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第三章 09

 ジッと息を殺して待つ。

 それは、対象の到来する時刻がおおよそでも把握できていれば、それほど苦ではない。しかし、いつ来るかも分からぬモノを待つというのは、激しく精神を消耗させる行為だった。ひと時も気を抜くことが許されず、席を外すことも身動きすらもできないとあれば、尚更だ。

 魔獣を殺害してから、半日が過ぎていた。朝方から見張りを始めて、今は日が沈み出している。時間の経過によって激しい空腹と喉の渇きが、潜伏によって生まれる苛立ちを増長させていた。目の前に肉はある。それを喰らえば身を害するとは理解していようとも、一日を飲まず食わずで過ごそうとしていると、食の誘惑に負けそうにもなろうものだ。同じく毒液と分かっている魔獣の血も、今のティアナには甘い水に見えていた。

 草の根を食み、空腹を紛らわせると同時に、分泌された唾液で口乾を誤魔化す。あまり長くは持たないが、最低でも一日に一台は通るだろうという予測の元、馬車が来るのを待ち、堪えた。

 幸いなことに食事も飲水も取らなかったことが、ティアナの待機を万全のものとさせている。排泄欲求を感じていては、集中力を欠いていたことだろう。

 精神を削り、神経を研ぎ澄ませる。そうしたティアナの努力は実を結んだ。

 遠くから、車輪の音が微かに届く。その音から距離を計り、死骸の陰に潜む。次第に近づく速度が上がり、ティアナは自身の計画が成功することを確信した。

 ムチが馬を叩く音。それが鳴ると車輪の音は途絶えた。馬車を止めたのだ。ちらりと見ると、それは幌付きの馬車であった。身を隠すには絶好のモノだ。


「………………おいおいおい。なんでこんなとこに魔獣が……」


 中年の男が、御者台を降りる。ティアナは常に男と対角線の位置を保つために全神経を傾ける。

 現在のティアナは、魔獣の背中側下方に。男は腹部上方にいる。

 男の足音が下方に向かった。ティアナは物音を立てぬようにと細心の注意を払いつつ、かつ素早く上方に向かう。見つかればタダでは済まないだろうことは間違いない。今のティアナは賞金首なのだ。国務兵であったために生き写しのように正確な肖像画と共に配られた手配書によって、その顔は国中に知れ渡っている。世間から隔離されてでもいなければ、ティアナを見てそれと気づかないことはまず無い。


「うっ……。クッセぇ」


 声がくぐもる。鼻を抓んだのだろうと、頭の片隅でティアナは考えた。

 魔獣の後ろ足あたりで、男は立ち止まる。そこで一度歩みを止めると、小さく唸りだした。魔獣の肩甲骨付近で地に擦れるほどに身を屈めているティアナは、焦れ始める。もう三歩、男が魔獣の尻に向かえば、それで荷台に潜り込めるのだ。行け、動け、と心の中で念じていると、男は動き出した。ただし、ティアナの望んでいた方向ではなく、馬車の方へと。

 思えば。ティアナは自身の作戦の粗さに気づく。現れた者が、わざわざ魔獣の死骸を検分する必要などないのだ。物珍しさや不審感から近づきはするだろうが、ぐるりと一回りまでして確認することは、恐らくは可能性として低い。狙いが時間を削り出して利益を生み出す商人であるのだから尚更だ。通りかかった男のように、少し観察をして、それで立ち去る者がほとんどだろう。

 落胆し、次なる企てをしだした時、馬車に戻ったはずの男の足音が近づいてきた。ティアナは地面と魔獣の頸部に生まれた小さな隙間から、期待を込めて男を覗き見る。

 男の手には、ロープと手斧が握られていた。ロープの一端は、荷台から続いている。再度魔獣の死骸に近づいてきた男は、死骸の後ろ足にロープを巻きつけると、骨盤の辺りに手斧を振り下ろした。


「これも! 天の! 恵み! かな!」


 律動的に、魔獣の下肢を切り離さんと男は斧を振るった。行動の真意は理解できずとも、それが格好の好奇であることは明らかだ。ティアナはこっそりと、男の様子を覗う。するとどうやら作業に集中しており、視野は狭まっているようであることが確認できた。

 そっと影を抜け出し、馬車を目指そうとした――その時。


「ふぃ~……」


 額の汗を拭う仕草をしながら、男が腰を捻ったのだ。間一髪で踏みとどまったティアナは、男に見つかることはなかったが、驚きのあまり叫び出しかけて息を溜めてしまっていた。肺いっぱいに吸い込んでいるため、今気を抜けばため息が声になってしまう。吐き出そうにも物音が静まっている今では聞き取られてしまう危険がある。思考を巡らせている間にも呼吸の限界は近づいており、そこから来る焦りが彼女の思考能力を低下させ始めていた。

――どうするどうするどうする。まずいまずいまずい……!

 思わぬ窮地に追い込まれたことで、ティアナの全身から冷や汗が浮かび上がる。これ以上は我慢をしきれない。塞いだ口から空気が溢れる、まさに直前で、男は作業を再開した。

 がつごつ。骨と斧とが奏でる音が鳴る。その音に合わせて、ティアナは息を吐き出した。十分に吐き出し、吸い込み、呼吸を整える。

 再度、男の様子と作業の進捗具合を確認する。見ると、未だ斧で死骸を叩いていた。音からして、背骨を切り離すのに手間取っているのだろう。兵士と遭遇して捕まるのであればまだしも、あのような些細な失敗で捕まっては、ティアナが自身を許せなくなるところであった。慎重に、男の動きを観察する。手斧が骨を打つこと十数回。またも男は斧から手を離して腰を捻った。左右に二回づつ捻り、作業に戻る。それをしっかりと確認し、ティアナは今度こそ荷馬車へと駆け出した。


「っふ! ふっ……。ふぅ」


 極度の緊張からの解放。短い距離とはいえ無呼吸で駆け抜けたこと。二つが合わさり乱された呼吸を、極力音を出さずに直す。第一関門である足の確保はこれで達成できたと、安堵したのも束の間。馬車の中を見たティアナは、唖然とさせられる。


「………………荷物が、無い……?」


 全くの、空だった。商品はもちろん、木箱や樽すらも、一切合切が無い。荷物の陰に身を隠すつもりであったために、予想が外れたことによる驚きから、ティアナは思わず声に出してしまった。

 自らが犯した失態に気づき、慌てて口を手で塞ぐ。男に気づかれていないかと荷台の中から様子を伺おうとした瞬間――、ひときわ大きな斧の音が響き、ティアナは跳び上がりそうになった。恐る恐る顔を外に出すと、男は未だ魔獣の解体作業に取り掛かっている最中で、馬車を気にしている様子もない。


「おっし、あとは……」


 気合を入れるように、男は一声を挟むと、手のひらに唾を吹きかけて斧を両手で握り直した。返り血を浴びることもお構いなしで、男が斧を力いっぱい振り下ろす。

 気づかれていなかったことに安堵し、ティアナは再び問題に直面させられる。

 隠れる場所が、ないのだ。

 男は死骸の切り離しが終われば、まず間違いなく魔獣の下肢を荷台に積む。その際に荷台が汚れないように敷物なりをするだろう。中を見ずに積むのであれば見つからない可能性もあったのだが、馬車に屍臭を染みこませては今後の商売に大きく影響を及ぼすことが予想される。商人として、それは避けねばならない。つまり、仮に身を隠せる積荷があったとしても敷物をするために荷下ろしをすれば、重さの変化で発見されていたのだが、現状ではその問題はあまり関係がなかった。窮地が窮地であることに変わりはないのだ。

 次々と自身の予測の甘さによって追い詰められてゆくティアナだったが、命に関わるほどの危機的状況下に置かれることで、思考は一気に鮮明なものへと変わる。

 まずティアナは、荷台の床面を小突いて音の反響を確かめた。その音から床下に空白があることを知る。商業用の荷馬車では、稀に二重底の構造をしていることがあるのだ。それは単に、品質を保つための工夫でもあれば、疚しい荷物を運ぶためでもあるのだが、その用途に気を回す余裕は今はない。

 理由はどうあれ、二重底であれば、そこに隠れることが出来る。

 ティアナはすぐに今までに知り得た底蓋を開く方法を思い返しーー、諦めた。

 男が作業を終える声を発したからだ。


「こ~れで~報奨金がぁ~……」


 歌うように、弾んだ声を出しながら御者台に乗る。男はムチを振るって、馬車を二馬身だけ進めると、すぐに停止した。切り離した魔獣の下肢が積みやすいように、荷台の後方と一直線上にしたのだ。馬と馬車とを繋ぐ鎖を外し、魔獣の下肢に縛り付けたロープを代わりに繋ぐ。荷台が血で汚染されないように、荷台の脇に括り付けていた予備の幌を床面に敷く。幌も安くはないのだが、魔獣を討滅したとあらば、その報酬で十分に採算がとれる。加えて腕の立つ商人として名を売ることもできるのだからと、男は惜しむ気配もなく、むしろ嬉々として幌を敷き詰めた。それで床を覆い終わり、次に馬にロープを引かせる。こうして労せず魔獣の下肢を積もうというのだ。

――ずるり、ずるり、ごん。


「これでよし!」


 満足気に言うと、男は潜入者のことなど知りもせずに、馬車を繋ぎ直し始めた。


「〜〜〜〜〜〜ッ!」


 ティアナは耳元で死骸の一部を引きずる音を聞かされ、背筋を粟立たせる。そうでなくとも身を潜めていることがバレやしないかと気が気でなかったのだ。

 彼女は、二重底の仕掛けを解き明かすことは断念したが、そこに隠れることまでは諦めていなかった。馬車の下に潜り込み、底板の一部を剥がすことで、その身を空白に滑り込ませていたのだ。木材をつなぎ合わせて作られた馬車でなければ、こうは行かなかっただろう。偶然と、結果を掴み取ろうとする努力の積み重ねが、彼女に奇跡をもたらした。


「ん〜ふふ〜ぅ〜」


 男が鼻歌交じりに作業をしている間も、ティアナは滝のような冷や汗を流している。ただただ、早く馬車が走り出すことを祈って、彼女は恐怖と緊張から来る震えを押さえ込んでいた。

 鎖を動かす音が、ティアナに僅かな安堵をもたらす。左右にあるそれを繋ぎ直せば、あとは走らせるのを待つだけだ。

 鎖を動かす音が止む。ようやく息を吐くことができそうだと、ティアナは張り詰めていた緊張を解そうとした。

ーーが。


「ん? なんだこの板?」


 男の一言に、ティアナの心拍数が急上昇する。慌てて手元に置いていたはずの、外した底板を探るが、なかった。馬車を動かしたことによる振動で、落ちたのだ。

 最後の最後で取り返しようのない失敗を仕出かした。今度こそ終わりだ。潔く諦めたのだが、彼女はまたも幸運に恵まれる。


「まっ、いいか」


 男のものぐさをする性格により、難を逃れる。馬車は動き出し、蹄と車輪の音によって、音から周囲を知ることはできなくなった。

 安堵のため息が、思わず漏れ出す。ティアナ・ダンデリオンは一般からすれば不幸な生い立ちであるが、その人生は幸運の連続だった。

 母が精霊と契約を結んでいた。その精霊が契約の引き継ぎを快く受けてくれた。精霊が耐火性に優れた能力だった。原島スミレによって救助された。血縁はあれど見ず知らずの子供を受け入れてくれるステイムにより育てられた。スミレから戦いの手ほどきを受けられた。最年少の国務兵として名を馳せることができた。その噂により数々の施しを受けることがあった。人の味方をする魔人と出会った。彼により命を救われてもいる。そして彼の手助けによって、復讐を果たすことができたのだ。


「我ながら、恵まれ過ぎよ……」


 振り返り、か細い声で呟く。

 義利に対して、ティアナは返しきれないほどに大きな恩を感じていた。だからこそ、彼女はその身を賭して少しでも恩を返そうとしているのだ。スミレという、人生最大の恩人を喪ったからこそ、ティアナは動いている。いつか返す。そのいつかが永遠に訪れなくなる可能性があることを知ったから、命を救われた恩を、命懸けで返そうとしているのだ。

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