願いを運ぶ舟
息抜き。
がたん、ごとん。
そんな音を聞いている内に、どうやら眠ってしまった様だ。窓を開けて景色を見ると、日は落ち、辺りは夕暮れ色に染まっていた。走馬燈の如く消え去る景色の中には、子供を連れて帰る親の姿も見て取れる。何でもないその景色が、今の自分には羨ましく思えた。
普通のサラリーマンであった自分にも、幸福な時期というものがあった。しかしそれはまやかしであった。およそ一般的とも呼べる、しかしなによりも尊い幸福は、こちらが何をするでもなく逃げて行ってしまった。これがもし、自分の積み重ねた悪行の報いだというのならば話は分かる。この世に悪が栄えた試しなし。ただ、どんなに思い返してみても、幸福が逃げる様な悪行を積み重ねたとは思えないのだ。
人生を振り返ろうとも、普通に過ごしてきたばかり。テストで百点を取ったり、或いは赤点を取ったりして、それなりに起伏はあるものの、それでも普通の範囲を出ない。それなのに、どうして。
「お客様」
不意に声を掛けられたからだろう、身体がびくんと跳ねる。恐る恐る振り返ると、憂いを帯びた笑みを浮かべた車掌が、三段構造になっている手押し車を持ちながら立っていた。
「…………何でしょう」
「お客様は、どうやら聞いて欲しい事があるのではないですか?」
「……え」
全く以て、その通りだった。全てを見透かしたような車掌を見て、私は驚きを隠せなかった。突然乗客にそんな事を尋ねる車掌も車掌だが、的確に自分へ尋ねてくるのだから、きっとこの車掌には本当に何かが見えているのだろう。当てずっぽで聞いているとはとても思えない。月並みだが、長年の車掌経験から来る鑑識眼が、自分を見つけたに違いない。
「私でよろしければ、お聞きしますが」
「……じゃあ、聞いて欲しい。せめてこの電車が止まるまで」
無茶ぶりとも言えるお願いに、車掌は沈黙という名の肯定を返した。手押し車から手を離し、机越しに向かい側の席に座る。車掌はいつも笑顔を絶やさない。ただし、その笑顔はどちらかと言えばこちらを憐れむ様な、悲しい笑みだった。
「それで、どうなされましたか」
「―――俺はさ、只のサラリーマンだったんだよ。本当に何処にでもいる様な、サラリーマンだった。けど、そんな誰でもない俺を、他でもない妻が選んでくれた。しがないサラリーマンだったのかもしれないけど、その時の俺は幸せだったんだ」
「成程。ご結婚なされたと」
「ああ。娘も出来た。今は……四歳になるかな。『パパーパパー』って呼んでくれて、可愛かったんだよ」
「可愛かった……今は、そう思っていないと」
「ああ……あれは、会社が早く終わった日の事だったんだ」
サプライズ気味に帰ってやろうと、そう思った。その日は丁度娘の誕生日で、高いケーキも思い切って購入した。娘の笑顔が見たかった。妻の驚く顔が見たかった。思えば、そんなつまらない好奇心が、自分の人生を滅茶苦茶にしたのだと思う。猫をも殺すとは言ったものである。
ケーキを抱えて部屋に戻ると、居間に妻は居なかった。代わりに居たのは娘で、妻の所在を尋ねると、娘は寝室に向かった。
そこで自分が見たものは、見ず知らずの男に抱かれている妻の姿だった。
寝室を開けられた妻は驚き、狼狽した様だったが、その光景を見た私が怒り狂ったのは言うまでもない。妻の恐慌すらも尻目に、私は襲い掛かった。そして男を気絶するまで叩きのめした。妻は止めようとしたが、理性を失っていた私は、拳を振り上げるのも止めなかった。
「娘が、『お父さんを離せ! このクソ野郎!』と言ってくれるまでは―――」
娘が生まれたその瞬間から、自分よりも大切になっていた存在にそう罵られて、私の動きは停止した。その内に、娘は浮気相手の男を居間に運び出し、必死に呼びかけていた。振り返ろうと声を掛けようと、娘はもう私を見なかった。ずっとその男にだけ、声を掛け続けていた。
「……それで、どうしたんですか」
「逃げたさ。いや、逃げざるを得なかったと言った方が正しい。あの場にずっと居たら、俺は妻や娘にすら危害を加えそうだと思ったんだ。翌日になって頭を冷やした俺は、どんな顔を向けたらいいか分からなくなった。けど戻らない訳にもいかず、俺は家に戻ったんだよ。そうしたら……玄関のゴミ箱にな、俺が買ったケーキがゴミ箱に捨てられてたんだ。居間の方じゃまたあの男の声が聞こえる。娘の嬉しそうな声が聞こえる。妻まで嬉しそうだった。昨日起きた筈の騒ぎなんて、何もないみたいだった」
「……それで、離婚を?」
「どうして」
「指輪、外されてらっしゃるものですから」
「ああ。そうだな。けど、正式なものじゃない。その前に俺はこうして電車に乗って、妻は見ず知らずの男といちゃついてるって訳だ。携帯の電話番号も変わってるみたいで、俺はもう、何をどうやったってアイツ等と連絡を取れない。ストーカー扱いされるのも嫌だったから、会う事もない。こうして電車に乗って揺られているのは、そういう理由があるんだよ」
生きる意味を見失った。有り体に言えばそうなるだろう。皆勤していた会社だって無断欠勤して、居場所だった筈の家はどこぞの男に奪われて。私にはもう、立ち尽くす場所が無かった。穏やかに日を浴びる場所さえ、残っていても、与えられる事は無かった。
自分程可哀想な人間が居ないとは思わない。けれど、己が無気力になるには、そんな事件はあまりに強力過ぎた。こんな事が起きると分かっていたのなら、端から子供など作らなかったと、そう思うくらいには。
「経済力も、社会的立場も、俺が上だった。家事だって丸投げしていた訳じゃない。妻の負担が少しでも軽くなる様に出来る事はしたつもりだ。洗濯物を畳んだり、洗い物をしたり、妻が息抜きをしたいと言ったら行かせて、子供の世話をしたり。色々やった筈だった。なのにどうして…………」
「愛、でしょう」
車掌は手を組んで机に乗せ、その上に顎を乗せた。
「愛?」
「愛、と言っても様々な形がございます。お客様の愛は、とかく地味な愛でございました。家族に向けられる、普通は気が付かない様な愛でございました。一方でその男、ひょっとして容姿が優れていたのではございませんか? 少なくとも、お客様以上に違いない」
「……ああ」
「ならば話は簡単です。元奥様は貴方の愛よりも、肉欲に近い愛を取った。そういう事でしょう。元奥様は妻としての役目では無く、女として見られる事を何よりも重要視していた。だから妻として自分を見ていたお客様より、女として自分を見ていたその男の方を愛した。私はそう思えてなりません」
「なら……何で娘まで」
「お客様が気付かなかっただけで、元奥様の浮気はもっと前から始まっていたのでしょう。その浮気相手の方はお客様が仕事中に出入りして、娘さんと遊んだりしていたのでしょう。だから娘さんも懐いた。そしてその時までは、貴方と浮気相手両方に懐いていた。けれど」
「俺が殴ったから……嫌いになった」
暴力はいけない事だと世間から教え込まれている。仮に自分達の家庭が教えずとも、テレビを見ていれば自ずと学習していく概念だ。残念なのは、暴力はいけない事だとテレビで教えても、浮気はいけない事だとは決して教えてくれないという事。いや、そもそもまだ幼い娘は、浮気という言葉すら知る筈があるまい。どうしてそれが悪いのか、大好きな人が一杯居て何が悪いのか。そう思っているに違いない。
だからあの時が決定的だった。あれが、私にとっての終焉だった。
「……そうか。そうだったのか。俺は。俺は自分の手で、自分の幸せを壊しちまったのか」
「そうとも言えませんよ? 奥様がもう一つの愛を取ったという事は、遅かれ早かれ貴方は邪魔となった。お金目当てで騙されたり、殺されたりするより良いではありませんか。感情的に嫌いになったその内に終われば、少なくとも社会的損害を被る事はない」
沈黙する。車掌もまた沈黙し、時だけが等しく流れる。
がたん、ごとん。
がたん、ごとん。
秒針の様に刻まれるリズムが、今は安らぎの鈴にも等しかった。
「止めはしないんだな」
「……私は車掌です。この電車を止める権利も、お客様を止める権利もございません。私はお客様の話を聞くだけ」
「それだけか?」
「お客様がお望みになった事です」
やがて僅かな反動と共に電車が止まり、入り口が開く。駅から誰かが乗り込んでくることは無く、それは私が下りるまで、きっと開き続ける。直感的にそう思った。私は車掌に軽くお礼を言って立ち上がり、ポケットの指輪を手押し車の上に乗せた。
「有難う。スッと心が軽くなったよ。もう、迷う事は無いさ」
「それは何より。それでは、行ってらっしゃいませお客様。貴方の旅に、安らかなる平穏があらん事を」
電車を降りると、発車を知らせる笛が鳴り響く。背後を振り返ると、帽子を取った車掌が、こちらに頭を下げていた。
「…………一生に一度しか乗れない電車か。最期に乗れるなんて、いい思い出になったよ。有難う」
程なくして扉が閉まり、大きな鉄の塊が動き出す。私は振り返る事なく歩き出して、階段を降りて行った。