第二話『家出少女』
あれからトーマは、フェアリーからの依頼にずっとかかりきりだったわけではない。《よろず請負業》なので大小さまざまな依頼が転がり込んでくるからだ。その内の小の依頼、『水道管の修理』から夜の七時過ぎに帰ってくると、家の前で旅行カバンに腰掛けているフェアリーがいた。
「……そこで何をしてるんだ?」
「あ、帰ってきた!よかったー。外泊するんだったらどうしようかと思った」
「いつ依頼が入るか分からねえし外泊はめったにしない。そんな事より、その大荷物は何だよ」
「家出してきたんです。家事でも何でもするから、ここに置いて下さい」
「はあ?家出?で、なんで俺の所に来るんだよ。一人暮らしの友達の所にでも行けばいいだろう」
「友達なんていないわ。だって近付いてくる人がいても下心があるようにしか見えないんだもの。誰も信用できなくて」
「だからって……ああもう面倒くさい!とにかく中に入れ」
トーマは鍵を開けるとフェアリーの背中を押して家の中に入れた。離れた場所でコソコソと様子をうかがっている者がいる事に気付いたからだ。追い返しても良かったのだろうが、あれから後の調査で少し引っかかる事柄に行き当たったので、そうもいかなかったのである。
「何時から待ってたか知らねえけど晩メシまだだろ。すぐ作るからちょっと待ってろ」
「あ、私が作ります」
「お嬢様だろ?料理した事はあるのか?」
「多分、大丈夫です。台所借りますね」
フェアリーの態度が自信ありげだったので夕食の準備は彼女に任せることにし、トーマは待っている間に新たな依頼が入っていないかチェックしたり、継続中の仕事についての情報を集めたりしていた。そうして二時間近く経った頃フェアリーが呼びにきたのでダイニングルームへ行くと、そこには一見すると普通の食事が並んでいた。が、イスに座り、クリームシチューらしきものをスプーンですくった瞬間、ん?と思った。やけに白くてサラサラしている。まあいいかと気を取り直して一口食べてみると……。
「これはミルクスープか?」
「え?クリームシチュー……のつもりだけど」
「味見してみたか?」
「してない」
「じゃあ食ってみろ」
そう言われて恐る恐るクリームシチューもどきを口にしたフェアリーは、自分が想像していたものと違う味わいに驚き、思わず吹き出しそうになった。
「な、何これ?今まで食べてたのと全然違う」
「だろうな。お前さ、もしかして肉と野菜をミルクで煮込んだらクリームシチューが出来ると思ってただろ」
「え、違うの?」
「残念ながら。まあこれでも食えない事はないが、コンソメと調味料等足したらもう少し美味くなる」
トーマはとりあえずフェアリーの作ったクリームシチューもどきを食べてしまうとキッチンへ行き、しばらくしてからおかわりを二皿持ってきた。
「ほら。これ食えよ」
ほとんど手をつけていない自分の失敗作を横にどけ、差し出された皿を受け取ると、フェアリーはトーマが手を加えたスープを飲んだ。
「美味しい!どうしてこんなに料理上手なの?」
「仕事柄な。なんでも屋をやっている以上料理くらい出来る。それに一人暮らしも長いしな」
それから三十分ほどして食事が終わると、フェアリーはいそいそと後片付けを始めた。家事でも何でもすると自分で言ったので実行しているのだろう。料理はともかく、掃除・洗濯・後片付けなどをしてもらえるのは確かに助かるが、要するに『タダで家出少女の面倒を見る』ことになるワケじゃないかと、トーマは少々ウンザリした。ただ、正式に依頼のあった仕事の事を考えると家に帰らせるのは危険な気がするので、実の所これはこれで好都合と言える。とはいえ会ったばかりの依頼人に押しかけ女房されても困るのも事実なので、片付けを終えてソファーに腰掛けたフェアリーに、ひとこと言ってやる事にした。
「あのさ、お前……」
「え、何?料理のこと?ゴメンなさい。作れると思ったんだけど」
「じゃない!お前な、よりにもよって一人暮らしの男の家に転がり込む事はないだろ。ましてや俺は世間では胡散臭いならず者と思われてんだぜ」
「さっきも言ったでしょ。他に行く所なかったんだもの。それに世間ではどう思われていても、トーマさんいい人じゃない」
「いい人?なんで」
「私の失敗料理、手を加える前に一皿分全部食べてくれたもの。それに……」
「それに、なんだよ」
「私の話をちゃんと聞いてくれたし、信じてもくれた」
フェアリーは真剣な眼差しでトーマを見つめた。
今日の調査でフェアリー個人について、いくつか分かったことがある。両親が殺された時フェアリーはまだ幼く、ショックと忘れたい思いもあったのか今の両親を本当の両親だと思っていたらしいこと(最初はパパママと呼んでいたのに現在はおじ様おば様と呼んでいる事でそうとうかがえる)。それが現在通っている大学の中等部の頃、同級生に「金持ちのお嬢様になれたんだから親を殺されてラッキーだったよね」と言われ、忌まわしい記憶の断片を取り戻したらしいこと。同時に『目の前で両親を惨殺された可哀想な子供を引き取った』という美談でミラー家に対する一般的な評価が上がったと知り、今の家族に不信感を持ったらしいこと(どちらも当時の同級生の証言による)など。
そんな過去から、彼女は身近な人間ほど信じられないのだろう。だから話を聞いてもらえないのではなく、話をする気になれないのかもしれない。トーマは身近ではないし、命の恩人と似ているという事で話す気になったといったところか。
「はあ……仕方ないな」
「え?本当に置いてもらえるの?」
「ああ。お嬢ちゃんからの依頼に決着がつくまでならな」
「やったあ!ありがとう!でも突然どうして?」
「追い出したって家には帰らないんだろ。それで何かあったら後味悪いからな」
それに外で見張ってるヤツらもいる事だし、とは声に出しては言わなかった。調査を進めないことにはハッキリとは分からないが、フェアリーの身に危険が及ぶ可能性がある。ミラー家の人間なのだから、事情を話せばシークレットサービスなどをつけるかもしれないが、トーマのように胡散臭い人物の話を果たして大財閥の人間が信じるかというと、非常に疑わしいところであるし、何より外の連中がミラー家と関わりがある事すら考えられるので、おいそれと言えるものではないのだ。
(しかし多分ここにいる事は、お嬢ちゃんの家族にもすぐにバレるだろうな。さて、どうやって説明するか)
面倒な仕事になりそうだな、とトーマは思った。子供とはいえ相手は財閥の人間なのだから、法外な仕事料を請求してやろうかとも思ったが、フェアリー自身が家の者に頼るのを嫌がるのは目に見えているので、払える金額など子供の小遣いにしては多い程度のものだろう。こんな仕事、受けるんじゃなかったなどと後悔しても仕方がない。割に合わなくてもとりあえず金になるのだから、面倒な仕事だろうが危険な仕事だろうが構わない。せいぜいしぼりとれる範囲でしぼりとってやろう、などと悪徳政治家のような事を考えていた。
一方ミラー家三男宅では帰宅した主人、つまりフェアリーの養父が、妻から娘の姿が見えなくなったという報告を受けていた。
「フェアリー・ローズが家出!?」
「ええ。どうやら二階の窓から抜け出したようなの」
「何を落ち着いている?捜索願は出したのか?あの子には行く所などないはずだ!一人で外をウロついていて、もし連れ去られでもしたら……」
「それについては大丈夫ですわ。フェアリー・ローズは『G.S→トーマ』にいますから」
「『G.S→トーマ』?8番街の何でも屋か。殺人依頼も受けるという話だし腕は確かだろうが、冷酷非情で金のためなら何でもする男らしいじゃないか。金をチラつかせてフェアリー・ローズを差し出せと言えば、あっさりと引き渡す事も考えられるぞ」
「毒をもって毒を制すという言葉もありますわ。近日中に私が出向いてあの子の身を守るよう依頼します。それなりの額を用意する必要があると思いますが、よろしいですか?」
「ああ。いくら出しても構わん。頼んだぞ」
フェアリーが聞けば意外に思ったか、やはり金で解決しようとするのかと怒るか。微妙なところである。実際、夫婦の様子は真に娘を案じているのか面子を気にしているのか、表面上では誰にも分からなかっただろう。
「あなた、もう一つお話があります」
「なんだ?」
「あの子が反抗的になった理由ですけど、私たちがあの子を引き取った事情について、どうやら誰かに何か吹きこまれたようですわ」
「なんだと!あの子からそう聞いたのか?」
「ハッキリそう言ったわけではありませんが」
「くそっ!“ヤツら”が亡霊になって復讐に来たとでも言うのか!」
「では8番街の何でも屋に、ついでにおはら祓いも依頼しましょうか」
「お前は!ふざけてる場合ではないだろう!?」
「亡霊であれ何であれ、あの子を持っていかれるつもりはないという事ですわ。フェアリー・ローズは四年かけてようやく見つけた宝なのですから。他人になど渡すものですか」
妻の冷静な態度で夫もすっかり落ち着きを取り戻し、黙って頷いた。
「ではナンシー。何でも屋にフェアリー・ローズのボディーガードを依頼する件は頼んだぞ。くれぐれもあの子を刺激しないよう、家出した事についてとやかく言わないようにな」
「分かってますわ。あなた」
翌朝、六時過ぎに目を覚ましたフェアリーは、キッチンにもダイニングにもトーマの姿がない事を確認すると、昨日の夕食の失敗にもめげず朝食を作る事にした。ただ一応昨夜の教訓を生かして、卵は目玉焼きではなくスクランブルエッグにした。目玉焼きだと黄身を破いてしまったり、焼き加減が難しかったりするからだ。そうしてトーストとオレンジジュース、ボイルドソーセージにスクランブルエッグ、きゅうりとセロリとにんじんの(とりあえず切ればいいだけの)スティックサラダ、インスタントのポタージュスープといった朝食が出来上がった。その時点で六時四十分を過ぎていたが、トーマが起きてくる様子はなかったので部屋へ起こしに行った。
「トーマさーん。朝食が出来ましたよー。起きてください」
ドアをノックして声をかけたが返事はない。もう一度同じ作業を繰り返したが出てくる様子はない。寝起きが悪いのかなと恐る恐るドアを開け、「失礼しまーす、トーマさん朝ですよー」とその場で声をかけたが、やはり物音ひとつしなかった。
「仕事で疲れて熟睡しているのかな?」
仕方なくダイニングに戻ってぼんやりと待つこと十分、ふと玄関の扉が開く音がした。
(……だ、誰?)
フェアリーは警戒してカーテンの陰に隠れた。足音が徐々に近付いてくる。心の中でトーマさん起きてきて!と叫んだ、その時……
「あれ?メシ作ってくれたのか。悪かったな」
「え?トーマさん!?」
カーテンの陰から出ると、そこにはまぎれもなくトーマがいた。手には美味しいことで有名なパン屋の袋を下げて。
「ああ、悪いな。ハラ減っただろ?」
「それはいいんですけど、もしかしてそんな遠いパン屋さんまで、パンを買いに行ってたんですか?」
「いや、仕事。明け方四時半頃に緊急の仕事が入ってな。今帰ってきたんだ」
「四時半?いつもそんな時間に仕事が入ったりするんですか?」
「月に二~三回くらいかな。そんなに多くはないぜ。深夜を合わせたらもっと増えるけどな」
「深夜に?そんな時間に呼び出すなんて、ひどい」
「仕方ないだろ。子供がぜん息の発作を起こして、医者に診てもらう金もないなんて言われたら」
「……え?」
「そんな事よりメシ食おうぜ。せっかく作ってくれたんだ。こっちのパンは明日の朝食にまわそう」
そう言ってトーマは食卓にかけられているビニールハウス様のものを取り払った。これはフードキーパーといって、中に入れられている料理の熱を感知して、温かいものは温かく、冷たいものは冷たいまま無菌状態でキープするという機械である。この機械で半日程度は出来たてと全く同じ状態が保てるので、家族揃って食事がとれない家庭などには特にありがたい代物だ。
ところで何故半日なのか?それは菌発生を抑えるクリーン機能が有効に働く時間の限界がその程度だからである。この時代の人間の技術をもってすれば、それ以上に長くすることも可能なのだが、当初三日間保つものを販売したところ『食事を作る者が一度に大量に作るせいで、ずっと同じものばかり食べさせられる!』と苦情が殺到したため、宇宙都市の商法で『十二時間以上機能するフードキーパーを売ってはならない』と決められたからだ。
技術が急速に進歩した時代、効率重視で家事やペットの散歩に至るまで多くの事を機械任せにするようになった結果、昔の人間が持っていたスキルや知恵などが失われ、機械トラブルなどでアナログ技術に頼らなければならなくなった場合に対処できる者が専門家しかいなくなった。お陰で専門家が捕まらない場合すぐパニック状態に陥るようになった上、体を動かす機会が少ない為に身体機能に異常が現れる者が急増。このままでは次代の人間は、脳ばかり発達して頭が異様に大きく体が小さい、昔の地球人が思い描いていた宇宙人のような姿になると、必要以上に人間が動かなくなるのを防ぐ法律を宇宙都市政府が作った。フードキーパーに関する法もその一つというわけである。
「それにしても、こんなまともな朝メシ食うのは久し振りだな」
「いつもは違うんですか?トーマさん、料理上手なのに」
「上手い下手の問題じゃないからな。自分ひとりで食うのに朝から手間をかけて作ろうって気には、なかなかならないだろ」
「そっかあ。トーマさん、一人暮らし長いって言ってましたよね。何年くらいなんですか?」
「さあな。もう忘れた」
「って、まだ若いのに。長くてもせいぜい十年くらいでしょ」
「じゃあ、そういう事にしといてくれ」
などと話してる間に朝食を終えたトーマが食器を持って立ち上がった。それを見たフェアリーは、
(私が食べ終わるまで待っていてほしかったな。仕事が忙しいからムリか)
と思っていた。そうして一人残されて食事を続け、食べ終わる頃になってカップ二つを持ってトーマが戻ってきた。
「ほい。お待たせ」
トーマはフェアリーの前にカップを置いた。そこからはいい香りが漂っている。
「コーヒー淹れに行ってくれてたんですか?」
「つーか自分が朝コーヒー飲まないと気がすまない性質なんだ。あ、もしかして、お嬢ちゃんがまだ食事中なのに席を立ったから拗ねてたのか?」
図星を指されてフェアリーは真っ赤になった。
せっかく淹れてもらったコーヒーが冷めても勿体ないので、食器はそのままにしてコーヒーを一口飲んだフェアリーは、トーマが帰ってきてすぐ言っていた事を思い出し、ふと気になったので聞いてみる事にした。
「あの、トーマさん。明け方の依頼は、ぜん息の発作を起こした子供をなんとかしてくれって内容だったんですよね」
「ああ。それがどうかしたか?」
「そういう医療技術っていうか……そんなものも持ってるんですか?」
「俺はスペシャルライセンスを持ってるからな」
「スペシャルライセンス?」
「地球でも宇宙でも、仕事上の行為であれば犯罪でも免除してもらえるという、ふざけたライセンスなんだがな。その認定を受けるためには、とんでもない数の適性検査やら何やらあって、資格免許も最低でも国家資格で2百種以上持ってなきゃダメだとか。ま、色々あるわけだ。だから医師免許や薬剤師やらの免許も当然持ってる」
「仕事上の犯罪行為って、もしかして殺人も?」
「もちろん。ただ犯罪行為の依頼は、免許を出している地球の機関に内容を報告してジャッジしてもらう必要がある」
「ふーん」
「淡白な反応だな。俺だって人を殺した事があるのに平気なのか?」
「いくら依頼だからって、子供のぜん息を治すため明け方に駆けつけるような人だもの。怖くないわ」
「それは金のため。別に子供の体を心配したわけじゃない」
「うそ。だったらお医者様に診てもらうお金がないって言ってきた人の所になんて行かないでしょ?」
「普通の医者じゃ、臓器を売って金にするなんて言っても取り合ってもらえないだろ」
この発言には、さすがにフェアリーも愕然とした。つまりトーマは、子供のぜん息の治療費として親の臓器を摘出してきたのだろうか?そう言えば帰ってきた時、パンの袋と一緒に何か大きなケースも持っていた。まさか、あの中に……。そう思い部屋の隅に置かれたケースに視線を送ると、それに気付いたトーマが軽く笑った。
「やっぱり怖くなったか?別に逃げ帰ってもらってもいいぜ」
「それはイヤ。怖いけど、家にいるよりはマシ」
「ふ~ん。その覚悟がいつまでもつかな。何しろ今日からは俺の仕事に付き合ってもらうつもりだからな」
「えっ!私、看護婦の資格なんて持ってませんよ!それに臓器摘出の手伝いなんて……」
「あのな、何もそんな仕事ばかりなわけないだろ。それに素人に大事な仕事を任せたりするかよ。ただお嬢ちゃん一人家に置いておけないから、深夜の仕事以外は連れて行くってだけの話だ」
「私一人置いておけないって、どうして?家の中を荒らしたりしませんよ」
「そういう問題じゃない。ま、どうせ今に分かる」
それだけ言うとトーマは後片付けのため食器を持ってキッチンへ向かった。フェアリーは『臓器売買ショック』から立ち直れずにいて、私がやりますと言い出す余裕がなかった。が、トーマの姿が見えなくなったのを確認すると、恐る恐る部屋の隅に置かれたケースに近づき蓋を開けようとした。しかし当然鍵がかかっていて開かない。これはやはりと思ったとき、背後に気配を感じた。ハッと振り向くと、そこにはトーマが冷たい表情を浮かべ立っていた。
「あ…………」
「何をしている?」
「ご、ごめ……!」
それは特殊なライセンスを持ち、仕事で殺人さえもこなすという者の迫力であろうか?怖いと思って見れば、耳のピアスさえも血の色のようで不気味に映る。
怯えるフェアリーに向かってトーマは手を伸ばした。思わず身を小さくして悲鳴をあげたが、彼の手はフェアリーの横を通り過ぎ、ケースの鍵をカチャンと開けた。そして突然、堪えきれなくなったかのように吹き出した。
「ははは!バーカ。どうせこの中に臓器が入っていると思ってたんだろ?臓器ってのは新鮮さが命なんだよ。持って帰ってきて呑気に朝メシなんか食うかよ。信じられないなら、鍵を開けたから中を見てみな」
笑いながら再びトーマはキッチンへと去った。フェアリーは体の奥から大きな息を吐き出して、小さな声で「怖かった」と呟いた。
外見的特徴はともかくとして普通の青年にしか見えない彼だが、やっている仕事は普通ではなく、凄んだ時の迫力は更に尋常ではない。が、失敗料理を嫌な顔ひとつせず食べてくれたり食器をせっせと片付けたりと、キチンとしていて優しい一面も見られる。二重人格というわけでもなさそうだが、つかめない人物である。
さて、別に信じられないなどと思ったわけではなかったが、気にはなるので例のケースの蓋を開けてみた。中には医療用具らしきものや薬が入っているだけで、怪しいものは見られない。と、そこに手紙が入っているのを見つけ、悪いと思いつつも好奇心に勝てずに中を見た。
『お兄ちゃん、いつもありがとう。せきが出るとくるしいけど、お兄ちゃんが来てくれるからうれしいです。お母さんもお兄ちゃんが来るとうれしそうです。ぼくは大きくなったら、つよくなってお母さんをまもりたいです。だからがんばります』
その内容は、トーマが冷酷非情に仕事に徹してなどいない事を証明していた。いや、心では金のためと思っているのかもしれないが、少なくとも表面上は病気に苦しむ子供と、その母親を励ましているようだ。臓器売買の疑惑は晴れないが、ともかくもフェアリーは少しホッとした。
その頃、片付けを終えたトーマは、巨大な観葉植物の奥に隠れていて簡単には見つけられない部屋の中にいた。四帖ほどの部屋の中にも多くの植物があり、空調で少し汗ばむくらいの温度に調節されている。そんなミニジャングルの中心には棺のようなガラスケースがあり、そこには花嫁衣裳をまとって幸せそうに微笑む女性が眠っていた。
トーマはガラスケース越しにキスをし、女性に語りかけた。
「おはよう、カレン。今日も俺は溜息が出るほど無意味に元気だ」
トーマの呟きに女性が応えるはずもなく、無言で微笑を返すだけだった。そこに意識は存在せず、彼の声が耳に届く事もない。分かっているのだ。今日は目覚めるかも、明日こそ……と期待していた時期などとっくに過ぎている。彼女が眠り続ける理由も分かってはいるのだ。しかし分かってるからといって寂しさが消えるわけではない。
「なあカレン。俺はまだ甘いな。今日、例の子供のお袋さんに、腎臓を一つ売って治療費を払うからこれからも見捨てないで欲しいって言われてさ。チビが元気に働けるようになったら請求するから、腎臓は大事にとっとけって言っちまったよ。慈善事業してる場合じゃないのに。一セントでも多く稼ぎたいのに、何やってんだろうな」
カレンという名の女性は相変わらず微笑んでいる。その微笑みは全てを許すように優しい。だがトーマが欲しいのは、泣き、笑い、怒る彼女だった。こんな虚しい思いを、もうずっと味わい続けている。
「じゃあ、そろそろ仕事に行ってくる。また夜にな」
トーマはもう一度ガラスケース越しにカレンにキスをして部屋を出た。