第三章 01
夢。
夢には様々なモノがある。吉夢、正夢、淫夢、そして悪夢。
片腕を犠牲にして復讐を終え、それと同時に師を失った少女がいた。その現実を、悪夢だと思いたかった少女がいた。
しかしその悪夢が覚めることはない。泣きつかれて寝落ち、そこから目を覚ましても、失った腕は元には戻っておらず、つまり。
「夢じゃ……、なかったんだ……」
ベッドで上体を起こし、右腕のあった場所を確かめたティアナ・ダンデリオンは、渇いた声を出した。
嘘だと、夢だと、悪い冗談だと、何度も自分に言い聞かせ、意識を失うように眠り、そうして朝を迎えたが、わかったことはただ一つ。
今が、現実であることだけだ。
ボロボロと、涙とともに心の中から大切な何かが抜け落ちていく。そんな気分だった。一つが欠けるたびにティアナの心から気力を奪い去るそれは、次から次へと落ちていき、戻る気配はない。
「……ティアナ?」
傍らから、幼い少女の声がした。今までいくつもの戦場を共にしてきた、大切な仲間であるキャルロットの声だ。だが今のティアナには、そんなキャルロットへ反応を示すだけの余裕がなかった。ただ頭の片隅で、いつの間に融合を解いたのだろう、と思うだけだ。
「あのね、ティアナ。腕、なくなっちゃったけど、お医者さんが代わりになるものを用意してくれるって、言ってたの。義手って言って、少しの魔力を使うだけで、本当の腕と同じように動かせるって、言ってたの」
キャルロットは憐れみの強く現れている声で、精一杯にティアナを元気づけようとしていた。スミレの死を無かったことにはできないが、せめて腕だけでも補うことができれば、前向きになれるのではないかと、そう思ってのことだ。
「お金はね、アダチが魔獣を退治してくれたからいらないって。だからまた――」
「また?」
それまで黙っていたティアナが、強い語気でキャルロットの言葉を遮る。
「また戦えるって、そう言いたいの? こんな私に、まだ戦えって、そう言いたいの?!」
傷口に巻かれた包帯を左手でむしり取り、ティアナは傷口を晒した。縫い合わせた上から、魔力によって作られる擬似的な皮膚が貼られていたために、それをもまとめて取り去り、床に叩きつける。
右腕の傷は、縫合されてはいるが未だ生々しく、止血作用もあった包帯を外したことにより血が滲み始めた。赤い雫が、白いベッドに小さなシミを作り出す。
「違うの、ティアナ……。また元気になってって……、言おうと……」
変わり果ててしまった契約者を目にし、キャルロットの瞳に涙が浮かぶ。怪我のことなど、彼女は問題視していなかった。今までにも――腕を失うようなことはなかったが――大怪我をしたことは何度もあった。だがどれだけの傷を負っても、ティアナはいつもキャルロットには笑顔を見せていた。
――大丈夫。
そう言って、心配をさせまいと笑うのだ。
そうして欲しいと願っていた。せめて言葉だけでも、そうあって欲しかった。だがキャルロットの願いは、叶わない。
「キャロ」
ティアナは感情のない声で、言った。
「私とあなたの精霊契約、破棄しましょう」
それは、遠まわしな絶縁の申し出だった。人間と精霊の間にあるのは、本来は契約のみだ。それを捨てるということは、そういう事になる。
「~~~~~~ッ!」
言葉の限りを尽くしてティアナを説得したかったが、激しく沸き起こった感情が、キャルロットから言葉を奪う。喉元までせり上がった思いを声にする術を失った彼女は、逃げ出すようにその場を離れた。
少女の瞳の軌跡に、小さな雫が舞う。
それを見ても、ティアナの心は揺らぐことすらなかった。
虚になった少女の心には、何一つ響かない。
◆
「なあ、これ。アンタの連れの娘じゃないか……?」
何をするでもなく何を見るでもなく、ぼんやりとしていたティアナの耳に、テントを隔てた先から聞きなれない男の声が届いた。
「……そう、ですね。なんですか、コレ?」
それに返された声には覚えがあった。別の世界から現れた、アダチ・ヨシトシのものだ。
「おいおい、見れば分かるだろ」
「すみません。僕、文字が読めなくて……」
男の声からは、あまり良い感情は伺えない。焦りや苛立ち、そこに恐れも加わっている。それは単に、義利の理解が悪いからではなかった。
「手配書だよ、指名手配! ラクス崩壊の元凶って……、そう書かれてる!」
「そんな……!」
話を聞かされた義利はひどく驚いている様子だったが、当事者であるティアナはその処遇に納得すらしていた。
あれだけの大惨事があったのだから、当然ながら街を、そして国を守るために税を費やして存在しているはずの国務兵という機関には、市民から苦情が寄せられる。
本当に国務兵は必要なのか、未然に防ぐことはできなかったのか、この事件が起きた原因は何なのか。そういった市民からの敵意を逸らすために、人身御供を捧げるのだ。今回は、それに最適だったのがティアナだったということだろう。
思い当たる節は、あった。
ティアナは義利をラクスに招き入れている。その義利が魔人であることを知るのは、現状ではプラン・フォーレスとアル・ブロウ、そしてナイト・クロセイとマルセル・ハングマンのみだ。プランに関しては言わずもがな、加えて共闘をしたアルとナイトが口を割る可能性は低いが、マナ・ジャッジマンによる嘘の識別を受ければ、疑惑の一つや二つは浮かび上がるだろう。そして、マルセルの場合は功績のためと喜んで報告をするはずだ。そこから情報の統合をし、生存が確認されていながら行方知れず。そして疑惑ではあるものの、魔人との接点があることから、責任の全てを押し付けることのできる人材として白羽の矢を立てられたのだろう。彼女はぼんやりと予想をする。
「アンタには感謝してる。だから兵士には、この顔を見たことはないと伝えた。だが、もしも罪人を匿っていると知れたら、ようやく取り戻した平穏が脅かされるかも知れないんだ。悪いが、今日中に、村を出て行ってくれ……」
男の言い分は尤もなものだ。罪人を庇うことは罪に値する。それも街を一つ崩壊寸前にまで追い込んだ人物を匿ったともあれば、村そのものが危険因子と判断されて粛清の対象にされかねない。村を思うのなら、恩義があろうとも早々に追い出すべきだ。
「わかり……、ました……」
義利は頭の悪い方ではない。故に、男の言葉を受け入れた。一人分の足音が遠のき、もう一つはテントの中に入って来た。
「や」
小さく手を上げながら、入って来た義利はそんな風に挨拶をする。ラクスでの騒動で傷んだ衣服は、流石にヘーゲンで着替えたらしく、真新しいものとなっていた。
「お見舞いに来たんだけど、いいかな?」
「……今日中に、出発しないといけないんでしょう?」
「聞こえてたんだ……。そりゃあそうだよね。壁じゃなくて布だもん」
潜めた声だとしても、布を一枚挟んだ程度であれば問題なく通る。そんなことはよく考えずとも分かることだ。しかし事が事なだけに、義利はそんなことにすら考えが及ばなかった。義利にその話を持ってきた男にしてもそうだ。彼らにわずかでも頭を働かせる余裕があったのなら、本人のいるテントの前であんな話をしなかっただろう。
たかだか十七年しか生きていない義利には、それだけ重大なことだったのだ。
見知った顔が指名手配されているということは。
「それならさっそく、出発の準備をして。ヘーゲンの人たちのためにも、なるべく早く出たほうがいいと思うから」
義利が急いでいる理由が、口で言ったもの以外にもあることは、その表情からティアナにも読み取ることができた。
疑っているのだ。彼は、ヘーゲンの住人が、懸賞金目当てでティアナのことを売るのではないかと疑惑を抱いている。それは当然のこととも言える。ティアナが魔人を招き入れた罪で指名手配されているということは、何者かが義利とティアナの関係を、魔人である義利と兵士であるティアナの関係を口外していなければならないのだから。
疑いたくはないが、疑うしかない。それが彼らに突きつけられた現実だ。
人など信用できはしない。ほんの少し立ち寄っただけの他所者を相手に、大金を前にした人が欲に目を眩ませる可能性の方がよほど信用できる。
だから義利は速やかな出発を計画しているのだが、ティアナはそうではなかった。
「私のことは置いていっていいから」
義利はティアナの発言に困ったような笑いを見せると、ベッドの脇に置かれた椅子へ腰を下ろした。
彼はこうなるだろうことを、キャルロットの話から予測はできている。そして説き伏せるための言葉も用意をしていた。
「……ティアナ。落ち込むのはわかるけど、聞いて」
共感は、説得をする上では非常に効果的だ。人質を盾にした犯罪者も、時には共感されることで良心の呵責により、悪事を辞めるほどなのだから。しかしそれには条件がある。
相手のことをよく知らないことだ。その者の本心を知っている場合には、共感はあまり効果をなさない。どれだけ共感をしたところで、その本性が真逆に位置している者の言葉であれば、それはただ綺麗事を並べているに過ぎないことになるのだ。
だから、義利の共感はティアナの心を動かすことはなかった。
「……偉そうなこと言わないでよ。あなたにわかるのは理由だけで、私が今どんな気持ちなのかは理解できないくせに」
「そんなつもりは……」
「普通、帰れないと分かっても、帰りたいと思うんじゃないのかしら。なんの覚悟もなく知らない世界になんて飛ばされたら」
「それは……」
意表を突きながら図星を指摘すると、義利は言葉を詰まらせた。ティアナは、知っているのだ。故郷である、ガイアではない世界へ帰れないことが判明した時の義利が笑っていたことを。その時の彼はこうも言っていた。『家族や友達に会えないのは辛いし悲しいですけど、ガイアでは生きてるって感じが実感できるから、もしかしたらそれが嬉しいのかもしれません』。肉親との別れを、たったそれだけの理由で流せるのだ。母親を失った際に自分が受けた悲しみを、そんな風に流せる義利のことがティアナには理解できなかった。そんな義利からの共感には、心が動かなかった。
「大切な人と会えなくなる悲しみのわからないあなたには、二度と偉そうなことを言って欲しくない。殺したくなるわ」
義利へ言葉を投げつける度に、ティアナの心は暗い闇へと落ちていく。彼の言葉が、そしてその前にティアナ自身が拒絶したキャルロットが、どれだけ心配をしてくれているのかを分かってはいた。だがスミレという心の支えを失ったことが、ティアナの感情を黒く染めていくのだ。行き場のない悲しみが、怒りや憎しみに変わり、それが他者への八つ当たりでしか発散することができない。そうして吐き出した言葉により、彼女の心は汚れていく。
「ごめん」
義利に落ち度は何もない。そんな彼に謝罪の言葉を出させたことに、平時であればひどく自分を責めただろう。だが今のティアナには他人に気を配ることができなくなっていた。
「もう一度言うわね。私のことは置いていって」
だから今のティアナにはそんなことが言える。責めるような口調で、言うことができる。
「……それはできないよ」
ティアナからの強い拒絶を受けて、しかし俯いていた義利は顔を上げると、まっすぐな瞳でティアナの目を見つめた。
「なんで? あなたが私のところにいたのは、住むところもガイアでの知識もなかったからでしょう? 今は知識もあるし、住むところだって、あなた一人ならヘーゲンに快く住ませてくれるでしょ。罪人の私と居て得なんてないじゃない」
このヘーゲンに、義利は多大な貸しがある。魔人の驚異から救い、そして魔獣を退治までしたのだ。そんな彼を追い出す理由など、ヘーゲンにありはしない。むしろ引きとめようとすらするだろう。それだけの恩を、彼は売っている。ティアナの手配書さえなければ、彼の知人というだけでティアナのことも受け入れてくれるはずだ。だから、ここで義利が本来取るべき行動は、ティアナを追い払うことである。そうすれば、彼にとっては全てが丸く収まる。
住人に不安を与えることなく、見知らぬ土地を放浪することもなく、国務兵に追われることもない。
それらは義利にも理解できて当然だった。国務兵であるティアナの元で過ごした日々の中で、学び取ることができているはずなのだ。
茨の道と、整備された道を前にして、それでも義利が選んだのは、ティアナと進む茨の道だった。
「損得じゃなくて、僕はキミのことを友達だと思ってるんだ。そんな友達を、一人にはしたくない」
「……友達?」
「そうだよ。まだあんまり長くはないけど、一緒に戦ってきた仲間だし、助け合ってきた友達じゃないか」
共にフレアと戦った。共にエッダと戦った。共にラクスを襲う魔人と戦った。
「私は」
どれもが楽しいことではなかった。しかしその間には幾つもの笑顔があった。言葉の通じないトワとの意志の疎通で頭を悩ませたことも、新たな仲間であるプランと囲んだ和気藹々としていなかった食卓も、終わってからはいつも笑顔でいることができた。できて、いた。
彼と出会ってから今に至るまでのことを思い返す。そこには確かに友情と呼べるだけのモノがあった。初めに抱いていた利用するだけの関係では、少なくともなくなっていたはずだ。
それでも。
「あなたのことを友達だと思ったことなんて、ないわ」
それでもティアナは彼との友情を否定した。
義利の表情が暗く沈む。
「………………そっか」
掠れて消えるような細い声で、義利はそう残すとテントを出た。
一人になった途端、ティアナの胸に自責の念が押しつぶさんばかりにのしかかる。自身の放った言葉がどれだけ醜い感情から生まれたものなのか、それがわかったからだ。
義利を傷つけたかもしれないとは、欠片も考えはできなかった。今のティアナには、自分の感情すらも持て余すのだ。他人を構う余裕など、ありはしない。
兵士としてのティアナ・ダンデリオンは、そこにはいなかった。
ただの十五歳の女の子は、一人の死を悼み、悲しむことしかできずにいた。




