学校のマドンナが俺の机でつっぷしていた!
その日も夫婦喧嘩で目が覚めた。
ほんとここ連日、何かにかこつけて両親は喧嘩をしている。
昨日の日曜日も母が「何食べる?」と尋ねたら、父が「何でもいいよ。チャチャっと簡単なもので」と言ったら食卓にふりかけが出てきた。
「おい、ちょっと待ってくれよ。いくら簡単でいいっていったからって、こんなんじゃ力が出ないわ」
「チャチャっていうから、ふりかけ出したのよ!それに力が出ないって、あんた家でゴロゴロしてるだけじゃない!」
母は日頃の夫の言葉遣いを引き合いに出して、矢継ぎ早に攻める。そうなると父は何も言えない。母の言論統制に従うしかない。この喧嘩が終息するには母の心に溜まった澱を吐き出しきらない限り終わらない。
「ほんと、いい加減にしてくれないかな」
舟山航太はベッドの中から手を伸ばし、目覚まし時計を手に取って見た。
「おい、まだ五時じゃねぇか」
下階では両親の喧嘩が聞こえてうるさくて眠れない。
航太はベッドの中でジタバタするのを辞め、起き上がった。そして、遮光カーテンを開けた。真っ暗な部屋に朝日が飛び込んできた。その眩しさに航太は目を細め、窓を開けた。人通りもなく静かな朝だ。下階の騒音を除けば。航太はパジャマのままベランダに出て外を眺めた。気持ちのいい朝を味わった。
「このままギスギス感漂う家にいるより、いっそ学校にでも行った方がいいかな。その方が気が楽だ」
航太は、登校するには早過ぎるが学校に行くことを決め、ベランダから部屋に入り、制服に着替え始めた。そして、一階に降りていくと、母に見つかり声を掛けられた。
「航太、どこ行くの?」
「学校だよ、学校。決まってるだろ」航太は母に応えるのも億劫だった。
「こんなに早く?」
「ああ」
「なんかあるの?」
航太は呆れ顔。すると父が辟易した顔で一言言わなくていいことを言ってしまった。
「お前が朝から騒ぐから、家にいるのが嫌なんだよ」
「ちょっと何それ!」
母は、父の方を振り向いた。その瞬間、航太は何も言わず出て行った。
「ほんと外に出た方がホッとするわ。とりあえず学校に行こう。こんなに早く学校に行くやつもいないだろうし、なんか静かな時間を過ごせそうだ」航太は自転車に乗って学校に行った。学校の自転車置き場には、やはりまだ登校時間としては早すぎるのか二三台しか置いてなかった。
「さすがに早いか」
航太は、自転車を止めてそのまま、玄関に行き下駄箱で上履きに履き替え、二階にある自分の教室までゆっくり階段を登った。当然、その間、人と合うことはなかった。誰もいない校舎。これはこれで悪くない、と内心思った。
そして、自分の教室の入り口の前に来た。そして、教室のドアの扉に手をかけ、さりげなくドアの小窓から教室の中を一瞥した。次の瞬間、ドアを開けずに、再び小窓から教室の中を覗いた。すると窓側の一番後ろの席で一人の女生徒が机に突っ伏して寝ていた。
〈俺の席で寝ている奴がいる!〉
航太は小窓から女生徒を眺めた。するとその生徒は紛れもない、同じクラスメイトで学校のマドンナ、庭山茉優だった。男子生徒だったら誰だって付き合えるものなら付き合いたい!勿論、航太も例外ではない。茉優と同じクラスになっただけでも幸運だった。
航太は、教室のドアの小窓から、物音一つ立てず、静かに眺めた。
〈なんで庭山が俺の席で寝ているんだ!しかも、思いっきり腕組をして顔を突っ伏しているじゃないか!庭山の席は窓側から二列目の前から三番目だぞ!なのになんで俺の席に座ってるんだ!?〉
航太は、教室に入るにも入れなかった。俺の席であの庭山が突っ伏して寝ているという事実が嬉しくて入れなかったのもあるが、朝日を背に受け静かに眠り続ける彼女だけの世界がここにあるように思えた。それは神聖にして不可侵。今、この世界を誰も冒してはいけない、そう思えた。航太は教室のドアを開けず、下階に降りていった。そして、玄関に戻り下駄箱で上履きから靴に履き替え校庭に出た。グラウンドの外周にあるベンチに腰かけた。そして、物思いにふけった。
「確かに俺の席だったよな?俺の席にあの庭山茉優が突っ伏して寝ていたよな?それってどういうことだ?自分の席があるのにあえて俺の席で……。もしかして俺のこと好きなのかな」そう思うと航太の顔は自然とにやけてきた。
「いやいや、そんなはずは……。でも、ないわけではない!いや、どうだろう。もしかして、その線、意外とあるんじゃないか!」
結局、航太は自分のいい方向に勝手に想像し、終始にやけっぱなしだった。しかし、だんだん冷静になり落ち着いて考えるようになった。
「でも、たまたま。そう、たまたまかもしれないない。たまたま朝早く学校に来て、空いている席に座った。窓側の一番後ろの席なんて、教室の席でいえばまさに特等席だ!席替えで当たると一番嬉しい席だ。そこでクラスのみんながやってくるまで寝ていたいと思ってもなんら不思議はない」
航太はそう思考を巡らせているとあっという間に時間は過ぎ、生徒が登校し始めてきた。やがて航太も教室に向かった。その日の授業は、正直、ほとんど実が入らなかった。航太は斜め前に座る茉優ばかり見ていた。
〈ほんと、後姿からして可愛いもんな。品がある。オーラがある。やっぱ、俺の勘違いかな〉と航太は思うも、翌朝、両親の喧嘩ではなく、自発的に五時で目が覚めた。そして開口一番。
「もしかしたら、今朝も俺の席で」航太の動きは速かった。ベッドから素早く起き、遮光カーテンを開け、日差しを入れて、すぐ制服に着替えた。そして、下階に降りていくと母が朝食の準備をしていた。そんな母に目もくれず航太は玄関に行った。母が航太に気づいて声をかけた。
「何、航太、もう行くの?まだ六時よ!」
「行ってきます」とだけ告げて航太はさっさと家を出た。そういつ噴火してもいおかしくない母の相手をしている場合ではないのだ。いち早く学校に行って確かめたいことがある。昨日見た光景は、昨日だけのものなのか?それとも今日も……。航太は自転車で早朝の街を疾駆した。そして、昨日と同じ、自転車置き場にほぼほぼ一番乗りで自転車を置き、玄関で上履きに履き替え、二階の教室に向かった。そして、小窓から教室の中を覗いた。
〈いた!しかも、昨日と同じ、俺の席だ!まるでデジャブを見ているみたいだ!〉
航太は、小窓から少し離れ、静かに喜んだ。
「いいだろ。ときめいてもいいだろ!」
航太は握りこぶしを作り喜んだ。
「でも、確かに、あの席が好きっていうのは否めない。俺のことが好きなのではなく、あの窓側の一番後ろの席が!それを確かめない限り、ただのぬか喜びで終わる」
航太は再び、ドアの小窓から中を見た。茉優が航太の席で朝日を背に受け、突っ伏して寝ている。茉優は誰もいない早朝の教室で寝るのが好きなのか、と茉優を見ているうちにそう思った。でも、それでも、
「いいだろ!勘違いしてもいいだろ!でも、知りたい!真実が知りたい!あの席が好きなのか!俺のことが好きなのか!」と航太は誰もいない廊下で一人、悶絶した。そして、航太は、昨日と同じようにベンチで時間をやり過ごし、遅れて教室に入った。そして、航太の斜め前の席に座る茉優の後姿を見た。全く昨日と同じだ。しかし、違うことが一つだけあった。それは、茉優がこの席が好きなのか、それとも俺のことが好きなのか、それを確かめるいいアイデアが浮かんだことだ。航太は下校するとき、わざと自分の席に自分のジャージを折りたたんで置いた。しかも、ズボンを一番上にして置いた。
〈これでわかるはずだ。この席が好きなのか、俺のことが好きなのか〉
航太は帰路についた。そして、一晩中、想像していた。
「よくよく考えると、ジャージを机の上に置いたのはちょっと意地悪だったかな」航太は自分の行いを悔いた。自分の机の上にジャージを置いたということは、ある意味、茉優に座らせないようにした単なる嫌がらせに過ぎないからだ。
「でも、別にジャージが置いてあるなら、前の席に座ればいいし、どうしてもあの席に座りたいのなら、ジャージを隣の席において突っ伏せばいい。ただそれだけのことだ」そう考えると航太は少し気が楽なった。でも、答えが知りたい。茉優は、一体どこへ座って、どこで突っ伏すのか。もう航太に目覚まし時計はいらない。今朝も自発的に起き、そして、昨日仕掛けたジャージトラップの答えを知るために急いで学校に行った。
〈ああ、心がフワフワする〉
学校までの道すがら、航太は胸の高鳴りをずっと感じていた。茉優が一体どこで寝ているのか。そして、学校につき、一目散に教室に向かい、そっとドアの小窓から教室の中を覗いたと同時に、航太はその場で驚愕した!
〈ああああ、俺のジャージに突っ伏してる!しかも、モロだ!モロ顔面を埋めているじゃないか!〉
茉優は両手をジャージの傍に置き、腕の上からではなく、そのままダイレクトにジャージに顔を埋めていた。航太の両足は震えが止まらなかった。そして、壁に手をつきその場で崩れ落ち悶絶した。
〈こんなことがあっていいのか!これって、俺だよな!席ではなく、俺だよな!〉航太は誰もいない廊下に寝そべり、体を丸めながら自問自答した。そして、膝をついて静かに立ち上がり教室を後にした。そして、学校が終わると、航太は茉優が顔面を埋めたジャージを形が崩れないように丁重に確保し家に持って帰った。そして、そのジャージは今、自分の部屋の自分の机の上に置いてある。航太は背筋を正し宣言した。
「彼女が顔を埋めたジャージがここにある。これはもう間接キスどころの話ではない。顔面合わせだ。その幸運を俺は手に入れた。いやこれは俺だけに与えられた正当な権利だ。その権利を今から行使する」
航太は正した背筋を折って、顔をジャージに近づけ、そして、思いっきり顔をジャージに埋めた。そこは茉優が顔面を、いや、あの綺麗な顔を埋めていた場所だ。航太は顔を埋めながら彼女の匂いを探した。しかし、何も臭ってはこなかった。
〈わからない。無臭だ。いや、これは自分の匂いで自分ではわからない匂いだ。その匂いを彼女は嗅いだのだ!俺の匂いを彼女は胸いっぱい吸い込んだのだ!〉そう思うと航太は異様な興奮を覚えた。そして、時の経つのも忘れ、暫く微動だにせず、顔を埋めていた。すると、突然、背中を強く叩かれた。航太が顔をあげると傍に母が立っていた。
「何やってるの?窒息するわよ」
〈してもいい〉と航太は思った。
「それ洗うのね」といって母が机に置いてあるジャージを引っ張り取った。その時、形が崩れた!
「何すんだよ!」航太はすかさず母の手からジャージを奪い返そうとした。ジャージが母と航太に引っ張られ伸びてしまう。
「何、洗わないの!?」
「洗うわけねぇだろ!このジャージはそんじょそこらのジャージじゃねぇんだよ!離せよ!」
母はジャージから手を離した。
「何なのこの子は。ジャージ洗わないのね?」
「誰が洗うか!このジャージは高貴なジャージなんだ!」
「あんた頭おかしいんじゃない?ただの汚いジャージよ」
「いいから出てってくれよ!」
「じゃぁ、母さん洗わないからね」
「洗わなくていいって言ってるだろ!」
母はため息をついて呆れ果て、額に手を当て航太の部屋を出た。
「ああ、せっかくの茉優の顔面ジャージが」航太はジャージをもとの形に戻し始めた。畳みながら呟いた。
「でも、このままじゃだめだ。もう行くしかないだろ。もう一歩前に踏み込むしかないだろ。じゃないといつまでたっても眺めているだけだ」航太は決心した。そしてその決心とは、学校の下校前に自分の机に、早朝、茉優が突っ伏す机に、サインペンで小さく文を書いておくことだった。その文は勿論、告白文である。端的に一言、『庭山茉優さんが好きです。僕と付き合ってください』それだけだ。あんまり長々と書くと小さく書いても目立つ。一言、他の人にはただの落書きっぽく見える感じで航太は書いた。そして、その夜、ずっとドキドキしていた。そして結局、一睡もできずに朝を迎え、目をバキバキにして学校に向かい、教室に行って小窓から中を覗いた。茉優は俺の席でいつものように突っ伏していた。あの文章に気が付いただろうか、それとも気が付かなかったか?いや、もしかして茉優は告白文を見て、俺に見られていたことに気づいて、今は寝たふりをしているだけなのではないだろうか?わからない。でも答えはきっと机の上にあるはずだ。
航太は教室を後にしていつものようにベンチに座って時をやり過ごした。そして、みんなが登校してくる頃に、航太も教室に向かった。胸を高鳴らせながら、まるで宙を歩いている感覚で教室に向かって入った。すると友人が俺の机の上に無造作に腰掛け、サンドイッチを食べていた。
〈てめぇ、俺の机の上に座って何、パン食ってんだよ!〉と内心思いながら、「おはよう」と挨拶をかわし、航太は椅子に座った。チャイムが鳴るまで友人は俺の机の上に座って外を眺めていた。そして、教室に担任が入ってくると友人は机の上から降りて自分の席に着いた。航太はすかさず机に書いた文を見た。
〈文字が消えてる!〉航太は机に座っていた友人を睨み、〈どんなケツ圧してんだよ!てめぇのケツは高圧洗浄機か!〉航太はふと茉優を見た。すると茉優が振り向いて航太を見ていた。航太と目が合う。茉優はすかさず目を逸らして前を向いた。
〈え!?どういうこと!?もしかして、もしかするのか!〉
その日、航太は一日中悩んでいた。
「一体なんて書いてあったんだ?いや、そもそも何も書いてなかったのか?なら、茉優はなぜ俺を見た!」家に帰って自室に居ても、ずっと茉優のことを考えていた。そして、腹を決めた。その日も目覚ましなしで自発的に起きた。そして、制服に着替えて学校に行った。
「そうだ!大切なことは自分の声で、自分の言葉で、面と向かって伝えよう」航太は心に誓い、そして、教室で一人突っ伏している茉優のもとへ向かった。そして、教室の小窓から中を覗いた。すると茉優の姿がない。航太はドアを開けて教室の中に入った。誰もいない。朝日だけが空しく航太の席を照らしていた。航太の想いは儚く散った。
「そっか……そっか……ただの俺の思い込みだったのか」と苦笑した。
「短い夢だったなぁ……。でも、幸せだった」航太は自分の机を、茉優が突っ伏していた所を指先で触った。
すると、後ろから背中をチョンチョンと突かれた。航太がゆっくり振り向くと茉優が立っていた。茉優は満面の笑みを湛えて「おはよう!」と言った。
航太も茉優の笑みに釣られるように微笑み言った。
「おはよう」
柔らかい朝の光が二人を照らした。
〈終わり〉