05/22/07:00――最初の一人
地面に叩きつける雨音は、ただそれだけで木木を揺らし、うるさいと感じるほどであった。それなのにも関わらず、俺の耳は敏感に銃声を聞き分ける。味方が撃ったものと、敵が撃ったもの、その差ですらわかるようだった。
感覚が鋭敏化している。
喉の奥に詰まった何かが、飛び出しそうな心臓を抑え込んでくれているようだ。クソッタレと毒づく暇すりゃない。
「――悪いなあ! ルイにも芋を引かせちまった!」
「撤退戦のしんがりだって、誰かがやらなくちゃいけないだろう?」
「そういうことじゃ、ねえよ」
木を背にして、相手のばらまく弾を防ぎながら、隙を見てこちらもアサルトライフルで狙っていく。いや、狙うというより時間稼ぎだ。撤退の時間を作るのが俺と、ホーナーの仕事だから。
どれほどの時間そうしていたのかは、わからない。そんな余裕もない。まだ日中なのに、周囲を暗くするほどの厚い雲から、それこそ流れ落ちるような雨が、時間というものを俺たちから奪っている。
「悪い、ルイ」
「なんだ! もう時間か⁉」
「――悪い」
「……ホーナー?」
遅く。
俺は、横を見て、気づいた。
「おい、お前……!」
この雨の中で、腰から下が、真っ赤に染まっている――!
「いつだ⁉」
「だいぶ前だ、ドジった俺のミスだ。悪いなルイ、……悪い」
「謝るなクソッタレが!」
傷は浅いのか? どれだけの時間、もっていた? 弾丸は抜けているのか?
そんな――疑問ばかりが、渦巻く。
「撤退しろ、ルイ」
「――、ふざけるな! 貴様を置いて、俺だけか⁉ 違うだろ! 戻るなら一緒にだ!」
「うるせえ黙って聞け!」
わかっている。
怒鳴るな、わかっているんだ――お前が。
「最後くらい、俺に任せろ、ルイ」
「くっ……」
「もうすぐなんだ。ルイ、前に話しただろ……戦争もない、のんびりできる場所ってのが、もう見えるんだ……俺はそっちに行ける」
「お前だけ先に行くのか! 仲間はどうする、俺は、どんなツラでケイナに逢えばいい⁉」
「隊長、をつけろよ、ばーか。……ルイ、腰に二つ、ぶらがってるだろ。股間のじゃない、間違えるな」
ある。残っている、手榴弾が二つ、ある。
「訓練通りだ、間違えるな……振り返らず、行け」
「――っ」
「時間差、……二つ、投げろ。投げて、行け」
一つ目を投げる。雨の中の爆音、そして時間差で二つ目を。
奥歯を噛みしめて、悔しさを握りしめて、投げる。
「――行け! 行けルイ! 生きて帰れ!」
「クソッ、――クソッ! 覚えてろクソッタレ! 覚えてろ!」
クソッ、俺は。
俺は――。
「――っ⁉」
ぎりっと、自分で噛みしめた奥歯の音で、俺は現実に飛び起きた。
「は、――はっはっはっ、は……」
いつものことだ。うなされて起きない日の方が俺にとっては珍しい。だが、これほどまで鮮明に昔を思い出すなんてのは、それ以上に珍しかった。
汗で張り付いたシャツを脱いだ俺は、呼吸が落ち着くまでは掌を見た。わかっている、幻視だ。血に濡れているのは、昔からそうで、今に始まったことじゃない。落ち着けば消える。
あれが、最初だった。
ホーナーのクソッタレが、最初に俺の隣で死んだ仲間だ。
しばらくして、手がきちんと見えるようになった俺は、ベッドから出て着替えを済ます――そこで。
遅く。
今日が、雨であることに気づいた。
こちらに来て雨が降った日は、まだなかったか。おそらくバランサーが機能しないためボードには乗れなくなるだろう――と、そこで、これまた遅く、隣の部屋の気配がなくなっていることに気づき、時計に目をやった。
朝食の時間だ。
さすがに遅れるわけにはいかないと、ぼんやりとした頭で下にまで降りて、軽い挨拶をしてから席につく――が、出されたお茶を飲んでも、味がしなかった。食欲もあまりないが、それはいつものことだ。
そう、いつもそうだ。飯を食うことに痛みを伴う。生きている証拠だと普段なら笑えるが、どうしたって粗食に慣れると〝無理〟をしなくては、食べられなくなる。
「――おい、聞こえてんのか、ルイ」
「ん……? どうした、蛍」
「なんかぴりぴりしてるし、聞こえてなかったのかよ……なんかあったか?」
「ああ」
そういえば、鏡を見てこなかった。もしかしたら〝平時〟では見せない顔になっていたかもしれない。
「悪いな、体調があまり良くないようだ。食事も途中だが、天来、部屋に戻る。なあに、しばらくすれば良くなるから心配はいらん」
「はいはい、ゆっくり休みなさいね。こっちに越してきて、そろそろ疲れが溜まるタイミングですからねえ」
ふん、女狐にしては良いフォローだ、悪くはない。
ひらひらと手を振って、俺は部屋へ戻った。
――妙に、雨の音が耳に入ってくる。
クローゼットに押し込んでいたケースのうち、小さい方を取り出して開ける。がらくたが詰まったその中から、表面のガラスが砕けて動いていない腕時計を取り出し、ベッドに座る。
「よう、ホーナー……」
あれから。
撤退した俺を、部隊長であったケイナという女は、殴りもしなかった。それは上官としては、厳しすぎる対応だ。殴ってくれればいい。ケイナの気が晴れるなら、余計にそうして欲しかった。俺は殴られたことが免罪符にもなる。
だが、殴られなかったのだ。
俺の悔しさも、悲しさも、翌日の空虚も、全て自分で受け止めろと、そう態度に示された。もちろんそれは、上官であるケイナも、部隊の仲間も同じだ。隊長は、本来、隊長だけが背負うべき重荷を、俺たちにも負わせた。悪いことじゃないし、文句もない。そういう隊長だからこそ、俺たちはついて行ったのだ。
立ち直ってもいないツラで、上を向けと俺たちに言ったのは、翌日だ。下を見るな、上を見ろ。足を上げて前へ出ろ。それが生きるということだ――そんなツラで言うなと、俺たちは聞こえないように笑いあった。
隊長にこれ以上の負担はかけられないと、笑いながら、寂しさや悔しさを飲み込んだ。
現場なんて、誰だってそうだ。そうやってやらなけりゃ、前に進めない。次に同じことは絶対にしないと固く誓って、そして、――次があったら、俺が残ると、誰もが強く思った。
馬鹿ばかりだ。
だから――俺たちは、仲間を、裏切らない。
それでもしばらくすれば、酒の席で笑いながら死んだ仲間の悪口が出るようになる。相当に酷いことも言ったが、皆わかっていた。それが〝逢いたい〟って言葉の、裏返しなんだってことは。それが叶わないと知っているから、憎まれ口を叩いて、笑うんだ。
言い合えるやつらがいないなら、こうやって、形見を片手に思い出す。
戦争もない平和な暮らしって言うけどな、ホーナー……何もかも忘れて、呑気に生活だなんて、そっちにしかないよ。なあ、ホーナー。
返事もないのに、同じ疑問を繰り返し問う。
――俺は。
「……やれやれ、確かに疲れているのかもしれないな」
戦場が恋しくなることなんてないのに――。
こんな生活をしていていいのかと、自分を追い詰めたくなる。
形見をしまった俺は、吐息を落として部屋を出た。リビングで天来に一声かけ、そのまま外へ出た。
これも、センチメンタルというやつなのだろうか。
俺は最初、転属を断ろうかと思っていた。軍ではなく組織に引き抜かれることになった事実を前にして、まだ軍でやるべきことがあるはずだと、強く思った。何よりも――伝えきれないものが、残したものが、間違いなくあったのだ。
それでも行けと、仲間たちは言った。笑いながら、出世じゃないかと肩を叩いた。そこに一切のマイナス感情が見えなかったから、だったらと俺は組織へ行って――彼女に逢った。
上官に逢って、言われた。
「軍の仕事よりキツイから安心しろ」
実際、きつかった。
現場といっても、それこそ戦乱の真っただ中、なんて仕事はほとんど回されなかったが、何より責任の所在、成功と失敗の境界線が明確になったように思う。
一度の失敗があっても、それをリカバリーする手段があった。手伝ってくれる仲間がいた。だが――それ以上に、辛い現場だ。何より、隣の仲間ではないのだ。見えない、戦っているはずの仲間を守るために、俺の仕事があった。
一度の失敗で三人が死ぬ。ただそれだけで、引き金に添えた指は重くなる。場合によっては俺の命が危うくなる――しかも、最悪の状況になるのだ。つまり、最初から失敗なんてものは許されていない。
なるほど、確かに、前線で戦っている方がわかりやすく、こっちの方がよっぽど過酷だ。
仕事のない時は楽なものだった。そもそも、訓練を強要されないし、ぼけっと眠っていたところで文句もない。だが、それで仕事を失敗するようでは話にならないので、日ごろからの訓練は欠かさずやっていた。
俺が所属していたのは、組織の中でも単独行動が多い、独立した精鋭部隊、通称を忠犬。上官は六○一、そして俺は、四桁の六三○七を受け取っていた。
犬はそもそも、数が少なかった。選りすぐりなのかどうかは、それこそ上官くらいしか知らなかっただろうし、俺は単なる駒の一人でしかなく、よくわからなかったが、宿舎で休める日が三日あったとしても、五人くらい揃えば多い方だった。それでも最低、五十人はいただろう。――いや、五十人しかいなかったのか。
日本茶が好きになったのも、その頃だ。日本人もそれなりにいた。今はどうしているか知らないが、まあ、死んではいないだろう。
そう、犬は死なない。
それが俺を安心させたのは事実だ。安全な仕事を与えられたからじゃない――過酷な状況下であっても、生還するのが犬だから。
組織が解体されるに当たって、上官は言った。
惜しいと、そう言った。
野に放つのは惜しい。ほかの組織に取られるのももったいない。だから。
「――だから貴様は、死ぬ時まで犬だ」
そう、言われた。
――嬉しかった。
どれほど呑気な生活をしようとも、俺はずっと犬のままだ。その楔が躰の奥深くに打ち込まれ、俺は。
許されることが、なくなった。
死ぬことを、許されなかった。あいつらの元へ行くのは、まだ早いと言外に伝えられ、そうすべきだと思ったのだ。
だから、日常は呑気に過ごそうと、そう思った。名目上は退役で、荒事なんて御免だ。本音を言えば、二度と戦場になんか戻りたくない。
けれど、たぶん。
俺は心底から〝楽しむ〟ことは、できないんだろう。何しろ、生き続けなくてはという妄執に憑りつかれ、死ねないような人間だから。
「――さん! お兄さん!」
「ん?」
いつの間にか町の方まで歩いていたらしい。傘の中からこちらを呼ぶ人物に視線を向ければ、すずが手を振っていた。
「お兄さん!」
「どうした」
「どうした、はあたしの台詞っスよ! 傘も合羽もなしに、雨の中何してんすか!」
「ああ……」
さて、本当のことを言っても仕方がないので。
「合羽の準備ができていないと、今朝気づいたんだが、用意しておいた傘が新品で、これを使うのは勿体ないと――」
「ああもういいっス! なんでもいいから、とりあえずうち来てください!」
おい、最後まで聞け。オチを説明できなくなったじゃないか。
引きずられるようにして店内に入った俺は、真っ先に姿見の中の自分を認識して、少なくとも表情が硬くなっていないのだけは確認する。それから店内を見渡していれば、慌ただしい足音と共に、タオルを持ったすずが戻ってきた。
「はいこれ、使ってください。さすがに替えの服はないんで」
「男が置いていった衣類でも俺は構わんが?」
「そんな人いないっスよもう! なんかあったかいもんでも淹れてくるっス」
「それほど冷えてはいないが、まあ、いただこうか」
「珈琲、紅茶、牛乳どれがいいすか?」
「――珈琲を頼む」
「諒解です」
タオルで頭を軽くふいて、滴る水がなくなってからは、肩にかけた。思ったよりも長い間、雨に打たれていたためか、スラックスも随分濡れている。もういっそ、全部脱いで絞った方が早そうだが、さすがにここでは迷惑にもなろう。
既に俺は幾分か落ち着きを取り戻している。いや、落ち着きというよりも、割り切るのでも、飲み込むのでもなく、過去と現実のバランスを保てている、ということだ。
「お待たせです」
「すまんな、ありがとう」
受け取り、熱い珈琲を一口入れれば、なかなか上品な味だ。インスタントだったとしても、ドリップ式のものだろうと推測できる。
「――どうしました?」
「ん、なにがだ?」
「いや、なんか苦笑みたいな顔になってたんで」
「昔は泥水のような珈琲でも、文句の一つ言わずに飲んだものだと、そんなことを思い出していた。知り合いに淹れるのが上手い女がいてな、そいつがいる時には俺も楽をした。つまり、美味い珈琲をありがとうと、そう受け取ってくれ」
「はあ……まあ、そうすか」
「どうしたすず、商売人の顔になっていないぞ」
「あたしをどー見てんのか気になりますけど、いっつも商売のことばっか考えてるわけじゃないんですよ、あたし」
「差支えなければ、どうして商売をしているのか、聞いてもいいか?」
「あー、……あんまし、面白い話でもないっスよ。なんというか――この町の仕組みっていうか、そういうの、お兄さんは知ってるんすか?」
「孤児の集まる町、だろう。あの狸……校長の前崎が随分と出資している。確か、高校の学費免除、生活費としての一定額の支給、加えて大学へ進学するようなら、その一部負担もしていたか」
「よく知ってるっスね」
「これでも今の俺は、この町の住人だから当然だ」
「え、でもお姉さんは知らなかったっスよ」
「あんな間抜けと一緒にするな。椅子に座っていれば情報が入ってくると思ってるから、あんなに尻が光ってるんだよ」
「あのう、だいぶ前から気づいてて、沙樹ちゃんも言ってたけど、お兄さんってお姉さんのこと嫌いなんですか?」
「いや? あいつが俺のことを嫌いなんだろうが、俺は大して嫌っていないが?」
「嘘だ……すげー当たり強いじゃないすか。あたしならもう涙目っスよ。会話聞いてると、お姉さんがなんか可哀想ですって」
「もう勘弁してくれ、と本人が言って来てはいないな」
「それもなんか凄いというか、お姉さんの忍耐力なのかもしんないですけどね。えーっと、そうだ、あたしの商売の話でしたね」
「そうだ」
「まあなんていうか、試してみたかったんすよ。あたしにできるかどうか」
「失敗した時のリスクも込みでか?」
「そうっス。もちろんほかにも、ボードが好きになれたってのも理由ですし、そういうのはいろいろあるんですけどね。昔のあたしは、なんかこう、前向きに何かやろうってことを思えないような子だったんすけど、ボード導入時に、もう卒業していない先輩に、自分を変えるつもりでやってみたらどうだって、誘ってもらったんすよ」
「最初から一人でやったわけではないのか」
「そうです。その先輩とちょっとやらせてもらって、それを引き継いでって感じですかね。でもあたし、こんなにボードが好きになるなんて思わなかったっスよ。整備なんかも最低限覚えるってくらいだったのに、今じゃ分解整備なんかの資格も取っちゃいましたし」
「ほう、全メーカー共通の整備資格か?」
「もちろんっスよ! もうここまで行ったら、オリジナルで作ってやりたいって意気込んでるっス。だから、まあ、お兄さんの乗りこなしには、ちょっとショックでした」
「ショックを受けるようなことはないだろう」
「いやあ、確かにスペック的には〝可能〟って領域なんすけど、あたしは思いつきもしなかったんで」
「思いついたところで実践可能かどうかは別問題だが、技術屋にとっての〝発想〟は必要な要素だからな。時にそれを見失うからこそ、スランプに陥る」
「そこんとこっスね」
「だがもう三日……いや、四日になるのか。俺はよく知らないが、誰かできるようになったか?」
「まだっスよ。みんな転んでるところです」
「だろうな。俺が最初にやったのがバンクだが、あの動きができるようになるまで、一日一時間で、二十日くらいはかかった。バランサーがなかった頃だ、転んだのはお前らの比ではないだろう」
「安全装置はあったんすよね?」
「事故っても死なない、という程度のものだったがな。それなりに鍛えていたから骨折はなかったが、打撲はそれなりにあった。そう簡単に乗ってもらっては困る」
とはいえ、笑顔でボードを五つ揃えたうちの上官は、笑いながら初日で乗って、俺くらいの動きは平然とやってのけたが、あれは例外だろう。
「バンクの理屈はわかったか?」
「ええ。バンクに限らず、回転動作に必要なのは、まずボードの機能が〝地面〟を認識することですね。つまり重力、あるいは加重そのものを、ボードを横に投げた状態でかけ続ける。お兄さんがバンクの際、しゃがんでいた姿勢から躰を起こしていたのは、その動きで、足元に力を入れて、ボードに誤認させていた――ってことっスよね?」
「正解だ。あれが基本動作だな」
「なんかこう、コツとか、教えてくれませんか?」
「コツか……どうだろうな、感覚的なものにはなる。まず体幹の強化は必須だ。平均台を目隠し移動ができるくらいが目安か?」
「え、お兄さんできるんすか」
「まあ、できるだろうな」
銃撃戦なんて、それができなくては必中も難しいことを、俺はよく知っている。これは組織に引き抜かれてから、狙撃メインの仕事をやる前に、徹底してやった。もちろん最初から、ある程度はできていたが。
「バランサーがあるから、これは必要かどうかわからんが――少なくとも、俺の場合はボードで空気の〝面〟を捉えることは意識した」
「面?」
「ボードを空中に叩きつけて、そこを足場にするような感覚だ。なんにせよ、力の動きだけは常に意識した方がいい。俺の場合は自然と力学を脳で計算する癖が、昔からできていたから、そうなのかもしれんが――何しろ、バンク中であっても、スクリューでも、ボードは常に」
そうだ。
「常に、前進を続けているのだからな」
あれは前に進む乗り物だ。いつまでも、止まってはいない。
――それでいい。
そうやって認めてくれる上官は、傍にいないのだ。甘えだったことを自覚できるのは、こうやって一人になった時、か。まったく情けない。
止まっているのは、俺だけか。
「……なんか、今日のお兄さんは、変ですねえ」
「ん、ああ、大したことじゃない。考え事をしていただけだ」
「そうすか? なんていうか――こう言っちゃうとあれですけど」
すずはどこか、困ったような顔をして。
「今すぐどっかに消えちゃいそうな雰囲気があるっスよ」
「はは、言いえて妙だな。安心しろ、その時は屍体になってるし、そんなことはありえない」
張り詰めて見えないだけ、だいぶマシにはなった。
「まあなんていうか、あたしにとっては予行練習を兼ねてって感じなんすよ、この店は。卒業してすぐ、手に職をっていうの、難しいじゃないすか」
「――まあ、そうだな」
雰囲気を察して、話を戻したあたりの好意を、苦笑しながら受け取っておく。
「会社勤めならばともかくも、個人営業ならば俺もやめておけと言うだろうな」
「お兄さんはどうなんすか?」
「仕事の話か? アメリカにいた頃、死ぬほど働いたから、それなりの稼ぎがある。今後二十年くらいは、無駄遣いせず、のんびり暮らせるから、お前よりも考える時間は多い」
「子供ができる仕事なんて、そう多くはないっスよね?」
「それを言うなら、お前の仕事だとてそうだろう。なんにせよ、結果を出せばあとが繋がるものだ」
「そりゃそうですけど」
「だから学業よりもこっちを優先させることもあるのか。いや待て、俺を引き留めなかったら、学校に行くつもりだったんじゃないのか?」
「あー……ま、いいじゃないすか」
「わかった、金代には俺からフォローしておこう」
「えーっと、ちなみになんて?」
「すずは俺と店舗デートだったから、学業なんて受けている暇なんぞなかった、と」
「それマジでやめてください! 金代先生、あれで怖いんですからね!」
「冗談だ、真に受けるな。ところで、商売の話をしてもいいか?」
「へ?」
「察しが悪いやつだな……津乗のためにおやつを注文してやった時もそうだったが、あれか、一年の差というのは、そういうことなのか?」
「おやつ……――あ! 沙樹ちゃんが言ってた! お兄さん、二十個ばかりドーナツ買って、お土産だとか言ったんでしょ!」
「ははは、聞いていたか」
「笑いごとじゃないですよ……あたしが愚痴を聞かされたんですからね。可愛かったんでいいですけど」
「初見の時にドーナツ屋かと思ったからな、その詫びも込めて、なかなか良いドーナツを買ってやったのに、無言で怒りだしてな。どうしたと問えば、十個も一気に食べて、夕食はいらないとふて寝をしていたらしい。妙な視線をほかの連中から投げられたが、しかし、これは俺が悪いのか……?」
「お兄さん……」
いや、だが怒ることはないだろう。料金を請求したわけではないし、残ったものは寮生で食べた。美味しいと評判で、天来からは店の名前まで聞かれたぞ。
「ともかくだ、俺のボードを見繕ってくれと言っているんだ」
「あー、そういうことすか。そう言ってくださいよ」
「なんだ、喜びが足らんぞ」
「強要しないでください! なんか喜びを通り越して、あーもうって感じです」
「……疲れているのか?」
「お兄さんほどじゃないですけどね! ――で、どんなのにします?」
「そうだな。まず外装だが、芹沢のタイプで幅が広いものにしてくれ。その方が空気を面で捉えやすい」
「――あ、そうか。捉える空気ってのは、いわゆる〝抵抗〟なんすね?」
「似たようなものだ。さて、すずは芹沢への直通ラインは持っているか?」
「え、ああ、んっと、代理店しかないですけど」
「そうか。だったら、芹沢企業開発課が野雨にあるんだが、そちらへの連絡だ。まずはメールでいい、宛先くらいはわかるだろう?」
「ちょっと待ってください」
カウンターの中に移動したすずが、常時起動しているだろうノート型端末の一度ずらし、ぱたぱたとキーを叩く。
「あ、ページあるんで、問い合わせに送れば問題なさそうですけど」
「まず頭に、二村ヒトシへ送るよう書いておけ。それから俺が……と、そうか。今から綴りを言うから書け」
「はい」
「Ruy.Shryneinが、フライングボードを求めていると」
「それはいいんですけど、これなんて読むんですか?」
「ルイ・シリャーネイと言うことが多かったな。呼び方なんぞ、気にしたこともない。俺も気にしてなかった」
「そんなもんすか」
「そんなものだ。で、要求は次の通りだ。ベースはSH505型」
「一応、現行モデルっスね」
「俺が以前使っていたのと似ているからな。まず、バランサーの反応速度を三倍にしろと書け」
「三倍⁉ 一センチの揺れが三ミリ幅になるんすよ⁉」
「いいから書け。減速域の振れ幅を三パーセント増加、最速から停止までの時間を最低でも二割は削りたい。その上で、最高速の到達時間を三パーセント短くしろ」
「うわ、あたしならそんな無茶な注文聞いたら、他所へ行けって言いますよ。逆のことを両立しろって言ってるようなもんじゃないすか」
「悪いが俺は技術屋じゃないんでな。で、最後にここの店舗と、責任者であるお前の名前と、普段使っている代理店の名前も記しておけ。連絡先もな」
「はい。注文はこれだけなんすか?」
「――いや、ヒトシの性格だと、必ず電話か何かの連絡があるはずだ。悪いが俺は今日、携帯端末を部屋に置いてきた。連絡先はまだ教えないから、お前が対応して、まとめておけ。ヒトシは技術屋だ、商売人じゃない。面白い話も聞けるだろう」
「はあ、連絡があるんすか」
「あるな、間違いない。何故なら俺の要求は、単純じゃないからだ。バランサーを三倍速にするだけでも、ほかの機能に障害が出て、問題が起きる。それをどうするかを考えるのが技術屋だが、そのためにやっていいことを決めるのは俺だ。つまり、確認が必要になる」
「なんとなくは、わかりますけど……いや、わかったっス。通らなかったら、またそう言うっスよ」
「ああ、任せた。すまんな、長居をしたようだ。俺は戻ろう」
「風邪ひかないようにしてくださいね、お兄さん。あたしが気にするんで!」
「わかっている。寮に戻ったら、風呂にでも入ろう」
おかげで随分と落ち着いた。もう問題はないはずだ。