第二章 27 表裏は一体
慰めることが目的とはいえ、アシュリーを抱きしめた義利は、部屋を出てから激しい羞恥の思いに襲われた。実際にしていた時には真心だけでしていたことも、一息を挟んだことで現実感が増し、劣情がわずかに芽を出したのだ。そんな自分に嫌悪するとともに、顔を両手で叩き心を引き締める。まだ油断はできない。ヘーゲンに到着してから半日と経っていないが、警戒を強めるには十分すぎるほどの要因がいくつも上がっていた。
まずは住人だ。義利は以前にもヘーゲンを訪れている。その際には、ファシーレはいなかった。彼だけではない。この宿までの道を義利に教えた男も、ティアナとトワの治療をしている医師も。この度訪れてから今に至るまでの間にすれ違った人物の誰ひとりとして、見覚えがなかったのだ。忘れるはずもない事件で見たために、義利はひとりひとりの顔を覚えている。だが、見知った顔は一切なかった。
次に人の少なさだ。魔人によって半数以上を殺害されたが、それを加味したとしても家の数と比べて人が少なすぎる。ガイアには電力供給のための設備が整っていないが、それでもラクスにはあった、家から薄っすらと漏れる火の明かりが一切見当たらなかった。すべての住人が既に眠っている、などということはあるまいと、義利はそのためにある疑念を抱いている。
――この村は、魔人によって見せられている幻影なんじゃないか……?
アシュリーと離れてその真偽を探るのは危険が大きいが、もしもの時を考え、彼は行動をしていた。居るかもわからぬ敵が一人とは限らないのだ。好戦的なアシュリーに今の義利の疑念が知られ、仮に複数犯だった場合にその内の一人を殺してしまえば、残りの敵によってティアナとトワ――、あるいはその両者が襲われる可能性が高い。
ただの人間として振舞うことで、相手に危機感を与えないようにすることが、義利の狙いだった。
とはいえ彼自身は大きな危険に身を投じることになるのだ。本能のままに動く魔獣を倒せはしても、知性を持って襲い来る魔人には対処のしようがない。
異様なまでに警戒をしながら、義利はファシーレを探す。ロウソクの明かりを頼りに受付までたどり着くと、奥からちょうどファシーレが現れた。
その手に、大量の料理を乗せた盆を持って。
「おう、ちょうど今できあがったところなんだが……、出かけるのか?」
出来立てがうめぇのに、とファシーレは惜しむような声を漏らす。
「すみません、連れの様子が心配で」
「先生にかかりゃあ心配ねえと思うがね。年を食っちゃいるが、腕は確かだから」
「どうしても、自分の目で見ないと安心できなくて」
「……そりゃそうだよなぁ」
しみじみと、共感をするようにファシーレは頷く。怪しい素振りは一切見せていない。だが、彼の存在そのものが幻覚でない保証がない以上、警戒を緩めるわけにはいかないのだった。
「あの、一つ聞いてもいいですか?」
「ん? なんだ?」
慎重に、言葉を選ぶ。下手を打てば自分以外にも危険が及ぶのだ。それだけは避けなければならないと、強く自分に言い聞かせる。
「この村……、異様に人が少なくないですか?」
訊かれたファシーレは、その顔に影を刺させた。言うべきかを悩むようなそぶりを見せ、そして重い口を開く。
「あー……。その、な。ここを襲った魔人ってのが、相当だったらしくてよ、元の住人はほとんどが心を病んじまってんだ……。原因は分からねえんだが、日が沈むと錯乱しちまってよ。だから、今のヘーゲンでは、日が沈む前に基本的にみんな寝るようにしてんだ」
苦々しげに、ファシーレは言った。
「……それで、人が少ないんですね」
「ああ。まったく、魔人さえいなけりゃあよぉ……」
エッダの一件は壮絶なものであり、そのため精神に支障をきたす者もでるだろうと予想はできていたが、実際に聞かされた衝撃は大きかった。暗がりに閉じ込められ、親しい者との殺し合いをさせられる。そうして植えつけられた恐怖心は、ふた月ほどが経過した今も癒えはしなかったのだ。どんな魔法も、医療も、心の傷までを治すことはできない。
当たり前のことではあるがそれを改めて思い知らされる。そして、そのことが義利の心に重くのしかかる。
ファシーレが幻影だとすれば、それを生み出した者に義利はただただ感心させられるのみだ。義利たち一行を陥れるためだけに、二か月前の事件をわざわざ調べ上げる魔人など、居るはずがないからだ。そんな暇があるのなら別の町を襲うことだろう。
先ほどの言葉だけでも、彼が生きた人間だと信用するには十分だった。心に重石が乗ることとなったが、疑いの色が薄れ、ファシーレに対する警戒が緩む。
「えっと、料理はドアの前にお願いできますか? 僕の精霊、寝てるのを邪魔すると機嫌が悪くなるので……」
「おう。しっかり元気づけてやれよ、色男」
「……そういう関係じゃないですよ」
茶化しにかかるファシーレを受け流し、義利は医師のいるテントへと向かった。
◆
「おう、お前さんか」
薄明りの中で机に伏していた医師は、義利の来訪に気づき身体を起こした。
「すみません、起こしてしまいましたか?」
「寝てたわけじゃないわい。ただ、流石にちぃっと疲れたわ」
言って、医師は目の前を指さす。外と中とを区切るテントの布地だ。
「二人なら隣のテントに寝かしちょる。傷はしっかり塞いだが、しばらくは安静にの」
義利にそれを伝えるためだけに今までそうしていたのか、彼はテントを出、どこかへと姿を消した。
医師の背中に向けて深々と頭を下げ、義利は彼の示した先へ足を運ぶ。そのテントの中は、ベッドが二つ並べられているだけの空間だった。二人が顔見知りということもあってか、仕切りはされていない。
外に置かれた松明の明かりは大半がテントに妨げられており、ぼんやりと物の輪郭が捉えられるだけの視界のみだ。
「あ」
暗がりの中で急に声がして、義利はその場で小さく跳ねるように驚いた。思わず後じさり、その際に足をもつれさせ、尻もちをつく。
「わ、すみません。そこまで驚かれるとは思わなくて」
声とは不思議なもので、顔を見て話すのとそうでないのとでは随分と印象が変わる。普段は特に意識をして聞いていないからか、義利は自身を気遣うその声が、まったく知らない、年上の女性のものに聞こえていた。そのため義利は不意を突かれた形になる。
「いや、大丈夫だから。ジッとしてて」
声の主が動く気配を感じ、慌てて起き上がる。声を張らなかったのは、ティアナは眠っているかもしれないととっさに判断したからだ。
つまり、声の主はトワである。
「別に気を使わなくてもいいのよ。私も起きてるから」
即座にもう一つの声が上がる。その頃には暗さに慣れ始め、形の識別ができる程度にはなっていた。元からその中にいた二人にも、今の義利と同程度には夜目が効いているだろう。
「寝顔を見に来たってわけじゃ、ないんでしょう?」
「うん。少し話しをしたいんだ。二人の調子が悪ければ、明日また出直すから、遠慮なく言って」
ティアナに応えるように、義利は言う。
「私は特に問題ありません」
「私も」
二人の了承を得たことにより、義利は頭の中の整理を始める。すると二人はベッドの横に座るような姿勢を取り、トワは自身の脇を小さくたたき、どうぞとそこへ座るように促された。少し遠慮気味に、拳ひとつほどの隙間を開けてトワの隣に腰を下ろし、義利は口を開いた。
「まずは現状の説明からだ。ここはヘーゲンで、二人の傷はちゃんとしたお医者さんに治療してもらった」
「ヘーゲン……。ま、あなたが知ってる場所となると、ここくらいしかないものね」
理解の早いティアナは、ヘーゲンを選んだ理由にすぐに気が付いた。
「知らない街に行くには不安が大きいからね」
「……私のせいでしょうか?」
「違う違う」
トワが申し訳なさそうな声で言ったことを、すぐさま否定する。
「単に、土地勘が少しでもあった方がいいって思っただけ」
「あとは、エッダの時の恩を頼りに、無一文でもなんとかなるだろう、ってとこかしら」
「……言い方は悪いけど、そういう意図があったことも確かだよ」
ティアナの鋭い指摘が入り、義利はわずかにバツが悪い気分となった。
「今いるここは、治療後の人を寝かせるためのテントみたい。アシュリーとストックは、近くの宿にいる。諸々の費用に関しては、魔獣の退治の報酬ってことだから、心配しないで」
「あれ、スミレさんとレパイル、それとプランさんは?」
「……え?」
思わぬ質問が上がり、義利は言葉を詰まらせる。
思い返せば、ティアナはコロナを討滅して以降、朦朧とした意識の中で行動をしていたのだ。そしてネクロとの戦闘の途中で気を失っている。だから彼女は、知らないのだ。
スミレの死を。
「あ、そっか。あれだけ荒れたものね。復興作業に――。でも、それならなんで私たちは?」
話すべきかと悩んでいると、ティアナは思考を広げる。
言うしかない。時間を置けば、期待を持たせてしまえば、それだけ衝撃は大きくなるかもしれない。そうなる前に言わなければ。
義利は、真実を告げた。
「スミレさんは……、死んだ。殺された。負けたんだ、僕たちは」
言葉を重ね、言葉に重みを持たせようとする。一度では聞き違えたと取られるかと考えたのだ。死んだ。殺された。負けた。これだけ並べれば、受け流せはしない。残酷ではあるが、逃避行動をさせるよりはマシに思えていた。少なくとも、義利には。
「死んだって……、そんな……」
彼の言葉は、確かにティアナに届いた。受け流す余地もなく、しっかりと。だが、受け入れることなど、できるはずがなかった。
「嘘よ……。スミレさんが負けるなんてありえない。だって、スミレさんは、誰よりも強いんだから……」
スミレとの付き合いが長いからこそ、ティアナは彼女の強さに盲目的になっていたのだ。幾度もの魔人討滅から無傷で帰還し、幾度も魔人から守られている。彼女からの手ほどきで腕を磨き、己を研鑽してきた。今のティアナを作ったと言ってもいい存在だ。良き親であり、良き師であった彼女は、ティアナにとっては崇拝すべき対象であり、絶対の存在だったのだ。
そんなスミレが死んだことを、受け入れられるはずがない。
途端にティアナは布団を頭まで被った。
「出ていって」
震えた声が、布団を越して義利に届く。泣いていることは顔を見ずともわかった。今は何を話しても無駄だろう。そう思い、義利はトワの方へ顔を向けた。
「トワ。少し移動するけど、体調は悪くない?」
「すみません、まだふらつくので、できれば抱えていただけませんか……?」
「うん。わかった」
ベッドに近づき、背を向け、腰を低くする。そこへトワは体重を預け、義利の首に腕を回した。
「よいしょ」
気合いを入れなければ持ち上がらないほど重いわけではなかったが、つい義利の口からはそんな掛け声が漏れた。それをなかったことにして、軽く跳ねるようにトワをしっかりと抱え直し、テントの出入り口に向かう。その際、声がした。ティアナの声だ。
ティアナの――、涙声だ。
「…………ママぁ……」
母親を探し求める子供のようなその声が、義利にあることを思い出させた。忘れていた――のではなく、失念していた。ティアナの過去を、その出来事を。
彼女は既に一度、家族を失っているのだ。近しい者の死は、そう簡単に受け入れられるものでも、乗り越えられるものではない。ましてや幼い頃の出来事で、今もまだ十五歳の、年頃の女の子だ。二度目の家族の喪失。それがティアナの過去の記憶を掘り返させることになることなど、考えもしなかった。
復讐を胸に戦っている彼女が、未だ母親の死によって苦しんでいるかも知れないと、考えることができなかったのだ。
逃げるように彼はテントを出た。
「……僕は、なんてバカなんだ……」
後悔が、義利の胸に押し寄せる。どれだけ普段の態度がしっかりとしていようとも、ティアナはまだまだ子供なのだ。大人ではない義利から見ても、十分に子供だ。食卓に好物が並べば目を輝かせ、苦手なものが並べば表情を曇らせるような。
親を失ったことのない義利には計り知れない悲しみのはずだ。それを一方的に、希望を持たせるくらいなら、そんな理由で押し付けてしまっていたのだ。
隠すべきだった。言うべきではなかった。
「アダチさん……?」
背中から、トワが心配をして声をかける。
「ごめんね。自分の頭の悪さに凹んでるだけだから」
「いえ、アダチさんの選択は間違いではありませんよ。今回の場合、早く知らせないと。遅くなった分だけ衝撃は大きくなりますから」
「僕もそう思ったんだけど、あんな声を聞かされちゃあ、ね……」
何も知らずに生き続け、そしていつか知ることになれば、知らずにいた期間の自分を恨むだろう。だから、そうなる前にと知らせたことは間違ってはいない。
ただし、間違っていなければ正しいのかというと、そうではないのだ。
今回の戦いで、義利はそのことを何度も痛感させられた。正しさ――、つまりは正義とは、主観的存在でしかない。ある人物から見れば正しい行いも、別の人物からすれば悪しき行いとなる。悪魔のための正義は、人間のための悪行に。人間のための正義は悪魔にとっての悪行に。立場が変われば意味が逆転してしまうような、そんな脆く薄いものが正義なのだ。
正義。
悪。
それらはまさにコインの裏と表のようだ。決して交わることはなく、しかし裏がなければ表もなくなる。二つで一つの存在だ。
そこまでを頭に浮かべ、突然義利は小さく噴き出した。
「正義とか悪とか。そんなこと、日本で生きてたら悩むこともなかったんだろうな……」
月を見上げる。天高くあるそれは、地上の人々を見守っているようにも思え、同時に見下しているようにも思えた。
お前は正義なのか、悪なのか?
思わず口にしかけた言葉を飲み込み、小さな命を背負った少年は前へ進む。




