第三章 24
突然の怒号。それを耳にした義利は予感を覚えた。嫌な予感だ。
それを義利は知っている。ガイアに来て以降、幾度も味わっている。例えばエッダの正体に気づいた時に、またはスミレを残して戦線を離れた時にも、彼はそれを感じていた。
それは死の前触れとでも言うべきモノだ。
明確な何かがあるわけではない。五感を超えた、第六感がそれを知覚していた。
誰か、もしくは自身に命の危機が訪れようとしている。それを彼は、この瞬間にも感じていた。
ガイアに来て以降、義利は死に対して敏感になっていたのだ。自ら命を摘み取り、そして第三者による殺しを何度も目にしたことが、彼の中で経験として積み重なった結果だろう。
その感覚の元--、声のした位置へ義利は目を向ける。
何者による叫びなのかを確かめようとした義利が目にしたのは--、巨大な水の塊だった。
「ッ--!!」
すでに回避をするには手遅れだ。そうとわかっていても、彼は反射的に頭を庇う。
今回、義利が受けた攻撃は、たとえ事前に知らされていたとしても避けることのできないものだった。
『水』
それは人間の日常にありふれていて、多くの恩恵をもたらすものだ。生きる上で必要とし、作物を育てるためにも使われる。水によって生かされていると言って過言でないほど、人間は水に支えられている。それがひとたび牙を剥けば--、抗うことなどできはしない。
水の塊に弾かれた彼は、処刑台から降ろされ、さらにその身を水により覆われる。呼吸と身動きを、同時に封じられた。
国務兵からの攻撃かと義利は考えるも、そうではない。これがマナにとっても不測の事態であることは、彼女の表情を見れば明らかだ。
そもそも、こんな力を持つ兵士がいるのであればもっと前に、それこそ義利が現れた瞬間に使っていただろう。
水に囚われながら、義利はソレが飛んできた方へと視線を向ける。
そこにいたのは、トワだった。
「あの日、あの時、まさかお前が裏切るとは思わなかったぞ」
水を隔てて微かに聞こえた言葉に、義利は困惑する。意味が分からなかった。
それもそのはず。トワが口にしているのは、作り話でしかないのだから。
「お前はずっと仲間のフリをして、機会を窺っていたんだろ? オレを殺せる機会をッ!」
彼女は怒りにかられているそぶりを見せ、わざと大声で叫び続けた。広場の隅にまで伝わるように、精いっぱいの声で。
「裏切り者……?」「魔人が魔人を?」「あの日って……」
突如現れた新たな魔人。それが放つ言葉を耳にした兵士たちが囁き始める。
トワはその声が上がったことで、更に続けた。
「だがどうだ! お前が必死で守ったこの街! それに対する人間の所業! 魔人であるお前は、魔人として生きるしかなかったんだ! 人間を守ろうとしてオレたちを裏切ったお前に、もはや居場所などないぞ!」
初めは事態を飲み込めずにいた兵士も、次第に理解をしだす。だが、彼らの中に築かれた常識が、その理解を阻んでいた。
そこに別の声が割り込む。
「その魔人がラクスを守っていたとでも言うのか!」
人垣を割って前に出たのは、ナイトだった。
彼は事前にトワから指示された通りに続ける。
「まさかダンデリオン指団長は、すべてを知ってあの魔人をラクスに潜伏させていたのか?!」
どこか芝居臭さを隠しきれていないものの、この状況でそれに気づける者はいなかった。トワの組み立てた虚構が、人々の間に広がる。
「その女の手引きか!」
ティアナが訳の分からないまま何かを言わないようにと、義利同様に水で覆った。
トワは義利を救うために芝居を打っている。彼がただの魔人ではないと民衆に訴えるだけのために、だ。
あのまま交渉が続けば彼の未来はない。ならばどうするか。それを考えたトワが導き出した答えが、これだった。
『足立義利は人間の味方である』
それを多くの人間に知らせることで、実験体としてではなく戦力としての地位を確立させようとしているのだ。
全住民が彼を見ただろう。そして彼が戦力になると分かれば、有事の際には声が上がるはずだ。
『あの時の魔人を向かわせろ』
そんな風に、彼を求める声が。
そうすることができれば--、否。たとえすぐにそうならなかったとしても、そうなる可能性を国務兵に思わせることさえできればいいのだ。それだけで、国務兵は義利を無下には扱えなくなるのだから。
「お前が邪魔をしなければ、こんな街など滅ぼすことができたのだ! よくも……、よくもよくもよくもッ!」
トワは叫びながら、目だけを動かし周囲を確かめる。半信半疑、といった具合だが、下ごしらえとしては十分だろう。そう判断し、彼女は次なる一手を打った。
既に意識のない義利を水の拘束から放し、叫ぶ。
「お前が守りたかったモノを全て殺す! 皆殺しだ! それを目にして絶望したお前をなぶり殺しにするッ!」
その宣言に、ようやく民衆は自身の危機に気づく。
虫の巣穴に火種を落としたように、無数の人が駆けだした。
トワの用意した舞台は、見事に脚本通りに動いていた。だた数名の兵士を除いて。
「……ラクスを襲った魔人の能力は『死体を操る』ものだと聞いている。貴様は何者だ!」
チッ、とトワは舌を打つ。義利の意識が戻る前に、この場で乱戦を繰り広げなければならないのだ。いつ起きるやも知れぬ今、時間は一秒すらも惜しまれる。
「ならば問おう。貴様は水が生きているとでも言うのか?」
即興の戯言だが、それで兵士を納得させることができた。刃を手にした兵士たちが、トワへ襲い掛かる。
計六人。まともな相手であれば数の差で押し勝つこともできただろう。しかし--。
「話にならん」
彼女は魔人だ。まともではない。
吐き捨てるように言ったトワは、すでに六人の動きを封じ込めていた。触手のように伸ばした水が身体を縛り上げ、口と鼻から体内に侵入する。たったそれだけで人間は抵抗することができなくなるのだ。
一人、また一人と、捕らえた兵士が意識を失う。最後の一人となった時、ようやく義利は目覚めた。
彼はトワの行動を目にし、涙を浮かべる。
「やめてくれ、トワ……!」
「ハッ! すでにこの身はオレのモノだ! アクターに語りかけたところで無駄と知れ!」
縋る彼の言葉すら、トワは跳ね除けた。
「もういい……。お願いだからやめてくれ……」
「助けたければオレを殺す他にないぞ! できないよなぁ……、この身体を、お前は傷つけられないよなぁッ!!」
初めに意識を失った兵士の口から血が溢れる。それを見ても、義利はトワを止めることができずにいた。
彼はすでにトワの目論見に気づいている。だからこそ、動けなかった。どうすればいいのか、どうすればトワを止めることができるのか。考えている間に、自然と身体が動き始める。
自然と、というよりも勝手に動いていた。アシュリーだ。彼女が義利の身体を動かしていた。
すっ、とアシュリーがトワに向けて手を伸ばす。
『アシュリー……、何を--』
「悪ぃなダッチ。アタシはアイツに乗る」
その言葉と同時、アシュリーはトワに向けて雷を落とした。人を傷つけるほどの力はない。虚仮威しのために放った、ただ眩しいだけの雷だ。
だがトワはそれを受けると、能力を解除し、その場に崩折れた。
かろうじて意識を保ったままでいた兵士が、拘束を逃れたことで駆け出す。
『ダメだ……、こんなのダメだ!』
叫んだところで今の義利には指一本すらも動かすことはできない。どうしようもない現実を前に、彼の思考が加速する。世界が、コマ送りのように時間の流れを緩めた。
--まだ間に合う。今すぐ全力で飛び出せば、止められる!
それでも彼は動くことができない。一歩一歩、兵士の歩みが出されるごとに焦燥が増す。彼の者が、手に持つナイフを脇に構えた。トワは膝立ちで天を仰いだままだ。逃げろ、そう声にすることすらもできない自分に義利は怒りを覚える。
--まだ、間に合う。
今すぐ身体を取り戻すことができれば、電撃で兵士の足を止めることが可能だ。その後すぐにトワを抱えて逃げ出そう。
策を練れども身体が言うことを聞かず、そして完全な手遅れを迎えることとなる。
兵士の刃がトワに届いた。ゆっくりと体内に食い込み、赤い液体が滲み出す。
『あ……』
もうだめだ。そう悟った時、義利は確かに見た。
これから命が失われる少女の顔を、その表情を。
トワは、笑っていた。
「あっ……、ああっ!」
肉声が出たことで、義利はアシュリーが身体の支配を手放したことを知る。
自由を得た義利は、その身でトワに駆け寄り、小さな身体を抱え起こす。
胸に開けられた穴からは、止めどなく血液が溢れ出ていた。
そこへ兵士がゆっくりと近づき、トワに手を伸ばした。その手を払いのけ、義利は小さな身体を守るように抱き込む。
「触るなッ!」
傷を塞ごうとして、血の出る穴を手で抑えていた。だがナイフが心臓にまで達していたことで、脈拍ごとに血液が湧き出てくる。それが手の隙間から、指のわずかな間から、とくとくと溢れていった。
「止まれよ……、止まれって!」
言葉では止めることなどできるはずがない。それでも義利は懸命に声を出し続けた。
トワを回収しようとした兵士は、手を出しあぐねる。下手なことをすれば殺されるのではないかと、未だ魔人である彼に恐れを抱いているために、強行することができなかったのだ。
兵士は一度義利の傍を離れ、上司に指示を仰ぐ。
「……ジャッジマン隊長。如何しますか?」
この場での最高責任者はマナだ。彼女の判断であれば、彼は兵士として従わざるを得ない。
「本来であれば回収対象ですが、無理に取り上げてアダチに敵対されてはかないません。それに--」
マナは部下に寄られたことで、義利との対話で剥がれかけていた上官としての自分を取り繕う。一介の兵士として、そしてラクスを守る者として、彼女は義利に労わるような声音を出しながら、肩にそっと手を乗せた。
「アダチ。その身体は、誰か大切な人だったようですね。でしたら、我々は手出しいたしません。ただし、その分貴方の身体を調べさせていただきます。よろしいですか?」
その言葉を理解し、義利は小さく頷く。
「……はい」
「では、あとは好きにしてください」
マナがそう言うと、義利は魔人の脚力を以てその場から跳び去った。
その背を見送り、マナは部下に対して威厳を示す。
「こうすれば、恩を売れるのですよ?」
魔人が逃げたのではないかと兵士たちは青ざめるも、マナだけは彼を信頼していた。
義利は人を裏切ることができないだろうと、友人としてではなく彼の甘さを信頼していた。




