豚箱監視
眠ると言っても警戒心は持っていた筈だった。けれど夜半に連れ出され深夜の作業や長距離運転と極度の緊張に疲れ果てた身体は、迂闊にも熟睡していた。
それでも目を覚ましたのは警戒心ではなく、風で勢いよく閉まった扉の音によるもの。
――BATTAAANN――
朝を迎えようとしているのか、風は向きを変え扉を閉め押すようになると密閉された途端に箱中は静まり返る。
毛布の隙間から覗くも暗闇と化した箱中は、既に電気は尽きたかヒーターも僅かな灯りも消えていて、密閉されたとて暖気は無い。
周囲が見えない暗闇は自身の位置すら判らず、寝ている間に檻の端に寄っていたなら隙間から爪や鼻先を入れられ牙の餌食にもなり兼ねない。
咄嗟に確認しようと右手を出そうとして、何かが動く気配に手を止める。
仮に熊がこちらを向いていたなら、檻に触れれば噛まれる可能性もある。
ギョロ目が指を喰われた姿を思い出し〈ああはなりたくない〉等と考えたと同時に、滴り落ちる何かの液体が額を濡らす。
霧や霜やの水滴とは違い、少しドロっとした感触のそれが血である事は暗闇の中でも理解はできる。
鼻は曲がり匂いは判らずも、この血の鮮度は、毛布に付着したものが垂れて来たとは思えない。
それは毛布の上、檻の上部から垂れて来た事を意味している。
けれど自ら檻へ入る前には檻の上に掛けられていた幌も失い、残骸も払い落として何も置かれてはいなかった筈。
毛布の中で深い眠りに着いている間に何が起きたか、扉が閉まる前なら街灯は遠くもある程度の視認に推測も出来ただろうか、それすらも判らない程の暗闇に自身の置かれている状況が掴めない恐怖が襲い来る。
足の感覚も撃たれ咬まれの痛覚に邪魔され、流れ出る血が塞がり止まっているのか、動かせるのかすらも判らない。
いや、そもそも熊は何処にいる?
息する事すらやめているのか耳を澄ますが聴こえない。
寝ている間に出て行った?
そんな甘い考えが通用する相手ではない事は判るが、そうであって欲しい気持ちが何処かにある。
けれど手を伸ばそうとした折に動いた何かが居たのは確かだ。
暗闇で視えないのは向こうも同じだろうが、デブと違い野生動物は鼻が利く。
僅かな動きも気取るだろう事を思えば迂闊には動けないが、外の様子が分からなければ動きようもないそんな折。
――KIIIII――
風が緩んだか、デブの考えを見透かすように扉が僅かばかりに隙間を空けた。
――KIIIIIBATTANN――
けれど直ぐに扉は閉まり強烈な音と共に、箱の気密性は無くとも勢いよく閉められた事で空気を押し潰すような耳圧が襲い、聴こえる音が劇場内のようなもわっとした音に変わる。
動物も耳圧に聴こえが変わるなら、今動いても気付かれない可能性に賭けてみるのも手だが、傍らに居たならその手を喰われる可能性もある。
それに、扉が開いた折に影程の陰影を視界に見付けた事からも、外は夜も星明かりか遠くの街灯で全てが視えない訳では無さそうだ。
横を向くその手を伸ばして顔前の毛布を少し持ち上げ、視界を確保し次に扉が開くのを待ってみる。
開けた分だけ毛布内の暖気が奪われる事から、毛布の端を近付けつつ視界を確保に腕を窮屈にたたみ込む最中。
――KIIIII――
扉が開いただろう角度に比例して薄っすらとした陰影が浮かび、視界に檻の格子を判らせる。
けれど格子が錆鉄色をしているが為、明暗差により格子の先が未だ暗く判り難い。
――KIIIII――
朝と夜に向きを違える谷間の風は、その変わり目に強弱を付け不安定になる風が扉の開閉に間を空ける。
それは夜明けが近い事を判らせもするが、デブにそれを知れる程の智は無い。
――KIIIII――
藻掻きに毛布の隙間を覗く空虚な肉の塊が出て来るのを待ち、息を殺してジッと捕らえ見据えている。
呼吸をドアの開閉に合わせ吐き出し、静かに吸っては獲物の動きを観察しながら学びを行なう。
――KIIIIIBATTANN――
何となくにも見当たらないのだから、扉から見た檻の右側には居ないのだろうと判断し、少しずつ藻掻き身を仰向けにする。
血が垂れて来た事を踏まえ頭を少し上へとずらし、毛布を反らし上げてその時を待つ。
――KIIIII――
陰影が浮かび上がり檻の上部格子の一部に何かの影が浮かび上がる。
その時点で檻の上には居ないと判るが、開いた扉は隙間を広げて影が何かを判らせ、息を呑むも声が漏れる。
「ひぃっ……」
暗さに慣れた目が捉えたそれは、顎すらを失い喰われたヒョロ眼鏡の顔だった。
血だと思っていたアレは、顔の何処から何が垂れているのかすら判らないヒョロ眼鏡のものだと理解した途端、得も言われぬ悍ましさに鼓動は早まり吐き気よりも目眩が襲う。
寝た状態にもかかわらず目眩に身体が波に揺られて回され、その身を大きくも小さくも感じて来ると、呼吸の荒さに毛布の中の酸素が不足しているようにも思え、新鮮な空気を取り込もうと被る毛布の端を持ち上げた。
――KIIIIIBATTANN――
扉が閉じる瞬間、さっきは気付かなかったが毛布を大きく持ち上げた事で脇に置いていたスマホが目に入る。
眠る前にはロックが掛かっている事に諦め捨て置いたが、ロックされていても緊急通報は出来る事を思い出し、毛布の中で電源を入れようとして手を止めた。
扉の隙間から漏れ照らすも、暗闇の中に僅かな陰影を浮かび上がらせる程度の箱中で、スマホの明かりがどれ程毛布から漏れるのかを考えれば、それが如何に危険かくらいは子供でも解る。
そもそも警察に通報した所で、この荷物の発注元でもあるのだから知る者を消しに来る可能性の方が高い。
警察にとって都合の悪い被害者を見殺しにするのは、今の日本では当たり前にもなっている。
自動車企業からの寄贈により緊急車両を保持していた過去の経緯に、未だ国や市町村の長までもが自動車企業の利権に媚び諂う姿が分かり易い。
どれだけ車が悪い轢き逃げ事故でも警察署内に設けられた記者クラブは警察発表に基づき、轢かれた被害者よりも轢いた車のドライバーの無事を伝えるメディアのそれがどちらに立っているかを物語る。
轢き逃げをしたのはヒョロ眼鏡だがそれを目撃して見捨てた経緯に、今は助かりそうな自動車の箱の中とはいえ、警察にとって不都合な真実を知る者を助ける筈もない。
通報した事がある者なら知っている筈だ。「事故ですか?事件ですか?」と尋ねるも、事件と応えた途端に面倒臭そうに受け答え、出来得る限りに排除しようと事件発生件数を低く保つ為の努力をする。
そんなダラダラとしたやり取りをこの切迫した状況で話して居られるのかを思えば、何も考えず迂闊に電話をかければ電池が切れるまで話を引き延ばされて手段を失くすだけにも思える。
そもそも檻の扉を開けられるのなら襲われても可怪しくない状況でもあり、何よりも先に自身の足もとを確認する事が必要不可欠だったと今更に気付き、焦りに身構え下を向く。
――KIIIII――




