14. 幸山くんの暑い夏【幸山くん視点】
「なあ直樹、週末プールかカラオケ行こうって話出てるんだけどおまえどっちがいい?」
みーんみーんみーん…
みーんみーんみーん……
蝉の声がシャワーのようにふりそそぐ、暑い暑い夏の日。授業と授業のあいま、何のやる気も出ずただ机につっぷしていたら横から声をかけられた。
「悪りぃ、俺はパス」
申し訳ないという顔を作って返答する。
「え、おまえ塾とか行き始めたんだっけ?」
「そういうわけじゃないけどごめん」
「じゃあどこなら行く?」
「いや俺抜きで行ってきて。てかお前らも遊んでばっかないで勉強しろよ、もう高3の夏だぞ」
「たまには息抜きしてもいいじゃん〜〜。引退してから身体なまってるし、身体動かしたい!このままだと高校生らしいことしないまま夏が終わる〜〜」
「ともかく今週は無理だから」
「えーつまらん!」
隣の席からぶーぶー言ってくるのは、この春ともにサッカー部を引退した友達だ。引退してからも時々みんなで集まってはどこかに出かけている。あんなに生活の中心を占めていたサッカーがなくなって、当初はみんな放課後を持てあましていたが、なんだかんだ言いながら受験勉強を始めている。いつのまにかこのクラスにも受験ムードが漂っている。
それにしても暑い。2階の教室の窓からは青々とした桜の葉がしげっているのが見え、暴力的な蝉の声が生徒の雑談をかき消さんばかりだ。連日晴天が続いており、日本全国どこもかしこも猛暑らしい。
——土曜日、天気は大丈夫だろうか。
俺は雲ひとつ無い青空を見ながらぼんやり考えた。
俺の初恋は小3の頃だ。
親ぐるみの付き合いがあった女の子を、何度も遊ぶうちに好きになっていたというよくあるパターンだ。だがあの頃の俺はつねに予防線をはっていた。別れが辛くなるほど本気になってはいけない。親の転勤の多さはすでに理解していて、好きな友達や先生ができても数年で別れなければならないと知っていたから。
それなのに初恋は特別だった。
いやあの子が特別だったのかもしれない。
そもそもあのクラスはよかった。クラスメートはみな仲が良く先生も朗らかだった。転勤族が多い地域だから子ども達の入れ替わりも多く、その分よそから来た者にも優しかった。しかしあの子はその中でも輪を掛けて、“よそ者”に優しいやつだった。親の仕事の関係で外国からやってきて言葉がまだ話せない子もときにはいたのだが、そういう子にも積極的に関わっていこうとするやつで、先生にもその点で信頼されているようだった。
とりあえずあの子に任せておけば大丈夫、みたいな。
不思議なのは本人はおしゃべり好きというわけでもなく、むしろ人の話を聞くタイプなのに、気付けばまわりを笑わせていたことだ。
本人は「どじだから」だと謙遜していたが、俺はそれだけではないと知っている。
なぜか母親には早々に俺の幼い恋心がばれてしまい、やれ誕生日パーティーだのやれ読み聞かせ会だの開いては、いつもあの子を招待していた。あの子は絵本が好きだったから喜んで来ていたし、そんなあの子を母親も大歓迎していた。
俺はあの町もあの町で出会った人もすごく気に入っていたんだと思う。転校してからしばらくたって、つい手紙を送ってしまうくらいには。
俺はあの子と、それからサッカークラブで一番仲の良かったやつと、たまに連絡を取り合うようになった。ポストから郵便物を取り出すのが俺の仕事になったのは、あの子からの手紙が来ていることを親に知られたくなくて自分から申し出たからだ。何度か先に発見されてしまい気まずい思いをしたが、母親はのんきに「わたしも久しぶりに花ちゃんのお母さんに連絡してみようかしら」などと言っていた。
あの子の手紙はいつも事細かに近況が記されていて、時には写真が入っていることもあった。手紙が来るたびに向こうの生活を想像して、また会いたいと思った。勇気を出してメールアドレスを書いた手紙を送ったとき、数日たって初めて向こうからメールがきたときは前よりももっとつながれた気がした。
メールで恋愛に関する話を出したことはなかった。
でも少なくともずっと彼氏がいないということは知っていた。
ひょんなことから俺があの子にも連絡を取っていることを知ったあいつが、ご丁寧にも教えてくれたから。中学や高校での様子も、やつ視点からときどき聞いている。恋愛ごとには興味がなさそうなこと、部活に打ち込んでいるということ、相変わらず先生に信頼されているらしいということ。教えてくれるのはありがたいが、俺の知らないところでどんどん大人になっていると思うともどかしい。やりとりがメールになってからは写真が送られてくることがなくなり、今どんなふうに成長しているのかは想像するしかなかった。
この前の春、俺は自分史上最大の勇気を出してあの子に会いに行った。
「そんなに気になるなら来たら」とあいつに言われて、それもそうだと思ったのだ。
あの日、俺は自分のへたれっぷりを思い知った。
そもそも緊張しすぎて、行きのバスでガムを食べ過ぎた。おかげで昼飯を食う気にならず、男のくせに少食だと思われてしまった。
きわめつけは、何度も告白できそうなタイミングがあったのに、結局何も言えなかったことだ。特に最後に行った湖!あんなにいいシチュエーションはなかなかないだろうに、あと一歩の勇気が出なかった。歴史の話なら延々としたというのに。
だが何と言えば良かったのだろうか、小3の頃好きだったと言ってもああそうですかってなものだろう。近くで見ていたわけではないから、あのときからずっと好きだったというのもおかしい。実際この気持ちが自分で勝手に作り上げた、イメージの中のあの子に対するものなのではないかと思うこともあった。
しかし俺はあの日、女子高生のあの子にもう一度恋をした。
駅でその姿が目に入ったとき、一瞬であの子だと分かった。似たような制服を来た女子高生が他にもいるなか、あの子だけ何か違った。長めのスカートから伸びる足はひときわ白く、ブレザーを着ていても華奢なのが分かる。焦げ茶色の髪が頭の動きに合わせてゆれる。おそらく友達だろう隣にいる女子に見せる笑顔が記憶の中のあの子の笑顔と一致した。子ども特有の顔の丸みはとれているが、昔とおなじ何の邪気もない笑顔だ。
予想以上に変わらなかった。
名前の通り、花が咲いたような笑顔。
「久しぶり」と言って向き合ったとき、正面からその笑顔を受けて自分の胸がドキッとするのを感じた。
あの子は笑い上戸なのかすぐに声を上げて笑う。
そのたびにまぶしいものを見た気持ちになった。
笑顔はその人がどういう人生を送ってきたかをうつす鏡だと思う。年齢を重ねるほどにその人らしい目の細め方、口角の上げ方、声のあげ方ができてくる。意地悪な人間は笑い方から違う。あの子の笑顔は、人を信頼して人に信頼されている人が見せるような、見る者をわけもなく幸せにさせる笑顔だ。
「ほんとに?」と目を輝かせる。
「ねえ、幸山くん!」と俺を呼ぶ。
どんなときの笑顔もまぶしい。
再会したおかげで、女子高生になったあの子の声と顔をありありと思い浮かべられるようになった。
誤算だったのは、あの子が男にかっこつけさせるという概念をまったく知らなかったこと。支払いの場面でことごとくお金を出そうとするとは。まだ自分で稼いでいるわけではないから実際にはかっこつかないのだが、あのときは俺に任せてほしかった。
それに手!手を差し出したら取るだろう普通。崖から飛び降りるときに助けようと思った俺の右手は、あのあとむなしく下ろすしかなかった。
だがそれも男慣れしていないことの裏返しだと思うと、逆に嬉しい。
もしかしたらあまりデートしたことがないのではないか。
今週末、あの子がやってくる。俺とあの子の二度目のデートだ。
今度こそきちんと自分の気持ちを伝える。城山にのぼって、そこから見下ろせるこの町の夜景を見せてあげたい。
市役所からまっすぐ伸びる大きな街道、繁華街のネオン、高層ビルの窓々、国道沿いのオレンジ色の街灯、車のライト、家の灯り——。たくさんの明かりを見ていると、人が生活しているのだと実感できる。日本中にこんな町がたくさんあって、世界に目を広げたらもっとたくさんあって、そんな中で俺らは生きている。俺はこの年齢の割にはたくさんの人に出会ってきて、何人ものひとを既に忘れて、尊敬する友達も信頼する仲間もできたが、やっぱりあの子は特別だった。
ストレートに伝えて、俺のことも好きになってくれないかお願いしよう。
もうへたれたりしない。
できたら今度こそ名前を呼びたい。いつまでも「そっち」とかいう言葉でごまかしていられない。
――昔のように「花」と呼んだらどんな反応をするかな……笑ってこっちを見上げてくるのかな……
そんなことを考えていると、横からうるさい声がとんできた。
「あ、おまえ思い出し笑いしてる!なんかエロいこと考えてるだろ」
「違えよ!」
「いやでも今めっちゃいい顔だった。なにか隠してるな……あ、もしかして週末ってそれ関連?」
「うるせえなぁ」
慌てて顔をひきしめる。こいつは勘が鋭くて困る。
「もしかしてハナちゃん?」
「!」
「当たり?」
「なんでそれを……」
「おお、まじだったか!そりゃ俺らと遊ぶ暇ないわな。楽しんでこいよ!」
「しかもなんで名前まで……」
「なんでっておまえ、遠征の後どっかのお土産買ってきたことあるじゃん。全然知らない町までわざわざ何しに行ったのかと思えば女目当て!これは部員一同ほっとけないっしょ。おまえの家行ったときにたまたま!たまたま!ツーショットのプリクラ発見しちゃったんだよねえ」
「……あのときか」
「半目のプリクラ、かわいかったぜ」
「!」
うっかりお土産を買ってしまったせいであの子の存在をはかされる羽目になったところまでは仕方ないが、まさか名前まで把握されているとは知らなかった。聞くと3年の部員全員が名前を知っていると言う。次こそは名前を呼びたいと決意しているタイミングでいとも簡単に呼ばれてしまって、俺はため息をついた。
ため息は、耳をつんざくような蝉の合唱にいとも簡単にかき消される。
みーんみーんみーん…
みーんみーんみーん……
外はかんかん照り。
週末もいい天気になりそうだった。
最後まで読んでくださってありがとうございました。