壱章/人斬り/挿話弐拾陸/待伏せる男と待ち伏せされる男
辺りは闇に包まれていた。
闇と言っても夜空に星は瞬いている。
月は出ていない。
新月なのである。
月明かりがないせいか、
星がいつも以上に輝いて見える。
冷え込みもだいぶ厳しくなりつつあった。
いつもなら蟋蟀等、
虫の鳴き声も聞こえてくるはずなのだが、
今日は何故か静まり返っている。
そんな中、一人の男が歩いて来た。
その男の目には狂気が宿っているようだ。
隠岐虎士郎であった。
先程、目前で実の母を亡くし、そのショックでか、
今までは虎士郎が眠りに就かないと
現れる事のなかったもう一つの人格、
人斬りの人格の状態で夜の京都の町を
獲物を探すように彷徨っているようだ。
すぐそこには大きな桜の木があった。
幹の太さは大の大人四人で手を繋ぎ、
輪になったくらいの太さであろうか。
そして、虎士郎はその桜の木の脇を通り過ぎて、
三間程進んだ所で急に振り返り、
桜の木の幹の根元辺りを睨み付けた。
そこには目が二つあり、同様にこちらを睨んでいる。
よく見てみると、そこには人が居るようだ。
しかし、一見しただけでは、
桜の木の化け物の様に見えるであろう。
まるで、木の幹に目が付いているように感じる程、
桜の木と一体化しているように感じる。
そしてその人の様なものは、異様に大きかった。
人ではないものであっても不思議ではない。
むしろ人であった方が信じられないかもしれない。
そしてその人の様なものは桜の根と根の間に腰を下ろし、
両脚を投げ出して背を幹に預けたまま、
虎士郎を射抜くように見据えている。
虎士郎はその人の様なものの視線に、
動きを封じられてしまっているようだ。
虎士郎から攻撃を仕掛ければ、
圧倒的に有利な体勢であるはずなのに、
それが出来ないでいるのである。
「ふふふ、」
突然、その人の様なものが小さく笑った。
更にいつの間にか、
その人の様なものは立ち上がっていた。
虎士郎にはいつ立ち上がったのか判らなかった。
恐らく虎士郎が、その人の様なものの笑い声に、
気を取られた一瞬の内に立ち上がったのであろう。
これで体勢に有利不利は無くなってしまった。
「今日は待たせてもらったぜ」
その人の様なものが言った。
虎士郎は黙ったまま、その人の様なものを睨んでいる。
「待ち伏せが得意なのはお前さんだけじゃないって事よ」
虎士郎はまだ沈黙している。
「どうだ?待ち伏せされる気分は?」
その人の様なものが虎士郎に訊いた。
虎士郎は答えない。
「なんだかなぁ。面白くねぇ奴だなぁ」
虎士郎は黙ったまま、
その人の様なものを睨み続けている。
「まぁ、いいや。教えといてやるよ。
今夜、お前さんは、
この黒谷天竜に斬られる運命にあるんだぜ」
表情に不敵な笑みを貼り付けたまま、
天竜が虎士郎に言い放った。




