虚言~払われる差し伸べた手~
義利が野犬から逃走する際に捨てたバッグは、あっさりと回収できた。
自然に馴染む色ではないために目立つのだ。
視野を広く持てば異変として捉えることは容易であった。
「…………」
現在、そのバッグの中から義利が取り出したものを渡され、キャルロットは硬直していた。
どこからどう見てもそれが甘い物には、どころか口に含んでいいものには見えなかったのだ。
「えーっと、アダチさん?」
たまらずティアナが口を挟む。
「それは……、何かしら?」
見たまま表現するならば、黒い板だ。
少なくともティアナには、穴のあいた壁を塞ぐのに使うための木材にしか見えなかった。
「それを食う……、のか?」
アシュリーも同じような感想を抱いているらしく、渋い顔をしている。
義利は別の世界からきたのだから、もしやそこでは木を食す文化なのかもしれない。
ティアナはそんなことまでをも考えている。
「おいしいのに……」
寂しげにつぶやくと義利は、キャルロットの手にあるそれの先をつまみ、軽く力を込めた。
パキリ、と軽い音を立てて黒い板が一口分だけ切り取られる。
彼は親指と人差し指でつまんでいるそれを、ひょいと口に放り、味わってから嚥下した。
「ちゃんと食べられるよ」
毒見のつもりでそうして見せたが、それでもキャルロットは疑っていた。
と言っても毒が混入されていることを疑っているわけではなく、どうしてもそれが食べられるモノには見えないのだ。
ずいぶんと前になるが、ティアナから『南方の大陸では昆虫を摂食することがある』と聞いた時のことを彼女は思い出す。
その時と同じ気持ちであった。
未知への恐怖と困惑だ。
「……ひとかけ貰ってもいいかしら?」
そんなキャロの心情を悟って、ティアナがそう言う。
流石に昆虫を口にすることは許容できないが、板ならばその限りではない。
生物と非生物の違いは大きかった。
義利に倣って板の端をつまみ、少しだけ割る。
それでもわずかに抵抗があるのか、口角を引きつらせて、一拍の間を置くと意を決したように口内に収めた。
最初はおっかなびっくりな様子でいたが、次第にその表情から硬さが抜けてゆく。
「おいしい……!」
そして素直に思ったことを声にした。
「でしょう?」
それを受けて義利が嬉しそうに笑う。
「アタシにもくれ」
今度はアシュリーが興味を持ち、同じようにして黒い板を口に含んだ。
まず一口分だけ、そしてもう一度手を伸ばすと、元の大きさが半分ほどになるまでを割って取った。
「どう?」
と義利は聞いたが、聞くまでもないことだ。
自ら追加で食べているのだから、美味いと感じたに決まっている。
そんなアシュリーを見て、とうとうキャルロットも黒い板を口にした。
それでも不安なため、味を確かめるために舌を小さく伸ばして表面を軽く舐める。
するとその板はじんわりと溶け、甘さが味覚を刺激した。
本当に甘味であることがわかったために、義利がそうしていたように一口分だけ割って、じっくりと味わう。
驚きと、今までにない味に目を大きく開く。
「とっても甘くて美味しいのー!」
先ほどのアメでは不足だったが、これならば十分だと感じたのか、次々と黒い板を割っては口に入れてを繰り返した。
そんな中で、キャルロットは敵意を感じて身構える。
すぐそこから、手の届くほどの近距離から放たれている。
それはしかし、フレアではなくアシュリーの物だった。
「それ、もうちょっとくれ」
獲物を狙う狩人のような、それでいて子供のように光る瞳でアシュリーが手を伸ばす。
「イヤなの」
その手をスルリと躱してティアナの背に隠れる。
そして奪われないようにと急いで完食した。
「おいダッチ、アレはもうないのか?」
「ないよ?」
もしかしたらバッグの中に残っているかもしれないと漁ってみるも、アシュリーの望むものはなかった。
「あれはチョコレートって言うんだけど、こっちにはないのかな?」
あんまりにも残念がるアシュリーを見て、義利は申し訳なさを覚える。
一から作ることは不可能だが、カカオマスがあるのなら料理家に頼むなどして作れなくはないのではないだろうかと考えていた。
「チョコレートっていう名前の薬ならあるけど、あれはすごく苦いから別物ね」
「そっか……」
どちらの世界のチョコレートも同じカカオを原料とするものであるが、一般的な高校生でしかなかった義利は、その昔チョコレートが万能薬として扱われていたことも、カカオ豆が通貨として扱われるような高級食材であったことすらも知らない。
そのためティアナの話を聞いて、同名なだけの別物と判断した。
「まぁないんなら仕方ねぇ。さっさとアイツをぶっ殺そうぜ」
アシュリーはそう割り切ると、霊態と化し義利の中に入り込んだ。
「いや、殺さない。懲らしめるだけだよ」
融合が完全に終わる前に、義利はそう宣言した。
「……アシュリー、あなたも大変ね」
「まあ、飽きないよな」
アシュリーとティアナの間にはわずかながらも友情のようなものが芽生え始めている。
それは足立義利という少年がいたからこそ生まれたものだ。
「行くよ、キャルロット」
そして揃った聖人と魔人は、肩を並べて歩き出した。
◆
フレアは血眼になりながら義利とティアナを探していた。
自身の醜い姿を目にした者が生きていることが許せないのだ。
たとえそれが契約者の死を早めることになっているとしても。
「あのクソガキ共……、ブッコロス」
腸が煮えくり返る程の怒りを抱きながら、闘志を燃やす。
動きを鈍らせる岩石の鎧は、着ているままである。
また奇襲に合うかも知れぬと、彼女なりに警戒しているのだ。
しかしそのせいで目的の人物に出会うことができないでいる。
歩くよりも遅い速度でしか移動ができないこともあるが、どうやって殺すのかを考えながら進んでいるため、どうしても歩が遅くなってしまうのだ。
重い足を引きずるようにしながら歩き続け、ようやくその気配を察知する。
「いたイタ居たぁ……」
フレアがまず発見したのは、ティアナだった。
全身を黒い衣装で覆っている、琥珀色の目をした聖人。
その瞬間、怒りを狂気が飲み込み、一周回って冷静さを取り戻す。
――あの魔人は……、どこかしらぁ?
アシュリーとティアナが共闘することなど、フレアは知りもしない。
ただ、ティアナを処分した次の目標の所在が気がかりとなったのだ。
執念の成せる技なのか、彼女はふと天を向いた。
魔人に魔人の存在を察知する力はない。
そしてフレアの能力に魔人の存在を察知できるような応用方法は存在しない。
本当に、ただの偶然でアシュリーたちの作戦は失敗に終わってしまった。
フレアの視界に長い白髪の魔人が映る。
そして彼女は歓喜のあまり凶悪な笑みを浮かべた。
「みぃつけたぁぁぁあああッ‼」
まとわりつくような声でそう言うと、フレアは腕を伸ばして自身の真上に構えていた魔人の足を掴み、地面に叩きつける。
「くっそ……!」
その悔しがる声がフレアの嗜虐心をわずかに潤す。
ムチを振るうようにアシュリーを扱うと、掴んでいた足を握りつぶして放り投げ、そしてティアナの方へと向き直った。
「……あらぁ?」
しかしすでにそこにはいない。
ティアナはあくまでこの場にフレアをおびき出すための餌に過ぎず、その役目を終えたため即座に戦闘域から離脱をしたのだろう。
悪魔としての能力を発揮して聖人の位置を特定して、そちらに向けて足を進めようとする。
突如、フレアの頭部に激しい痛みが走った。
鎧の表面が軽く削れるほどの勢いでぶつかってきたそれは、ただの石だった。
「アンタの相手はアタシだ!」
アシュリーが叫ぶ。彼女の投石が先ほどの痛みの正体だ。
まだ脚の修復は完了していないが、腕さえあれば石を投げることぐらいは可能である。
命中したのは偶然だったが。
まともに動くこともできないままに取った自殺まがいの行動だが、このまま放っておけばティアナが襲われてしまう。
義利の頼みでアシュリーはティアナの防衛を任されているのだ。
できる限りの範囲でいいからティアナとキャロを守ってくれ、と。
それを叶えるために起こした無謀というわけだ。
フレアはそんなアシュリーに対し、無感情に溶岩を振りまいた。
しかしまだ殺してしまわないように、胴体と頭部を避けて。
「くぎがあああぁぁぁああああああッ!!」
悲鳴を聞き、更に満足をした彼女は精神を研ぎ澄ませ、再び聖人の気配を探し始める。
まだそう離れた場所にはいないだろうという勘に狂いはなく、ティアナの居場所はすぐに突き止めた。
手足の喪失が元に戻るまでには相当な時間を要する。
それまでにティアナを捕獲し、そして二人をいたぶりながら殺そうとフレアは考えた。
熱に悶えるアシュリーを跨ぎ、ティアナの方へと向かう。
魔人であるアシュリーはいたぶり甲斐があるだろう、聖人であるティアナは殺さないように手加減をしなければ気が収まらないだろうとフレアは考えている。
「殺してください」と言い出すまでは絶対に殺すものか。そんなことまで詳細に妄想しながら、腕を伸ばすために構えを取る。
「油断してんじゃねーよ」
後ろからの声に振り返るが、そこには誰の姿も見られなかった。
絶叫しているはずの、アシュリーの姿すらも。
「…………ッ!」
驚いて息を呑むよりも早く、肩口から切断される右腕。
わずかに皮膚から痺れを感じたかと思えば、血液の代わりにマグマが溢れ出した。
そんな光景を呆然と見つめるフレアをあざ笑う、五体満足なままの白い魔人。
フレアは、全てを理解した。
「騙したなぁぁぁあああ!!」
体を痛めつけられても顔色一つ変えなかったアシュリーの悲鳴、それは油断を誘うための演技だったのだ。
屈辱を苦しみで返せたと喜ぶあまりにアシュリーの特性を忘れ、その策略にまんまと騙された。
フレアの表情がさらなる屈辱によって歪められる。
彼女の思考にはもう、苦しめようだとか後悔させようだとか、そういった雑念の一切は存在していない。
これ以上この魔人の相手をしているのは危険だと、本能で理解したのだ。
拳を射出する。純粋に、敵対する魔人を殺すためだけに。
だがアシュリーは、二度と捕まるものかと打撃を当てた直後に射程範囲の外へと抜け出している。
そもそも油断をしていないアシュリーに対しては、鎧の打ち出されるスピードはあまりにも遅すぎる。
音速を超えて行動できる彼女には、それに対応する動体視力があるのだ。
蛇行して迫る腕をするりと軽やかに回避して、その手が本体に戻るのを待つ。
いくらフレアと言えど、岩石で生成されている重い鎧を永遠に伸ばしていることはできない。
飛距離が長くなればなるほど精度は下がり、魔力の消費は上がってしまう。
やむなく腕を引き戻し始めると、アシュリーはそれが胴体にたどり着くよりも早く、フレアに駆け寄り、超速拳を用いて岩石の鎧を少しずつ削り出した。
こうした安全圏からの攻撃を、アシュリーはあまり好まない。
肉体同士のぶつけ合い、拳と拳を交える力比べによってこそ、真に心は満たされる。
だがフレアはアシュリーと比較して、肉体面では圧倒的に弱く、能力での戦闘に特化しているためにそれを望むことはできない。
その上、まともに殴り合うには条件が悪すぎる。
そう判断した彼女は、こうして消耗戦に持ち込んだのだ。
鎧の再生よりも早く、繰り返し超速拳を叩き込み、フレアの肌を目視できるほどに消耗させると、彼女を掴んで引きずり出した。
「くぅッ!!」
身を守るための手段を失い、フレアは焦燥に駆られる。
即座に地面を溶かし、溶岩を纏おうとした。
「…………?!」
しかしどれだけの魔力を流し込もうとも地面が溶けることはない。
「キャロの不可視の壁、炎と熱量は完全に遮ることができるのよ」
木の陰からティアナが姿を現す。
「だからなんだって言うのよ!」
フレアが半ば自棄になりながら炎を放とうと手を振りかざした。
「やめた方がいいわよ」
そんなティアナの忠告などには聞く耳も持たず、フレアは能力を発揮する。
二人の敵を狙って放った炎は、しかし放出されず、彼女の体にまとわりついた。
予想外の出来事に驚愕するが、自身で放った炎に焼かれるようなことはない。
再度、炎を放出する。
しかし結果は変わらず舌を打つ。
何よりも彼女を苛立たせるのが、行動が制限されていることだ。
両手を広げることが精一杯で、それより先は見えない壁によって遮られているのだ。
「なんなのよコレはッ!」
その壁を叩くが、鈍い音を奏でるのみに終わり、ピクリとも動きはしない。
「あなたの周りに壁を張ったのよ。これであなたは籠の鳥ってワケ。……ま、アダチさんの作戦なんだけど」
安全が確保されたことを確認し、アシュリーが融合を解く。
魔人化によって起こる肉体の変化が霧散し、元の義利の姿となる。
「なによニンゲン」
恨めしげに睨みながらフレアは言う。
そんな彼女に義利は微笑みを返した。
「こうでもしないと、話ができないと思って」
上下左右を取り囲んだこの状態でなければ、抵抗のできない状況にならなければ、フレアは確かに会話に応じようとはしないだろう。
だからといって一歩間違えば全てが破綻するこんな作戦が考えられるのは、そして実行に移せるのは、彼のある種の無知さが手助けをしていた。
「フレア……さん。僕と取引しましょう」
「イヤよ」
「なら貴女は一生をその見えない壁の中で過ごすことになる」
即座に拒絶の姿勢を見せるフレアだったが、直後に義利のみせた気迫にわずかに押される。
「聞くだけ聞いて欲しい。僕は、できれば貴女も殺したくない」
「まるで事と次第によっては私のことを見逃してくれるかのような物言いね」
「その通りだけど」
元より義利にフレアを殺すつもりなどない。
地べたにそのまま座り、義利は胡座を組んだ。
「まず、その人間との契約を解除して欲しい」
「無理よ。少し前に教えたでしょう?」
答えたのはフレアではなくティアナだった。
声のした方――、後ろを向いて義利はため息を吐く。
「悪いんだけど少し黙っててもらえる?」
少なからぬ怒りが現れていることを、ティアナは声音から察する。
コホンとわざとらしい咳を一つして仕切り直しを測る。
それから義利は貼り付けたような笑顔をフレアに向けた。
「じゃあ解約は無理だとして、その人に身体を返してあげることはできないかな?」
「それはつまり、私は二度と融合するなってこと?」
「違うよ。あくまで契約者の意思を無視した魔人化をしなければそれでいい」
「……生きるためなら、まあいいわ」
義利はこうした質疑応答の一つ一つから、フレアの人格を見定めようとしていた。
最初の質問も、『無理』と答えるか『嫌だ』と答えるかで交渉の余地があるかを確かめようとしたのだ。
残念ながらその意図は達成されなかったが。
そしてこの度のフレアの回答により、義利は好感触を得られたと、内心で喜んだ。
「それじゃあ、あと一つ。人を殺さないこと。これさえ守ってくれるなら僕は君を見逃すよ」
その言葉に、ぴくりとフレアは反応する。
「アンタは、ってことは、そっちにいる悪魔と聖人は別ってこと? それなら私はこの交渉を降りるわよ」
「いや、待って。アシュリー――、僕のパートナーは僕が君を見逃すって言えばそれに従ってくれるし、聖人は僕抜きじゃあ君に危害を加えることは難しい――、と思う。それにそんなことをしようとしたら僕が止めるよ」
義利の言葉に嘘はない。
しかしそれを確かめる術はフレアにはなく、実際に条件を飲むと言ってみれば、即座に襲われる可能性もあるのだ。
こんな口約束だけの交渉を本気で進めているなどとは、本人とアシュリー以外には予想もできていなかった。
ティアナは、何かしらの考えがあってこんなことをしているのだろうと、別の方向で義利に信頼を置いている。
「わかったわよ。要求を飲むわ。それじゃあ、あなたたちはしばらく後ろを向いていてくれないかしら? その間にこの場から去るから」
小さく頷き、義利が後ろを向く。
そして目線でティアナにもそうするようにと促した。
「それじゃあティアナ。壁を解除してくれる?」
義利の声を受けて、不安を抱きながらも能力を解除する。
「それじゃあね。おマヌケさん」
アシュリーは義利に言われたために、未だ霊態のままでいた。
霊態に前後の区別はないため、傍目にはどこを見ているかは分からない。
そのためアシュリーは、義利の言いつけを破りフレアを見ていた。
どうしてもフレアを信用できなかったのだ。
もしもここで、アシュリーが素直にフレアから視線を外していたのなら、ここで少年の命は潰えていただろう。
それに伴い契約者の喪失により抵抗のできなくなったアシュリーや、戦力を大きく欠いたティアナも、おそらく諸共に。
「ダッチ!!!」
フレアの見せた不審な動きにアシュリーは義利との融合を開始する。
しかし意趣返しをするかの如く、それよりも早く、フレアの腕が義利の肉体を貫いた。
「…………えぁっ、ぐ……」
だらりと義利の口と鼻から赤黒い血液が溢れ出る。
彼を貫いている腕は人間のそれと変わらぬ形をしているが、温度は比べ物にならないほどに高い。
肉と血の焼ける臭いと音が立ち込める中、その腕は無情にも引き抜かれた。
少年の体に穿たれた穴から、堰を切ったように血液が流出する。