第二章 14 回想。そして
『話がある』
屋根伝いにラクスの中心を目指すアシュリーは、その道すがらに早朝のことを思い返していた。それはまだ太陽が顔を出す前の、虫も寝静まっているような時間のことだ。
確かに隊舎のベッドで眠りについたはずが、目を覚ますと屋外にいたのだ。驚きのあまり寝ぼける暇もなかったことをアシュリーは覚えている。まさか夢遊病なのだろうかと自身を疑うも、目の前にスミレが立っていたことで大まかな事情を察した。眠っていたところをスミレが運び出したのだろう、と。そしてその予想は当たっている。スミレは暗闇の中で義利たちの部屋に侵入し、アシュリーだけをこっそりと抱え上げると運び出したのだ。
スミレがわざわざそこまでのことをしたのだから、よほどの重大案件なのかとアシュリーは案じ、喉元までせり上がっている不平を堪えた。
「なんか用かよ。それも、わざわざアタシによぉ」
堪えはするが、抑えきれるわけではない。それが明白に口調へと表れている。
問われたスミレはいつもどおりに感情の窺い知れない表情ではあるものの、どこか神妙な面持ちだった。まるで身内の葬儀に立ち会っているかのような、どこか現実を受け入れきれていない様子にも見える。だがアシュリーからすればそれが通常のスミレであるために、特に指摘をすることもない。
「今日の昼間、二人の魔人がラクス内に来る。その内の一人の対処を任せたい」
それを聞いた途端、アシュリーの機嫌は好転した。
「ほぉっほーう! 居住地に、それもこのラクスに侵入するたぁ、半端な強さじゃねぇんだな?」
ラクスへの侵入は、悪魔にとって容易なことではない。それができるのならば、義利と出会う前にアシュリーはそうしていただろう。アシュリーに侵入が不可能なわけではないが、面倒なのだ。何より労力に見合った報酬を手にできる保証がない。それを実行するのだから、よほど腕に自信があるか、よほどの馬鹿かのどちらかだ。いずれにせよ並大抵の実力では検問の時点で討滅されるのだから、中に入り込むという二人の魔人にアシュリーの期待は膨らむばかりだ。
「真面目に聞いてくれ。ここから先が本題なんだ」
既に待ち焦がれているアシュリーだが、その言葉でわずかだが現実に立ち返る。たった二人の魔人の対処であれば、スミレとティアナ、それにプランもいるのだから、わざわざこうしてアシュリーに頼む必要も無いはずだ。つまり、そこには何かしらの理由がある。
「おう」
短く応えると、スミレの言葉に耳を傾けた。
「私は外の魔人で手一杯になるらしい。できる限り早く始末して、お前らのところに駆けつけるつもりだが、もしかしたら間に合わない可能性もある。だから、これから言う作戦を忠実に守ってくれ」
「ちょっと待て。外に魔人だと?」
「ああ。どうも組織的な襲撃らしく、最悪の未来では中の二人が壁を破壊して複数の魔人にラクスは崩壊させられる」
「だったらアタシにそっちをやらせろよ。その方がオモシロそうじゃねーか」
アシュリーにとって戦いは質よりも量だ。そもそもスミレにあてがわれた相手がどれほどの実力なのかも判明していない。実際には拍子抜けするほどに弱いこともありえるのだから、アシュリーの目には外に来る敵の方が魅力的に映っている。
だが。
「頼んでいる立場だから、何があっても抑えようと思ってたが限界だ。馬鹿かお前は」
その申し出は罵倒と共に切り捨てられた。呆れの色が濃く現れている声音で、スミレは言い切る。
「相手の数は正確にわかっていないんだ。私はレパイルの探知を使えば大まかな位置と数がわかるが、お前はどうやって探すつもりだ? まさか虱潰しに森を走り回って探し当てるだなんて言わないだろうな? その方法で外の魔人を一匹たりとも中に入れずに全滅させられる保証があるのか?」
捲くし立てるような言葉の雨に打たれ、アシュリーは思わず怯む。相手がスミレであったために、余計にだ。スミレは普段、言葉数が多い方ではない。何かしらの説明をする際には自然と饒舌になるが、今のように相手を批難するときは、二言三言で終わらせるはずだ。
「な、なんだよ。えらく必死じゃねえか」
アシュリー自身も考えの足りなさには気づいたが、そこまで言われるほどのことだっただろうかと不満を抱かずにはいられない。
「……悪い。気が立ってるんだ」
流石に口が過ぎたと思ったのか、スミレが軽く頭を下げた。
これに関しては両者に落ち度がある。アシュリーは浅慮だった。スミレは情報量の違いを考慮していなかった。二人は自分の落ち度を自覚できたために、そこから口論に発展することはなく、話し合いが続く。
「……お前には、中央広場に現れるだろう魔人の対処を頼みたいんだ」
「もう一体の方はどうなるんだ?」
「悪いが、そっちはティアナにさせてやってくれ。理由は、戦いが始まればわかるはずだ。……ただ、もしもあの子が死にそうだったら手助けしてやってくれ」
「あいよ。……話はそれだけか?」
アシュリーの問いに、スミレは首を縦に振って答えた。それを受けてアシュリーは目を細める。
「なら一つ質問してもいいか? ――なんでわざわざアタシだけにそれを言うんだ?」
その疑問は至極当然の物だった。魔人の侵入という大事件を予知しておきながら、それを何故、アシュリーにだけ言うのだ。魔人の力が必要なら義利に言えばいい。そうすればわざわざ面倒なことはせずに作戦を伝えるだけで彼は忠実に従うだろうし、彼と契約を交わしているアシュリーは必然的に参加せざるを得なくなる。
単純にこの事実を誰かに伝えたかっただけなのであれば、全員が揃っている場で話すべきだ。
スミレは他の誰の耳にも触れないようにと、こんな夜中にアシュリー一人だけを外に連れ出してこの話をしたのだろうと考えるのは、全く不自然ではない。
「……怒るなよ?」
そう前置きしてからスミレは言った。
「本当は未来の話は他人にしないほうがいいんだ。起こるべきことが起きなくなったり、起きるべきじゃないことが起きたりしてしまうからな」
「もっとわかりやすく言えねーのか」
「なら例えば、明日お前が食べ物に毒を盛られて死ぬと知ったらどうする?」
「飯を食わないに決まってんだろ」
アシュリーは即答した。
「それが、起きるべきことが起きない場合だ。そして、お前が残した食べ物を他の誰かが口にして死ぬかも知れないだろ。これが起きるべきじゃないことが起きる場合だ。理解できたか?」
「まぁ、なんとなくは。でも、それとアタシに未来を話したことが、どう繋がるんだよ」
スミレはわずかに思案し、それからようやく重い口を開いた。
「お前の動きは、どの未来でもだいたい同じだからだ。その上、動かしやすい。いくつかの未来を見たんだが、ここでの会話でお前の大体の行動を決められる。だからだ」
未来のことを話そうが話すまいが、概ねスミレの思い通りに動く。つまりそれは。
「要するに、アタシのことを馬鹿だって言いてぇのか?」
アシュリーの認識からすればそういうことになる。
「そうは言ってないだろうに」
スミレもここでアシュリーの機嫌を損ねるのは得策ではないと思い、それを否定する。
「じゃあ何なんだよ」
「………………」
が、本音の部分では御し易いと思ってしまっているために咄嗟の言葉が出てこなかった。
「やっぱそうなんじゃねぇかっ」
「怒るなよって言っただろ」
「怒らねぇとは言ってねぇっ」
そんな口論の末に、スミレは落ち着いた口調でアシュリーへ言う。
「兎に角。頼んだぞ」
此度の戦いはスミレにとって重要なのだろう。だからこそこれほどまでに念を押し、これほどまでに策を弄している。
そして戦いとは常に死が付随するモノだ。それを最小限に収めるのがスミレの目標であり、おそらくアシュリーが課せられる試練になる。結局はこの話し合いに参加していない義利のさじ加減で作戦は左右されるだろう。それを知った上でのスミレの行動だ。普段はあまり頭を働かせないアシュリーでも、その重大さは理解できた。
「しゃーねぇからやってやるよ。ただし、きっちり礼はもらうかんな」
重大だと思うからこそ、アシュリーは軽く返す。重苦しい雰囲気を緩和することが、彼女なりの気遣いだった。
「ああ」
返事を聞くと、アシュリーは踵を返して隊舎へと向かう。随分と話し込んではいたが、まだ暗い。寝るには十分すぎるため、これから二度目の睡眠へ向かうのだ。
そんなアシュリーの後ろを見送りながら、スミレは小さく呟いた。
「……生きられたら、な」
おそらくは誰にも聴かせるつもりのなかったであろう言葉は、アシュリーの耳には届いていた。騒音の一切ない早朝だったのだ。辺りはささやき声も少しの距離なら十分に伝わるような静寂に包まれていたのだから、スミレの声がはっきりと、アシュリーには聞こえていた。
まるで死ぬことが決まっているかのような、そんな諦めの色が見える口調であった。
アシュリーはスミレに対して、命を救われた恩義も、同郷の親しみも持ち合わせていない。
それでも、同じ屋根の下で暮らす仲だ。同じ釜の飯を食った仲だ。そしてスミレが死んでしまえば義利が悲しむだろう。アシュリーはそれだけを理由に拳を握った。そして中央広場にいる魔人の目の前に降り立つ。
魔人は、黒かった。全身の肌が墨を入れたように黒い。肌のほとんどを包帯で覆っているためにその異様さは際立ち、その禍々しさものぞき見える。
「お前……、仲間か?」
黒い魔人に問われ、アシュリーは口角を上げる。確かに、分類的には同じ魔人である。仲間と思うのが妥当だろう。だが対峙し、拳を突きつけているのだ。そんな中での問いかけに、笑わずにはいられなかった。
「残念ながら味方だ。――正義のなぁッ!」




