五里霧中
谷間が故に陽は出ずとも、扉から射し込む空明かりは箱中の暗さには強くも思える。
明るさに順応しようとする目よりも早く、空は陽の色を増して大地を焦がすかに照りつけると、水面に立てた霧を上げ白い息と同化する。
扉の方を向くもキツく箱の奥を一応に見回し確認すれば、喰い千切られた残骸の転がる床に解凍された肉の欠片がドリップなのかウィープなのか、血とは違える赤い水を方方に溜めるだけで熊の姿はない。
檻の上に捨て置かれたヒョロ眼鏡の顔は鼻や口から体液を垂らす、それを嫌い毛布の端で格子の隙間から押し上げ退かし脇へと落とす。
――DUTYA――
顔を下にして落ちた衝撃によるものか、失った下顎の付け根辺りからデロデロと流れ出る脳みそらしき物、中は冷え切ってはいないのか妙な生温かさに湯気が立つ。
嗚咽を漏らし顔を背け逃げるように檻の扉に手を掛け、格子の隙間からロックを外そうかとして手を伸ばす。
――PUUUUUU――
唐突に鳴り響くクラクション、焦り硬直するも安堵する心、何事かと扉の方を向くが空の明るさに負け目を細める。
こちらに近付くエンジン音。
あの熊が未だ外に居たのか、それを見付けた車がクラクションを鳴らしてトラックの無事を確認しに来たようにも思える。
淡い期待を胸に、警戒して車から出ず素直に他責で警察へ通報してくれと願うばかりに、扉の先へ想いと視線を送るデブ。
だが、その視線の先で何やら光の靄とは少し違える濃い煙のようなものが開いていない方の扉の陰から吐き出されているのを見付け、まさかの不安に固まった。
明暗の差に暗所となっている開けていない方の扉の陰に目を凝らす。
暗部の陰に潜む何かを確かめようと開いた扉側に手を翳して覗くが、陽に染まる空の射し込みは暗部の手前までを遮り靄が邪魔する。
暗い方へ上手く目を慣らす事は出来ないが、光のカーテンの奥に潜みこちらを覗く二つの眼光、その存在を認識したと同時に目が合った。
その鋭い眼光はデブを睨み付けたまま、見付かった悔しさをぶつけるように牙を剥き出し前のめりになったか、鼻先を光のカーテンに押し付け現れた表情には怒りが満ち溢れ、その苛つきに唸りを上げる。
――GUWUUUUU――
視ていた
眠る獲物を
起こさぬよう
ずっと視ていた
狙い続け頭を使い
息を殺して陰に潜み
獲物を観察し続け学び
音も立てずジッと見詰め
檻中で憶えた明暗差を使い
獲物の行動を読み気配を殺し
朝の陽射しを計算に入れる知恵
獲物が警戒心を解き自ら檻を出る
その瞬間に狙いを付けて待っていた……
見付かって悔しがるそれは捕らえようとしているからに他ならず、詰まる話が獲物として見ている事を如実に示すもの。
蛇に見込まれた蛙そのままに、息を呑むも出来ず身を固めるのみ。
本物の蛙は眼前の物なら何でも喰らい、蛇をも飲まんとするがデブは違う。
人の考える例えの勝手さを知れば、想像と現実の剥離に自身の予想の浅墓さをも知れた事だろう。
近付く車に乗る男は、地主が山を売っては利権にのるソーラー事業で丘山の木々が落とされる事に危機感を持ち、“源水地を守れ!”と謳う近隣住民の一人だが、知らぬ誰かの通報により無断駐車のトラックを排除にやって来た。
無論、そこに熊が居る等とは思ってもいない男は、箱の扉が開いている事から中に居るものと考え近付き、臭気も朝霧が運び入れる腐葉土や堆肥の臭いと勘違いし、異常に気付く事なく大きな声で呼びかける。
「おいっ! ここは源水を守る為の土地だ! あんなデケー立入禁止の札も読めねえのか? なあ、聞いてんのかオイッ!」
来るな。その一言すら上げられずにただ黙って固まるデブの弱気を悟ってか、熊の目が微笑って見えたその刹那。
「なっ……」
身を翻した熊は開いた扉に顔を出し、中を覗き込もうとした男の頭に喰らいつく。
頭に何が起きたか認識出来ずも男は抵抗しようと必死に腕を振り上げ殴り付けるが、熊の喉や頬やを拳で突いたところで動じない。
怯え固まるデブの目の前で、熊は箱の中へ引き摺り込もうと首の力で男の身体を振り上げる。
男の身体は宙に浮いたが扉の上部に足が当たり中へは入らず、熊は再度振り上げようとして顔を戻すが落ちる男の遠心力に負け、咬むも外れた頭は外へと落ちた。
――GUMUUU――
足から着地した男の身体は反動により後ろに向かって回り転げ、池の堰に設置された柵に背中を打ち付け止まり、五秒ほど気を失うも慌てて起き上がると背中の傷みも後回しに、頭から血を流しつつも逃げるを優先。
車に戻ろうかとする男を追って箱の扉から顔を出した熊は、距離を測るように男を見詰め、何に勝機を見たのか一気に駆け出し、ドアを開けて乗り込もうとする男の右上腕部を引き裂かんとして爪を立てた。
上着のホックに掛かる熊の爪が、運転席に座りかけた男の身体をなぎ倒すように地面へ叩き付け、頭を強打した男は再度意識を失いかけて目を回して動けない。
――GUHUUU――
狩りを成功させたそれは熊とは思えず、人を狩るを愉しむように厚い上着に鼻を這わせて嗅ぎまわり、獲物の動きを止めようと腕や足やの筋を的確に狙い牙を打ち込む。
まるで家畜を絞めるように慣れた動きは、これを北の大地で飼っていただろう期間に何があったかを解らせる。
作業を終えたか高揚感に憂う眼からは、人の行動や心理を読んでいるような嫌に人じみたものを感じられ、ハイブリッドを生み出した連中の思惑までもが伺い知れる。
まるで褒めてくれとでも言うように勝ち誇り、餌をくれとせがむようなハイブリッドの行動は、訓練させていた名残のようで、生物兵器としての素養を見せ付けるようだ。
「誰か、た……」
首を咬み付け喉を裂き、男は声を失い胴体を引く攣かせるが、見える恐怖に抗う手足は筋を牙で打たれ動かせず、襲う痛みは眠るを許さずアドレナリン効果で脳を活発化させては己の最期を判らせる。
――BUFUUUMU――
まるで一仕事終えた溜め息のように次の作業に取り掛かる前の一休みを思わせると、男の右肩を咥えて丘山の方へと運び出す。
トラックの箱の中で横切る熊の背中がデブにも視えたと同時にクラクションが鳴り響く。
――FAAAAAAAA――
先より少し遠く音も違えるそれはトラックに多く付けられている音だと判るが、それが何故に鳴り響くのかに予想が付かず、不安と安堵の狭間で思考が及ばずデブは呆然としたまま意識も朦朧としていた。




