第二章 09 裸の付き合い
スミレの話が頭から離れないまま、義利は食事の席に着いた。努めて平静を装い、何事もなかったように振る舞う。そんな彼の努力の甲斐あって、内心にある淀みには誰ひとりとして気づく素振りもなかった。
初めて口にしたチーズ料理に、ティアナは革命を見たかのような喜びようであったし、肉好きの精霊たちのためにと買った大量のソーセージは全てなくなっている。トワは少食なのだが、その日はいつもより多く食べており、プランやグロウも緊張のほぐれた様子で他愛ない会話に花を咲かせていたし、味にはうるさいアシュリーも珍しく絶賛し、本当に楽しい食事会だった。――見かけだけは。
「アダチさん、何かあった?」
使った食器を布で拭きながら、ティアナは義利に聞いた。
「なんだか無理をしているように見えたわ。悩み事があるなら、相談に乗るわよ?」
義利は確かにいつも通りだった。だが、意識してそうするのと無意識にそうしているのとではごく小さな違和感が生まれてしまう。その小さな違和感に、ティアナは気づいていた。
――言うべきだろうか。
スミレとは長い付き合いであり、そして彼女を尊敬しているティアナだけには、スミレがどんな状態なのかを教えるべきなのではないだろうかと、義利は考えた。知ったところで何ができるわけでもないが、知らないままでいることを、知らないままでいたことをいつか知った時には、深く傷つくのではないだろうかと、彼は考える。その一方で、スミレの気持ちがわからないでもないのだ。きっと義利は、自分が弱った時にはアシュリーにその事を気づかせまいとするだろう自分が容易に想像できた。よく思っているからこそ、隠したくなることもあるのだ。
「何もないよ。ただ、フォンデュは母さんの好物だったんだ。それで、少し故郷を思い出してさ……」
もっともらしい理由を並べて、義利は追求を逃れる。もちろん嘘だ。彼の故郷の話は、それこそ誰にどうこうできることではない。それを言うことで会話を断ち切ろうとしていた。
「そう……」
義利の目論見通り、それ以上深く聞かれることはなかった。後片付けは、その後無言なまま進んだ。
片付けが終わり、食後のお茶を楽しんでから、ティアナは独り言を言うように呟く。
「故郷のこと、私にはどうしようもないけど、話してくれて嬉しかったわ。どうして悲しんでいるのかもわからないままだったら、一緒に悲しんであげることもできない。同じ故郷を無くした身として、気持ちはわからなくもないから」
それだけ残し、ティアナは部屋へと戻っていった。彼女の言葉が義利の心に鈍器で殴りつけたような痛みを与える。スミレの話から、ティアナの故郷が既になくなっていることなど分かっていたはずだ。それなのに、単なる言い訳の材料に郷愁を使って同情を誘った自分のことを、義利は強く攻めた。
もっと他にも手はあっただろう。心に余裕があればそれを思いつくこともできただろう。今更悔やんだところで言ってしまった言葉を取り消すことはできない。
沈んだ気持ちのままでは余計に心配をかけてしまう。せめて気分をリセットしなければと、彼は風呂へ向かった。
部屋から寝巻きを用意し、外にある浴場へ向かう。朝のことがあったために、念のためにノックをし、無人を確認してから、彼は服を脱ぎ始めた。
すると。
「あれ、アダチくんもこれからお風呂ですか?」
さも当然のように、プランが現れて服を脱ぎ始めたのである。
「えっ! プランさん?!」
困惑の中で義利は、さっとタオルで前を隠した。プランはというと、別段気にしている様子はなく、そこに義利の存在など無いかのように全裸となる。
「せっかくなので一緒に入りましょう」
「あの、僕は男ですよ?」
「何を当たり前のことを言っているんですか?」
羞恥心がないのだろうか。義利は目の前にいる年上の女性に対して、どうしたものだろうかと頭を悩ませた。
そして、何も今入る必要があるわけではないことに気づく。
「お先にどうぞ! ぼ僕は出直しますから!」
「お湯が冷めちゃいますよ。それに私、男ばっかりの兄弟で育ってきたので、気にしませんし」
「僕が気にするんです!」
「いいじゃないですかー。お買い物に行ってる間、トワちゃんやダンデリオン指長とはお話ししてて、アダチくんとはあんまりでしたし、腹を割って話しましょうよー」
「それならまた今度で」
「それに、久しぶりに弟ができたみたいで構ってあげたいんですよー。お姉さんからのお願い、聞いてくれませんか?」
義利は押しに弱い。こんな風に頼みごとをされては断りにくい性格なのだ。あと一押しでもすれば、彼は折れるだろう。
「下の弟とアダチくん、結構似てて、なんだか懐かしくって」
義利は、折れた。
弟を懐かしむプランの顔がどこか寂しげであったために、妹を持つ兄の身としてそんな気持ちが分かってしまったのだ。遠く離れた兄弟が元気にしているのかが、つい気になってしまい、身近な年下に重ねてしまう。義利がティアナやアシュリーにそうしてしまうように、プランもそうなのだろうと。
「昼間のこと、本当にごめんなさい」
「いえ、僕は本当に気にしてませんって」
「先に帰ってきたアシュリーちゃんにも、同じことを言われました」
クスリとプランは小さく笑う。彼女は年下の男には『くん』を、年下の女には『ちゃん』を付けて呼ぶのだ。実際に生きた年月で言えば、アシュリーはプランの何倍も年上なのだが、要は見た目の問題らしい。例外としてティアナには階級を付けて呼んでいるが、それは兵士としての礼儀なのだろう。
プランによって背中を流され、義利はプランの背中を流し、それから今は並んで湯船に浸かっている。プランは前どころか全身を隠そうともしていないので、義利は天井を見ながら出るタイミングを探していた。
「アダチくん。国務兵になるつもりはありませんか?」
それまでの緩い口調ではなく、真面目な雰囲気を感じた義利は、一度羞恥心を捨てて、プランの方に顔を向けた。
「なろうとは、思っています。それがティアナとの約束でもありますし」
予想していた答えとは違っていたのだろう。プランは驚いたように目を開き、それから顔を緩めた。
「……昼間も少し言ったように、アダチくんの力は、今の魔人と人間の力関係を崩す可能性なんです。それが国務兵であれば、きっと士気も上がりますし、人々の希望にもなれるんです。だから、どうにか説得しようと思っていたんですけど、必要なかったみたいですね」
そんなプランの言葉は、彼に小さな疑問を与える。
彼の聴いている中では、悪魔と人間は現在拮抗している力関係にあるのだ。力の強い魔人に対し、国務兵は数の力でそれを抑えつける。魔人は絶対数が少なく、その上協調性がないために、一応は平穏を保つことができている。それが現状だと思っていたのだ。だが、プランに言わせればそれは違うらしい。
「こうして私たちがゆっくりお風呂に入っている間にも、世界のどこかでは魔人によって殺されている人がいます。小さな村が襲われた時には、その報告が本部にまで届かないで、調査員が行って初めて発覚することだって少なくないんです。アダチくんの行ったヘーゲンが、そのいい例でしょう」
ヘーゲンでの出来事は、ユネスが現れるまで表沙汰になっていなかったのだ。義利らが独自に動き、解決し、その報告が済んでから初めて調査員が送り込まれ、そしてその調査員が帰還してようやく復興委員会が設立された。本来の報告をするべきヘーゲンの国務兵が真っ先に殺されたのだから仕方がないとも取れるが、それにしても対応が後手後手に回っている。
「魔人にとって、聖人は脅威になりえないんです。数が多ければ、確かに勝つこともできます。でも、一人の魔人を殺すたびに何人もの成人が命を落としているんです。天使たちもそのことは知っていますから、わざわざ兵士になりそうな人間とは契約をしなくなりつつあるんです」
天使と人間の契約は、利害の一致からなるものなのだ。人間と契約することで、自身の魔力を楽に補給できるからーー、大抵の天使はそうであり、悪魔に対して敵意を持っている天使は少ない。天使は完全なる人間の味方ではなく、あくまで協力関係に過ぎないのだ。人間が滅ぼされれば手間が増えてしまう。それを防ごうと契約を結ぶ天使も少なからずいるが、大多数の天使は自然界からのエネルギーを魔力に変えて生活をしているらしい。そんな話を義利は、ティアナからも聞いてはいた。
良き隣人ではあるが、理解者ではない。
人間と精霊、その両者の間には大きな溝があるのだった。
「でも、そんな強大な敵である魔人が味方になっていれば、天使たちも少しは戦う気になってくれると思うんです。悪魔がこの世からいなくなれば、それだけ天使も生きやすくなりますから」
理屈は義利にも理解できる。敵の敵は味方、ではないが、天使と人間はお互いを利用し合える。天使は人間との契約によって楽な魔力の補給が、人間は天使にもたらされる力によって快適な生活が、それぞれできるのだ。悪魔に脅かされさえしなければ。
プランの思い描く理想は、達成されれば実現するだろう。悪魔が存在しなくなり、人間と天使が平和に暮らせる世界。
だが義利は、それに賛同することができなかった。
「……アシュリーだって、悪魔ですよ?」
完全に悪魔を抹殺するのならば、アシュリーもそこには含まれる。どれだけ人間に味方しようとも、悪魔であるからという、たったそれだけの理由で。
「それは……」
プランは言葉に詰まらされた。
「……別に、悪魔全体を庇おうって訳じゃありませんけど、アシュリーやフレアみたいに、理解し合える悪魔だっていることを、どうか忘れないでください」
本当の理想は、人間も悪魔も天使もが手を取り合って生きることだ。悪魔と天使は差別化されているが、大元は精霊という同じ種である。ならば、そんな世界があってもいいのではないだろうか。
互いが互いに敵意を無くして、悪魔も天使と同じように人間と共存の道を歩めることができれば、それが最も理想的だ。しかし人間は、対価として命を奪う悪魔とは契約をしようとはしない。その結果として飢えた悪魔は、人間を殺すことで渇きを潤すしか術はないのだ。この複雑に絡まった糸のような関係は、簡単には解決しないだろう。悪魔が人間のことを、ただの食糧と見ている限り。人間が悪魔のことを、ただの敵と考えている限り。
何か大きなきっかけが、例えば、人間と悪魔の両方の脅威になる存在が現れれば、その敵を排除するために手を取り合うことができるのではないだろうか。
義利はプランとの会話の中で、そんな風に思った。
「そうですね……」
義利の言葉に諭されたように、プランは真剣な顔になっていた。だがそれもつかの間。大きく背を伸ばすと「んぅ〜」と悩ましげな声で唸った。
「なんだかアダチくんは、ウチの弟たちよりずいぶんしっかりしてて、お姉さんはビックリです」
「異邦人だから、少し考え方が違うのかもしれませんね」
「それもあるんでしょうけど、とても子どもとは思えないですよ。……そういえば、アダチくんの年っていくつなんですか?」
「……あれ、言ってませんでしたっけ?」
嫌な予感がして、義利は冷や汗をかきはじめる。
「聞いてないですよー。でも、下の弟と同じくらいでしょう?」
「ちなみに、下の弟さんはおいくつなんですか?」
「十一ですよ?」
義利は自分の容姿がガイアでは幼く見えていることをすっかり忘れていた。そのせいで、当初のティアナも彼のことを子ども扱いしていたし、今回もそうである可能性が浮上しだす。
女性にとって、精通も起こっていない子どもと、思春期真っ只中の少年とでは大きく差があるのだ。子どもであれば、女性の裸を見ても、自分と違うという好奇心しか生まれない。しかし少年となると、その好奇心は下心に変わってしまうのだ。
彼のことを子どもだと思ってプランはこうして裸の付き合いをしているが、それが少年であると分かった時、いったいどうなるのだろうか。
義利は後退るようにゆっくりと湯船から上がり、プランとの距離を置く。
「あの、怒らないで聞いてくださいね」
「なんですか?」
「僕、十七です」
緩んでいたプランの顔は、空気と同じく凍りついた。
「……じ、じゅう、なな?」
やはりプランは義利の年齢を勘違いしていたのだ。それまでにこやかだった顔は一気に蒼ざめる。
「私と、四つしか、変わらないじゃないですか!」
ふと、プランはそこでの自分の振る舞いを省みて、顔を真っ赤に染めた。
目の前で裸になり、背中を流し、流され、混浴し……。それは義利のことを弟のように思っていたからできたことだったのだ。まだ純粋で、邪な考えなど欠片も持たない子どもであると、そう思っていたからできていたのだ。それが、男女の性差について理解の始まる少年だった。プランの羞恥心は発火しそうなほどに加熱している。
慌てふためく中で、彼女は今の自分の姿にようやく考えが及んだ。
一糸まとわず、そして隠そうともしていない自分の姿に。
「えぁっ……、うっ……」
溺れたように小さく呻き、涙目になり掛けているプランを見て、義利はこの場を切り抜ける方法を考え始めた。
ーー一緒に入ろうと誘ってきたのはプランさんだ。僕は最初断ったし、それでも強引に誘われたから仕方なくこうなっている。だが、確かに僕が自己紹介の席で年齢を言わなかったことも悪かっただろう。言うなればこれは不幸な事故だ。僕もプランさんも、どちらも被害者なんだ。だから、それを伝えることができれば、納得させることができるのだろうけれども……。
考えがまとまり出した時にはすでに、手遅れだった。最良の選択は、義利が誤解に気付いた時点で浴室から出て行くことだったろう。そうしていれば、ここまでプランは混乱することなく、そして自分が原因でこの状況を作り上げたことに気づけたかもしれない。しかし、義利も何分心に余裕がなかったのだ。そこまで考えが回らず、だから距離を置いただけで説明をするなどということをしてしまった。
その結果。
「きゃああああああッ!」
本日二度目の嬌声が、隊舎に響き渡った。




