05/22/10:30――風呂場での遭遇
風呂は使えるかと、天来に打診したところ、気を回してくれたらしく、使えるとのことだった。俺は脱いだ服をそのまま乾燥機に入れてしまい、乾くまでの二十分を風呂の中で過ごすことにした。
国外での暮らしが長かった俺にとって、浴槽というのは馴染みが薄い。というのも、軍属時代はイモ洗いかと思うような狭い風呂だったし、時間そのものに限りがあった。決してのんびりする場所ではなかったもので、組織に抜かれてからもその性質は変えようがなかったのが実情である。
だが、ここのはいい。情報だけしかないが、いわゆる温泉というやつに限りなく近いのではないだろうか。一度、蛍と一緒に入って作法なんかをざっと教わったが、野郎二人でもスペースが余るくらいの湯船だ。五メートルくらいの幅はゆうにある。温度も、そう熱くはなく、俺としては掃除が大変そうだとも思う。ちなみに便所掃除は楽だ。一人用だし、部屋に一つなので俺以外はほとんど使わないので、綺麗に使えばいいだけのことである。
まあたぶん、個別の風呂をつけなかった代わりに、こうした贅沢な作りにしたのだろう。女連中が三人で入っているのを見かけたこともあるが、充分な広さだ。
肘をふちに乗せてのんびりしていると、誰かが脱衣所に入ってきた。そいつは遠慮せずに風呂の扉を開いたので、俺も顔を向ける。
「ちっ、なんだお前が使ってんのか」
「舌打ちするなクソ野郎。……野郎ではないか。乾燥機が止まるまで俺が使っているが?」
ふん、と鼻を鳴らした金代が扉を閉める。撤退が早いなと思っていたら、あろうことか服を脱ぎ、そのまま金代は入ってきた。
「おい、背中を流すサーヴィスがあるとは聞いていないが」
「うるせえ、休養日に充分眠ったあとの風呂なんだ、出るまで待てるか。文句あるか? 女の躰を無料で見れるんだ、それでいいじゃないか」
「そう言われればそうだな、文句はない。もっとも、そういう気分ではないのが残念だ」
「気分じゃない、ねえ」
シャワーを浴びながら、ちらりと一瞥が投げられる。
「雨が降って、昔でも思い出したのか」
「あんたはどうなんだ」
「三年もありゃ、身を退くには十分だ。悪夢で目が覚めるのだって、一週間に一度くらいなもんだよ」
「そうか」
「いつ気づいた?」
「この町にいる大人の大半が、軍人崩れだということか? 広義では連中だって孤児だ、引き取ってくれる場があるのは、ありがたい話だろう。事前情報はなかったが、染みついたものはなかなか抜けないし、そういう大人はよく見て来たからすぐわかった。――金代がそうであることもな」
「可愛くないガキだ。私としては、似た匂いを感じてはいたが、お前みたいなガキが軍人崩れだってのが、納得いかなかったね」
「だったらカゴメはどうなんだ」
「ありゃわかりやすいタイプだ。それ以外に生き方を知らないと、偽ることもしない。お前みたいに隠そうともしないのもな」
「隠す? それはなんの冗談だ、金代。実際にわかったんだから、俺は隠していない。わざわざ教えることはないと、そう思っていただけだ」
「教えたって、そう問題にはならんだろ」
「そういう確信が得られるまでは、教えるべきではないとの判断だ。というか、あの女狐は何も話していないんだな」
「穂乃花のことか? 余計なことを話すような女じゃねえよ、あいつは」
「……そうだろうな」
「それで? どんな悪夢だった?」
「ギニア撤退戦、○○六二号」
「――お前」
「しんがりの配属だ。同僚が俺を残して、先に逝った。ドジをずっと隠して、気づいた時にはもう死に体だ。何もしてやれることはない」
「あの作戦の生き残りだったのか……」
「最終撤退人数は三割――だが、実際にはもっと少ない。敗戦の〝やり方〟を、俺はあの作戦で学んだ。もっとも、表向きは負けていないらしいがな」
しばらく、無言が続いた。会話が再会したのは、洗い終えた金代が俺の対面に胸を浮かせながら湯船につかってからだ。
「私らは既に引退した身だ。〝トラブル〟があっても、もう対応できるだけの気力も、力もない。教員になったのは私だけだが……新しい生活に馴染んでる」
「いいことだと、素直に思う。俺にはできんことだ……」
「まだわからんだろ」
「いや、そもそも捨てられないんだ。捨ててはいけないものだ。どれほど呑気に生活をしようとも、どれほど戦場から離れようとも、俺は、俺であることをやめてはいかん」
「……何をそこまで、お前を追い詰める?」
「生き残った俺がしてやれることは、もうない。きっとお前たちだとて、それを、忘れているわけじゃないんだろう。だが俺はまだ、死ぬ許可をもらっていない……」
「なんだろうな。不知火、お前はどこか、私の知っている〝軍人〟とは違うようだ」
「もしも、カゴメを引き合いに出すなら、一緒にするなと言うところだ。それに、金代は順調に出世して、椅子に座る仕事も多くなったんだろう?」
「まあな」
「俺はそういうものに無縁だ」
「長かったんだろう?」
「それでも、だ。あの女狐が言ってないようなら教えてやる。――俺は〝忠犬〟だ」
「――、まさか、あの組織の? 米軍に間借りしていた、あそこの部隊?」
「そうだ」
「仕事を横からかっさらって、成果はいらんと捨てる、あの忠犬か……」
「だから厳密には、軍人じゃない。わかりにくいのも、それが原因だろう。それに俺は、一般兵の中でも、軍には長かった。死に触れ過ぎた。近くも、遠くも、隣り合わせでずっといたんだ」
「……だったら、私がとやかく言うのも筋違いってか」
「いや? 金代としての言葉なら、聞く耳は持っている。それが軍人としてではなければな」
「お前、風祭を嫌ってんのは、そこらだろ」
「だから言っただろう、俺は嫌っていない」
「そうは見えないと言っているんだ。まったく……航空兵が嫌いってわけでもないんだろ?」
「必要な部署だ、兵科そのものを嫌ってはいない。それがエリート集団でもな。ただあの女に関しては、やはり、どうもな――」
「曖昧に誤魔化さず、言う気はないのか?」
「あんたの口が堅いかどうか試すために?」
「それもいいさ」
「ふん。……昔からああいう類の人間はよく見ていた。そして、誰も戻ってきていない。俺は知った女には死んで欲しくないんでな」
「……――そうなのか?」
「それだけで十分だろう。もっとも、あれが素直に言うことを聞くやつじゃないことも承知の上だ」
「だからイラつく、か」
あるいは嫉妬だ、とは思うのだが、それを口にするのは癪だったので、俺は頷きもせず、お湯を顔にかけて間を作った。
「平時じゃない時のお前は、怖いんだろうな」
「俺が? さあな、そんなことを言われたことはない。犬の中で暮らしていれば、笑っている方が怖いものだ。うちのトップはその典型的な例だな」
「私はあまり詳しくはないけど、そうなのか」
「最初は憧れだった。一度だけ現場に連れて行ってもらって、それが畏怖に変わる。運も実力も桁違い、それこそ化け物と呼べるほどの人物だ。逃げ出したくなるような現場を、この程度かと笑いながら片づける」
「今でも怖いか?」
「いや、しばらくして畏怖が、誇りに変わった。同じ部隊にいる。俺は彼女の部下だ、つまり片腕の一人として働けた。一部を担えている、ただそれだけのことが誇りだ」
そうだ。
だから――俺は今もまだ、犬のままでいられる。
「そりゃ、この人について行けば――ってのとは、違うのか」
「違う。むしろ逆だ、この人に見捨てられないためにはどうすべきか……この人に使われるために、何を得るべきか、そういうことを考えた。それを伝えれば、あの人はこう言う。――くだらんことに時間を費やすくらいなら、美味い酒でも探してくれ、とな」
「はは、なるほど、お前がどれだけ誇りに思っているのかは、なんとなくわかるよ。随分と楽しげに言うじゃないか。妬むねえ」
「どうだかな。まあどちらにせよ、過去のことだ。今の俺は作戦行動で来てるわけじゃない」
「そりゃ風祭だって同じだ」
「だろうな」
「ふん、まあ馴染んでいるようで何よりだ。聞いている限り、文句が多いやつもいるが」
「そうか?」
「口が悪いからな、お前は。口汚いわけじゃないから、まだマシだ」
「こっちの連中が上品なだけだろう。それに、元軍人なんて言ってはいるが、金代はともかく、ほかの連中は元自衛官が正しい。戦場に出ず退役する者も多いだろう、こっちじゃ」
「まあな。いや米軍だってそうだろう、それほど現場が多いわけでもない」
「それでもやり方は違うし、最前線はいつだって海兵隊だ。俺はそういう経歴だからな、そういうものだと思っている。足を洗ったお前がどうだと言っているわけじゃない」
「差を感じるか?」
「そうだな……素直に、羨ましいとは思う。軍人であっても、そうでなくとも、戦場なんてものは身近に感じないのが一番だ。慣れるものじゃない、触れるものでもない」
「……、思っていたよりも重症だな。言っておくが、お前の言葉には同意することも、否定することも私にはできねえよ。ベッドの上で慰めて欲しい時は言え」
「そんな理由で抱きたいとは思わないから安心しろ。それより、休息日らしいが、こんな平日に学校を休めるものか?」
「たまには有給だって、使ってやらなきゃな」
「昨日飲み過ぎたのなら、ちゃんと水を飲めと忠告しておくが?」
「うるせえよ。だいたい、酒の理由だってお前や風祭のことなんだ。あんまり私の頭を痛くするな」
「それほど問題は起こしていない。問題だと思うなら、あの狸に報告しろ」
「狸?」
「校長のことだ。本人に言ったら大笑いしていたが」
「お前……怖いもの知らずか?」
「そんなことはない」
何しろ、うちの上官連中は怖いからな。
「ここにいる連中の大半は、校長には感謝してるんだ。変なことを言うなよ」
「わかっている。俺に同意してくれるのは、せいぜい桜庭くらいなものだろうしな」
「あいつが?」
「――忘れてくれ、口が滑った。知らないならそれでいいし、探るようなものじゃない」
「まあいいが……私の方が付き合いは長い。そういうふうには見えないな」
「そんなものだ」
魔術師なんて呼ばれている連中で、前線に出てこないやつは、大抵がそうだ。
「あんたはどうなんだ?」
「なにがだ」
「前崎に感謝をしているのか」
「もちろんだ。私みたいなのを拾ってくれたんだ、感謝は尽きない」
「……」
「なんだ」
「生徒にとって、教員は一人だ。相手を覚えることは容易く、知ることは楽だ。印象も強い――が、教員にとって生徒は複数だ。一人だけを見ているわけじゃない。すべてを記憶しておくことは難しく、年度が替われば次の生徒を新しく覚えていかなくてはならない」
「……? それが、どうかしたか」
「それでも、そうだとしても、覚える努力、覚えておく努力をあんたは惜しんでいない。よくやっているよ金代、そういう態度はわからなくても伝わるものだ」
「――」
さてと、俺は風呂を上がる。長湯はあまり得意ではないし、そろそろ乾燥機も止まるだろう。
「不知火」
「なんだ」
「……ありがとう」
立ち止まり、肩越しに振り向けば、どう表情を作っていいのかわからない顔で、泣きそうとも、苦笑とも思える表情をしていたので、俺は小さく肩を竦めた。
「あんたはもっと、自分を褒めてやるべきだ。充分にやってるよ」
軍人というのは、誰かに褒められなければやってられない。逆に言えば、自身を褒めるなんてことは絶対にしない。足を洗ったところで、その性質が治るとはそう思えないのだ。だが、金代には褒めてくれる相手なんていやしないだろう。
ま、素直に受け取るとは思わなかったんだがな。
「ひゃいっ⁉」
「ん? どうした天来、変な顔をして」
「ああああのっ、べつに盗み聞きとかじゃなくてですねっ、そのっ、乾燥機が止まったから――」
「そんなことはわかっているし疑っていない。なんだどうした、顔が赤くなっているじゃないか。熱か? 俺と一緒に雨に当たったか?」
「あのその服をっ!」
「服は乾燥機の中だろう。俺は裸を見られたくらいで文句を言うような、尻の穴が小さい男じゃない――いや待て、そういえば自分で確認したことはなかったな。どれ、天来、ちょっと確認を」
「ひつれいしまひゅっ!」
勢いよく躰を、というかようやく目を逸らした天来は、素早く脱衣所から出て行った。少しからかい過ぎたか……。
まあいい。
からかえたということは、俺も平時に戻りつつある、ということだ。
すまんな、俺も辛いんだ天来。甘んじて受けてくれ。