第一話 観察係配属の日
(どうせ、またすぐ辞める)
白衣の袖を引きながら、詩音は小さくため息をついた。
研究所の地下階、セクション7。
ここは“痛み”を扱う実験室のなかでも、特に扱いづらい研究員が集められた場所。
正確には、扱いづらいのは彼女ひとりなのだが、空気は伝染するらしい。
(そもそも観察係なんて要るだろうか)
(観察するのは私のほうなのに)
先日、上層部の人事書類に赤インクで追加されたのは、ひとりの若い職員の名前。
政府から派遣された、なんとかという男。
神経反応の観察が専門、ということだったが、そういった“適任者”は過去にも何人かいた。
長くて三週間。短ければ初日に逃げ出す。
詩音はあまり期待していない。
淡白な白い廊下を抜け、実験棟のメンテナンス扉に手をかけた。
この施設では鍵よりも、指先の温度と鼓動の方が本人確認に適している。
詩音の皮膚はいつも冷たくて、開錠に数秒多くかかるのが不満だった。
(体温は信用できない。痛覚の方が、よほど真実だ)
室内に入ると、空気が切り替わる。
揮発性アルコールと、微かに焦げたコードの匂い。
昨日の実験の名残りだ。
中央の机には、並べたままの記録用紙と、薄い金属製の鑷子。
詩音は席につき、ペンをとった。
今日の記録は、皮膚刺激感覚・C線維の閾値測定。
対象は自分。
目的は、痛みの定義の再検証。
(昨日の傷は、まだ熱をもっている)
(神経の反応としては、48時間持続は稀少)
彼女は袖をまくった。
肌の上、数カ所に散る小さな火傷跡。
赤茶けたそれを指で押してみる。
「……残念、もう快感領域に移行した」
誰にともなく、呟いたそのとき――扉の外でノックの音。
「失礼します。真木遼、配属されました」
声は平坦だったが、どこか人間味がにじむ。
詩音は顔を上げ、じっとその人物を見た。
黒髪、長身、標準的な白衣。
そして、瞳の奥にわずかに浮かぶ警戒と、不安。
彼は、恐らくまだ知らない。
自分がここで、何を観察することになるのかを。
(最初に観察するのはこちら。……彼の“痛み”の型)
詩音は、微かに口角を上げた。
「あなたの脈拍、現在84。
呼吸は浅く、視線は不定。緊張度、中の下」
「……えっ、俺、何も言ってませんけど?」
「言葉は要りません。痛みは、沈黙のほうがよく喋るものです」
そう言って、詩音は椅子をすすめた。
「座ってください。まずは、基礎反応から」
(さて、今度の観察係は、何日保つだろう)
淡々と、冷たく、それでもどこか期待を孕んだ目で、
詩音は“次の痛み”を迎え入れた。