水底へ
目の前に波紋が広がっている。雲のない晴天と、それとの境が分からなくなりそうなほど澄んだ海。凪いだ海は静かな波を僕らに寄せる。彼女は何の躊躇もなく、履いていたサンダルを砂浜に置き去りにして海に入った。ワンピースがはためく。純白のそれにも劣らないほど白い足がどこか痛々しかった。
「海、入らないの? 気持ちいいよ」
振り返って、彼女は微笑む。
「僕はいいよ」
断った僕にも関わらず、楽しそうに彼女は笑った。
「じゃあわたしが海を独り占めだね」
僕ら以外、誰もこの浜にはいない。少し暑いけれど、絶好の海日和なのに、誰もいないのはもったいない。とはいっても、ここは片田舎の名もない浜辺だ。むしろ人がいるのが珍しいともいえる。こうして夏になる度に律儀にここへ来るような酔狂な人は僕ら以外いないだろう。少なくとも、今この瞬間だけは、こうして目に見える範囲の海は彼女一人のものだと言ってもおかしくはない。そう言ってしまえるほどに、ここには人の気配がなかった。
一人で海と戯れる彼女の後姿は、顔を見ずとも楽しげに見えた。何年も何年も、彼女とこうしてここに来ている。海に入らずとも、楽しげな彼女を見るだけで僕には十分だった。
「ねえ、本当に来ないの?」
振り返る彼女は手招きする。その手を取ってはいけないと僕は知っている。彼女のその手が既に冷たいことも知っている。彼女は不思議そうな顔をする。どうして、こんなに気持ちいいのに、と疑問の声を上げる彼女に僕は答える。
「……僕はまだいけないよ。まだ待っていて」
「? 変なの」
むくれたふりをして笑う彼女。その顔はあの日からずっと変わらない。こうしてすっかりくだらない大人になってしまった僕を見ても、彼女は何も分からないのだろう。もう何年も、何年も、同じことを繰り返し、そして彼女だけが時から取り残されていることを。
また来年もここに来る。溺れ死んだ彼女が打ち上げられたこの浜へ。
彼女はまた来年も僕を見て微笑んでくれるだろう。一人助かってしまった僕に微笑みかけるのだろう。
一年に一度。こうしてこの浜へ来てしまう僕は、もうとっくに深い水底にいるのだろう。
彼女の手を取る選択を取れない僕は狂っている。死後の世界、彼女に出会える確証はないのだから。だから、一年に一度だけでも、盆に死者の霊が帰るこの日だけでもこうして出会えるなら、僕は彼女を待たせ続けよう。
僕の心が死ぬのが先だろうか。彼女の魂が死ぬのが先だろうか。