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外伝・想い願い希い  作者: 雨天紅雨
火ノ章
5/31

05/22/07:00――最初の一人

 地面に叩きつける雨音は、ただそれだけで木木を揺らし、うるさいと感じるほどであった。それなのにも関わらず、俺の耳は敏感に銃声を聞き分ける。味方が撃ったものと、敵が撃ったもの、その差ですらわかるようだった。

 感覚が鋭敏化している。

 喉の奥に詰まった何かが、飛び出しそうな心臓を抑え込んでくれているようだ。クソッタレと毒づく暇すりゃない。

「――悪いなあ! ルイにも芋を引かせちまった!」

「撤退戦のしんがりだって、誰かがやらなくちゃいけないだろう?」

「そういうことじゃ、ねえよ」

 木を背にして、相手のばらまく弾を防ぎながら、隙を見てこちらもアサルトライフルで狙っていく。いや、狙うというより時間稼ぎだ。撤退の時間を作るのが俺と、ホーナーの仕事だから。

 どれほどの時間そうしていたのかは、わからない。そんな余裕もない。まだ日中なのに、周囲を暗くするほどの厚い雲から、それこそ流れ落ちるような雨が、時間というものを俺たちから奪っている。

「悪い、ルイ」

「なんだ! もう時間か⁉」

「――悪い」

「……ホーナー?」

 遅く。

 俺は、横を見て、気づいた。

「おい、お前……!」

 この雨の中で、腰から下が、真っ赤に染まっている――!

「いつだ⁉」

「だいぶ前だ、ドジった俺のミスだ。悪いなルイ、……悪い」

「謝るなクソッタレが!」

 傷は浅いのか? どれだけの時間、もっていた? 弾丸は抜けているのか?

 そんな――疑問ばかりが、渦巻く。

「撤退しろ、ルイ」

「――、ふざけるな! 貴様を置いて、俺だけか⁉ 違うだろ! 戻るなら一緒にだ!」

「うるせえ黙って聞け!」

 わかっている。

 怒鳴るな、わかっているんだ――お前が。

「最後くらい、俺に任せろ、ルイ」

「くっ……」

「もうすぐなんだ。ルイ、前に話しただろ……戦争もない、のんびりできる場所ってのが、もう見えるんだ……俺はそっちに行ける」

「お前だけ先に行くのか! 仲間はどうする、俺は、どんなツラでケイナに逢えばいい⁉」

「隊長、をつけろよ、ばーか。……ルイ、腰に二つ、ぶらがってるだろ。股間のじゃない、間違えるな」

 ある。残っている、手榴弾が二つ、ある。

「訓練通りだ、間違えるな……振り返らず、行け」

「――っ」

「時間差、……二つ、投げろ。投げて、行け」

 一つ目を投げる。雨の中の爆音、そして時間差で二つ目を。

 奥歯を噛みしめて、悔しさを握りしめて、投げる。

「――行け! 行けルイ! 生きて帰れ!」

「クソッ、――クソッ! 覚えてろクソッタレ! 覚えてろ!」

 クソッ、俺は。

 俺は――。


「――っ⁉」


 ぎりっと、自分で噛みしめた奥歯の音で、俺は現実に飛び起きた。

「は、――はっはっはっ、は……」

 いつものことだ。うなされて起きない日の方が俺にとっては珍しい。だが、これほどまで鮮明に昔を思い出すなんてのは、それ以上に珍しかった。

 汗で張り付いたシャツを脱いだ俺は、呼吸が落ち着くまでは掌を見た。わかっている、幻視だ。血に濡れているのは、昔からそうで、今に始まったことじゃない。落ち着けば消える。

 あれが、最初だった。

 ホーナーのクソッタレが、最初に俺の隣で死んだ仲間だ。

 しばらくして、手がきちんと見えるようになった俺は、ベッドから出て着替えを済ます――そこで。

 遅く。

 今日が、雨であることに気づいた。

 こちらに来て雨が降った日は、まだなかったか。おそらくバランサーが機能しないためボードには乗れなくなるだろう――と、そこで、これまた遅く、隣の部屋の気配がなくなっていることに気づき、時計に目をやった。

 朝食の時間だ。

 さすがに遅れるわけにはいかないと、ぼんやりとした頭で下にまで降りて、軽い挨拶をしてから席につく――が、出されたお茶を飲んでも、味がしなかった。食欲もあまりないが、それはいつものことだ。

 そう、いつもそうだ。飯を食うことに痛みを伴う。生きている証拠だと普段なら笑えるが、どうしたって粗食に慣れると〝無理〟をしなくては、食べられなくなる。

「――おい、聞こえてんのか、ルイ」

「ん……? どうした、(けい)

「なんかぴりぴりしてるし、聞こえてなかったのかよ……なんかあったか?」

「ああ」

 そういえば、鏡を見てこなかった。もしかしたら〝平時〟では見せない顔になっていたかもしれない。

「悪いな、体調があまり良くないようだ。食事も途中だが、天来(てんらい)、部屋に戻る。なあに、しばらくすれば良くなるから心配はいらん」

「はいはい、ゆっくり休みなさいね。こっちに越してきて、そろそろ疲れが溜まるタイミングですからねえ」

 ふん、女狐にしては良いフォローだ、悪くはない。

 ひらひらと手を振って、俺は部屋へ戻った。

 ――妙に、雨の音が耳に入ってくる。

 クローゼットに押し込んでいたケースのうち、小さい方を取り出して開ける。がらくたが詰まったその中から、表面のガラスが砕けて動いていない腕時計を取り出し、ベッドに座る。

「よう、ホーナー……」

 あれから。

 撤退した俺を、部隊長であったケイナという女は、殴りもしなかった。それは上官としては、厳しすぎる対応だ。殴ってくれればいい。ケイナの気が晴れるなら、余計にそうして欲しかった。俺は殴られたことが免罪符にもなる。

 だが、殴られなかったのだ。

 俺の悔しさも、悲しさも、翌日の空虚も、全て自分で受け止めろと、そう態度に示された。もちろんそれは、上官であるケイナも、部隊の仲間も同じだ。隊長は、本来、隊長だけが背負うべき重荷を、俺たちにも負わせた。悪いことじゃないし、文句もない。そういう隊長だからこそ、俺たちはついて行ったのだ。

 立ち直ってもいないツラで、上を向けと俺たちに言ったのは、翌日だ。下を見るな、上を見ろ。足を上げて前へ出ろ。それが生きるということだ――そんなツラで言うなと、俺たちは聞こえないように笑いあった。

 隊長にこれ以上の負担はかけられないと、笑いながら、寂しさや悔しさを飲み込んだ。

 現場なんて、誰だってそうだ。そうやってやらなけりゃ、前に進めない。次に同じことは絶対にしないと固く誓って、そして、――次があったら、俺が残ると、誰もが強く思った。

 馬鹿ばかりだ。

 だから――俺たちは、仲間を、裏切らない。

 それでもしばらくすれば、酒の席で笑いながら死んだ仲間の悪口が出るようになる。相当に酷いことも言ったが、皆わかっていた。それが〝逢いたい〟って言葉の、裏返しなんだってことは。それが叶わないと知っているから、憎まれ口を叩いて、笑うんだ。

 言い合えるやつらがいないなら、こうやって、形見を片手に思い出す。

 戦争もない平和な暮らしって言うけどな、ホーナー……何もかも忘れて、呑気に生活だなんて、そっちにしかないよ。なあ、ホーナー。

 返事もないのに、同じ疑問を繰り返し問う。


 ――俺は。


「……やれやれ、確かに疲れているのかもしれないな」

 戦場が恋しくなることなんてないのに――。

 こんな生活をしていていいのかと、自分を追い詰めたくなる。

 形見をしまった俺は、吐息を落として部屋を出た。リビングで天来に一声かけ、そのまま外へ出た。

 これも、センチメンタルというやつなのだろうか。

 俺は最初、転属を断ろうかと思っていた。軍ではなく組織に引き抜かれることになった事実を前にして、まだ軍でやるべきことがあるはずだと、強く思った。何よりも――伝えきれないものが、残したものが、間違いなくあったのだ。

 それでも行けと、仲間たちは言った。笑いながら、出世じゃないかと肩を叩いた。そこに一切のマイナス感情が見えなかったから、だったらと俺は組織へ行って――彼女に逢った。

 上官に逢って、言われた。

「軍の仕事よりキツイから安心しろ」

 実際、きつかった。

 現場といっても、それこそ戦乱の真っただ中、なんて仕事はほとんど回されなかったが、何より責任の所在、成功と失敗の境界線が明確になったように思う。

 一度の失敗があっても、それをリカバリーする手段があった。手伝ってくれる仲間がいた。だが――それ以上に、辛い現場だ。何より、隣の仲間ではないのだ。見えない、戦っているはずの仲間を守るために、俺の仕事があった。

 一度の失敗で三人が死ぬ。ただそれだけで、引き金(トリガー)に添えた指は重くなる。場合によっては俺の命が危うくなる――しかも、最悪の状況になるのだ。つまり、最初から失敗なんてものは許されていない。

 なるほど、確かに、前線で戦っている方がわかりやすく、こっちの方がよっぽど過酷だ。

 仕事のない時は楽なものだった。そもそも、訓練を強要されないし、ぼけっと眠っていたところで文句もない。だが、それで仕事を失敗するようでは話にならないので、日ごろからの訓練は欠かさずやっていた。

 俺が所属していたのは、組織の中でも単独行動が多い、独立した精鋭部隊、通称を忠犬。上官は六○一、そして俺は、四桁の六三○七を受け取っていた。

 犬はそもそも、数が少なかった。選りすぐりなのかどうかは、それこそ上官くらいしか知らなかっただろうし、俺は単なる駒の一人でしかなく、よくわからなかったが、宿舎で休める日が三日あったとしても、五人くらい揃えば多い方だった。それでも最低、五十人はいただろう。――いや、五十人しかいなかったのか。

 日本茶が好きになったのも、その頃だ。日本人もそれなりにいた。今はどうしているか知らないが、まあ、死んではいないだろう。

 そう、犬は死なない。

 それが俺を安心させたのは事実だ。安全な仕事を与えられたからじゃない――過酷な状況下であっても、生還するのが犬だから。

 組織が解体されるに当たって、上官は言った。

 惜しいと、そう言った。

 野に放つのは惜しい。ほかの組織に取られるのももったいない。だから。

「――だから貴様は、死ぬ時まで犬だ」

 そう、言われた。

 ――嬉しかった。

 どれほど呑気な生活をしようとも、俺はずっと犬のままだ。その楔が躰の奥深くに打ち込まれ、俺は。

 許されることが、なくなった。

 死ぬことを、許されなかった。あいつらの元へ行くのは、まだ早いと言外に伝えられ、そうすべきだと思ったのだ。

 だから、日常は呑気に過ごそうと、そう思った。名目上は退役で、荒事なんて御免だ。本音を言えば、二度と戦場になんか戻りたくない。

 けれど、たぶん。

 俺は心底から〝楽しむ〟ことは、できないんだろう。何しろ、生き続けなくてはという妄執に憑りつかれ、死ねないような人間だから。

「――さん! お兄さん!」

「ん?」

 いつの間にか町の方まで歩いていたらしい。傘の中からこちらを呼ぶ人物に視線を向ければ、すずが手を振っていた。

「お兄さん!」

「どうした」

「どうした、はあたしの台詞っスよ! 傘も合羽もなしに、雨の中何してんすか!」

「ああ……」

 さて、本当のことを言っても仕方がないので。

「合羽の準備ができていないと、今朝気づいたんだが、用意しておいた傘が新品で、これを使うのは勿体ないと――」

「ああもういいっス! なんでもいいから、とりあえずうち来てください!」

 おい、最後まで聞け。オチを説明できなくなったじゃないか。

 引きずられるようにして店内に入った俺は、真っ先に姿見の中の自分を認識して、少なくとも表情が硬くなっていないのだけは確認する。それから店内を見渡していれば、慌ただしい足音と共に、タオルを持ったすずが戻ってきた。

「はいこれ、使ってください。さすがに替えの服はないんで」

「男が置いていった衣類でも俺は構わんが?」

「そんな人いないっスよもう! なんかあったかいもんでも淹れてくるっス」

「それほど冷えてはいないが、まあ、いただこうか」

「珈琲、紅茶、牛乳どれがいいすか?」

「――珈琲を頼む」

「諒解です」

 タオルで頭を軽くふいて、滴る水がなくなってからは、肩にかけた。思ったよりも長い間、雨に打たれていたためか、スラックスも随分濡れている。もういっそ、全部脱いで絞った方が早そうだが、さすがにここでは迷惑にもなろう。

 既に俺は幾分か落ち着きを取り戻している。いや、落ち着きというよりも、割り切るのでも、飲み込むのでもなく、過去と現実のバランスを保てている、ということだ。

「お待たせです」

「すまんな、ありがとう」

 受け取り、熱い珈琲を一口入れれば、なかなか上品な味だ。インスタントだったとしても、ドリップ式のものだろうと推測できる。

「――どうしました?」

「ん、なにがだ?」

「いや、なんか苦笑みたいな顔になってたんで」

「昔は泥水のような珈琲でも、文句の一つ言わずに飲んだものだと、そんなことを思い出していた。知り合いに淹れるのが上手い女がいてな、そいつがいる時には俺も楽をした。つまり、美味い珈琲をありがとうと、そう受け取ってくれ」

「はあ……まあ、そうすか」

「どうしたすず、商売人の顔になっていないぞ」

「あたしをどー見てんのか気になりますけど、いっつも商売のことばっか考えてるわけじゃないんですよ、あたし」

「差支えなければ、どうして商売をしているのか、聞いてもいいか?」

「あー、……あんまし、面白い話でもないっスよ。なんというか――この町の仕組みっていうか、そういうの、お兄さんは知ってるんすか?」

「孤児の集まる町、だろう。あの狸……校長の前崎が随分と出資している。確か、高校の学費免除、生活費としての一定額の支給、加えて大学へ進学するようなら、その一部負担もしていたか」

「よく知ってるっスね」

「これでも今の俺は、この町の住人だから当然だ」

「え、でもお姉さんは知らなかったっスよ」

「あんな間抜けと一緒にするな。椅子に座っていれば情報が入ってくると思ってるから、あんなに尻が光ってるんだよ」

「あのう、だいぶ前から気づいてて、沙樹(さき)ちゃんも言ってたけど、お兄さんってお姉さんのこと嫌いなんですか?」

「いや? あいつが俺のことを嫌いなんだろうが、俺は大して嫌っていないが?」

「嘘だ……すげー当たり強いじゃないすか。あたしならもう涙目っスよ。会話聞いてると、お姉さんがなんか可哀想ですって」

「もう勘弁してくれ、と本人が言って来てはいないな」

「それもなんか凄いというか、お姉さんの忍耐力なのかもしんないですけどね。えーっと、そうだ、あたしの商売の話でしたね」

「そうだ」

「まあなんていうか、試してみたかったんすよ。あたしにできるかどうか」

「失敗した時のリスクも込みでか?」

「そうっス。もちろんほかにも、ボードが好きになれたってのも理由ですし、そういうのはいろいろあるんですけどね。昔のあたしは、なんかこう、前向きに何かやろうってことを思えないような子だったんすけど、ボード導入時に、もう卒業していない先輩に、自分を変えるつもりでやってみたらどうだって、誘ってもらったんすよ」

「最初から一人でやったわけではないのか」

「そうです。その先輩とちょっとやらせてもらって、それを引き継いでって感じですかね。でもあたし、こんなにボードが好きになるなんて思わなかったっスよ。整備なんかも最低限覚えるってくらいだったのに、今じゃ分解整備なんかの資格も取っちゃいましたし」

「ほう、全メーカー共通の整備資格か?」

「もちろんっスよ! もうここまで行ったら、オリジナルで作ってやりたいって意気込んでるっス。だから、まあ、お兄さんの乗りこなしには、ちょっとショックでした」

「ショックを受けるようなことはないだろう」

「いやあ、確かにスペック的には〝可能〟って領域なんすけど、あたしは思いつきもしなかったんで」

「思いついたところで実践可能かどうかは別問題だが、技術屋にとっての〝発想〟は必要な要素だからな。時にそれを見失うからこそ、スランプに陥る」

「そこんとこっスね」

「だがもう三日……いや、四日になるのか。俺はよく知らないが、誰かできるようになったか?」

「まだっスよ。みんな転んでるところです」

「だろうな。俺が最初にやったのがバンクだが、あの動きができるようになるまで、一日一時間で、二十日くらいはかかった。バランサーがなかった頃だ、転んだのはお前らの比ではないだろう」

「安全装置はあったんすよね?」

「事故っても死なない、という程度のものだったがな。それなりに鍛えていたから骨折はなかったが、打撲はそれなりにあった。そう簡単に乗ってもらっては困る」

 とはいえ、笑顔でボードを五つ揃えたうちの上官は、笑いながら初日で乗って、俺くらいの動きは平然とやってのけたが、あれは例外だろう。

「バンクの理屈はわかったか?」

「ええ。バンクに限らず、回転動作に必要なのは、まずボードの機能が〝地面〟を認識することですね。つまり重力、あるいは加重そのものを、ボードを横に投げた状態でかけ続ける。お兄さんがバンクの際、しゃがんでいた姿勢から躰を起こしていたのは、その動きで、足元に力を入れて、ボードに誤認させていた――ってことっスよね?」

「正解だ。あれが基本動作だな」

「なんかこう、コツとか、教えてくれませんか?」

「コツか……どうだろうな、感覚的なものにはなる。まず体幹の強化は必須だ。平均台を目隠し移動ができるくらいが目安か?」

「え、お兄さんできるんすか」

「まあ、できるだろうな」

 銃撃戦なんて、それができなくては必中も難しいことを、俺はよく知っている。これは組織に引き抜かれてから、狙撃メインの仕事をやる前に、徹底してやった。もちろん最初から、ある程度はできていたが。

「バランサーがあるから、これは必要かどうかわからんが――少なくとも、俺の場合はボードで空気の〝面〟を捉えることは意識した」

「面?」

「ボードを空中に叩きつけて、そこを足場にするような感覚だ。なんにせよ、力の動きだけは常に意識した方がいい。俺の場合は自然と力学を脳で計算する癖が、昔からできていたから、そうなのかもしれんが――何しろ、バンク中であっても、スクリューでも、ボードは常に」

 そうだ。

「常に、前進を続けているのだからな」

 あれは前に進む乗り物だ。いつまでも、止まってはいない。

 ――それでいい。

 そうやって認めてくれる上官は、傍にいないのだ。甘えだったことを自覚できるのは、こうやって一人になった時、か。まったく情けない。

 止まっているのは、俺だけか。

「……なんか、今日のお兄さんは、変ですねえ」

「ん、ああ、大したことじゃない。考え事をしていただけだ」

「そうすか? なんていうか――こう言っちゃうとあれですけど」

 すずはどこか、困ったような顔をして。

「今すぐどっかに消えちゃいそうな雰囲気があるっスよ」

「はは、言いえて妙だな。安心しろ、その時は屍体になってるし、そんなことはありえない」

 張り詰めて見えないだけ、だいぶマシにはなった。

「まあなんていうか、あたしにとっては予行練習を兼ねてって感じなんすよ、この店は。卒業してすぐ、手に職をっていうの、難しいじゃないすか」

「――まあ、そうだな」

 雰囲気を察して、話を戻したあたりの好意を、苦笑しながら受け取っておく。

「会社勤めならばともかくも、個人営業ならば俺もやめておけと言うだろうな」

「お兄さんはどうなんすか?」

「仕事の話か? アメリカにいた頃、死ぬほど働いたから、それなりの稼ぎがある。今後二十年くらいは、無駄遣いせず、のんびり暮らせるから、お前よりも考える時間は多い」

「子供ができる仕事なんて、そう多くはないっスよね?」

「それを言うなら、お前の仕事だとてそうだろう。なんにせよ、結果を出せばあとが繋がるものだ」

「そりゃそうですけど」

「だから学業よりもこっちを優先させることもあるのか。いや待て、俺を引き留めなかったら、学校に行くつもりだったんじゃないのか?」

「あー……ま、いいじゃないすか」

「わかった、金代(かなしろ)には俺からフォローしておこう」

「えーっと、ちなみになんて?」

「すずは俺と店舗デートだったから、学業なんて受けている暇なんぞなかった、と」

「それマジでやめてください! 金代先生、あれで怖いんですからね!」

「冗談だ、真に受けるな。ところで、商売の話をしてもいいか?」

「へ?」

「察しが悪いやつだな……津乗(つのり)のためにおやつを注文してやった時もそうだったが、あれか、一年の差というのは、そういうことなのか?」

「おやつ……――あ! 沙樹ちゃんが言ってた! お兄さん、二十個ばかりドーナツ買って、お土産だとか言ったんでしょ!」

「ははは、聞いていたか」

「笑いごとじゃないですよ……あたしが愚痴を聞かされたんですからね。可愛かったんでいいですけど」

「初見の時にドーナツ屋かと思ったからな、その詫びも込めて、なかなか良いドーナツを買ってやったのに、無言で怒りだしてな。どうしたと問えば、十個も一気に食べて、夕食はいらないとふて寝をしていたらしい。妙な視線をほかの連中から投げられたが、しかし、これは俺が悪いのか……?」

「お兄さん……」

 いや、だが怒ることはないだろう。料金を請求したわけではないし、残ったものは寮生で食べた。美味しいと評判で、天来(てんらい)からは店の名前まで聞かれたぞ。

「ともかくだ、俺のボードを見繕ってくれと言っているんだ」

「あー、そういうことすか。そう言ってくださいよ」

「なんだ、喜びが足らんぞ」

「強要しないでください! なんか喜びを通り越して、あーもうって感じです」

「……疲れているのか?」

「お兄さんほどじゃないですけどね! ――で、どんなのにします?」

「そうだな。まず外装だが、芹沢のタイプで幅が広いものにしてくれ。その方が空気を面で捉えやすい」

「――あ、そうか。捉える空気ってのは、いわゆる〝抵抗〟なんすね?」

「似たようなものだ。さて、すずは芹沢への直通ラインは持っているか?」

「え、ああ、んっと、代理店しかないですけど」

「そうか。だったら、芹沢企業開発課が野雨(のざめ)にあるんだが、そちらへの連絡だ。まずはメールでいい、宛先くらいはわかるだろう?」

「ちょっと待ってください」

 カウンターの中に移動したすずが、常時起動しているだろうノート型端末の一度ずらし、ぱたぱたとキーを叩く。

「あ、ページあるんで、問い合わせに送れば問題なさそうですけど」

「まず頭に、二村(にむら)ヒトシへ送るよう書いておけ。それから俺が……と、そうか。今から綴りを言うから書け」

「はい」

「Ruy.Shryneinが、フライングボードを求めていると」

「それはいいんですけど、これなんて読むんですか?」

「ルイ・シリャーネイと言うことが多かったな。呼び方なんぞ、気にしたこともない。俺も気にしてなかった」

「そんなもんすか」

「そんなものだ。で、要求は次の通りだ。ベースはSH505型」

「一応、現行モデルっスね」

「俺が以前使っていたのと似ているからな。まず、バランサーの反応速度を三倍にしろと書け」

「三倍⁉ 一センチの揺れが三ミリ幅になるんすよ⁉」

「いいから書け。減速域の振れ幅を三パーセント増加、最速から停止までの時間を最低でも二割は削りたい。その上で、最高速の到達時間を三パーセント短くしろ」

「うわ、あたしならそんな無茶な注文聞いたら、他所へ行けって言いますよ。逆のことを両立しろって言ってるようなもんじゃないすか」

「悪いが俺は技術屋じゃないんでな。で、最後にここの店舗と、責任者であるお前の名前と、普段使っている代理店の名前も記しておけ。連絡先もな」

「はい。注文はこれだけなんすか?」

「――いや、ヒトシの性格だと、必ず電話か何かの連絡があるはずだ。悪いが俺は今日、携帯端末を部屋に置いてきた。連絡先はまだ教えないから、お前が対応して、まとめておけ。ヒトシは技術屋だ、商売人じゃない。面白い話も聞けるだろう」

「はあ、連絡があるんすか」

「あるな、間違いない。何故なら俺の要求は、単純じゃないからだ。バランサーを三倍速にするだけでも、ほかの機能に障害が出て、問題が起きる。それをどうするかを考えるのが技術屋だが、そのためにやっていいことを決めるのは俺だ。つまり、確認が必要になる」

「なんとなくは、わかりますけど……いや、わかったっス。通らなかったら、またそう言うっスよ」

「ああ、任せた。すまんな、長居をしたようだ。俺は戻ろう」

「風邪ひかないようにしてくださいね、お兄さん。あたしが気にするんで!」

「わかっている。寮に戻ったら、風呂にでも入ろう」

 おかげで随分と落ち着いた。もう問題はないはずだ。



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