第三章 04
既に逃亡生活は三日目を迎えていた。義利はその間、百を上回る回数の戦闘を繰り広げている。その全てが国務兵との戦いだ。手配書が公布されているにしても、その数はあまりにも多い。身を隠しながらの逃亡だというのに、国務兵は正確に義利たち一行の足取りをたどりっている。
だがそれには明確な理由があった。
魔人である義利だ。
聖人との戦闘では、魔人状態でいなければ勝ち目がない。そのため交戦時にはアシュリーと融合を余儀なくされている。国務兵は魔人の探知を行うことで義利の位置を捉え、そして挑み、敗北をしたとしても次につなげていた。
人海戦術とも取れるその行為により、抜け殻同然のティアナにもわかるほど、義利は疲弊している。
「……私を置いていけばいいじゃない。そうすれば、簡単に逃げられるでしょう?」
国務兵が追っているのはあくまでティアナだ。魔人である義利は討滅対象だが、無理に追う必要はない。ティアナを確保し次第、追っ手は止むだろう。
「何回でも……、言うよ。それは、できない」
頑として、義利はティアナの提案を拒み続けた。
百を越える戦闘だが、しかし相手の数は百ではない。二十余名だ。だが、人を殺さないという義利の信条により、一度倒したはずの国務兵が何度も挑んできている。
不殺の信条は、本来であれば褒められるべきものだが、ここまでの徹底ぶりにティアナは呆れさせられる。
「このままじゃあなた、殺されるわよ。それでもいいの?」
いくら義利が追い払おうとも、圧倒的な力の差を見せつけようとも、追跡の手が緩むことはなかった。むしろ苛烈さを増している。おそらくは時間の経過とともに人員を増やしているのだろう。
誰の目から見ても、この現状を打破するには、ティアナの身を捨てる以外にはないとわかる。
不殺の信条か、ティアナの命。どちらかを捨てない限りは、そう遠くない内に義利が命を落とすことになる。
それは、義利にもわかっていることだった。
「罪のない人を……、殺すくらいなら」
意味のない提案だとは、ティアナも承知している。足立義利の人間性を、彼女はこの三日で改めて思い知らされていた。
彼は追っ手を殺しはしない。そしてティアナを捨てもしない。
命が尽きるまで、彼は救える命に手を差し伸べ続けるだろう。
「おい、ダッチ。流石にそろそろ甘い考えは捨てろ。ティアナか追っ手か、どっちか選べ。ダッチが嫌ならアタシがヤる」
そんな義利に、アシュリーが選択を迫った。当然だろう。悪魔にとってアクターは貴重で重要な存在だ。その命が脅かされているのであれば、行動に移さないはずがない。むしろ今までよく持ちこたえたものだ、とティアナは感心する。
だが義利は、アシュリーの示した二つの選択肢を投げ捨てた。
「……選ばない」
「ダメだ。選べ。じゃなきゃ両方捨てんぞ」
「……命令、使わせたいの?」
その一言で、アシュリーは急に大人しくなった。
悪魔の契約者が有する、三つの絶対命令権。既にその内の一つを使ってはいるが、残り二つを消費してでも義利はアシュリーの行動を阻むだろう。
事情を知らないティアナは首を傾げさせられる。
「ひとまず遠くまで移動しなきゃ。アシュリー、融合」
「……わぁったよ、ったく」
苛立つアシュリーに指示を出すと、彼は再び魔人となり、その脚力を以て移動を開始した。
この移動が聖人による探知に引っかかることは義利も心得ている。しかしわずかでも休息を取るには、一度戦闘をした地点からは出来うる限り距離を置かねばならないのだ。そして融合を解除した地点を中心に捜索をすることで、追っ手は容易に彼らを射程圏内に捉えることができる。
義利によって抱えられているティアナは、この逃走が義利にとってどれだけ不利なものかを考えた。まず第一に、同じく探知を使えるはずのアシュリーが居はするが、彼女の探知が非常に狭い空間にしか作用しないために、接敵は免れられない。そして接敵すれば戦闘は避けられず、そこで義利は殺さないように、殺されないように立ち回らなければならず、さらにそこにティアナの保護という足かせが嵌められる。対する国務兵は、義利に比べれば随分と楽だ。交代しながら追跡をすれば、各々休みを取ることができ、戦闘においては殺されることはまずない。加えて魔人を倒す必要はなく、ただティアナを奪取することさえ叶えば、それで勝利なのだ。
地の利もなく、数の利もない。そして、援助のないために食料も既に底をついている。
「このくらいで、いいかな」
およそ十分ほどの移動をした義利は、そう言って歩みを止めた。そして融合を解き、その状態でさらに一時間ほどの移動をする。こうして探知の切れる地点から離れることで、義利はわずかな休息の時間を作り出していた。
彼は可能な限り人のいない場所を選んで逃げている。聖人との戦闘で、万が一にも被害者を出さないためだ。先程は森、その前は山、と身を隠せる自然の多い場所を選び続けてきた彼が次なる隠れ家として選んだのは、洞窟だった。
「ここは……、昔は海だったのか」
「なんで分かったんだ?」
洞窟内の広い空間で、松明を片手に周囲を見回した義利が感動したように声を漏らすと、アシュリーが目を丸くする。そこは内陸にあるラクスから遠く離れており、馬車を一日走らせれば海を見ることもできるだろうことを、彼女は知っていた。
だが異邦人であり、まして地図に目を通すことのなかった義利には知る由もないことである。
「いや、だってここ鍾乳洞じゃないか」
「鍾乳洞とお前の予想に何の関係があるんだ?」
「えーっと。僕のいた世界では、こういう鍾乳洞は昔は海だった場所にしかできないって言われてるんだ」
「っはーん。ま、ダッチの言うとおり、ここは昔は海の底にあったって言われてる」
「詳しく説明してあげたいんだけど、ごめん。少し休ませて」
「おう。なんかあったら起こすから、寝とけ」
義利は凹凸の激しくある洞窟内で、それでも幾分かましな場所を見繕うと、そこに今まで背負っていた荷物から取り出した毛布を敷き、横になった。おそらくはここも一時間を待たずして特定されるだろうが、彼にとってはそれすらも貴重な休息だ。アシュリーはもちろん、誘拐同然の扱いをされているティアナも、この時ばかりは彼を休ませるようにしている。始めは何度も彼の寝ている間に逃げ出そうとしたのだが、もはやティアナにはその気力すらなくなっていた。本当に、彼女は運ばれているだけだ。荷物となんら変わりはしない。ただ、時折言葉を発するだけの荷物だ。
だが、流石に荷物同然とは言え人間であるために生理現象は起こる。
ティアナはのろりとした動きで起き上がると、その足で義利から離れようとした。
「ティアナ。どこに行く気?」
そんな彼女に声が掛かる。眠っているものと思っていたが、義利は意識をはっきりと持っていた。
「……トイレ」
恥ずかしげもなく、ぼんやりとした口調でティアナが答えると、義利は上体を起こした。
「何? 人のトイレを覗くのが趣味なの?」
「そうじゃなくて、もしも追っ手が来てたらどうするのさ」
「外にまで行かないわよ、めんどくさい。少し戻ったところに枝分かれした道があったから、そこで済ませるわ」
心が折れてもティアナは少女だ。排泄姿を見られることへの抵抗は、死ぬことよりも大きい。もしも義利が無理にでもついてこようものなら、舌を噛み切ることも辞さない覚悟だ。
義利とて、そんなことでティアナを追い詰めたくはないだろう。
「……キャロ。悪いけど、近くまで一緒に行ってくれる? もしもの時は叫んでくれれば飛んでいくから」
「……わかったの」
普段の明るさを欠片も見せない沈んだ声音で、ティアナの契約精霊であるキャルロットは答えた。
ティアナも、『元』契約精霊であるために、不承不承ながらも同行を拒みはしない。
ティアナとキャルロット。二人の間にあった契約は、既に放棄されている。悪魔のそれとは違い、天使の契約は言葉の一つで解消できるのだ。ティアナがヘーゲンで契約の破棄を口にしたあの時から、二人は契約関係ではなくなっている。
「あのね、ティアナ。ティアナさえよければ、キャロはいつでも契約するの」
一時的な拠点とした洞窟内の部屋から離れたところで、キャルロットがティアナに声をかける。入り組んだ迷路のような作りではあるが、拠点はその最奥、行き止まりとなっているために、道に迷うことはまずない。そうでなければ道を忘れないためにも会話をする余裕はなかっただろう。
「契約して……、それでどうなるの?」
「……え?」
「私はもう戦えない……。戦いたくない。そんな人間と契約しても、キャロはろくな対価も得られなくなって苦しいだけよ?」
「それでもいいの。キャロは、ティアナと一緒にいたいだけなの。それで、もしもティアナを助けられるなら、それだけで十分なの」
いくら天使の身体が魔力効率の高い作りをしているからといっても、魔力なしに生きられるわけではない。能力の付与への対価を魔力としなければ、人間態での活動には支障がでる。
それすらも厭わないと、キャルロットは一切の迷いもなく言い切った。
「……ここで待ってて。用をたしたら、戻るから」
「……契約、いつでも待ってるの」
ティアナは枝分かれした道をさらに進み、一人になったことで涙を流す。
義利と、キャルロット。二人の優しさが、今のティアナには痛かった。復讐のみを胸に生きてきたティアナは、戦うことしかできない。そして戦う意志を失っている今、彼女には何もない。優しさに報いる術が、何一つ見つからないのだ。
だからティアナは生きる意志をなくしている。ただのお荷物であるくらいなら死んでしまいたいと、何度も強く思った。だがそれでは二人の優しさを無駄にすることになってしまう。二人を悲しませることになってしまう。
生きる意志を失くしても、死ねない理由はある。
そんな現状がたまらなく嫌で、そんな自分がどうしようもなく情けなかった。
「……落ち込んでても、出るものは出るのよね。ホント嫌になる……」
小さく身体を震わせると、ティアナは一度だけ周囲に目を配り、キャロの持つ松明の明かりが見えないことを確かめるとズボンを下ろした。
そして用をたし終えると、キャルロットと合流し、義利のもとへ戻った。
彼は今度こそ眠りに落ちたのか、ティアナを迎えることなく横になったままでいる。トワは自身の太ももを枕にするようにして義利の頭を抱えており、そのすぐ傍ではアシュリーが大口を開けて眠っていた。逃亡中とは思えない微笑ましくも見えるその光景を前に、しかしティアナは表情を暗くする。義利が休む暇もなく戦っていたということは、同時にアシュリーもそうしていたのだ。そのことに、今更ながらにティアナは気づかされる。
「アシュリーにも、迷惑をかけていたのね……」
ティアナは失くした腕の傷跡に触れ、考えた。
もしも腕があれば、ここまで沈まなかっただろうか。
「……違う」
腕を失くしたことは、それほどティアナの心に影響を与えてはいなかった。いずれはこうなることもあるだろうと、頭の片隅で考える程度のことはあったからだ。実際に起こったことで当初は動揺したが、今はそれほどでもなかった。
一人の戦士であったティアナをここまで失意に追い込んでいるのは、スミレの死だ。ティアナはスミレが死ぬなどということは、万に一つもありえないと思っていた。自身にそう思い込ませていた。そうして心の準備を放棄していたために、現実を受け入れられないでいる。
「スミレさん……」
育ての親であるスミレとの思い出が、次々と掘り返される。一度は止まったはずの涙が、ティアナの顔を汚していく。
孤独という名の心の毒が、悲しみに暮れる少女を蝕んでいた。




