第二章 12 試合の終わり。死合の始まり。
アルは拳で頭を、腕で体の前面を守る構えを取ると、そのまま駆け出した。一見すると隙のない構えだが、それは素手同士の戦いであればの話だ。今のアルが戦うべき相手であるティアナは、木製の片手剣を持っている。およそ腕一本分の差。戦闘においてそれだけ間合いに差があることは絶望的だ。剣の射程では拳は届かず、しかし拳の間合いでは剣が届くのだから、優劣を語る必要すらない。それほどまでに武器と素手とでの戦闘には差があるのだ。
実践であれば、ティアナは迷わずアルの頭部を狙った一突きを放っただろう。だが、これはあくまで試験であり、試合だ。そのため間違っても殺してしまわないようにと、ティアナはアルの胴に狙いを定めている。剣の間合いに入った瞬間に、横薙ぎにひと振り。その一撃ですら内蔵破裂の危険を孕んでいるが、その場合には治療班の出番だ、と割り切り、ティアナは全力で木剣を振るった。
誰もがアルの敗北を確信したのだが、その予想は覆される。
胴に目掛けて迫る木剣を、アルはくぐったのだ。
「なッ」
内心に渦巻く驚愕と焦りを短く吐き出す。ティアナの目には、アルが姿を消したように見えていた。それほどまでに彼は姿勢を低くしていたのだ。踏み出した足が、股関節の可動域の限界まで前後に開いている。傍から見れば少々不格好だが、その一歩で、アルはティアナを間合いの内に入れていた。
「ぅオラァ!」
死角である顎の真下から抉り込むような勢いで打ち上げられた拳は、寸前で回避される。殺気を感知したティアナが、咄嗟に後方へ宙返りをしたことで届かなかったのだ。
試合を見守る国務兵たちが、感心したように目を開く。ティアナが試合の相手であれば、今回はあまり面白いものは見られないだろうと思っていた。しかしアル・ブロウという、魔人を一人でも討滅できるだけの力を持つティアナに咄嗟の判断を迫るほどの実力者を見て、薄まっていた興味が一気に色づく。
「中々いい動きね。でも魔人を相手にするにはまだまだよ」
アルの動きは素早く、そしてキレもある。ただの人間が相手であれば圧倒できる程の力はあろう。だが、それでは足りないのだ。彼がこれから戦うのは人ではなく魔人だ。人から頭一つ抜け出ただけの戦闘能力では到底及ばない。
そんなことはアルも承知の上だ。
「セレナ!」
「はいなっ」
アルが声を発すると、脱ぎ捨てられていた上着から返事があった。上着のポケットから、藍色の小さな光がアルの元へ飛び、彼の身体に入り込む。すると、それまで赤茶色だったアルの瞳が群青に変化した。
「足りない威力は能力で補えばいい。速さは、気合で!」
言葉の通りに気合を入れるためだろう。アルが拳を打ち合わせた。その時、金属同士をぶつけたような音が響き渡った。
「硬化……、かしら?」
音だけでアルの能力を大まかに分別し、ティアナは様子を伺う。硬化の能力をアルがどのように使うかを見定めるためだ。かつてアルのような硬化の能力を持つ兵士もいたのだが、その多くは硬化を過信して命を落としている。アルが硬化に頼りきって捨て身の特攻を仕掛けるようであれば、ティアナは正面からそれを叩き潰すつもりでいた。
構えを直し、アルがティアナに向かって駆け出す。先ほどの動きとの違いは、見当たらない。
「また同じ戦法?」
だとすれば、ティアナとしては落胆させられる。彼女はアルに対して多大な期待を抱いていたのだ。兵士としての訓練を受けていない少年に一瞬とは言え驚かされたために、強力な指導者のもとで修練を積めば、自分をも超えうる存在になるだろうと。
自分をも超える、などとは傲慢に聞こえるかもしれないが、これは決して思い上がりではない。義利との出会い以来、目立った活躍の場には彼がいて、そして彼の力に大きく頼っているところもあるが、間違いなく国務兵に実力のみで順位をつけたのならば上位に食い込む程には、強い。そうでなければ少人数での魔人討滅の任務など受けられないのだ。国務兵とて人員は出来うる限り減らしたくないために、六人ひと組の隊で向かわせるのが普通である。そこを単身、もしくは二人か三人程度で行動を許されるだけの評価を受けているのだ。よほどの信頼が無ければ許されることではない。
ティアナはアルへの過大になりかけていた評価を改め、冷静に彼の問題点を探る。この試験には志願者の問題点を探し出し、それを克服させるという課題も含まれているのだ。それが合格の条件ではないが、今後のためにも気づかせなくてはならない。
今のアルに問題があるとするならば、それは聖人としての能力を過信してしまっていることだ。聖人の皮膚硬化など、魔人の前にはあまり意味をなさない。受ける衝撃をわずかに緩和できる程度だ。魔人となったアシュリーの一撃は、レンガよりも強固なキャロの見えない壁をも易易と、紙切れ同然に打ち破ってしまうのだから。
ティアナは刺突の構えを取ると、アルの踏み込みに合わせてみぞおちへ目掛けて突き出した。
皮膚硬化の欠点として、内臓までもが硬化するわけではないということがある。みぞおちを突けば木剣が刺さりはしなくなるが、みぞおちを殴られた時と同じように内蔵のせり上がる苦痛は十分に通るのだ。その痛みでアルの戦闘続行を不能にしようというのがティアナの狙いだった。
加えてもう一つ。先程の斬撃を避けたのが偶然なのかを確かめようとも考えている。
「ハアッ!」
気合とともに真っ直ぐに木剣を突き出す。ティアナの踏み込みだけで足元の草が突風に吹かれたように横倒しになった。
アルはその切っ先を正確に見定めると、拳をぶつけた。
木剣と拳の衝突と同時に、破砕音が響き渡る。その瞬間、ティアナは目を見開き、アルはニヤリと笑みを浮かべた。
砕かれたのは、ティアナの木剣だったのだ。
「セレナの能力は硬化じゃない。鉄化だ」
勝ち誇るアルだったが、その拳からは大量の血が流れ出ている。その傷の奥から覗いている骨が鉄になっていた。
全身の鉄化はできないのだろう。体の中のごく一部のみにしか効果がなく、それが拳全体を覆うことができないために彼は自身の骨を鉄に変え、木剣を迎え撃ったのだ。
「この勝負、もらった!」
皮膚の裂かれた右手でティアナの襟首を掴み、左の拳を振り上げる。一瞬、呆気に取られていたティアナは反応が遅れる。木剣が砕かれた衝撃で手が痺れており、反撃も難しい。服を掴まれ引き寄せられつつあることには気づいたが、対策を考えようにも思考は止まってしまっていた。
頭では何もできなかったが、体は違う。それまでの戦いの日々の中で、身体に刻み込まれていた戦う術が、この瞬間での最適解を導き出した。
膝の力を抜き、後方に倒れこむ。体重の差はあるものの、今まさに拳を打ち出さんとティアナの方へ重心の向いていたアルは、彼女につられるように倒れ始めた。先に地面に到達するのはティアナだ。このまま拳を打ち込めば、衝撃を余さずぶつけることができる。アルは一切の迷いを見せずに攻撃を続行する。
倒れている最中に、ティアナは片足をアルの腹部へ押し付けると、背中が地面に着くと蹴り上げた。丁度、柔道の巴投げの要領だ。
掴まれていた服は破れ、胸元が顕になるも、ティアナは即座に起き上がった。そして背中を地面に打ち付けて息を詰まらせているアルに飛びかかり、組み伏せ、耳元で告げる。
「この勝負、私の勝ちね」
抵抗を見せようとしていたアルは、ティアナの言葉を受けると一気に脱力し、悔しげに小さく舌を鳴らした。
◆
「やりすぎだ」
アルとの試合を終えたティアナは、上司から咎められた。小休止のために水を飲もうとしていた手を止める。水の入った革袋にコルクの栓をすると、地面に置いた。
上司は、第三大隊の中隊長だ。名前はヌエル・ナース。救護班の中での最高責任者にして、最高の治癒能力者と言われている。そんな彼からの嗜める言葉に、ティアナはきょとんととした顔で返す。
「やりすぎ、とは?」
「見ろ。今の試合を見て、志願者の全員が萎縮してるじゃないか」
ヌエルの言う通り、先程までは怯えと期待とが混じった曖昧な空気感が、今は怯えに染め上げられていた。ただし、それは全員ではなかったが。
「どうやら、二名ほどは違う様子ですよ」
「何を馬鹿な……」
ヌエルは志願者の顔を見回す。すると確かに、戦意を喪失していない者が二人だけ、いた。一人は静かな闘志を燃やしており、もう一人は、野良猫と戯れている。
「ナイトは既にマルセルと試合を済ませているからだ。もう一人は……、ただの馬鹿だろう」
「……ただふざけているだけなのか余裕なのかは、試合が始まればはっきりすると思います」
「だといいんだがな……」
深いため息を吐くと、ヌエルは猫と戯れている少年に向かっていった。それを横目に見ながら水を口に含み、次の相手はアダチさんか、とティアナはぼんやりと考えを巡らせる。
◆
唐突に声をかけられた義利は跳ね上がる勢いで驚いた。そんな義利に驚かされて猫が逃げ出す。今が試験中であることを忘れてしまいそうなほどに和やかな雰囲気に、ヌエルは脱力した。
「あのさ、手が空いてるなら、試合をしないか?」
「いいですよ?」
「じゃあ、準備してて」
「はい」
あまりにも事も無げに会話が進み、ヌエルは更に力が抜けるのを感じた。
ヌエルの目から見た義利は、よく言えば大人しそうで、悪く言えば存在感が希薄だった。やる気のないようにすら見える自由な振る舞いも含め、そんな彼であれば今の停滞してしまっている試験も少しは進むのではないだろうかと、そう思っている。
他の全員が終わってから試合に臨もうとしていた義利は、思わぬところで指名を受けたものの、周囲の様子からしてこうなるのも仕方なしと考えていた。怖気づいてしまっているのだ。先程のアルとティアナの戦いは、確かに壮絶ではあった。しかしあんなもの、フレアやエッダとの戦いに参加していた義利からすれば、所詮は試合でしかない。本当に命をかけた戦いでは、なかったのだ。
「足立義利です。お願いします」
「ヨシトシ、ね。あなた、精霊は?」
義利は思わず前のめりに転びそうになる。
ティアナはこれまで志願者のことを苗字ではなく名前で呼ぶようにしていた。アルとの試合後の総評では終始彼のことを『アル』と、名前を呼び捨てにしていた。足立義利、確かに名前は『義利』だが、ガイアと日本では苗字と名前の位置が逆なのだ。ここで彼の名前が義利であると判断できるということは、素性も知っている顔見知りだと言っているようなものだ。それまで赤の他人を装っていたのに、この失態だ。義利が足を滑らせそうになるのも仕方のないことだ。
この場でもう一人、義利の素性を知っているナイトは何かに気づいたような顔で義利のことを見てきた。
ナイトに気づかれないようにと、義利は表情を殺そうと努める。
「いません」
努力の成果か、ほとんどの者は気がついていない様子だ。平然と返しながら、内心で安堵の息を漏らす。
「そ。なら、あなたは力で完全に負けている時の戦い方を考えなさい」
そこでひと呼吸挟み、ティアナは声を張った。
「キャルロット!」
次の瞬間、ティアナの瞳が琥珀色に変化し、融合の証である目の輝きを放ちだした。
「能力は使わないわ。でも――」
説明の途中で、ティアナの目が見開かれる。相対している義利以外はそのことには気づいていない。
何事かと、ティアナの顔を覗き込もうとしたとき、彼女は絶叫するように言った。
「全員、私のところに集まって!」
突然のことに、誰ひとり動き出すことができなかった。まず彼女の言葉の意味を考え、その理由を考え、そして多くの者はその場に留まった。しかし、義利は彼女の顔から緊急性を察し、ナイトはそんな義利を見て、アルはセレナから聞いた言葉を元に、マルセルは本能が発した危険信号に従い、それぞれ動き出した。
ティアナは引き裂かれるかのような悲痛な面持ちになると、キャロの能力である壁を作り出し、自身の周囲を覆った。
次の瞬間。
試験会場は、炎に包まれた。
黒く、暗い炎だった。
壁の内側にいた者たちは、一瞬にして夜が訪れたのかと錯覚する。だがその闇はすぐに過ぎ去った。その跡に、無数の死を撒き散らして。
「おーっと。いくつかやり損ねてんじゃん」
バンダナを巻いた男が、焼死体の一つを掴む。掴まれた死体は光の粒子となって宙に溶け出し、男に吸い寄せられ、消えた。
それは魔人が死体ごと命を吸収した際に起こる現象だ。
生存した五人のあいだで戦慄が走る。疑いの余地すらない。
「さぁて、楽しませてくれよ?」
その男は、魔人だ。




