11. きれいだ
何も起こらなかったのは少し残念なような気もしたが、普通に考えたら当たり前で、これでよかった。花は何かを期待してしまっていた自分の方が残念だった。
二人は早めに家を出て、まっすぐ駅には行かず、近くの湖によることにした。
4時すぎの少し傾いた日の光が湖に差し、わずかに波打つ水面がまぶしく乱反射している。湖のほとりにそって、枯れた葦が積み重なっている上をぱきぱきと歩いていく。一歩踏み出すたび、かわいた音が心地よい。背の高い葦に隠れるようにして、釣り人のための木でできた足場が浮かんでいる。
近づくと、その上でくつろいでいたかもが2羽、ばたばたと湖の方へと逃げていった。
「すげぇ……」
幸山くんが目を細めた。
「うん、ここわたしの秘密の場所なの」
木の足場は水鳥のフンでいっぱいで、足の運びに注意しないと踏んづけてしまいそうだった。その不安定な板の先にたつと、ふたりの重みで板が湖に沈み、水が這い上がってきた。
「気を付けてね」
「あぁ。結構不安定なんだな」
「うん、でも向こう見て。この時間帯が一番いいの」
そう言って花は向こうに視線を促した。
向こう岸には黒々とした山が見え、その山の方からふたりに向かって、黄色い光の筋が伸びている。湖面は直視できないほどに輝いている。
「きれいだ」
幸山くんと一緒にこの景色を見られること、きれいという感情を共有できることが嬉しかった。悩んだときや心がつらいとき、花はひとりでここにやってきて夕日が沈んでいくのを見るのが好きだった。
幸山くんはおもむろに携帯を取りだし、この風景を写真におさめた。
どうしてわたしに会いに来たの?という問いが喉元まで出かかって、結局聞けない。今幸山くんがなにを考えているのか知りたいのに、湖を眺めることしかできない。今日一日ずっと火照っていた頬が、湖からの湿った風によって冷まされていくような気がする。
一日のうちにこんなにたくさん鼓動したことなんてないかもしれないと思うほど、ドキドキさせられっぱなしだった。
最初は笑ってしまうくらい緊張していたのに、それでも気付けば自然体で話していた。
寂しいな、と思った。
「寂しいな」
思わず心の声がこぼれてしまい、花は自分で自分にギョッとした。
意外なことに、幸山くんはそれについては何も言わずに、別の話をはじめた。
「俺の住んでるところからここまで、意外と近かったよ」
「うん」
「まだ高校卒業してないし、なんならこれから受験だし。まだまだ狭い世界で生きていかないといけない。だけどそっちもこの町出るんだろ?」
「うん」
「大学生になったらだいぶ世界が拡がると思うんだ。俺ん家は転勤族だったからいろんな町を見てきたけど、どこにいっても同じような学校があって、同じような生活があるって分かる。転校するたびにまた知り合いつくって、誰が中心人物か見定めて、クラスの中での自分の立ち位置決めて……って同じことの繰り返しで。サッカーだってどこに行っても必ず俺よりうまいやつがいて、自分のレベルも分かるし」
幸山くんが投げた小石がちゃぽんと落ち、光の筋をゆらす。
「だけど矛楯するようだけど、その分それぞれの町にしかないものもあるって分かってきた。ここにきてもっと実感した」
「そうなの?」
「あぁ。たぶん、ここを離れたらここのよさが分かるよ。こういう景色もぜいたくだし、近くに幼馴染みが住んでるっていうのも正直うらやましい。でも俺が言いたいのは、町だけじゃなくて人もそうだってこと」
そういうと、幸山くんはまた黙ってしまった。花は幸山くんの言葉を反芻しながら、結局何が言いたいんだろうと考えた。
遠くで魚がはねる水音がきこえる。
「ありがとう。そろそろ時間だし行くか」
「うん」
帰りの電車は、ふたりがけの優先座席に並んで座った。ふたりともほとんど何も話さなかった。幸山くんはどこか心ここにあらずという雰囲気で、車窓に流れる風景を眺めていた。
電車を降り、改札を出る。
駅の時計――再会する直前に花がドキドキしながら見上げていた時計は、今、4時50分を指していた。