2. 美女と地味妻
なんだか、すとんと腑に落ちて、口からうすら笑いが溢れた。
あぁ……人間って『絶望』を感じると、涙は引っ込むものなのね……知らなかったわ。
「はははっ……旦那様も人が悪いわぁ……こんな素敵なお相手がいらっしゃるのなら、婚姻前に教えて下さればいいものを……」
「えっ⁉︎ あっ、あの……」
美女が明らかに動揺しているのが、潰れたカエルのように床にへばり付いた私の視界に入る彼女の足元から見て取れた。
あらあら、足まですらりとお美しいのね。
……貴女も私と同じく、心穏やかではいられないわよね……でも、衝撃度は私の方が上だと思うわよ?
………………
ごめんなさい。
心の中でよく分からないマウントを取ってしまったわ……醜いわね……私。
己に対して嫌悪感がじわじわと込み上げてきた。
しかし……彼女の存在を知ってしまった以上、私は……この先、どうすればいいのだろう?
ここに旦那様がいなかったことが、まだせめてもの救い……。
だけど……知らないフリをして、今まで通りに旦那様と接することは……できるのだろうか?
「……無理よ」
私の意識とは別に、口は独り言を漏らし、掌は絨毯の毛足をぎゅうっと握り締めた。
………………
ぐいっ!
その時、床に這いつくばっていた私の身体を彼女が優しく引き起こした。
「だ、だいじょうぶ……?」
「えっ…あ……だ、大丈夫……です」
「そう、よかったぁ……!」
ぎゅぅぅぅぅぅぅぅっ!
華奢だけど力強い腕に抱きしめられて、私の三倍はありそうなその豊かなお胸に顔を埋める形になった。
むにゅぅぅぅっ!
うわぁ……や、柔らかいし……暖かい……それに、なんだかいい匂いがする!
……こ、この人は……床にへばりついたこんな惨めな女を見ても、馬鹿にすることなく……受け止めてくれるの?
じわりと涙が目から溢れそうになる。
「……女神?」
「?」
そっと、彼女の胸から顔を起こし、名も知らぬ美女を見上げ、じぃっと見つめる。
奥深くに吸い込まれてしまいそうな大きな瞳……まるでオレンジの雫から生まれた宝石みたい。
ぼっ!
「⁉︎」
突然、彼女は頬を赤らめて、ぷいっと顔を背けてしまった。
その様子がなんだか幼い少女のように見えて、今度は愛らしく感じてしまった。
「可愛い……」
「?」
……たぶん私より年上……よね?
なのに……すごく可愛いわ!
美しさと可愛さを兼ね備え、しかも、私に慈愛の手を差し伸べてくれるなんて……えっ⁉︎ なんなの?
貴女はなんて素敵な女性なのっ⁉︎
こんな地味でちんちくりんな私なんて……まるで、お相手にならないじゃない!
「あ、あの……」
私に困ったような視線を向けて来る彼女をじっと見つめ返す……あ、また逸らされた。
それにしても、こんな素敵な女性を屋敷の中にこっそりと隠しておくなんて……。
………………
は?
途端に、旦那様へ抱いていた尊敬の念の一部に憎悪の情がどろりと混じる。
身体の内側が急速に冷えていくのを感じた。
……恐らくだけど、彼女は身分の関係で旦那様と表立って並び立つことが出来ないのでは?
ご両親、いやレイストロン伯爵家の指示かもしれない。
あ……過去の婚約破棄も、それが原因じゃ⁉︎
きっとそうよ!
前の婚約者様に彼女の存在がバレてしまったんだわ!
……え? 一体、何年の付き合いなのかしら?
でも……女を『所有物』だと思っているとしたら……旦那様、最低ね。
籠の鳥にして、一生お屋敷で飼い殺すおつもりかしら?
「……ねぇ、それで……貴女はいいの?」
「?」
すっ……
私がそっと彼女の手を握ると、一瞬、びくっと身体を震わせ、そして恐る恐る私の顔を窺ってきた。
「旦那様ったら……酷いのね……」
「えっ?」
「貴女のような素敵な女性が、なんでこのような仕打ちを受けなければならないのでしょう?」
「⁇」
旦那様は社交界に一切出ないお方、私も妻として仕事に帯同したことはこの半年で一度もない。
だったら、彼女の身分がどうであれ、妻の座にいるのに問題ないと思うのだけど……。
この国は数年前にラキト殿下が即位され、貴族優位な社会偏重に対し、少しずつ改革が始まっている。
それでも、貴族社会の慣習はまだまだ根深い。
………………
「よし、決めた! 私、貴女と旦那様の恋を全力で応援させて頂きますわ!」
「……へ?」
私の宣言に、彼女は少し間の抜けた声を上げた。
……やだ、そんな声もお可愛いらしいわ!
◇◇◇◇
カチャッ!
厨房からお茶の用意をし、旦那様不在の執務室で安眠のハーブティーを入れながら、謎の美女と夜のお茶会を始めた。
ソファに向かい合って座る。
「い、いただきます……」
彼女のティーカップを持ち上げる優美な仕草、まるで彫刻のようね。
あぁ、麗しいわ……思わず溜息が漏れそうになるのをぐっと堪え、本題を切り出した。
「もしも私が離縁したら、貴女は伯爵様と結婚出来るのですか?」
ぶーーーーっ!
「げほげほごほがはっ!」
目の前の美女がいきなりお茶を吹き出し、激しくむせ込んだ。
「ご、ごめんなさい! お口に合わなかったかしら?」
私は立ち上がり、彼女にハンカチを渡した。
「が、がほっ、……な、なぜ、りえん……?」
あぁ、驚いてむせたのね。
そうかそうか『お飾りの妻が必要』だって旦那様から刷り込まれているかもしれない。
まずはここの認識から直していかなきゃ。
それにしても、おどおどと自信なさげな表情が、彼女から儚い美しさを感じさせた。
きっと自信満々な顔を見せたとしても、それはそれで魅力的なのだろう。
……私もすっかり彼女の虜だ。
「私達の結婚はいわば『白い結婚』です。お二人のように心から愛し合っているわけではありませんので……」
カシャーーンッ!
今度は彼女がカップをソーサーに落としてしまった。
派手な音は立ったが、割れてはいないようだ。
「あらあら、お怪我はありませんか?」
彼女の手元をちらりと見ると、微かに震えていた。
私は席を移動し、彼女の隣に静かに腰掛け、そっと手を添えた。
「あ、あいして、ない、の?」
辿々しい言葉が形の良い口から溢れる。
不安げに揺れる瞳を不謹慎ながら、美しいと思ってしまった。
「私は……そもそも、旦那様を愛することを……許されてはいないのですよ」
「⁇」
「『白い結婚』を婚姻前に宣言されるということは『貴女を愛することはない』と言うのと同義なのです」
「えっ‼︎ そ、そうなの⁉︎」
驚きで、彼女の大きな瞳がさらに大きく開かれた。
「そして旦那様を愛してはいけない、『愛のない結婚』」
「……そ、そんな……」
彼女が酷く青ざめている。
この反応を見る限り、旦那様からは何も聞かされていないのかもしれない。
出自の身分が低いと、満足に教育も受けられていないことは往々にしてある。
……それをいいことに彼女を言いくるめたとしたら、旦那様は余程の悪人だ……信じたくはないけど……。
ふっと、穏やかな旦那様の顔が頭を過り、貧相な胸がぎゅっと締め付けられた。
「私は……旦那様のこと、一人の人間として尊敬していま……した。契約結婚である私にまで心を配ってくれる……そんな優しいところも好ましい……そう思っていました」
「か、かこけい……」
「でも……私は……旦那様を責められません。私も嘘つきなので……」
「……うそ?」
彼女の言葉に、にこっと笑顔を返す。
「とにかく私は、貴女という素敵な女性を屋敷に閉じ込め隠しておくという行為が許せませんの!」
「え、えっと……それは……」
「ねえ、貴女のお名前は?」
「な、なまえ……ム……ゥ……」
「……ムゥ様ですね?」
「……」
「ではムゥ様! お互いの為に頑張りましょう! あ、私達が知り合ったことは旦那様には内緒ですよ?」
「……」
困惑する彼女の手を取り、私達は秘密の共有者となった。