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 田中 数馬は日課の素振りをやめて、 一息ついた。 もう三十も半ばだというのに、 その肉体は若いころと変わらない。

 なんだかんだと金を貯めて、 江戸外れに道場を構えることになって十年。

 少なくない門下生達に剣を教えることになってそれなりの時間が経ったが、 それでも己の未熟さを感じる毎日だ。

 道場裏の井戸で流した汗をぬぐっていると、 妻が話しかけてきた。 道場を開いて間もないころに友人の伝手で知り合った御家人の娘である。

 

「あなた。 中村さんがやってきましたよ」

「すぐに行くから、 待っててもらえ」

 

 そう告げると、 一度着替えるために自身の道場に戻る。

 着替えてから玄関に行けば、 そこには御家人の服装をした男がいた。

 

「久しいな。 最後にあったのはいつぶりだったか」

 

 中村 左膳、 かつては渡辺という苗字だった友人はそう言いながら、玄関の高床に腰を下ろした。

 

「俺の娘が生まれて以来だから、 三年程になるな」

 

 そう言いながら数馬も玄関の高床に腰を下ろす。 そのまま草履を履くと、 立ち上がることなく、 昔に思いをはせる。

 

「あいつもとうとう独り立ちか」

「そうだな。 なんだかんだ言って俺達、 成功した方だよな」

「まあ、 成功してからも大変だったんだがな」

「まったくだ」

 

 苦笑しながらも立ち上がる数馬。 それにつられるように左膳も立ち上がる。

 

「夕餉は外で食べてくる。 もしかしたら、 今夜は帰らないかもしれん」

「分かりました。 あまり羽目を外さないようにしてくださいね」

 

 刀を腰に差してから、 妻に改めて告げる。 妻からの返答を耳にして、 数馬は自身の道場を後にする。

 もう一人の友人、 加藤 右平の食事処は道場を出て四半刻(三十分)程のところにある。 小ぢんまりとした二階建ての一軒家がそれである。

 暖簾をくぐれば、 すっかり料理人となったかつての剣術友達が仕込みをしていた。 太くなった腹を見て、 かつて火盗改と共に戦っていた過去があるなど想像すらできないだろう。

 

「いらっしゃい、二階の座敷が空いてるよ」

 

 料理人の風貌となった友人が柔らかい笑みを向けてくる。 友人の女房に案内されて、 二階の階段に近い一室へと通された。

 少ししてから運ばれてきた酒と肴を楽しんでいると、 下の用事を一通り済ませた右平が追加の肴と酒を持ってやってきた。 そのまま、 二人が開けていた場所に腰を下ろす。

 

「……何年ぶりですかねこういうのは」


 酒を口に運んで右平が呟く。 その言葉を聞いた友人二人は酒が入っているためか、 抑えきれずに笑いだす。

 怪訝な表情をする右平に左膳が杯を手に、 もう片方の手で数馬を指差す。

 

「いやな、 ここに来る前に同じようなことをこいつと話していたのだ」

「ちなみに俺の娘が生まれた時に三人で集まって飲んでいるからかれこれ三年ぶりだな」

 

 数馬の言葉に「そうですか」と楽しそうに呟くと杯の中身を一気に飲み干す。

 

「……そういえば、 なんですけれども」

 

 先程の一気飲みで酔いが回ってしまったのだろうか。 頭を下げてゆっくりと言葉を選ぶように右平が話題を挙げる。

 他の二人も大分酔いが回ってきているのか黙って続きを促す。

 

「今、 故郷はどうなっているのでしょうか」

「さあな。 俺はあれから一度も帰っていないから分からんとしか言いようがない」

「……ああ、 俺もだ」

「ですよね……追手の一つでもあるのかと思ったのですが、 特にそう言うのはなかったですし」

「下級藩士の部屋住み候補に追手なんぞかける余裕があるとは思えんがな」

「それに、 数馬は今や江戸にその名を知られた道場の主です。 小藩が簡単に喧嘩を売れる相手ではないでしょう」

「左膳だって火盗改の一員。 将軍配下の御家人だからな」

「右平なんて誰が見ても料理屋の親父だ。 こんな奴に斬りかかろうなんてただの狂人だぞ」

「ちょっ、 酷くないですか」

 

 「酷くねえよ」と肉のついた腹をつつく左膳に「止めてくださいよ」と笑いながら抵抗する右平。

 そんな二人を眺めながら、 数馬は杯の中身に再び口をつけた。

 

 

 

 ―――友人達には秘密にしている話ではあるが、 実は数馬は一度だけ帰郷したことがある。

 それは道場を開く少し前のこと。 第一子である娘が生まれるよりも、 今の女房と結ばれるよりもさらに前のこと。 あの凶賊を相手にしてから十日も経っていないころ。

 道場の場所にいくつか当てをつけていたある日のこと。

 ふと思い立って、 何の気もなく、 かつての故郷が今どうなっているのか確認するため、 旅に出たのだ。

 かつての故郷についたとき、 彼を出迎える者はいなかった。 生家を密かに覗きに行けば、 長兄が当主として小さな家を切り盛りしているのが分かった。

 友人達の家も似たようなものであった。 水瀬道場の仲間が継いでいる家もあった。

 一応、 脱藩した身であるので、 人目につくようなことは避けて、 水瀬道場へも訪れた。

 道場はすでに閉鎖されていた。 門は閉ざされながらも既に少しずつ朽ち始めていた。

 他の者に見られないように気をつけながら、門を開けて敷地に入ってみれば、 何年も手入れされていない道場が目に入る。

 更に中へと入ってみれば己の記憶よりも古ぼけていながらも荒廃しつつある光景がそこにあった。

 稽古道具などは残ってはいるものの、 その数は少なく、 同時に碌な手入れがなされていないのが一目で分かった。

 師範代や門人の名が連なっていた場所にはすでに水瀬の三羽烏の名はなく……というより、 自分の記憶していた数の十分の一もそこにはなかった。

 いつも師範が座っていた上座に腰を下ろしてみれば、 そこから道場内を一望できた。

 自身の記憶よりもはるかに広々とした景色があった。

 

 

 

 何故自分は故郷に帰ったのだろう。

 何かが抜け落ちた感情を抱えながら、 彼は故郷で一泊することもなく帰路についた。

 とある宿場町にたどり着いたのは日が沈みかけたころ。

 水瀬道場で剣を振るっていたころは、 ここへ何度も飯盛女を買いに来たことがあった。

 少ない小遣いを友人達と数え合い、 できる限り遊べないか、 必死に計算したものだ。

 そのような場所なので、 もしかしたら旧友と鉢合わせするかもしれない。 ならばここに泊まらず、 足早に次の町を目指した方がいいだろう。

 そうして足を速めた数馬の隣を、 懐かしく、 それでいてかつての記憶よりもはるかにみすぼらしい姿の女性が通っていく。

 その女性は数馬の姿に気が付くと、 立ち止まり、 声をかけてくる。

 

「もし、 貴方様はもしや……」

 

 かつて憧れた桜小町の声を無視して、 田中 数馬はさらに帰路を急いだ。

 それ以降、 数馬も故郷には帰っていない。

 


これでおしまい。

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