第三章 06
「ただいま」
「おかえりなさい」
義利を、トワが出迎える。
その一幕だけを切り取って見れば仲の良い兄妹の和やかな日常のようだったが、二人は兄妹でもなければ今は和やかな日常でもない。だがいつまで続くかもわからぬ逃亡生活の中だ。そうやって少しでも現実から目を背ける時間を作らなければ、精神から先にやられてしまう。
「調達、お疲れ様でした」
帰還した三人は無事に食料を手に入れてきた。ほとんど空にして出た鞄が、今は中身に押されて膨らんでいる。
「全くだぜ……」
「もう寝る……」
げんなりとした表情で、義利の後ろからアシュリーとストックが続いた。二人は協力して鍋を運んできており、その中身は綺麗な水で満たされている。飲み水とは別に、調理用として確保してきたのだろう。肉体労働に向いていない精霊からすれば、確かにそれは重労働だが、二人の表情は疲労の原因は肉体労働とは別のところにあると物語っている。
「何かあった?」
「……こいつ、木にぶつかるわ、道を間違えるわ、とにかく色々と大変だったんだよ」
「あはは……」
アシュリーが義利を指差し、恨むような目で言う。すると義利は曖昧な微笑みを浮かべたが、トワは何か嫌な予感を抱いたのか、顎に手を当てて目を細めた。
「……アシュリー。アダチさんの命、どれくらい使った?」
その問で、アシュリーはトワの予感していることに気づく。洞窟内にあった和やかさは、一瞬にして消え去っていった。
「……この前の騒動で、半分使った」
この前の騒動、とはラクスでの魔人襲撃のことだ。その戦闘の中であった出来事の詳細を、実はティアナは知らないでいた。知ろうともしなかった。スミレの死の詳細など、知りたくなかったのだ。
だがここでひとつだけ明らかにされたのが、たった一度の戦闘で義利の寿命が半減するほどの何かが起きていたということだった。それは、ティアナにとって衝撃的な事実だ。
かつてフレアという魔人と戦った際の出来事を、ティアナは回想する。
◆
「そう言えば、アダチさんの命はどれぐらい使ったの?」
フレアとの戦闘を終え、ラクスへの移動手段である馬車へと向かう間に、ティアナはふと疑問を抱いた。
魔人の力の源である魔力は、契約者である人間の寿命を糧にして生み出されるものだ。全身に電気を纏いながら戦い、そして時には電撃を指先から放ち、更には光の柱とも言うべき巨大な落雷を打ち下ろした。そんなアシュリーの戦い方から、一抹の不安が浮かんだのだ。
アシュリーの実力は存分に見せられ、体験もしている。その猛威も、今は義利によって悪用されてはいないが、仮に義利の命を使い果たした後に、人に悪意を持った者と契約を交わせば、ティアナの力では抑え込むことはできない。それは一度の戦闘で嫌というほどに思い知らされている。遊び相手にすら、ティアナではなれなかったのだ。
もしもアシュリーがすぐにアクターを乗り換えるのであれば、大人しい今の内に始末したほうがいいのではないだろうか。
そんな風に、敵意を心の奥底に隠しながらティアナはアシュリーと森の中を歩いていた。
「かなり抑えて使ったけど、八日分くらいだな」
「よ……、八日ぁ?!」
その数字を聞き、ティアナは思わず叫びあげた。
「いったいなんの話?」
会話からか叫び声からか、不穏さを受けたのだろう。義利が割って入る。彼はティアナとアシュリーの不仲を解消しようとする姿勢が強く現れていた。
ティアナからすれば、アシュリーは敵だ。敵だったのだ。生まれてから十五年。その中で培われた悪魔に対する敵意をたった一度の共闘で完全に取り去ることはできない。
一方アシュリーからすれば、ティアナは大勢いる人間の中の一人でしかなかった。何の変哲もない、無力な人間だ。敵対する以前に、敵意を向ける必要すらない。その気になれば赤子の手を捻るよりも容易く、その命を摘み取ることができるのだから。
つまるところ義利がすべきはティアナからの敵意を軽減させることであり、そのために彼はティアナとアシュリーの橋渡しをしているのだった。
「あなたの命を使って、魔人になったアシュリーは力を使ってるって言ったでしょ。それで、今日の戦闘でどれだけアダチさんの命が使われたのかが気になったんだけど……、アシュリー。さっきのは信じていいのね?」
「正確にゃあわかんねーけど、だいたい八日分くらいで間違いねえよ」
「ってわけ。それほど心配しないでも良さそうね」
「いや、よくねぇだろ」
事もなげに言うティアナだったが、アシュリーの顔は深刻さを醸し出していた。
「どうして? あれだけ派手にやって、たったの八日なんでしょう?」
「たったの、ねぇ……」
八日という期間の認識は、人間と悪魔の尺度の違いから来るモノではない。そうであるならば二人の反応は真逆のものでなければならないだろう。寿命に限りのある人間と、十分な魔力さえ得られれば永遠を生きることも可能な悪魔だ。
二人の認識の違いは、人間と悪魔という人生観の差から来るものであった。
「仮に、だ。仮にこのペースでの消費が毎日続けば、ダッチがあと八十年生きるとしても十年かそこらで使い切っちまうよ」
悪魔であり、長くを生きてきたアシュリーは、人間にとっての八日が貴重であると知っている。だからこそ、彼女は八日も、と言った。
「毎日は無いにしても、フレアなんか目じゃねぇくらいに強い悪魔なんざかなりいるぜ? そいつらともしも戦う時には今日よりも消耗する。それこそ一気に一年分も消費したりするかもな」
それも、一度の戦闘での消耗だ。そしてアシュリーの言ったように、フレアなど足元にも及ばない悪魔であるネクロとの戦いによって、義利の余命は半減されることとなる。
「そう……、ね。考えが甘かったわ」
アシュリーの言葉により、ティアナは自身の考えの甘さに気づかされた。
「短期的に見れば『たったの八日』、なんて言えたけど、長期的に見れば『八日も』、になるわね……」
八日という対価がそれほど大きなモノとは思えなかった理由は、彼女が兵士として働いているから、という理由もある。エストを離れての任務ともなれば、その移動時間だけで八日は消費されてしまうこともあるのだ。人の生の短さを知らないがゆえに、彼女は義利の支払った対価の大きさに気づくことができなかった。
この時ティアナの中で一つの目安として作られたのが、概ね一週間分の命が、魔人と戦う際に義利が支払う対価だ、というものだった。
◆
余命の半分。それが何年に値するのか、正確なところを知りはしないが、ティアナにとってネクロの強さは異次元のモノという認識に変わった。義利の年齢は十七だ。そんな彼の残りの命の半分で叶わないのであれば、フレアとネクロを比較した際に数千倍の差があることになる。単純計算だが、まさに桁違いの強さだ。
「……アダチさん。これ、何本に見えますか」
ティアナが戦慄を覚えている時、トワは義利に向けて指を二本、立てて見せた。洞窟内に焚き火以外の明かりがないとはいえ、二人の距離は一メートル弱。十二分に見える距離だ。
それを受け、義利は噴き出すように笑った。
「心配しすぎだってば。大丈夫、ちゃんと見えてるから」
「何本ですか?」
語調を強くし、トワがさらに義利に近づく。もはや少女の小さな手は、義利の目の前に迫っていた。
この問答は答えるまで続くと理解したのか、彼はトワの指に目を凝らし、そして背けた。
「……見えて、ないんですね」
「うん……」
明確な証拠が上がり、トワの推理が正しいことが証明されたが、それで喜ぶ者は一人もいない。彼女が証明したのは、あくまで残酷な真実なのだ。証明されたところで悲しみしか生み出されない。
「おいダッチ。なんで隠してやがった」
怒気を孕んだ声で、アシュリーが詰め寄る。
すると義利は目を伏せて、答えた。
「心配、かけたくなかったんだ」
義利の返答に堪忍袋の尾が切れたのか、アシュリーは彼の胸ぐらを掴み上げた。
「ふっざけんなよ……。心配くらいさせろよ。それともあれか、ダッチにとってのアタシはッ、その程度の存在だってことか?!」
言葉に熱がこもり出している。
一見すれば怒りを爆発させただけのようにも思えるが、アシュリーの怒りは表面上だけのものだ。その言葉には義利に対する思いやりが多分に含まれている。そして怒りの矛先も、彼だけでなく自身にも向けていた。義利の不調に気付けなかったこと。義利の相談相手になれなかったこと。そんなアシュリー自身への怒りが、ティアナには見て取れた。
関係の薄いティアナでそれなのだ。義利はおそらく、より多くの感情を読み取ったのだろう。
「そうじゃない! そうじゃないんだ! ただ、本当に――」
「運命共同体だって言ったじゃねぇか!」
言い訳をするような彼の言葉は、アシュリーの心からの叫びで遮られた。
そして――。
「どんな痛みも分け合いたいって言ったのは、ダッチの方だろうがよぉ……」
彼女の悲痛な叫びにより、義利は折れた。
「……ごめん」
彼はついにその三文字を声にする。決して悪意から事実を隠していたわけではないのだろうことは、義利の性格からして分かることだ。心配をかけたくなかったというのも嘘ではないのだろう。だが、受け取り手であるアシュリーには義利の真意までを見抜くことはできやしないのだ。真実でないのなら、それは嘘と変わりない。
嘘を吐かれた。アシュリーにとって、おそらくそれは裏切りに等しい行為だったのだ。
「……アシュリー、泣いてるの?」
二人の言葉の応酬を間近で見ていたトワが聞く。と、アシュリーはそっぽを向いた。
「泣いてねぇ」
「でも声が――」
「な・い・て・な・い!」
震える声を誤魔化すためか、一文字づつしっかりと発声する。気恥ずかしいのか泣いていることを頑として認めようとはせず、しかし彼女は濡れた目を拭うように手を動かしていた。
「とにかくダッチ! もう隠し事は無しだ! 今のオマエに分かる範囲でいいから、異変は全部教えろ!」
「うん。それじゃあまずは――」
そう言って、義利は自身の身にある不調を全て口にした。
味覚喪失。視覚低下。嗅覚低下。食欲不振。めまい。嘔気。倦怠感。頭痛。
「このくらいかな……。ただ、本当にこれが魔人化の影響だとは思わなかったんだ」
一つ一つを取り上げると、確かにただの体調不良だ。
疲労と、そこから来るだろう免疫力の低下を鑑みれば、義利が見過ごすのも頷ける。
「お前……。そんな中でよく平気でいられんなぁ」
「それが、身体能力は上がってるみたいなんだ」
呆れた様子のアシュリーに、義利は不調以外の変化を見せた。
おもむろに調達してきた食料の中からりんごを取り出す。それを片手で持ち上げ、握力を以て握りつぶした。瞬間的に強い力を加えて破裂させたのでも、指を喰い込ませて抉ったのでもない。じんわりと、徐々に力を込めることで果汁を搾り出しながら、掴んでいたはずのりんごを手のひらに収まるまでに縮めたのだった。
「うわぁ……」
それまでの激情の一切を忘れる程の衝撃だったのか、アシュリーの発した感想はそれだった。
「いや、引かないでよ……」




