分にとっての痛みは、誰かと同じものではない。
似ているようで、決して重ならない。
だからこそ、記録する。だからこそ、測る。
ふと――詩音の耳に、微かにノイズが届いた。
キュイ……と、機械の共振音のような細い音。
ほんの一秒もない、短い“異物”。
詩音は眉をわずかに寄せた。
遼はまだ気づいていない。
刺激パッチを外し、汗を拭っていた。
「……今の、聞こえましたか?」
「え? なにが?」
「――いえ、気のせいかもしれません」
だが、詩音は内心で確信していた。
あの音は、“普通ではない”。
感覚のどこかが、“何かに触れた”。
それが、のちに起こる連鎖の――最初の痛点であったことを、
このとき、彼女はまだ知らなかった。