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芋虫のゆりかご

芋虫と飛蝗

作者: haru

 「今日、会社で正社員登用が決まったよ」

 私は妻の位牌と写真を見比べつつ、そう報告した。ピンクのドレスに身を包んだ妻は、いつものように笑い返してくれる。しかし、黒檀の位牌に映る私の顔は笑っていない。私の視界の隅には、いつもの、緑色の細長いバッタが見えたからである。

 いつからこのバッタが見えるようになったのかの記憶は定かではない。だが、今の会社に勤め始めて、所謂『安定』してきてからのように思う。幸いな事に大きく体調を崩す事も無く、また、初めての業種・職種ながらそれなりに上手くやれているようで、それなりの評価――あくまで『それなり』だが――もされているようなのである。ともあれ、少なくとも、入院中や退院後実家で療養していた時には、そのバッタを見た記憶が全くないので、この色々な『安定』と何らかのかかわりがあるのでは、とは思っている。バッタはその白ゴマのような目でこちらを睨み付けたかと思うと、ふっと居なくなる。時間にすれば1秒にも満たないはずだが、不思議と鮮明にバッタの表情は読み取れるのである。

 そのバッタは、緑色で細長い体をしている。ショウリョウバッタ、という種類であると記憶している。最初は何も思い出さなかったが、何度もそのバッタを見る度、もしかして、あのショウリョウバッタか?と思い返すことがあった。

 私は小さな頃、実家の田んぼの畦道などを駆け回り、虫取りに興じていたのである。私は捕えた虫を、大体は逃がしてやったし、飼う事になった場合も、その結果はともかく、それなりに世話をしていた。飼っていた虫が死ぬと無性に悲しく、良く泣いた。だから家族も、私の虫取りを安心して見守っていたように思う。

 しかし、友人が遊びに来ると、私は豹変した。捕えた虫の足や羽を毟ったり、生埋めにしてみたり、水の中に沈めたりした。気の弱い友人が「やめよう」などというと、余計に残虐な事をしようと試みた事を覚えている。ある時、バッタを水に沈めてみたが、浮かんできてしまう事に腹を立てた私が、水中の水草にショウリョウバッタの足を括り付け、沈めた事があった。バッタは、水草から逃れようと足をバタつかせていた。その様を一通り嘲笑うと、私は友人を引き連れ部屋でテレビゲームに興じた。2時間程して戻ると、バッタは事切れていた。水面を目指したのであろう、頭を水面に向けて、水草に繋がれた足が伸び切った状態だった。それは、バレリーナが足を高く掲げるポーズを思わせた。私はそれを見て笑った。友人は誰も笑わなかった。私も笑うのを止めた。それ以来、寝る前にふとそのバッタの最期の姿を思い出しては恐怖し、「1分息を止めていられたら許される」などと勝手なルールを作りそれに一喜一憂していた。

 翌日、私は役員室に呼ばれた。役員の緑川さん、直属の上司の山下さんが待っていた。

 「昨日、山下さんから話があったと思うけれど」役員は一度言葉を区切り、続けた。

 「正社員として働いてもらいたいと思っています。猪瀬さんのお考えはどうでしょう?」

 「こちらとしては、是非頑張らせて頂きたいと思っております」私は言った。緑川さんも山下さんも、良かった、というような事を言ってくれ、笑顔を浮かべた。私も何とか笑顔を作ってみた。例のバッタは、いつも通りその二つの白ゴマでこちらを一瞥して消えた。緑川さんは、私の仕事ぶりへの評価や、今後に期待している旨を伝えてくれた。それは有難く受け取りつつ、一方では「障害者雇用2.0達成が目的なだけだろうに、会社も大変だなぁ」とか、「もし私が障害者じゃなかったら……」という思いも消せずにいた。

 話が終わると、緑川さんはドアを開けてくれた。私は杖をついて、ひょこひょことそのドアから外に出た。緑川さんだけでなく、ここの社員の人たちは皆私のような障害者に対して気を遣ってくれている。それは普通の事なのかも知れないし、私が逆の立場でもそうするとは思うのだが、時々不安を感じることがあった。

 私が妻と出会った時、妻は杖をついて歩いていた。子宮の良性腫瘍の切除手術の後だったのである。ただ、調子の良い時は使っていない事もあった。私は、妻を家族に紹介した最初の時に、出来れば杖を使わないでほしい、と彼女に頼んだ。実家の親は農業をやっていたこともあり、『最低限健康でさえあれば良い』というような事を常日頃から言っていたのである。彼女が私よりも11歳も年上という事もあり、私は、結婚する障害となり得るものは出来るだけ排除しようと試みたのである。

 その話を持ち掛けた時、彼女は

 「そうした方がみんな安心するんだよね、分かった」

 と言い、寂しそうに笑った。

 彼女には申し訳なく思ったが、私は心から安堵した。白状するが、私は杖や車椅子というものに少なからず違和感、もっと言ってしまえば嫌悪感のようなものを感じてしまっていたのである。もちろんそれが社会通念上好ましくない感情であることは認識していたし、そうならないように努力もしたつもりだ。しかし、その感覚だけはどうにもならなかったのである。私だけがそうなのか?世の中の皆は実際の所はどうなのか?しかし、それを確かめることは私にはリスクが高く感じられた。そんな男が、今は杖をついてしか動き回れない状態なのである。実際のところ、私は皆にどう思われているのだろうか?

 その日の夜は、私の雇用形態変更のお祝いという事で、山下さんが席を設けてくれた。私は暫く酒を飲み、トイレに立った。トイレは、通常のトイレであった。私には使いにくい物ではあるが、障害者用のトイレでなくとも、ある程度のスペースがあれば自己導尿も出来る様になっていたので、問題なく用を足せた。私が席に戻ると、山下さんも入れ替わりでトイレに立った。

 酒のせいだろうか、私はまたすぐに催してきたので、山下さんの戻りを待たずにまたトイレに向かった。すると、山下さんと、この店を実際に予約してくれた女子社員が話をしていた。私には気付いていないようなので、少し聞き耳を立ててみた。

 「ここのトイレ、普通の人用だったけど、ちゃんと調べた?猪瀬くん、使えてはいるみたいだから良いと言えば良いんだけど……」

 「いや、そこまでは調べてないです……。でも、普通の人用のトイレしかない所の方が多いですよ」

 普通の人。私はそこまで聞くと、あぁ、お気になさらないでください、と二人に声を掛けた。二人は驚き、そして少しバツが悪そうな表情を浮かべたが、私は少し安心した思いであった。視界の中のバッタの口も、少し歪んだ気がした。

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