消えない傷を残す方法
小学生の時、猫のフリをして構ってくるタイプの暴力女がいた。
「風華は猫だけど猫耳はないぞ、だからあんまり気安く頭をなでるんじゃない! にゃにゃにゃにゃ!」
今に思えば子供らしくありきたりな無茶のある「設定」だ。しかし生真面目だった当時の私にとってはどこか気に障るというか、看過できないものがあったらしい。
引っ掻き攻撃をかわしながら空かさず彼女にその真意を尋ねると、彼女が言うにはどうやら彼女の母親が猫らしかった。紹介しろと詰めると、帰り道にたまに見かけたことのあったラグドールを指さしだした。真偽のほどが疑わしくなり独自に調査を進めると、公園の隣の学童の上の階に住む田中さんの飼い猫、ウナギモくん七歳♂だと判明した。そうして彼女の嘘を看破すると、爪を立てられた。
そうして彼女が本当は人間であったという事実は闇に葬られることとなった。
「……先生、会えないかなぁ。今日は宿題沢山出していたから採点に時間かかっているのかな……にゃ」
彼女は私にとって唯一無二の幼馴染であり、今でいう同性愛者でもあった。
当時、私が小学生だった頃には同性愛という概念は今ほど浸透していなく、異端な存在であった。根拠もなく普通を尊ぶ古臭い考え方では否定されるべき存在であり、そのような嗜好を持つ者は大まじめに病気か何かの類だと当時は受け入れられるため、多くの同性愛者は己の考えを公にすることを押さえつけさせられていた。
そんな時代にしては珍しく、彼女が私と知り合った小学二年生の時、彼女は担任の女教師が好きだと公言していた。幸いにも明るく柔軟な小学生の友人たちは彼女を揶揄うこともなく、「ちょっと変わったやつ」として彼女は受け入れられていくことになった。
当時の私は生き物係として初めて彼女と知り合うことになる。
平凡で引っ込み思案だった私は彼女を言外に避けて仕事に専念していたが、そんな様子が彼女の目に留まったらしい。以後は都合のいいパシリとして彼女と私はつるむようになった。
「「仕事」あるから、風華はいったん帰る! とーるは先生を見張っておくこと」
彼女は頼み事を「仕事」と呼ぶ癖があった。シングルファーザーである彼女の父親が、彼女に家事をしてもらうときに使っている言葉を転用しているようだった。小学二年生で父親に舵を押し付けられているが気の毒に思ったのかは定かではないが、私は彼女の頼みには積極的に引き受けるようにしていた。ちなみに「とーる」とは私の下の名前である透を軽い口調で呼んでいるわけである。
彼女に告げられた私の第一の「仕事」は、彼女が片思いしているという先生を出待ちすることだった。そんなお節介から始まって、小中の九年間を同じ学び舎で過ごすことになる縁が始まるものだから世の中分からないものである。
生き物係として放課後にグッピーに餌をあげながら、作業がひと段落して教室に荷物を片付けに来た先生を捕まえ、一足先に帰って家事をしている彼女を学校まで呼ぶ。3か月ほど凝りもせずそんな日々が続いた。
仕事そのものに不満がなかったわけではないが、私には副次的な動機があった。それは毎回いつ行っても、彼女の家に着くと必ず彼女の父親が出てきてお菓子をくれるのだ。彼女の父親は、私の第一印象では最高に親切な大人であった。彼女の父親が出てくる直前にはドアの向こうで一瞬だけ舌打ちが聞こえるものの、彼はいつも爽やかな大人スマイルで私の相手をしてくれる。そんな矛盾だけが気になったが、当時は深く考えなかった。
しかし次第におかしい状況であることに気が付く。
彼女の父親に関わる矛盾といった大人な事情についてではない。それは生き物係で居残るついでに先生の出待ちをしている訳だが、そもそも生き物係の仕事を私が一人でやっている状況は不平等ではないかと気が付いたことである。要は体のよいパシリにされている自覚が湧いたのだ。
するとそうして憤慨する私の様子を察して担任の先生は、彼女を言外に庇う。担任が教えてくれるには「カテイノジジョ―」らしい。当時の私には言葉の意味が分からなかったがとりあえず先生が言うのならその通りだと、飲み込むことにして彼女を世話してやっていた。彼女は私に仕事をくれてやってる立場だと思っていたので、どっちが上かしばしば終わりなき喧嘩になるのであった。
◇
「とーるの家おっきいんでしょ! あんまりお母さんに迷惑かけないからさ、中で遊ぼ! ダメかな……ダメかにゃ?」
猫が私の家で遊びたいという。
猫とは件の幼馴染のことである。仲良くなってからは心の中では密かにそう呼んでいた。本人に向けてそう呼んでみたことがあったがその時は何故か機嫌がよくなり腹が立ったので、それ以降は直接そう呼ぶことはなかった。
猫……彼女の言うには新作のポケ○ンを見たいらしい。
今まで家に友達を読んだことはなかったが、気が向いたので親にお願いして初めて家の中で彼女を招いた。折角なのでお泊りで遊ぶこととなり、晩御飯の前まで二人で新作のポケ○ンをプレイした。彼女はゲームを買ってもらえないらしかったので初めは私のソフト一台をを貸して遊んでいたが、彼女は悪戯のつもりなのか、私のソフトで一番大事にしていたポケ○ンを野生に逃がしてしまった。
最初は腹が立ったがたかがポケ○ンだと思えばすぐに冷静になった。
大して個体として強い種族ではなかったため、ちょうど別のやつを育てているところでもあった。むしろ彼女がこの程度で私が怒ると思っているかと、当時の私の中での「さいだいのらいばる」であった彼女の底が知れた気がして少々の優越感を持ったりさえした。
「いったあ!?」
そこでチョップ一発で勘弁してやると、彼女の方から反撃をされた。
彼女としては、退屈なところで私を少々怒らすことで度が過ぎないくらいの喧嘩ができると思ったのだろう。やはりというか、彼女の先制手は猫という設定に忠実で、爪を立てるかの如くのひっかき技で明らかに悪ふざけだとわかるものであった。彼女が退屈していることを察していた私もそれに乗ってやることにした。
「にゃにゃにゃにゃにゃにゃにゃにゃ!」
始まるのは子供の軽いじゃれ合いである。互いに手加減もしている。戦隊ものか仮面ラ○ダーかで見た技をかけ合いながら、技を繰り出す。
「おりゃー、お猫様を舐めるんじゃねえ!! にゃにゃにゃにゃにゃにゃ――」
彼女の技は猫という仕様上、引っ掻きしかないようだった。そんな彼女を哀れに思いつつも、私が左の拳を振り上げる動作をした時に状況が一変した。
彼女の小さな身体が痙攣したように跳ねたかと思うと、次の瞬間に私の視界が真っ暗になっていた。
「――やめて!!」
数秒して自分が思い切り殴られて仰向けに転がっていることだけは理解できた。その次には過呼吸の混じった、泣き声が聞こえてきた。その時は泣き声の出所がいっさい分からなかった。気丈な幼馴染が泣いているはずもないし、そもそも殴られたのは私の方なのに。
結局、大きな音を聞いた母親が駆けつけてくるまで彼女は泣き続けていた。
そうして気まずい雰囲気になって、パジャマパーティーは中止になった。帰り際の彼女のカバンから覗いたパジャマは彼女の好きそうな猫柄などではなく、驚くほどボロボロの無地のものであった。それも彼女の体躯など全く考慮されていないであろう、大人向けのパジャマであった。
そしてダブついた袖から覗く彼女の白い腕には無数の切り傷と青あざがあった。
……それを見ても当時の無知な私が何かを察することもなく。
「そういえば彼女の父親は左手で不便そうにドアノブを開けていたな」なんてどうでもいいことを、彼女と食べるはずであったカレーを一人でとぼとぼと食べながら、ふと気が付いたりしていた。
彼女に殴られた箇所の額の傷は、彼女自身の身体に刻まれた傷跡と同じように、その日から元に戻ることはなかった。
◇
「とーるさぁ、今日も塾ぅー?」
小学校も高学年にもなると、中学受験のために塾通いをしていた私は放課後に彼女と遊ぶ時間が無くなった。昼間の学校ではいつも通りに年相応にふざけ合うが、私の方が彼女の過程の話題、特に父親に関連した話には触れないことだけはいつも気に留めていた。
私からすれば塾に通わなくて良かった彼女が正直にいって羨ましかった。
小学生が自分から勉強したがるはずもなく、私が通っているのは半ば嫌々皆通っている進学塾だ。初めて経験する残酷な受験が迫りつつあるのもまた、ただただプレッシャーであった。
「でもいいなあ、塾言ったら誰かと喋れるんでしょ? 風華の家にはお父さん以外いないから退屈なんだよねー。お義母さんはもう三日帰ってきてないし」
日々憂鬱な気分が深まっていくそんな私に対して、基本的に空気の読めない彼女は私のことを羨ましがっていた。学校の勉強の勉強すらついていけてない癖に。人の心が分からないやつだと思っていた。
一方の彼女も父親の再婚相手と折りが合わず鬱憤がたまっていると言っていた。再婚相手の女は夜の仕事をしているらしく、家が辛気臭く、そして酒臭くなったと愚痴っていた。正直親の再婚など経験したことがなかったが、大変そうに思った。程度は違えど、こんな馬鹿で明るい奴でも悩んでいることがあるのかと半ば衝撃を受けたのが記憶に残っている。
「……とーるばっかり、ずるい!!」
私が塾の話を持ち出して以降、彼女はことあるごとに私のことが羨ましいと言うようになった。彼女が余りに五月蠅かったので、私は独断で彼女を塾に連れていくことにした。
「へぇー学校以外にこんな大きい建物があったんだ」
彼女は馬鹿というか、天然じゃ済まされないほど常識を知らなかった。私たちが向かったのはたかだか田舎の進学塾が入っている雑居ビルである。それを大きな建物というとは……確かにショッピングモールもないド田舎ではあるが、流石にドン引きである。思い出せば、彼女の言動の節々には浮世離れした危うさすらあった。
当時の私は塾では成績が一番の優等生であったので、基本的に周囲から信頼されていた。したがって私が塾に連れてきた少女について、丁寧に事情を話してお願いすれば塾の先生も事情を察してくれた。彼女は体験入学として快く授業に迎え入れられることになった。
「えっと…………にゃ………どうしよ」
塾では彼女は人が変わったように委縮していた。思い出してみれば小学校では私以外に誰かとつるんでいるのを見たことがなかった。終始五月蠅すぎるくらいのお調子者だが、意外と人見知りなところもあるらしい。何故かはわからないが、話しかけてくる相手が男子になった途端に何もしゃべれなくなってしまうようでもあった。猫のキャラを演じながらも意外とませていやがるのかもしれんな、なんて思ったりしていた。
「……ッヒ」
結局彼女は塾の友達に話しかけられても終始挙動不審だったし、ハゲていて清潔感はないが面白くて人気のあった算数の先生が出てきた時には、顔を真っ青にしていた。
休憩時間に聞いてみれば父親の友達にそっくりだったらしい。
父親の友達にそっくりだったからなんなんだよ。
◇
彼女との縁は意外と長く続くこととなり、中学受験で地元を出ることになった時にも同じ進学先であった。つまり彼女も中学受験をしたということだ。
あの日のあと、彼女は塾に入りたいと言い出したのだ。馴染めてもいなく、また彼女の父親もお金が出せないと反対していたため、初めは八方ふさがりで無理な話だと思っていた。そもそも彼女は小学校の成績から散々なはずだった。
「えへへ、とーるこれ、見てよ!!」
それは彼女が先生の思い付きで受けさせられていた実力テストの解答用紙だった。帰り際、先生から渡されていた採点済みのそれを彼女はひったくるように奪っていた。どうしてもハゲは苦手らしい。
私は興味半分にその解答用紙に目をやる。小学校のテストとは比にならない、対策しないと解きようもない算数のテストだった。きっと出来ても五割弱程度が関の山だろうなんて思っていた。
しかし意外なことが起こった。彼女は塾の中では一番だった私の点数を優に抜いてしまっいたたのである。
「えへへ、とーると一緒の塾、通えるかも!」
結局、彼女は学費免除を容易く勝ち取り、自力で塾に入ってくることになる。そして受験でも負け知らずのまま、彼女は私の本命校よりずっと上の県外の中学の学費免除までとってしまうが、私と同じ地元では一番の女子中に進むことになる。
「やった、とーる見て!! おんなじクラスだよ!!」
兎にも角にも私たちは花の女子中学生になった。勉強、お洒落に、交友関係……見ることができる世界は小学生の頃とはわけが違うのである。
そして中学生にもなると周囲からの目線が気になり出すようになる。いわゆる思春期だ。
「とーる、いい? 小学校のことは秘密だから! 絶対喋ったら、ダメ!」
どうやら小学校で猫キャラはおしまいだったらしい。そもそも私の前でしかしてなかったのもあるが、いうつもりは毛頭ない。黒歴史の一つや二つ、誰にでもある。墓場まで持っていくのはお互い様だ。
「とーるはねモテモテでね、五年生のとき、今は隣の中学に行っているK君と付き合ってたんだよ!」
……お互い様のはずだった。
しかし私はJCの恋愛脳を舐めていたようだった。早速漏らされたのは、本気ではなく多くが経験するであろう「お試し」恋愛歴……それを知ってて黙るなど、中学デビューで浮かれている元コミュ障猫には難しすぎたミッションだった。
確かに当時を振り返れば、彼女なりに思うところはあったのかもしれない。今までにも軽口か嫌味か分からない程度のきわどいノリで、彼女が私の恋愛歴を弄ってくることはあった。それも確かに私がK君と付き合うことで多少なりとも彼女と一緒にいる時間が減り、構ってやれなくなったわけで……いや、別に友達に彼氏ができたことに何か文句を言われる筋合いはないのではないか。そもそも彼女の中での私は何なのだろう。
兎にも角にも、私はこんなしょうもない経緯で彼女に腹を立てることになる。
そうして彼女の黒歴史を胸のうちに収める代わりに、少々私と彼女と距離をとらせてもらうことにした。別に特別なことをしようとしているのではない。今までが近すぎたのだ。彼女は私以外にきちんとした友達がいないのだから、これは彼女のためにもきっとなるはずだ。
精進したまえよ。
◇
楽しい青春の日々はあっという間に流れ去り、一年と半年ほどが経った。私と彼女は別のグループで日々を過ごすようになる。私は美術部に入ったので比較的おとなしい内輪のグループに、一方で彼女はバスケ部に入ったのでいつも遠巻きに見えるクラスの輪の中心にいた。彼女も一念発起してバスケ部に入部し、持ち前の運動神経を以てチームに馴染むことに成功して、無事にコミュ障を改善させたようだ。
疎遠というほどでもないが話さなくなった幼馴染の成長に、どこはかとなく寂しさを感じるものである。幼馴染とはそんなもんであろうか。彼女と話すことは減った代わりに、目が合うようになったことも増えた。
今も私が彼女に横目を向けていることに気が付いた彼女は、余裕そうな笑みでひらひらと手を振ってきた。イメチェンに成功した彼女はボーイッシュなショートヘアを弄り、気取った様子である。取り巻きの女の子が彼女に話しかけているのを無視して、遠い席の女に気を向けるクズの所業をしてのける。
彼女の周りに人が集まるのも、そのうちの何人かは女同士であるにもかかわらず彼女に並々ならぬ思いを寄せているのも有名な話である。小学生時代の黒歴史も漏れていないし、コイツそもそも見てくれだけはいいからな。
そうして変わったような変わらないような日々を過ごしているうちに、冬が来た。当時、体育会系にもなじんだ彼女と私ととは体力の差もついてきて、冬場の体育のマラソンの時間で私は容易く彼女に抜かされることになっていた。小学校の頃は拮抗してアンカー争いをしていた彼女に今では容易く抜き去られ、周回遅れの様子を言外に煽られるのは屈辱の極みであった。
そんなある日、いつも通り私がごく平均的なペースで残り一周に差し掛かった時、失速してきた彼女が私の目前にいたことがあった。その時は彼女の入っているバスケ部が大会の前だというのだから、てっきり体育の時間には手を抜いているだけだと思った。
体力の余っていた私は悪戯心が湧いてきて、彼女を思い切り抜き去ってみるとにした。
「にゃ、……とーるの癖に!」
思い返せば、彼女の声をこれほど近くで聴いたのも久々だった。息切れした彼女から思わず漏れた猫っぽい驚き方も相まって、私の心うちは懐かしさに捉われていた。そして少々の心変わりが起きたのだった。
すぐさま抜き返してくる彼女に対し、全力で抵抗してみることにしたのだ。その日は彼女の調子が悪く、存外私でもラストスパートまで抜きつ抜かれつのデッドヒートで最終盤まで食らいつくことができた。
ふうん、バスケ部って「青春してます!」ってオーラ出すけど、実際は青春捧げて鍛えたと言ってもそんなもんか。
「あんまり、にゃ、……舐めんなよ!」
走りながら軽口を投げかけると彼女は分かりやすく釣られる。どうやらカースト上位の彼女はほとんど弄られてきたところがなかったらしい。やはり多少イメチェンしようが残念な子であることは変わりなかったようだ。
そうして彼女との楽しい駆け引きは最終盤、ゴール直前の直線にまで雪崩れ込む。
マラソンで火照った身体に快い、冬の乾いた風が少々強すぎるくらいに私たちの隙間を吹き抜ける。
その瞬間に私の口は勝手に、だけどあまりに自然に言葉をなぞっていた。
それは半分はったりで、半分は本音の言葉。
それは彼女を遠ざけるための言葉であり、私の醜くて拙い青春との決別でもあった。
『まあ、兎も角……久々に話せて楽しかったよ。それと風華――。』
彼女だけに聞こえるように、続ける。
「…………え」
その効果はテキメンであった。そして私は彼女を振り切るために、二段目のスパートをかける。対照的に動揺を隠せなかった彼女との差は決定的なほどに広がりを見せる。
「……ちょっと、……ま、まってよ。…………とーる」
いや、待たない。遥か背後から聞こえる蚊の鳴くような細い声を一切無視して、ゴールラインを駆け抜ける。彼女との喧嘩は久々なものであったが、これを以て私の完全勝利だ。
決め手が搦め手になってしまったのは少々悪く思うが、まあ彼女の自業自得だろう。それに私からすれば長年心うちに留めていた奥の手を吐き出せてすっきりしているくらいであった。最後に交わした言葉はあまりに身勝手な自己解釈かも知れないが、我儘だった彼女への、似つかわしい仕返しだったのには違いはない。
私に続いてよろめきながら走り切った彼女の様子を遠巻きに確かめると、私は再び彼女に会う前にグラウンドを後にした。きっと彼女は息を整え次第に私を探すことになるだろうが、一方の私は知ったことではない。その時だけはただ、一人になりたかった。
そうして体育の時間が呆気なく終わって、次の授業との合間の休み時間に差し掛かる。
この時には彼女に問い詰められる覚悟もできていた。しかし、彼女はその日私の前には現れなかった。覚悟を固めていた私にとっては少々拍子抜けであったが、彼女は体育の後に早退してしまったらしい。
やりすぎてしまったか?……なんて私が一人で罪悪感に捕らわれていたところで、察した彼女の友人の一人が彼女の早退の原因が体調不良であったことを教えてくれた。どうやら生まれて初めて訪れた調子の悪い日に無理をしてしまったようだ。父子家庭でその父親とも絶賛別居中の彼女には女性特有の悩みを共有する大人がいなかったのが事の顛末なのだろうと、彼女の家庭事情を知る私は一人ながら納得した。
そうしていると彼女の友人には女心分からんよねなんて冗談半分に罵られた。
それ言う人違くない?……なんて軽口を叩けるほど、もう私は純粋ではなかった。
◇
そうして三日が経って、彼女は久々に教室に顔を見せた。彼女が登校するや否や、私は彼女の前に真っ先に立つ。私の予想外の動きに、復調していた彼女の顔色は早速青くなるがそこまでは私の知ったことではない。兎にも角にもその時の私は三日三晩悩んだ末の答えを見せることを決意していた。
私に彼女の早退の原因を教えてくれた子はじめ、彼女の取り巻きの数人は何故か黄色い声を上げる。その反応に今度は私がぎょっとするが、そこで彼女は強張ったままの態度ながらも咄嗟に、そしてスムーズに私の手を取り、駆け出した。
教室を飛び出し、廊下や階段を駆け抜け、触ったことのないような扉を押しのけ、そうして真意不明の追っ手を振り切り、私たち二人は校舎の裏へ辿り着く。籠っていて暗い校舎裏で、二人の膝が触れ合うくらいの狭い正方形の空間に、私と彼女は二人とも腰を下ろす。
彼女に目をやると――
「……なんなの」
そっぽで頬を膨らませる彼女の腕には小さな痣があった。走っている最中にどこかにぶつけたのだろう。私も、そして彼女自身も気づかないほどには夢中だった。
それを目にした瞬間、何故か、軽口を叩きたくなった。
……そう言えば猫だからって昔私の傷を舐めようとしていたな。この変体猫。
「――っな、そんな昔の話!!」
悪かったって。
「そうそう、とーるっって私のこと謝ったら何でも許してくれる人だと思っている節あるよね、昔から」
そっちが掘り返すなっていったのに、手のひら返すの早すぎるだろ。
その二枚舌で何人の女の子を泣かせてきたんだか。
「——っにゃ、みんな友達だし、そもそも誰も泣かせてなんてないよ!」
そうか、みんな「友達」ね――。
その時の私は、自分でも嫌になるぐらい無遠慮辛口を叩きながらも、身体の方は金縛りにあったように全く動かなかった。
口は幾らでも回るのに、動けないのだ。
その時の私の身体のあらゆる意識は一点へ、彼女の腕の痣に注がれていた。
それは「呪縛」だった。無意識のうちに理解はしていた。
「……ちょ、痛いって……とーる、聞こえているの? ……とーる? 怖いよ、ねえ」
校舎裏に立ち込めた湿気が、……あの「お泊り会の夜」が、じゃれ合いで私が彼女にちょっかいを出していたあの時とぴったりと重なる。
脈拍が無秩序に揺れる。蜃気楼のように上ずった体温が視界を震わせる。
私が「彼女」を見殺しにした夜。
「彼女」を救えたかもしれない夜。
「彼女」と、最も近かった夜。
あの夜に「彼女」は消える運命にあることが決まって、一方の私はどこか狂ってしまった。
幼かった日の私は本当の意味でそれが何かを理解していなかった。
あの時はすこしだけ変性した友情だと思い込んでいた。猫の皮を被った無垢な少女……厄介だけど捨て置けないやつだなんて、自らの解釈すら決めつけていた。
痛みが足りない。それも全く以て足りない。
彼女に着けられた傷は悦びに外ならかなかった。
あの日彼女に着けられた額の傷跡は、自分自身でどれほど拭おうと一生消えない強烈な呪いだった。
私がもっと確りしていたら、彼女は傷つかなかったのかもしれない。だから無自覚は罪だ。だけど、彼女がどうしようもないほど傷ついていたのだから、私たちはこうして今一緒にここにいる。
辛かったのだろう。
一生消えることのない彼女の白い肌に刻まれた傷、塾にいた大人の先生だけでもなく小学校の同級生すら当てはまった極度の男性恐怖症、今は別居している彼女の父親の存在、そして年を経るにつれ減っていった奇妙なキャラ付け。
きっと誰にも頼れず、彼女は猫を借りてきたのだろう。
「何よ、急に黙ってさ……それで、とーるから用がある。……って、ひゃん!?」
どうしようもなく、彼女を傷つけたい。
傷をついた彼女なら私だけを見てくれるから。
だから私は、彼女の痣に口付けた。
やられたことへの意趣返し……という言い訳ではもう隠せないのだろう。
しかし、そうでもしないときっとこの程度の微かな傷は消えてしまうのだ。
そうしないとまた、私たちは不幸にすれ違ってしまう。
だから、これが消えない傷を残す方法。
痛みに鈍感な彼女につけられた私の傷は、今も尚、愚鈍な痛みを頭蓋に刻み続けている。
だから私は頭がおかしい。
だから私はかけがえのない彼女を傷付けたい。
私を虜にした痛みが消えてしまうのなら、せめて傷一つ残さないと不平等なのである。
◇
私は両の膝をつき手先を揃え彼女の足元に頭を下げる。
由緒正しき最大限の謝罪表現、その名もDOGEZAであった。
「ふふっ…………とーるは相変わらず馬鹿だなぁ。昔は「仕事」だって言ったら何でも喜んでパシられてくれたし。激チョロドM女じゃん。それに舐め癖のある変態」
相変わらずだあ……!? 私が昔からこんな頭おかしいことする奴とでも思ってたのか!?
今度は私が顔を真っ赤にする番だった。
「頭おかしいことをした自覚はあるんだね……でもとーるって案外こういうこと好きなんだぁ、ふうん」
にんまりと笑う。いつ見てもムカつく得意げな顔だ。猫を被りなおした最近では見せない、自分が上手であることを信じて疑わない笑み。
こういう時のコイツは大概無敵である。
私は知っている。
「……私は大好きだったよ、とーるのこと。最近話せなくなって、ずっと、辛かった」
知ってる。私だってそうだ。
だからこう答えてやるんだ。
せっかく消えない傷を刻みつけてやったのだから。
――渇望していた痛みはまだ、必要ない。
これからも……いや、これからはよろしく。「友達」としてまた遊べたらうれしい。
「――えっ、友達として……なの?」
当たり前だろう。
そう返した時の彼女の瞳の淀み具合は定かではなかったが私の知った話ではない。
なにせ、傷も痛みも平等でなければならないのだから。