第二章 23 敗走と撤退
足立義利は決して強い人間ではない。
ましてや完璧とは程遠い存在だ。
死を目前にした彼が抱いたのは、ただ純粋な恐怖だけだった。
ネクロが拳を振り上げた。
今までの戦闘により、その威力は知っている。
魔人の体をいとも容易く貫くことができる力だ。
一度はそれを心臓に受けた。
そして運良く命を拾い、今度は完全に奪い去られようとしている。
ネクロが狙っているのは頭部。脳の破壊だ。
そこからの蘇生は魔人といえど不可能だろう。
それを見越しての攻撃だ。
初撃で頭部を破壊され、その後には死体を肉片に変えられるだろう。
想像するだけで義利は泣きそうになった。
戦うことも、本当であれば避けたかったのだ。
話し合いで解決できれば、それほど素晴らしいことはない。
それが彼の理想だった。
だが現実は甘くない。
誰も不幸にならない世界。
悪魔の虐げられない世界。
義利とネクロ、二人の掲げるそれらは、似て非なる理想だった。
義利の理想の中には、当然悪魔の救済も含まれている。
それでも、それはあくまで義利個人の理想でしかない。
人間のすべてが同じ意思を持っていれば、ネクロの理想も実現されるだろう。
しかし人間の中にある悪魔への敵対意識は、簡単に拭いされる物ではないのだ。
何世代にも渡って敵対してきた存在を、そう易々と受け入れることなどできる訳がない。
そのためネクロは悪魔優位の世界を作るために戦いを始めたのだろうと、義利は考えている。
誰も彼もが聖人を圧倒できはしないのだ。
実際に何体もの悪魔が聖人によって討滅されている以上、殺されぬように怯えて身を隠して生きる悪魔も多数存在するのだろう。
仲間をひとり残らず救うためには、人間を支配するしかなかった。
そんな風に、ネクロが戦う理由も推し量れてしまう。
それを知りながら戦うのは、義利が弱いからだ。
筋力だけの話ではない。
誰にも負けない知識があれば、解決策を見出すことも可能なはずだ。
それが義利には、無かった。
悪魔と人間を共存させるには、魔力の問題が立ちはだかる。
莫大な魔力を必要とする悪魔には、人間の命が必要だ。
それを解消するすべが思い浮かんでいれば、ネクロとの戦闘も、ここまでの被害を出すこともなかった。
知力があれば、こんな事態にはならなかったのだ。
自分の弱さと不完全さを認識しながらも、義利はそれらから目を背けはしない。
弱さの結果、自分は死ぬ。
不完全さの結果、多くの人が死んだ。
それを強く噛み締めることが自らの行為に対する責任だと、彼はそう考えている。
だから義利は、恐怖にも目を瞑らなかった。
だから義利は、それを目撃することができた。
風になびく黒の長髪を。
この世界では珍しい、三日月の如き細い刀剣を。
それがネクロの拳を止めるその瞬間を。
「よくここまで持ちこたえてくれた。感謝するぞ、義利」
原島スミレ。
義利の知る中で最強の聖人が、ネクロの前に立ちはだかっていた。
「スミレさん……!」
しかし彼女の前にいるのは、同じく義利の知る中で最強の魔人だ。
スミレは義利の方へ目をくれることもなくネクロをその鋭い瞳に捉え続けている。
一瞬の油断が命取りになることを、瞬きすらも死につながることを、彼女は歴戦の経験から肌で感じ取っているのだ。
「聖人か……」
突然の乱入者にも動じることなくネクロは対応する。
強者の余裕だろう。
どれだけ邪魔をされようとも問題ではない。
そんな自信が見て取れた。
「これでラクスの戦力は全てか?」
「ああ。おそらくな」
ネクロの問いにスミレは曖昧に答える。
おそらく、ではなくこれが全てだ。
限界を引き出した義利をも退けたネクロを相手に戦力として数えられるとすれば、スミレ以上の実力を有してなければならない。
プランやアル、ナイトという聖人はいるが、彼らでは足止めはおろか時間稼ぎすらままならないだろう。
もしもスミレが敗北すれば、ラクスはそれまでだ。
「スミレ––、とか言ったな。死にたくないならそこをどけ」
「いいや。断る」
スミレはネクロを押しのけるように剣を振り払った。
僅かに刀が皮膚を裂いた瞬間に後ろへと下がったために、ネクロの損傷は小さな切り傷のみだ。
「いい刀だ。……そしてお前も、武器に見合っただけの力はあるらしいな」
少量の血を舌で舐めとり、ネクロは傷口を見せつける。
「だが、この程度の傷では俺を殺せはしないぞ」
義利の攻撃すらも通じず、スミレの刀でも小さな傷をつけるのがやっと。
そのうえ魔人の修復能力もある。
絶望的な状況を再確認させられながら、義利は一つの疑問を抱いた。
「傷の治りが、遅い……?」
一歩を引き、言葉を発し、傷を見せつけ……。
その頃にネクロの傷は塞がった。
人間からすれば十分に驚異的な再生能力だが、そこに義利は違和感を覚える。
傷がついてからおよそ五秒ほど。
手足の切断すらも数十秒で治るというのに、かすり傷程度の修復でそれほど時間が必要なのかが不思議だった。
しかしそれについての疑問を掘り下げる余裕はない。
「アシュリー、義利から主動権を奪え」
「何を––」
スミレの言葉と同時に、義利はアシュリーに身体を奪い取られる。
先ほどのように抵抗するだけの時間がなかったために、いとも容易く主動権はアシュリーの手に握られた。
「……お前、こうなることも見てたんじゃねえのか?」
静かな怒りを燃やしながらアシュリーは言う。
スミレは事前にいくつかの助言をアシュリーにしている。
未来を見通せる能力を使い、一連の騒動を知らせていた。
つまりは義利が命令を使い命を減らすだろうことも、彼女には見えていたはずなのだ。
だというのにそれを教えなかった。
そのことにアシュリーは怒りを高めている。
もしも知っていたとしても命令を使われてはそれまでだったが、それでも怒りの矛先を向ける先がスミレにしかないのだ。
今にも掴みかからんばかりの勢いであるアシュリーを、スミレは突き飛ばした。
「何しやがる!」
怒りで周りが見えておらず、加えて突然のことで反応ができなかったアシュリーは尻餅をつかされた。
怒りに屈辱が合わさるが、そこから生まれた熱はすぐに消え去る。
スミレの登場から今に至るまで、アシュリーは彼女の背中しか見えていなかった。
なぜならスミレは義利を庇う形で戦っていたのだから。
だからアシュリーは知らなかった。
すでにスミレが戦える状態ではないことに。
「お前……、なにがあったんだよ!」
顔は、頬のあたりが腫れ上がっているのに対し、眼球は陥没していた。
耳は酸で溶かしたようにただれており、それと同様の痕が身体の前面、いたるところに現れている。
鎖骨、肋骨はそれによってか外気に晒されていた。
アシュリーはスミレのことを高く評価している。
一度拳を交えたために彼女の力を知っているからだ。
自分を追い詰めたスミレがそれほどまでの傷を負わされたことが信じられなかった。
何があったのか、誰にやられたのか、なぜそうなったのか。
それらを問うアシュリーの質問に対し、スミレは答えなかった。
「逃げろ」
代わりに彼女が口にしたのは、その一言だけだ。
それ以上は聞くまでもない。
スミレの潰れた目が、それでも全てを語っていたのだ。
アシュリーはその目を知っていた。
死にゆく者の、覚悟を決めた目だ。
それ以上を言葉にすることなど、アシュリーにはできなかった。
何も聞かずにティアナを連れて逃げること––それがスミレに対する、アシュリーからの最大限の敬意だった。
「逃がすか!」
アシュリーの背中を追うために飛び出したネクロだが、彼はスミレによって行く手を遮られる。
「行かせると思うか?」
左手のみで刀を支え、ネクロの足を止めさせた。
衝突により生まれたわずかな静止を突き、スミレは空いている手で自身の傷を素早く撫でる。
それだけで彼女の傷は跡形もなく消え去った。レパイルの能力だ。
治癒でも修復でもなく、復元。
傷を治すのではなく、直すこと。
ネクロを相手取るのに彼女が選んだのは、未来を見て相手の動きを先読みできるストックではなかった。
「これでいい……」
二度の防御により亀裂が走った刀も復元し、スミレは独りごちる。
アシュリーがティアナを回収しただろうことは見ずともわかった。
友好は結べなくとも信頼は築いていたのだ。
だからスミレは振り向くことなく、心置きなくネクロと戦うことができる。
ネクロの次なる拳が振るわれる前に、スミレは動きに支障がない程度にまで傷を直し終えていた。
レパイルの復元はその速度においては魔人の再生能力をも上回ることが出来るのだ。
多大なる対価と引き換えに。
「おいおい……。たかが聖人如きで俺の相手が務まるとでも?」
拳でスミレの刀との押し合いをするネクロの顔には強い怒りが見えている。
義利に止めを刺しそこねたからだろう。
正義をぶつけ合う戦いを妨害されたことは、ネクロにとって不愉快この上ないことだった。
怒りで身体が小刻みに震えている。
理性で押さえ込んでいる感情が爆発するのも時間の問題だろう。
そんなネクロを前に、スミレは飄々と言う。
「たかが聖人。そんな私に、お前は足止めされてるってわけだ」
挑発、だった。
スミレは全てを見終えている。
ティアナたちがラクスを脱出するまでにかかる時間もだ。
それまでの時間を稼ぐことが彼女の目的だった。
いくつもの可能性を見て、その中で自分の守りたい者を守れる可能性が最も高い方法がこれだったのだ。
自分だけが助かる選択肢はいくつもあった。
死者数を現在よりも少なくできる可能性もそうだ。
それらを捨てて、スミレは今の道を選んだ。
命をとしてでも守りたいものがあった。
だからスミレの顔に迷いはない。
「いいだろう。その挑発に乗ってやる」
ネクロの発したその言葉に、スミレはニヤリと笑ってみせる。
「これで未来は決まった」
二人の間には交える言葉などない。
戦いは、鐘の音もなく始まった。
◆
逃げる。
一目散に。
振り返らずに。
立ち止まることなく。
アシュリーは意識のないティアナを抱え上げ、ネクロから逃走した。
『アシュリー戻って! スミレさんがまだ!』
義利の懇願をも無視して、ただひたすらに逃げる。
戻ったところで何の力にもなれない。
であれば、今のアシュリーにできることは、逃げることだけだった。
スミレが守ろうとしたティアナを連れて、アシュリーが守りたい義利の身体を使って。
ただし逃げるのはネクロからだけではない。
この街、ラクスから逃げなければ、いずれは追いつかれてしまう。
––遠くへ。
その思いからアシュリーは通用門を目指し、そしてたどり着いた。
だが問題はそこからだ。
ラクスの壁の構造を知らぬ者はいない。
魔人が触れれば魔力を根こそぎ吸い取られる。
そういう魔法が施されているのだ。
だからと言って飛び越えようとすれば、上空に張られている結界によって、同じく魔力が奪われる。
門を開かなければ。
その方法を考えていると、瓦礫の影から声がした。
「ああ、アダチくんッ……、ですよね?」
プランだ。
半信半疑な様子で声をかけてきたのは、義利の髪型の変化によるものだろう。
「お前……、こんなとこで何してんだよ」
彼女は戦いに参加することなく身を隠していたらしい。
少々の汚れはあるが、傷は一切見られなかった。
そんな彼女に、アシュリーは信じられないものを見たように目を丸くする。
「あ、アシュリーちゃんでしたか。あれ? ダンデリオン指長?」
「何してんだって聞いてんだよッ!」
とぼけた態度のプランに対し、アシュリーの怒号が飛んだ。
胸ぐらを掴み上げ、額を突き合わせる。
「アタシもティアナも死にかけた! スミレも今、死ぬ気で戦ってる! それなのにお前はッ! 一人で隠れてやがったのかァ?!」
「ち、違います……。私は、街のみんなを守るのに手一杯で……」
あまりの気迫に圧されて涙目になりつつ、プランは自分が出てきた瓦礫のあたりを指差した。
その瓦礫の下から不自然に木の枝が覗いている。
「グロウの力で、簡単な避難場所を、地下に……」
嘘ではない。
植物を操る能力を用いて、彼女は地下にシェルターを形成していた。
わざわざ瓦礫の下に作り出したのは、魔人から発見される可能性を少しでも減らすためだ。
「だったらなんで、作り終わった時点で加勢に来なかった?!」
一度シェルターを完成させれば、プランがここに残る必要などない。
魔力でのみ作られるティアナの壁とは違い、プランの能力で育った植物は、術者であるプランが死のうとも消えることはないのだから。
「ま、万が一にも魔人が避難所を攻撃してきたら、補強しなきゃじゃないですか……」
怒りのままに言葉を放つアシュリーだが、その一方でこれがただの八つ当たりでしかないことを自覚してもいる。
プランの力ではネクロを倒すことはできず、能力の相性からしてコロナの相手も厳しいだろう。
ここに残り、もしものために備えていることが利口だと、わかっていながらそれでも怒りを吐き出さずにはいられなかった。
そうしなければ自分を保てそうになかったのだ。
「クソッ! クソがぁああッ!!」
もはやアシュリーは自分が何に対して怒っているのかも分かっていない。
ただ内心で渦巻いている不快感を発散させるためだけに、ついには地面に当たり始めた。
手の付けようがないほどに荒れているアシュリーに、プランは困惑するのみだ。
そもそもプランは別の目的のためにアシュリーへと声をかけたのだが、このままではそれを果たすこともできそうにない。
どうしたものかとアタフタするだけのプランの横を、小さな光の球が通り抜けた。
そしてそのまま暴れるアシュリーへと接近する。
「や。ずいぶん荒れてるね」
「誰だ!」
「僕だよ。……って言っても、これじゃわからないか」
光の球は答えると光量を上げ、人の形となった。
「お前……、たしかストックだったか?」
「なんだ。あんまり顔を合わせてないから、てっきり覚えてないと思ってたよ」
「何の用だ? アタシは今イラついてんだよ」
地面で多少のストレスを発散させても、それだけではアシュリーには足りない。
いや、今の彼女は何をしたところでその怒りの全てを発散させることなどできやしないだろう。
アシュリーの感じているストレス。
それは自分自身が原因で、さらにはそれを自覚していないからこそなのだから。
「いや、なに。僕はキミらについていくようにスミレから言われてるんだ」
「だったらこの門を開ける方法を教えろ」
「悪魔の君が通してもらえるとでも?」
開けようにも魔人である以上は通されるはずがない。
融合を解いたとしても、状況が状況であるために人間態の確認をされるだろう。
義利だけでなら通ることもできるが、外には魔人がいる可能性が残っているうえに、そうでなくとも彼一人では野生動物に殺されかねない。
ラクスに残ったアシュリーも、アクター無しで生き残れる保証はないのだ。
つまり、手詰まりだった。
「チクショウが……!」
「とりあえずさ、アクターと変わってよ」
「ふざけんな! 今ダッチに変わったら何するかわかんねーんだよ!」
まず間違いなくスミレの元に向かおうとするだろう。
それだけは阻止しなければならない。
もしもそうなれば、死以外にはないからだ。
「君とじゃ話が進みそうにない。なんなら融合を解きなよ。そうすれば君のアクターは、ただの人間でしかないんだからさ」
ストックからの侮辱とも取れる言葉に再び暴れだしそうになるも、融合の解除という意見は大いに受け入れられた。
アシュリーは先程から、主動権を義利に奪われまいと必死で抵抗もしていたのだ。
魔力の操作を覚えたからか、義利が主動権を奪うことも可能になりつつあった。
しかし融合を解けばその心配もなくなる。
すうっ、と義利の体から離れた。
その瞬間に義利は駆け出す。
「プラン! その馬鹿を止めろ!」
「は、はいっ!」
アシュリーからの指示に、驚きながらプランは従った。
地面から伸びてきた木の根が義利の足に絡みつく。
「プランさん……、放してください……」
力なく、義利は言う。
「すみません、それはできません」
アシュリーが恐ろしいからではない。
生身で戦場に戻ろうとするなど、とてもまともではない義利を自由にしておくことはできなかったのだ。
長い付き合いではないが、プランは彼に対してそこまで無関心ではなかった。
「スミレの死を無駄にしたいのかな、君は」
そこへストックが割って入る。
「スミレは君たちを逃がすために命をかけて戦っているんだよ。そこへ戻ることがどういう意味なのか、少しは考えなよ」
言い返せは、しなかった。
義利もわかってはいるのだ。
行ったところで何もできはしないことなど。
スミレの覚悟を無駄にする行為であるとも。
だがそれは、あくまで理屈だ。
スミレを死なせたくない。
ネクロとの決着は自らの手で付けたい。
その思いこそが義利の本音なのだ。
理屈と本音。
どちらを取ろうとも義利には後悔しか生まれない。
そのため言い返すことができなかった。
「……僕は、どうすれば……」
「今の君にできることは、ティアナを連れて逃げることだけだ。素直にそうすればスミレの思いは報われて、ティアナの命も助かる」
そして義利は、スミレを助けに行かなかったことを悔やむだろう。
だが今の彼にはそれこそが最良の選択だ。
スミレの元へ向かったところで無残に殺されるだけ。
どころか、重傷のティアナも命を落としかねない。
逃げるだけで二つもの命が助かるのだ。
それ以外の選択は、在ってないようなものだろう。
「僕がもっと強ければ……!!」
ネクロに負けないだけの力があれば、スミレを助けに行くこともできる。
そもそもこれほどまでの事態にはならなかったはずだ。
今の事態は義利にとって、全て自身の力不足が招いた結果でしかなかった。
悔しさに、彼は思わず涙を浮かべる。
「泣くのは後にしてくれ。今はラクスからの脱出だけを考えるんだ」
「……どうすればいい?」
「なあに、簡単だよ。今なら上はガラ空きなんだ。飛び越えるだけでいい」
「……は?」
「はぁ?!」
あまりにも平然と言われ、義利は思わず聞き返す。
さらには地面への八つ当たりに勤しんでいたアシュリーまでもがその言葉には食いついた。
「てめぇ、さっきは門は通れねえって言ったじゃねぇか!」
「門を通ることはできないよ。だから壁を越えるんだ」
「馬鹿かてめぇは。んなことしたらアタシが消えちまうだろう!」
「馬鹿は君だよアシュリー。上の結界がどうやって張られてるのか知らないのかい?」
言われ、アシュリーは口を閉ざす。
街への侵入を試みた悪魔が死んだということ自体は知っているが、その結界がどういう成り立ちなのかまでは知らなかったのだ。
「結界を作っている魔法陣は、街そのものなんだ。家の並びや植木の配置が陣を形成してる。だから、街がこうなっている今、結界はない」
「……信じていいのか?」
「不安なら、空に向かって電撃でも飛ばせばいいんじゃないかな?」
疑いの眼差しをストックに向け、それからアシュリーは壁の上へと狙いを定めて細い電気を飛ばした。
もしも結界があるのなら、壁を越える直前でかき消される。
そうなることを予想していたが、電撃が消えることはなかった。
「……マジか」
あまりの驚きに、アシュリーは怒りを忘れて唖然とさせられる。
「さ。これで安心して越えられるだろう?」
「ああ。そうとわかりゃあ、さっさと行くぞ」
「ち、ちょっと待ってください!」
ようやく行動が決まったところへ、今度はプランが割り込んだ。
「わ、私! アイランド隊長から言伝を預かっていて!」
アシュリーが平静を取り戻した今しかないと、ようやくにして彼女は目的を果たそうとしていた。
「んだよ。なら先に言えってーの」
「……とても言える状況じゃ––」
「何か言ったか?」
「いえ、何も!」
口は悪いが平時のそれと概ね同じだ。
強いて言うなら少しばかり刺が鋭いくらいで、今ならプランも物怖じすることなく話すことが可能だった。
「伝言は四つです」
ぴっと四本の指を立たせ、プランは言う。
「馬車は使うな。まずは身体を休めろ。ティアナの故郷を目指せ。それと––」
区切る事に指を一つづつ折りたたみ、最後の一本を残したまま、プランが一度その場を離れる。
そして瓦礫の下へと潜り込み、そこから布に包まれた何かを持ってきた。
小さな子供ほどの大きさのあるそれを義利へと差し出し、彼女は最後の伝言を告げる。
「この子を守ってやれ。以上です」
プランから渡されたそれは、ステイム・オーテルの元で保護されているはずだったトワだった。
スミレが回収し、プランへと預けて行ったのだろう。
そうすることがトワのためになると、おそらくスミレは予知したのだ。
任された仕事を終えたことで、プランは僅かに肩の力を抜く。
「さ。では皆さん。またいつの日にか会いましょう」
そして、深く頭を下げた。
「プランさんは来ないんですか?」
「ええ。だって、まだ終わっていませんから」
ラクスの戦闘は終わったわけではない。
動く死体も未だ絶えずに人に襲いかかっているだろう。
それらを捨てて、義利たちは逃げるのだ。
全てを捨てて敗走することを、義利は改めて理解する。
そして、その前にプランには伝えなければならないことがあった。
「……僕は今回、たくさんの人に魔人の姿を見られました」
人を助けるためとはいえ、魔人になった姿を見られたのだ。
身内の死体を壊した犯人のことを忘れることはないだろう。
事態が終息したとしても、もうこの街には帰れないと、暗に義利は伝えようとしていた。
「知ってます」
「……だから、プランさんの言ったいつかは––」
「来ます」
今生の別れを伝えようとする義利の言葉を、プランは強い意志のある言葉で遮った。
「私は知っているんです。あなたが––、白い魔人が助けてくれた。そう言っている人が居ることも」
義利の胸に、じんわりと温かい熱が生まれる。
死体の破壊は憎しみしか生まないと思っていた。
しかしその行いの意味を汲み取ってくれる人も確かにいたのだ。
その事実を知り、そしてプランからの信頼を知り、ほんの少しだけ救われた気持ちになる。
だが同時に、逃げることへの抵抗は強くなった。
そんな彼の背中を押したのは、プランだった。
「アダチくんは十分戦いました。だから、あとは私に任せてください」
「でも……」
「そんなに私のことが信じられませんか?」
それが強がりでしかないことなど明らかだ。
義利でも––、スミレですら敵わない相手にプランが太刀打ちできるわけがない。
そのことを一番知っているのは本人のはずだ。
自分よりも少しだけ年の若い少年を逃がすためだけに、プランはそうしている。
「これで最後にしたりしません。いつか貴方たちと同じテーブルで楽しくご飯を食べられることを信じています。そうなるように力を尽くします。騒ぎが収まるまで、この街があなたたちを受け入れられるようになるまで、ほんの少しのお別れです」
笑顔で別れようと、プランはそう決めていた。
たかが一ヶ月あまり。
しかしその密度は、別れを惜しむほどには濃かった。
それが今生の別れになるやも知れぬと思えばなおさらだ。
溢れ出す涙をこらえることはできなかった。
「必ず……、必ず帰ってきますから!」
別れの挨拶が終わると同時、アシュリーは義利との融合をした。
そして両脇にそれぞれ人を担いだまま膝を曲げ、跳躍の姿勢に入り、呟く。
「……またな」
直後に勢いよく飛び上がり、アシュリーは壁を越えた。
その背に向けて、プランは目一杯の声で叫んだ。
「必ず、また会いましょうッ!」
その声は、確かに彼らに届いていた。
◆
「スミレ……、といったか……」
荒く呼吸をしながら、魔人ネクロは壁にもたれて移動する。
ズルズルと、その血で壁に線を引きながら。
「しかしどういう仕組みだったんだ? 戦えば戦うほど幼くなるとは……」
先ほどのスミレとの戦いを思い返し、魔人は独り言を呟く。
「それだけは、聞いておくべきだったか」
スミレとの死闘で消耗したネクロは、その疲れから僅かに回復すると、壁を飛び越えて姿をくらませた。
一連の騒動の終わりはあっけなく、それを知り得たのは生存した聖人のみだ。
ラクスの生存者全員がそれを知るまでに半日がかかり、そこからようやく救助活動が開始された。
被害の発生源であり、壮絶な戦いの繰り広げられた痕のある中央広場では、一人の少女の亡骸を除き、すべてが肉片となっていた。
奇跡的に唯一無傷だったのは黒い髪をした、十歳ほどの少女だった。
その身元は分からず、最終的に誰にも引き取られることなく埋葬された。
いくつもの、名のない墓の中へと。




