第二章 16 ひと雫の希望
融合状態での死は二つの命の喪失となる。人間と精霊の二つだ。だがアシュリーは、ネクロからの攻撃を受ける直前、まさに紙一重のタイミングで融合を解いていた。それも意図して行ったことではなく、反射的にとった行動だ。そのため、通常であれば灰となり消えるはずの義利の肉体は霧散することなくその場に留まり、アシュリーは死を免れている。
最悪の状況で唯一の救いがあるとすれば、それだけだ。
単身の悪魔には魔人に抗えるだけの力などなく、運良くアシュリーが他の人間と契約を結ぶことができたとしても、その人間がネクロに立ち向かおうとする可能性はゼロに等しい。加えて、アシュリーにはもはや一片たりともネクロと戦う意思が残されていなかった。それほどまでに完全な敗北だったのだ。戦闘狂のアシュリーが二度と会いたくないと思うほどに、ネクロは強大だった。
同じ魔人でありながら、人と魔人ほどに力の差があった。そのネクロの前に、人間はあまりにも無力だ。体は紙のようにあっさりと貫かれ、骨は枝のように容易く折られ、頭蓋は木の実のように握りつぶされる。抵抗らしい抵抗といえば方々に逃げることで追う手間を作るくらいのものだった。
次元の違いとも思える力量の差に、街は悲鳴と死で溢れ返っている。大人も子供も、男も女も、差別することなく蹂躙されていく。その死は更なる死を招くのだ。死体を操るというネクロの能力により、死んだはずの家族が、恋人が、隣人が、襲いかかってくる。死が死を招き、加速度的に増えていくのだ。
「なぁ、起きろよ……」
死にゆく者の悲鳴を耳にしても、アシュリーはたった一人の少年に寄り添っていた。少年はまだ暖かく、その顔は眠っているだけのようにも見える。だが、心臓があるべき場所には空洞があるのだ。その状態で生きていられる人間など、この世界にはいない。
呼吸も、既に止まっている。
「このままじゃ、みんな殺されちまうぞ?」
アシュリーの言葉に答えるものはいない。広場には既に二人の姿以外には見えなくなっていた。
「起きろって」
返事がないことはわかりきっている。それでもアシュリーは亡骸に向けた声を発する。
死は、アシュリーにとって身近なコトだった。人間よりも長い時を生きる精霊にすれば、それはありふれたコトなのだ。
義利が死んだら。そんなもしもを考えたことがなかったわけではない。人は脆弱であると知っている彼女には、そんなもしもが遠からず訪れるだろうと、思っていた。
だが此度の死はあまりにも突然のことだったのだ。それも、アシュリーが自信を喪失し、自我を見失いかけていた間に起こった。彼女からすれば、いつの間にか死んでいたのだ。
これまでに九人の契約者との死別を経験しているが、それらには全て前触れがあった。
ある者は力を使い果たして死に。
ある者は聖人との戦いに疲弊して自害し。
ある者は魔力という名の毒に犯されて死んだ。
そのどれもに、前兆を感じていたのだ。だが義利の場合はあまりにもあっけなさすぎた。太刀打ちできない相手を前に逃げなかったことが前触れといえばそうだが、それにしてもあっけがない。善戦もせず、拳を交えることもなく、ただの一撃で完全に破壊されてしまったのだ。
「ダッチ……」
思い返せば、ひと月もの間を誰かと過ごしたのはアシュリーには初めてのことだった。だからだろう。同じ時間を長く過ごしただけで愛着が生まれ、その相手が死んだだけで心に空白が生まれるものだと、彼女は知らなかったのだ。
痛みには慣れているはずのアシュリーを、耐え難い痛みが襲った。肉体には損傷などない。だというのに身を裂くような痛みがいつまでも彼女を苦しめていた。
「ア、シュリー……?」
人のいなくなったはずの広場で声を聞き、アシュリーはゆっくりと振り向く。トワだった。隊舎で待っているはずの、義利を強く慕う少女だ。トワを見て、アシュリーの痛みが強くなる。
「アダチさんに……、何があったの?」
トワは顔を蒼白にし、義利の傍に膝を着いた。医者でなくとも、その様子を見れば彼が死んでいることなど明白だ。
「なんで……」
「負けたんだ……」
トワの悲嘆にアシュリーは消え入りそうな声で返す。するとトワは、アシュリーの頬を思い切り張った。
「今すぐアダチさんと融合して」
涙目になりながらも、小さな少女は気丈に振舞う。
「無理だ……。魔人になっても、死んだヤツは生き返らねぇ」
魔人の修復能力が働くのは生きている間のみだ。死んでしまえば切り傷の一つも治りはしない。
アシュリーの生気のない言葉を無視するように、トワは義利の身体に空けられた穴に右の手を挿し込んだ。
「昔、本で読んだことがある……。人間は首を落とされてもすぐには死んだことにはならないって。だからまだ、息を吹き返せるはずッ!」
トワは息を大きく吸い込むと義利の口を覆うように自身のそれを重ね、空いている手で彼の鼻を塞ぎ、息を吹き込んだ。人工呼吸だ。だが、心臓の無くなった身体に酸素を送っても意味がない。脳の酸素を保つためだとしても、全身に酸素を運ぶ役割を果たす器官が無いのだから。
「……やめろよ。もう、ダメなんだ」
「ダメじゃない……!」
アシュリーの静止を無視してトワは繰り返す。
魔人の修復能力は脳から来るものとされている。故に心臓だけを破壊した場合では、外傷は修復されるのだ。しかし心臓が正常に機能していなければ、やがて脳が死に至る。魔人を討滅する際に脳か心臓を破壊するのはそのためだ。
つまり今の義利は、どれだけ手を尽くしたところで立ち上がることはないのだ。
「ダッチは死んだんだ」
「死んでない!」
強く、少女は言い切る。
いったいどこからそんな自信が、と呆れかけたアシュリーが目にしたのは、トワの右手だ。正確には、右手とその周囲の異変だが。
トワの触れている箇所で、血液が流動していたのだ。滞ることなく、一定の速さで。
それを見てアシュリーは思い出す。
「そうか……、お前の能力は」
トワの能力。それは液体を操ることだ。
『液体』というが、それは便宜上のことである。液状であれば操ることが可能なのだ。液状固体や、混合物であろうと、その比率が液体に僅かにでも偏っているならば、操ることができる。
トワは自身の能力を駆使し、かつ人工呼吸をすることで生体の維持を図っているのだ。
「はやく、融合を!」
奇跡、とでも言うべきだろう。偶然にもアシュリーが生存しており、偶然にもネクロが義利の脳を破壊せず、偶然にも液体を操る能力を持つトワが、偶然にも義利の心臓が破壊されて間もなくこの場に現れ、延命処置を行った。たった数分の間に四つの偶然が重なるという偶然が起きたからこそ、ほんのわずかな希望が生まれたのだ。これを奇跡と言わずして何を奇跡と言えるだろう。
アシュリーはトワの言葉と同時に霊態となり、義利との融合を開始する。
「死なないで……。まだ、あなたに何も恩を返せていないんだからッ!」
心停止から脳死までの時間は五分とされている。時間的には蘇生の可能性は十二分にあった。
だが、傷の修復は一向に始まらない。
「なんで……、まだ生きてるはずなのに」
生きている。確かに義利は未だ完全なる死を迎えてはいない。だからこそ、彼の傷は治らないのだ。
「まさか」
聡い少女はその理由に思い至る。
「脳のダメージが優先されてるんだ……」
魔人の修復力は、より重度のモノから優先して働く。骨折と四肢の欠損であれば、流血により死に至るだろう欠損が優先され、その欠損が修復された後に骨が治るように。義利の肉体は心臓の修復よりも、延命処置が行われるまでに受けた脳の損傷を優先しているのだ。
延命をしていようとも、トワが心臓の代わりとして全身へ血液を巡らせようとも、それは正常とは言い難いものだ。刻々と脳へのダメージは蓄積していく。そしてトワの能力でも、心臓の代わりを十分に果たせたとしても外傷からの出血を止めることはかなわない。こうしている間にも義利の血液は流出し続けている。
体内の血液量が減少すれば、その分脳への酸素量が減ることとなり、損傷を生むことになる。魔人の修復力が、進行していく損傷と釣り合っているのが今の状態なのだ。そしてその天秤はジリジリと偏っている。何らかの方法でその傾きを逆転、もしくは釣り合わせなければ、時期に義利を免れられない死が襲うだろう。
「……死なせない。絶対に!」
自分自身に言い聞かせるように叫び、トワは自身の手首を横一線に、爪で深く切り裂いた。そこから流れ出る血液を、彼の血液とともに全身へ巡らせたのだ。
型の異なる血液を輸血することは死に繋がる。そのことはトワも知っていた。自身が大量の出血をした際に、義利から教わったのだ。
『僕のいた世界ではね、血液に型があることは常識として知っていることなんだ。重度の出血をした時には誰かからもらった血液を取り入れるんだけど、違う型の血液を体内に取り入れると死んじゃうの。だから、できるなら僕の血を分けてあげたいんだけど、ごめんね』
その話を聞いた後に、彼の有する限りの血液の知識を授かっていた。血液には四つの型が有る。違えばほぼ確実に絶命する。それをトワはこの場で逆転して捉えたのだ。
――型さえ合えば助けることができる。
確率で言えば分の悪い賭けだが、放っておけば確実なる死しかないのだ。トワはそのわずかな可能性に、自身の命をも賭けていた。
トワは義利が生き返るまでこの延命処置を続ける覚悟を決めている。もしも義利を殺す結果になった場合には、そのままトワも死ぬことになるのだ。
「生きて、また色んな話を聞かせて……」
それだけを言うと、トワは延命処置にのみ集中した。液体操作により自身の出血量を増加させつつ義利の血液を循環させ、人工呼吸を高頻度に繰り返す。そうしてトワの肌色は見る見る悪くなっていった。もはや意識も薄れ始めているだろう。
義利を死なせない。その意思のみでトワは動き続けた。




