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翌朝、目が覚めた陽菜は寝間着から着替える前に机の本棚から辞書を引っ張り出しページをパラパラめくった。
「あ、あった」
しばらくめくり目的の文字を見つけた所で手を止める。
《メサイア「messhia」…旧約聖書では、超人間的な英知と能力をもった王のことを言い、新訳聖書ではイエスのことをさす。メシアとも。》
あ、メシアなら知ってる。
確か、救世主って意味だったよね。
って、きゅ、
「救世主!?」
陽菜は驚き目を見開いた。
「いやいやいや」
そんな、昨日まで女子高生だった自分が救世主だなんて…そんな筈はない。
荷が重すぎる。
「無理だからっ」
うん。無理だ。帰してもらおぅ。
うん。今から帰してもらおう。
そう思い陽菜がクリスを呼ぼうと口を開いた瞬間
「おや、もう起きられていたのですね」
と背後から声が聞こえ、驚いた陽菜が「ヒッ」と声を出して振り返ると、クリスが“感心感心”と頷いていた。
「おはようございます」
そう言って、爽やかに微笑むクリスの手には焼き立ての丸いパンと琥珀色のスープとオムレツのような物が載せられたお盆が持たれていた。
どれも出来たてらしく、おいしそうに湯気を立てている。
―おいしそう…
陽菜の目線に気づいたクリスは小さく笑いながらお盆を机の上に置いた。
「朝食をお持ち致しましたので、先にお顔を洗われて下さい」
「あ、うん」
目の前の食事から名残惜しそうに視線を外すと、いつの間にかクリスは手に水の張った桶とタオルくらいの大きさの白い布を持っていた。
それをどこにも置かないとこを見ると、このまま洗えということなのだろう。
「ありがとう」
「それから」
陽菜が顔を洗おうと桶に手を伸ばすと、クリスは陽菜の着ているピンクの寝巻きをジッと見つめ
「今お召しになられている物も、素敵だとは思うのですが、此処ではちょっと目立ちますので、朝食がお済になりましたら、こちらで用意した着衣にお着替え願いますか?」
と訊いた。
いつも着ている、何の変哲も無い寝巻きを素敵と言われたことに若干くすぐったいものを感じながらも、陽菜は
今からお家に帰してもらうんだから、服なんて必要ないし。よしっ、今よ、今。今帰してって言うべきなんだ。
そう思い、口を開きかけた時、目の端に朝食の載ったお盆が映り芳ばしい匂いが鼻腔の奥を刺激し
…食べてから言っても遅くはないか。
そう思い直し「分かった」と頷いた。
だけど、いざ食事を口に運んでみると思った以上に美味しく、食べ終わった頃には満ち足りた気分で放心してしまっていた。
気が付いた時にはクリスは目の前から消え、代わりに1着の白い服が椅子の背に掛けられていた。
それがクリスの言っていた、“用意した着衣”だと言う事は見た瞬間に理解した。
陽菜はとりあえず先に服を手に取ったみた。
―せっかく用意してくれたんだから、とりあえず着替えよう。
そう思い袖を通して陽菜は思わず感嘆の声を上げた。
「うわぁ、こんなのもあったんだ」
てっきり、麻とか綿の“まるで布”を想像していたけど、今着ているコレは、真っ白でシンプルなワンピースといった感じだ。
それに、肌触りも滑らかで着心地がいい。
「…シルクみたい」
そう言った後で、自分はシルク製の服など着た事も触ったこともないと思いだし、一人苦笑いを浮かべた。
そして、陽菜は“今度こそ”と意気込みクリスの名前を呼んだ。
「それは、承知致しかねます」
それが陽菜の帰宅要請に対するクリスの答えだった。
「そんなっ」
無理って言ってるのにっ
陽菜がクリスの顔を睨み付けると、クリスは陽菜の前に跪いた。
「申し訳ありません」
「どうして?連れてこれるのに連れて帰ることは出来ないっておかしいじゃん」
「規則なので」
その言葉に陽菜は訝しげに顔を歪めた。
「規則って?何それ??人を連れ去っておいて、規則も何もないでしょ?」
「…アラン様の許しがない限り、この世界から出てはいけない、そういう規則なんです」
―“この世界”?
陽菜は眉をひそめ目を閉じた。
今、この人“この世界”って言った?
日本じゃない国って言われるだけでも驚いてしまいそうなのに、世界ってっ。
中二病すぎて、驚くどころか、信用出来そうにない。
夢?
そうだ、きっとコレは夢なんだ。
だって、私の記憶が正しければ、
異次元とか、異世界とかは漫画や小説の中だけの話だ。
うん。
夢だ。絶対夢。
昨日からの出来事はずっと夢か自分の妄想。
あっ!
もしかしたら、瑞樹が沙良と付き合いだしたのも夢なのかもしれない。
瑞樹が返事をくれないから変な夢を見てるんだ。
…きっとそうだ。
もうすぐ瑞樹がいつもみたいに起こしてくれる。
“ひぃ、まだ寝てるのか?”って、“早く起きないと遅刻するぞ”って。
いつもの優しい笑顔を見せてくれる筈。
それから真顔になって、
“ひぃ、俺もひぃのことが好きだよ”
って私を抱きしめてくれるんだ。
このまま目を閉じてたらきっと、瑞樹が来てくれる。
陽菜は自分の頭にそう言い聞かせていたが、つい数分前に食べた朝食と袖を通したばかりの服のリアルさがそのことを否定していた。
これは現実なんだと、逃げられないんだと。
そう主張していた。
「ヒナ様?」
声を掛けられて陽菜は夢から覚めたようにしっかりと目を開けた。
そして目の前のクリスが心配そうな顔で口を開いた。
「申し訳ないのですが…、アラン様から許可を頂くまでお待ち頂けますか?」
その申し出に陽菜は
「いやいい」
と小さく首を振った。
「えっ?」
「まだ帰らない」
そうだった、忘れてた。
今帰ったら、嫌でも幼馴染みと親友の仲を見せ付けられてしまう。
きっと、彼のことだから、彼女が出来ても自分を大切にしてくれるんだろう。
そう思う。
いつもと同じ笑顔を私に向けてくれるのだろう。
それが陽菜にとって一番辛いことなどと、彼は微塵にも感じない筈だ。
そんな所になんて帰りたくない。
願い下げだ。
陽菜は一つ息を吐き出すと真っ直ぐクリスを見据えた。
「私、強くなる」
先程の言葉とは対照的な台詞に耳を疑い
「…ヒナ様」
戸惑い表情を浮かべるクリスに陽菜は言葉を続けた。
「私、頑張る。頑張って強くなりたいの。何があっても傷付かない、…鋼の心臓が欲しい」
そう、あの二人を見ても悲しくならないように、大好きな人たちを心から祝福できるように。
そんな強靱な心臓が欲しい。
陽菜は決心したが、
「どうしたら強くなれるの?」
今まで16年間生きて来た中で、強くならなければいけない場面に遭遇などしたことがなかった陽菜は、その術を知らない。
優しい両親に何不自由なく育てられ、面倒見のいい幼馴染に見守られ、友達にも恵まれていた。
まるでぬるま湯に浸かっているように心地よく生きてきた。
そんな陽菜に強くなる必要などなかったのだ。
「そうですね、まず…」
クリスは立ち上がり陽菜の顔を見つめた。
「向き合う…ことですね」
「…向き合う?」
「そう、向き合うんです。嫌な事に直面したらまず、考えるんです。逃げ出す前に考えて下さい」
「…でも」
陽菜は頭を小さく振った。
「耐えられないこともっ」
脳裏に幼馴染みと親友の顔が浮かび言葉に詰まる。
だいたい、彼等を見ても傷付かないでいられるように強くなりたいのに、彼等と向き合わなければ強くなれないなんて…。
「どうしようもないじゃん…」
「いえ」
クリス首を左右に振り、微笑んだ。
「ヒナ様は強くなりたいと、仰いました。理由は何にしろ…その気持ちが大切です」
「だけど…」
「大丈夫、すぐに立ち直れます」
不思議。
陽菜は思った。
クリスに言われると、ホントに…そう思えてくる。
「うん」
陽菜は頷いた。
帰る頃までには、笑顔を二人に向けられるようになっていよう…。
「そうだね。…クリスがいれば何でも出来そうな気がする」
陽菜が言うと、クリスは一瞬驚いたように目を見開た後、ゆっくり跪き頭を下げた。
「…最高の褒め言葉です」