07/01/09:00――ボードの絵柄
梅雨も明けはやや遠く、それでも陽が出る日は暑くなる七月。暑い暑いと口にする連中ばかりで、いささかうんざりしていたのだが、その日はボードが届いたとのことで、学校を適当な理由で休み、俺は土屋ボード店へ足を運んでいた。
今日も暑い。雨の翌日ということもあって湿度も高いし、じりじりと焦がすような陽光が降り注いでいる。時折吹く風であっても湿度を孕んでおり、涼しさよりも肌にべったりと水分を張り付けるような煩わしさがあった。
だが、俺に言わせれば、それだけだ。熱病、疫病などの心配がいらないだけ気は緩まるし、ここには風呂もあればシャワーもある。飲料水だとて、補給物資を待たなくても買えるのだから楽なものだ。それは俺が現場を知っているのだからであって、連中にとってはそうじゃない。仕方のないことだ――と。
そう思うのだが、いかんせん、カゴメまでそれを口にするのだから、俺も嫌味の一つくらいは言いたくなる。それを津乗が止めようとして巻き込まれ、天来が誤爆するのがいつもの流れだ。
……。
俺は悪くないよな?
まあともかくだ、暑くなってきたとはいえ我慢できないほどでもなし、ようやくボードが届いたとなれば、俺の足も軽くなろう。一ヶ月くらいは待たされると踏んでいたので、どちらかといえば、思ったよりも早かったな、という感じである。
さて、ヒトシの腕がどんなものか、拝見してやろう。
「――来たぞ!」
「おおびっくりした! お兄さん、静かに入ってきてください!」
「何故だ? 来客がすぐわかって良いだろう?」
「店内の呼び鈴がなるんで必要ないっス!」
「そうか? ……まあ、そんなものかもしれんな。楽しみの表れだと思ってくれ。それで? 指示通り、箱出しは済ませてあるんだろうな」
「はい、こちらっス」
ショウケースに立てかけられたボードは――なんというか。
「猫、だな」
「猫です」
ボートの上下には肉球柄がプリントされており、白黒のブチがついている。後ろを返せば、ご丁寧にやや長毛の茶柄の猫が、顔を洗っている瞬間のポーズで描かれていた。
「……、すず、一ついいか」
「なんすか」
「俺に猫の要素はあるか?」
「ないっス」
即答だな。
「俺もそう思う」
「はあ……」
「……」
「あのう、文句ならヒトシさんにお願いしますよ?」
「あ、ああ、そうだな、いや、――大して気にはしていないし、俺は犬より猫派だから問題はないんだが」
「え? 猫派なんですか? 変な話、あたしは犬派かと思ってたんですけど」
「憧れがあってな。犬は身近だったが、猫はあまり見なかったし、触れる機会も少なかったから、逆に好きになったというか――まあいい」
「あ、はい。全長1233ミリ、幅は48ミリ、厚さ3.2ミリ。重量はちょっと重めで861グラムです」
「注意点は?」
「標準のボード以外の注意点は、ないっス。ヒトシさんからは、使えこなせなくて飽きたら、指を突き付けて笑ったあとに連絡しろって言われてますね」
「かなりシビアな造りを要求したから、そのくらいの見返りはあってもいいだろう――と思うが、それはつまり、俺が乗りこなせば、指を突き付けて笑う権利があるということだ。すず、試乗する。くるか?」
「町の外ですね、すぐ準備するんで待っててください。閉店用意はすぐ済むんで、着替え――は、まあいいや。あたしのボード、持ってくるっス」
俺は先に付属の書類などを受け取り、ファイルに挟んでおいて先に店の外で待っている。ここでは町の中でもボードに乗れるが、何しろ俺にとっては初挑戦になるカスタマイズだ、安全性を考慮すれば広い場所でやった方がいい。
――おそらく、できるだろうなら、やるな。
そう教わったのは、組織に引き抜かれてからのことだ。事実、できるだろうなんて甘い考えで行動すれば、手ひどい失敗をする時に取り返しがつかなくなると、俺は身をもって知ることとなった。それ以来、かなり慎重になった。安全性に関しては特にそうだ。
「いやあ、やっぱ暑いですねえ」
「うんざりするほど寮の連中は言っていたな。俺は慣れている」
「そうなんすか?」
「まあな」
ボードを脇に抱えるようにして並んで歩き、町の外に出てしばらく移動してから、さてと俺は立ち止まった。寮まではまだ距離はあるが、振り返れば町が見える位置である。
「さてと――試すか」
「はい、どうぞ。あたしはとりあえず、見てますんで」
ボードを地面に置き、両足を乗せる。ベルトのようなもので足の甲を固定すると、自動的に踵の部分にあるパーツが動いて、足首と一緒に固定された。靴が脱げる、足が抜けるといった状況を回避するための固定方法だ。これを両足やれば、あとはボードを起動するだけになる。
迷わず起動ボタンを押した俺は、ふわりと浮いた瞬間に――。
「クッ……」
喉の奥で一つ、笑った。
「なるほどな。これがバランサーか」
ゆらりと、躰を波打たせるように動いただけで、左右からの〝補正〟を感じる。扱ったことのないバランサーを、三倍に設定しろなどと無茶を言ったが、どうやら俺の想像していたものと大差はないようだ。
「なんだ、これは良いものじゃないか。すず、どうして貴様たちはこんな補助装置がついているのに、上手く飛べないんだ?」
「そう言われると、あたし、落ち込むしかないんすけど」
「さらに落ち込むかもしれんが、あれだ。補助輪のついた自転車に乗っているようなものだぞ、これは。まあいい、少し試したい。行くぞすず、並べ」
「へ?」
「移動すると言っている。一人では詰まらんだろう、並んで飛べ」
「あ、はい。よっと……ここから寮までは、森もありますけど、道を外れても結構広いですし、いいっスよねー」
「この時間帯なら、うるさい生徒連中もいないから、持って来いだ」
「っと、準備いいっスよ」
「最初に加速を入れるから、遅れるなよ」
「マジすか……」
「だったら先に行け、五秒後に行く」
「はあい」
先に飛び出したすずを見送り、俺は一度視線をボードに落としてから、僅かに口の端を歪めて、加速を入れた。
早い。
バランサーが入っているため、それが三倍ということを差し引いても、バランサーなしでの加速よりも反応がタイトだ。人力で飛んでいた飛行機が、自動飛行可能になったような――アナログ操作が、デジタル操作に変わったような、そういうレスポンスの差である。
「はは……これは面白いな」
「うおっ、もう追いついたんすか!」
「貴様が遅いだけだ!」
「うわあ……はっきり言われると落ち込むっス。体重差じゃないんすよね?」
「トップスピードを維持するには体重も必要だが、加重の要領が悪いんだ。少し速度を緩めろ」
俺も減速するが、やはり俺の方が早く減速できる。これは〝技〟の幅も広がりそうだ。
「いいか? 速度を維持することはまず、度外視しろ。スタート時、お前はおおよそ零から三十まで加速できるな?」
「乗り慣れた人なら、できます。もちろんあたしも」
「だったら、三十から六十への加速もできるだろう。いいか? 走る時は、地面を蹴る力を強くすればいい。感覚を大げさに言えば、三十の状態で〝停止〟して、それをバネにして〝加速〟しろ。言っていることがわかるか?」
「――はい。わかります」
「だが、それだけではバランサーが邪魔をする。何故だ?」
「え、っと……たぶん、姿勢の問題です」
「そうだ。風圧の影響で上半身が倒れる。いくら半身になったところで、加速圧はかなりのものだ、それをバランサーが先に止めようと動く。であれば?」
「……、あ、そうか、お兄さんがやってたみたいに、低姿勢になれば、風も避けられる」
「そういうことだ。それ以外にも方法はあるが、まずは基本のそれを試してみろ。いいか、重要なのは加速と停止、それらが同一線上にある、ということだ。俺のことはいいから遊べ」
「はいっス!」
良い返事だ。若い連中はそうでなくてはならん。
バランサーそのものは、補助装置だ。右に倒れようとすれば右側を支え、逆もまた然り。安定性の向上そのものが取り入れられている。それを掴むため、俺はすずとは違うラインで、加速と停止を繰り返した。
スクリューへ移行するが、途中でリバカリをかけてもとに戻る。反応がタイト――というか、クイックネスというべきか。失敗していた経験がある俺は、リカバリだけは上手いので問題ないが、最低限スクリューやバンクができないと、新しい技の開発もできない。
しばらく遊んでいたが、時間を見計らってすずを呼ぶ。先ほど買っておいたお茶のペットボトルを手渡し、スイッチを一度切ってボードから降りた。
「どもっス」
「加速のコツは掴めたか?」
「わかってきた感じです。こう、瞬間的に停止するような……躰を起こしてから伏せるようなイメージが近いっスね」
「理屈として理解している人間は把握が早くて面倒がないな。だが、これを教えることは困難だ」
「あくまでも感覚的なものですしね」
「だが、俺の経験から言わせてもらえば、まずは、そこだ」
「お兄さんはどうです?」
「感覚の齟齬が埋まったところだ、あとは時間次第だな。これも一つの助言だが、バランサーが入っている時、ボードに直立している感覚を掴むといい。左右に振る際も、足元のボードだけではなく、躰ごと傾けた方が空気を掴みやすい」
「なるほど。でもそれ、難しいんですよね。左へ曲がる時は、つまり右へボードを置いて傾かなきゃいけないんで」
「躰を左へ向ければいいだけのことだ。その際にも、加速していなくてはならない。バンクの理屈で言えば、側面へ力をかけつつも、速度を維持した上で、安定を保たなくてはならないだろう?」
「一朝一夕にはできないって、痛感してるとこっスよ。でも」
「うん?」
「楽しいですね! なんか乗りこなしてやろうって気がして面白いっスよ!」
「ああ、それは良い傾向だ。かけっこ――いわゆる、スプリントや障害物以外の競技も考えてみると面白いだろう」
「お兄さんは、確か玉入れに、鬼ごっこでしたっけ」
「そうだ。しかしまあ、スプリントができてからの話だがな。今までの傾向からするに、単純に横に並んでスタート、そのまま直線で速度を維持できるかどうかの勝負だろう?」
「そうですけど……それ以外にあるんすか?」
「試してやろう。軽く直線で移動して、途中で俺が抜いてやる」
すぐ戻るだろうと、木陰にボトルを置いて、再びボードに乗って、俺たちは加速した。横並びになった俺は、あえて速度を落とすと、自然な動きですずの背後へと入る。そのまま八秒ほど待ってから、斜めへ加速を重ねるようにして横に出ると、一気に抜き去り、空中の回転で制動を入れる――が、途中分解して、やや強引な停止になってしまった。
「やはり慣れが必要だな、これも。すず、どうだ」
「六十近く出てたっスよね⁉」
「お前のことなら、そうだ。だが、お前がその加速を入れるタイミングが、背後から見ているとよくわかる。だから俺は、同じタイミングで後ろから加速を入れて抜いただけのことだ」
「なんで……速度上限がかかっている以上は、大差が出ない仕組みになってるはずなのに」
「そこに、落とし穴がある」
お互いに停止したまま、向き合って話す。この場合、ボードが向く先も同じだ。
「力学的に考えてみろ。先頭と後ろ、どちらが楽だ?」
「スリップストリームに入る以上、後ろです。ボードは安全装置が働いて、一定以上は絶対に近づけないようなっていて――速度制限が入りますよね」
「そう、つまりスリップにつくのは簡単だ。だが、同一速度であっても、後方は風圧がないぶん、力がかかっていない――いわば慣性によって移動しているようなものだ。つまり、風圧を受けながら加速して六十まで出したところで、こちらの六十は加速要らずだ」
「――そこから、本来の〝加速〟を入れるんすね⁉」
「瞬間的には七十近く出る。減速も早いが、抜くだけなら十分だ。ゴール前を想定してみれば優位性は理解できるだろう。この辺りは自転車競技の考え方だな。短いトラックレースならば、後発の方が圧倒的に有利になる。何しろ、相手の踏むタイミングがわかるからだ」
「そうか! だからこそ、お兄さんが見せた〝シザース〟が必要になるんですね!」
「そう、前を行くのならば、常に後ろへの意識は欠かせない。蛇行することで誘いを演出し、更にはタイミングを誤魔化す。いわば加速封じの一種だな」
「そっか、そっか……でもやっぱり、その〝タイミング〟ってやつが重要ですよね」
「そうだな。シザースを使わずとも、安全装置を前提にしているから、あえて〝減速〟を入れて、後ろの相手に挙動を錯覚させる手もある。距離にもよるが、スプリントだからといって、それほど単純ではない」
「はー……奥が深いっス」
「今更だろう。まあ俺の場合は、このバランサーの開発のためのデータが必要だったから、思いつく限りのことをしなくてはならなかった。そうした部分の差だろうが――さて、戻るか。どうする、後ろについてみるか?」
「はい!」
元気の良い返事だ。
しかし――俺は、インストラクターに転職した覚えはないんだがな。