6. 嘘
初めてクロゥム様を見かけたのは、私がグレッグス公爵邸で侍女になって二年目の春だった。
「どなたでしょう? 随分とお若そうな方ですが……」
「あ、あれ? レイストロン伯爵家のクロゥム様よ。『真面目な青年なんだ』とか言って、最近のお父様のお気に入りでね。新規事業へ出資したとかなんとか……まぁ彼、何年か前に婚約破棄とかで色々大変だったみたいだからねぇ〜〜」
次期伯爵様を『あれ』呼ばわりできるのは、王国内のご令嬢でもエリアリス様くらいじゃないかしら?
でも、あのグレッグス公爵様がお認めになるくらいだから、相当な実力者なのね。
再度、若い貴族様のお顔を少しだけ離れた位置で見つめる。
すると、こちらの視線に気付いたのか、パチッと目が合った。
慌てて私が頭を下げると、彼は小さく会釈を返してくれた。
その柔らかな微笑みが、私の脳裏にいつまでも焼きついて離れなかった。
侍女に頭を下げる貴族などいない。
私ではなく、エリアリス様に対しての挨拶。
頭では分かっているのに……私は自分の頬が赤くなるのを感じた。
……これが私の遅い初恋だった。
◇◇◇◇
私が18歳の誕生日を過ぎた頃、実家に縁談が舞い込んだ。
「えっ……うそ……」
驚いたことにお相手はあのクロゥム様だった。
クロゥム様とは公爵邸で何度かお会いしたことがある。
といっても、お部屋への案内役としてご挨拶の言葉を交わす程度。
他家の使用人の顔など、いちいち覚えてはいないでしょう。
特に、こんな地味な私なんて……なのに、なんで?
信じられなかった。
あのクロゥム様との……縁談?
この私が……未来のレイストロン伯爵夫人⁇
あぁ、神様って……いるのね。
信心深い方ではないけれど、そっと空に感謝の祈りを捧げた。
「そ、そのことなんだが……」
お父様が何か言いにくそうな顔をしてると、お母様が肘でお父様の脇をつついた。
「こほんっ! レイストロン伯爵家からは、この縁談は『白い結婚』である、と……」
「えっ?」
さぁーーっと、顔から血の気が引く音がした。
結婚前に契約結婚の宣言をすること、それはつまり……『愛されることを望むな』……と。
………………
悪魔や魔物はいるくせに……神様なんていないんだわ。
そっと溜息を吐いて、私はすぐに掌を返した。
あの時の私は本当に浅慮だった。
ただ、クロゥム様のお側にいたい……その一心だけで、この結婚を承諾したのだった。
◇◇◇◇
「断ってもいいのよ?」
「イルにならいくらでももっと良い縁談を運ぶわよ? しかも条件が……あれって……」
「駄目よ、エリー! それは言っちゃ……」
「あ、あのぅ……?」
情報通な公爵家、ティミラ様とエリアリス様は私のことを誰よりも心配してくれた。
エリアリス様は自分の結婚にはまるで興味はないのに、他の令息令嬢達を仲介することを生き甲斐にしている。
ご自身は『破談令嬢』などという不名誉な通り名で呼ばれることがあっても、まるで意に介さない。
鋼の精神の持ち主だ。
優しく、強く、気高い……そんなお嬢様のことが私は大好きだ。
「イルが公爵邸からいなくなるのは寂しいわ……」
「ろくでもなかったらすぐに離縁しなさいね!」
「あ、は、はい……」
ず、ずいぶんな言われようですね、クロゥム様……公爵家からの信頼は厚いんじゃなかったんですか?
それとも関係性としての距離が近いから、気安い言葉なのかしら?
でも、私なんかのことをこれだけ心配してくれる人達がいる。
それだけで、私は幸せ者だ。
◇◇◇◇
伯爵邸での生活が始まり、私は自分の愚かさを改めて思い知った。
……はぁ……旦那様は……今日も尊い。
知れば知るほど、旦那様への想いが募っていってしまったのだ。
パチッと一瞬、目が合っただけで、頬が真っ赤になってしまい恥ずかしかった。
『おはよう』と呼び掛けられると、私の鼓動が早鳴り、息が止まりかけた。
そのお姿を一目見れただけで、その日一日、世界はキラキラと輝いて見えた。
だが、こんな浮かれた姿を誰かに見られてはいけないと、日々、自分を律するのにとても苦労した。
これは『白い結婚』
旦那様に愛されることはない。
……分かっている。
旦那様を愛してはご迷惑がかかる。
……それも分かってる。
私の役目は『お飾りの妻』
……大丈夫、大丈夫。ちゃんと分かってる。
幸いにも、クロゥム様がお忙しい方だったので、顔を合わせるのは朝食の時間だけだった。
一日三回なんて向かい合っていたら、幸せすぎて身体が持ちません。
ただ、お側にいるだけ……他には何も望みません。
………………
いや、そんなのは『嘘』だ。
◇◇◇◇
あの日、私は手紙を頼もうと屋敷内で使用人を探していた。
キョロキョロしながら、廊下を歩いていたら、目の前の扉が急に開いて、思いっきり顔面からぶつかり床に転がった。
バンッ! どさっ!
「うっ……い、痛ぁっ……」
あぁ、私の低い鼻、さらに引っ込んだんじゃないかしら?
それより、いつまでも床にしゃがみ込んでたら、ドアを開けた人が気にするわ。
た、立ち上がらなきゃ……。
よろよろと立ち上がろうとすると……
「イルフィーユ⁉︎」
がばっ!
「きゃっ! だ、旦那様⁉︎」
「すまない、怪我はないか?」
「け、怪我はだ、大丈夫ですが……あの……は、離してくださいっ!」
どんっ!
「あ、あぁ……す、すまない」
ぱっ!
私を抱きかかえてくれた旦那様を、思わず突き飛ばしてしまった!
「……ベルツリーを呼んでくる、ここで待っていてくれ」
パタパタパタッ……
執事長を呼びに、彼は廊下を走り去っていった。
「……」
ぺたんっ……
身体の力が抜け、また床に座り込んでしまった。
旦那様に掴まれた腕が……熱い。
身体を……心を……守るかのように、自分で自分をぎゅっと強く抱き締める。
「はぁ……駄目だわ……」
そのままその場でうずくまり、私はしばらく動けなくなった。
◇◇◇◇
「では奥様、お大事になさってください」
「えぇ、ありがとう」
パタンッ……
あの後、駆け付けた執事長が部屋まで付き添ってくれた。
心配そうにこちらを見ていた旦那様を、私は自分の視界に入れないように努めた。
どさっ……
ベッドに倒れ込み、また自分の両腕をぎゅっと抱える。
ぽろっと目から涙が溢れてきた……。
「クロゥム様……」
貴方のことが……好きなんです。
一欠片でもいい……私のことを見てほしい。
『欲』が出てしまったの……。
貴方に愛されたいと……そう願ってしまった。
それは、けして叶わぬ望み……。
『白い結婚』でも構わないなんて、嘘をついてごめんなさい。
「ううっ……ううっ……ううっ……」
私は声を殺すように枕に顔を押し付け、ただただ涙が枯れ果てるまで泣き続けた。
◇◇◇◇
「う……ん……今、何時かしら?」
泣き疲れた私はいつの間にか、だらしなくベッドの上で寝てしまっていたようだ。
でも、まだ起き上がる気力は湧かず、身体をごろりと反対向きに倒した。
……もし、結婚前の顔合わせの時……貴方に『好きです』とお伝えしていたら……私達の関係は何かが変わっていたのでしょうか?
……………
いえ、私の存在を認識していない方に、そんなこと言える勇気なんてどこにもなかった。
本当、愚かだわ。
白い結婚へ同意するということが何を意味するか、まるで分かっていなかった。
心のどこかで、それでも微かな期待を抱いていたのだ。
誰よりもクロゥム様の一番近くにいられれば、いつかその優しい瞳をこんな私にも向けてくれるかもしれない……そんな、泡のような儚い期待を……。
こんなにも近くにいるのに……心は遠いのだ。
………………
初恋を拗らせた惨めな女にできることといえば、ご迷惑をかけず、望まれた役割をきちんと果たす……ただ、それだけ。
この日、旦那様の妻という『役割』に徹することを改めて心に誓った。
自分の感情にフタをして、けして旦那様を心から愛してしまうことがないように……。
◇◇◇◇
コンコンッ!
「ムゥ様……こんばんは。今日も旦那様は居ないかしら?」
「うん。イル……ないた? だいじょう、ぶ?」
「あぁ、情け無い顔でごめんなさい……気にしないでください」
元々そこまで大きくない目を腫れぼったい瞼が覆い被さり、不細工な顔が出来上がっていた。
彼女の美しいオレンジの瞳に、こんな姿を映してしまっては申し訳ない。
お目汚し、失礼。
あら、今日はバスローブではなく、シルクの寝巻きを着ていらっしゃるのね。
何をお召しになっても、素晴らしいわ!
そっと彼女の両手を、私の手で包み込むように握る。
「ねえ、ムゥ様……お話があるので聞いてください。私の実家は子爵家です。我が家名を借りて貴女を養子とすれば、堂々とクロゥム様の隣で伯爵夫人になれるはずです」
「じ、じっか……」
「お父様とお母様に心配かけてはいけないと躊躇っておりましたが……私のことなんかより、貴女の幸せを願いたいのです」
真剣に彼女を見つめる。
すると、華奢な両手が私の手からするりと抜け出し、今度は彼女が私の手を外側からぎゅっと握った。
「じゃあ……イル、の……しあわせ、は?」
「え? わ、私の幸せは……叶わないのです。だから……もう、いいんですよ。それよりも、旦那様とムゥ様が結ばれ、皆に祝福されたなら私は嬉しいのです」
「……やだ」
「ムゥ様?」
「イル、しあわせ、じゃない、と、やだ」
困ったように悲しげな顔で目を伏せる彼女。
……私なんかの為に、ムゥ様の麗しいお顔を曇らせてはいけないわね。
「大丈夫、大丈夫! ちゃんと幸せですよ?」
「うそ」
「嘘じゃありませんよ〜〜。あ、明日、さっそく手紙を書きますわね」
「イル……」
話題を変えるように、少し大袈裟に声を上げた。
「そうだ、ムゥ様! 今晩、私と一緒に寝ませんか? お友達とお泊まりするの、昔からの夢だったんですよ!」
「ね、ねる……?」
私にとって、仲の良い友人は公爵令嬢のエリアリス様だ。
だが、本来なら高位過ぎて手の届かない存在の彼女との添い寝は……流石に気が引けるので、本人に言ってはいない。
「さぁ、旦那様に見つからないように、こっそりと向かいますよ〜〜!」
「あ! え? イ、イル……」
戸惑う彼女の手を引き、私の部屋へとムゥ様を連れ去ったのだった。




