第二章 04 新人が来るようです
「アダチさんがもし年下なら私だってあそこまで動揺しませんよ? でもあの人、十七だって……」
ティアナは街中を歩きながら、隣にいるスミレに愚痴をこぼした。
同居人である彼--足立義利が年上であることは、この一ヶ月でティアナの中では定着されたのだ。頼みごとをすれば快く受けたり、少しの体調の変化すらも的確に察知したり、そういった日常で垣間見られる年長者らしさとも言うべき義利の言動から頼もしさを感じることが多く、それがきっかけとなり彼を尊敬する事すらもあったのだ。もう今までのように、ふとした瞬間に間違えることもない。
そんな年上である義利に裸体を見られたことは、ティアナにとってすぐに忘れられることではなかった。これがせめて下着姿であれば慌てる事もなく「人の有無が分からない時はノックしましょうね」などと冷静に対処することもできたのであろうが、事実として、結果として、彼女が見られたのは生まれたままの体だったのだ。一糸まとわぬ状態であったわけではないが、肝心の部分を一切隠すことなく見られてしまったことを、表面上は許すことが出来たとしても、心の内には不満という形で残ってしまっていた。その点は兵士といえども十四歳という多感な思春期の少女である。
ティアナが以前まで思っていたように十二、十三の少年であったなら、別段恥ずかしがることも無く、なんなら「背中でも流してあげようか?」などと提案の上に混浴しても問題ないくらいだったのだ。面倒見が良く、年下には甘いティアナからすれば、最も問題なのは義利が年上であった事だった。
「もう忘れろって。そういう約束をしたんだろう?」
ティアナの愚痴に答えるスミレは、いつも通り無表情であった。何を考えているのか分からない。何も考えていないのかもしれない。多くを考えているがゆえにそれを悟られぬように表情を殺しているのかもしれない。いずれにせよ、スミレの本性が分かるのはスミレ本人のみである。
無表情のスミレから何も読み取ることのできなかったティアナは、義利と交わした約束が自ら提示したことであることも含め、内心に留めるつもりだった不満をありありと顔に浮かべた。
「それはそうですけど……」
それはそうだが、それはそれ、これはこれである。ティアナとて忘れようとは思っているのだ。義利も謝っているのだから裸を見られたことは許そうと、割り切ろうとしている。しかしどうしても、忘れようとするたびに彼女の羞恥心が顔を出し、それが憤りに変わってしまい、こうして仕事中であるにも関わらずその不満を吐きだしてしまうのだった。
仕事。
今日、この日の二人の仕事は、ラクス内の巡回だ。市内を歩きながら、不審物及び不審者の有無を確かめ、さらに建物の欠損等の事故が予想できる箇所の確認などなど。
しかしそれらはあくまで建て前である。巡回とは言いつつも、その実ただの時間つぶしだ。本部にいれば彼女たちのことを快く思っていない相手から嫌味を言われ、隊舎にこもっていれば市民から勤怠だと思われてしまう。そうした理由から二人は巡回をよくしているのだが、少なくとも今のティアナからは警戒心を見受けられなかった。
目下直面している問題に手一杯、と言ったところだろう。
警戒心の無い彼女だったが、それも仕方のないことだ。何も仕事より裸を見られたことの方が重要だという意味ではない。
--一度魔人が現れた土地は、その年内は安全である。
そんな通説が生まれる程に、魔人とは本来めったに現れはしないものなのだ。それが短期間に三人も出現した後ともなれば、ティアナの気が緩んでしまうのも仕方のないことと言えよう。仕方がないが、給金を貰う身としてはあるまじき姿である。隣を歩くスミレはと言うと、無表情ながらも警戒はしている様子だ。分かりやすくきょろきょろと視線を動かしているわけではないが、その左手は腰に差してある刀に添えられており、既にレパイルとの融合もしていた。彼女の目は黒ではなく、桃色に変わり淡く光を放っている。黒の長髪と眉に、桃色の瞳。これ以上にないほど異色な組み合わせだ。
「それに、背中は見られてないんだろう?」
スミレはわずかに目を細めて言った。疑問ではなく、確認だ。
脱衣所で義利と対面してしまった際に、ティアナは下着を穿こうとしていたのだ。腰を折り、膝を曲げて足踏みをするような動作で両足を通し、これから腰まで持ち上げようとしているまさにその時のことだった。扉の動く気配に気づいたティアナは咄嗟に下着から手を放して上体を持ち上げたために、スミレの危惧していた背中は見られていない。代わりに体の前面は、余すことなく見られてしまっていたが。
「……はい」
そういったこともあり、ティアナは意気消沈していた。最悪は免れたが、最善の手も最良の手も打つことが出来なかったのだ。あの時にもしも扉を足蹴にして義利の侵入を拒んでいたら、でなくとも扉が動いた瞬間に声をあげる事が出来ていれば、と今更な事を思わずにはいられない。
「ならいいじゃないか」
今後の義利との向き合い方に煩悶としている中で受けた、あっけらかんとしたスミレの口ぶりに、ティアナは唇を尖らせる。
「他人事だからそういう風に言えるんです」
これが他人事だったら、とティアナは本日何度目になるかも忘れた溜め息を吐く。
仕事に集中できないことはもちろん、精神衛生上良くない。このままではいけない。早く忘れなければ。と彼女が頭を振っているとなりで、スミレはポツリと呟いた。
「なら今度、アイツと裸の付き合いでもしてみるかな」
あまりにも自然に言われたために、ティアナは思わず聞き逃しそうになった。
裸の付き合い? スミレさんに限ってアダチさんと夜を共にするなんてことはないだろうし……。その他で裸ってことはつまり、一緒にお風呂に入るってこと? いやいや、まさかそんな……。
たっぷり十秒考えてから、ティアナはスミレに聞いた。
「……冗談ですよね?」
冗談だと思った。冗談であってほしいと思った。しかしスミレから返されたのは短く一言、あっさりとしたものだった。
「本気」
と、ただ一言だけで答えたのだ。
「……スミレさん、乙女の肌は簡単に見せちゃいけないんです」
「もう乙女なんて歳じゃないんだが……」
「とにかくダメです! いいですね?!」
「わかったわかった。わかったからあんまり目くじらを立てるな。あとあと後悔するぞ」
あまりに投げやりなことを言うスミレを睨むように見た後、ティアナは諦め気味な様子で巡回に戻った。前を向いたまま、時折目だけを動かし周囲の異変を捜す。当然そんなものなどありはしないのだが、そうしていること自体に意味がある。街行く彼女たち二人を民衆の視線が針の筵の様に射抜いていた。視線の中には羨望や興味深げな物も含まれているが、最も多いのは警戒だ。悪事を働いていなくとも、兵士を見た者は無意識に警戒心を抱いてしまう。自然と背筋を伸ばして、模範的な善良市民を装うのだ。それが治安の維持に繋がる。
人波が二人を避けるように割れる。もはや見慣れてしまったその光景の中にほんの少しの違いを見つけ、ティアナは足を止めた。
「おお、ダンデリオンくん! 捜したぞ!」
二人の兵士を避けるために密度の高くなっている人ごみの中から、頭二つ分ほど突出している大男がそう声を発した。
男は二人と同じく、黒を基調とした服の上から要所要所に金属製の防具という国務兵の兵装をしている。しかし彼を避ける人はいなかった。むしろ彼が人にぶつからぬようにと歩いている。完全に、民衆に溶け込んでいたのだ。
「ゴストフ先生ではありませんか」
大男--、ゴストフの存在に気付いたティアナはそう言い敬礼をした。だがその隣にいるスミレは棒立ちで、彼に気付いた素振りもなくティアナの顔をいぶかしむように見ている。あれだけ目立つのになぜ気づかないのだ、とティアナは疑問に思うも、すぐにその理由に思い至る。……が、それをスミレに説明している余裕は、今のティアナには無かった。
「ゴストフがいるのか? どこに?」
「ココッ……、に! いますよ!」
すでにゴストフはティアナの両肩を掴んで揺さぶっていた。そのせいでティアナは途切れ途切れにしか答える事が出来なかったのだ。それほどまでに接近しても気付くことのできない、認識させないことが彼にはできる。
「いやぁ! 隊舎に行こうと思ったのだが別件で本部に寄ったんだ! そしたら巡回だと聞かされてね! きみは真面目だなぁ! ハングマンくんなんか、頭を下げることに忙しそうで仕事をする暇もないみたいだったぞ!」
がっはっは、とゴストフは大声で笑う。
「しっかしきみは細いな! ちゃんと食わんと体がもたんぞ!」
彼はティアナの両脇に手を添えると、ひょいと持ち上げた。大柄なゴストフからすればティアナの体は軽すぎたのだ。まるで赤子をそうするように、彼は高く持ち上げる。
それを見て、ようやくスミレはゴストフの存在に気付く。しかしあくまで気付いただけで認識は出来ていなかった。なにもゴストフが幽霊というわけではない。彼の聖人としての能力によって、ゴストフの姿は彼自身が決めた一人にしか映らなくなってしまうのだ。
「おい、ゴストフ。あまり目立つことをするな。今のままだとティアナが宙に浮いているようにしか見えないぞ」
スミレの目にはそうとしか映っていなかった。スミレだけではない。彼女たちの周囲にいる人々の目にも、ティアナが宙に浮いているように見えていた。
「おっと、忘れてた。すまないが場所を変えるぞ。……と、アイランド大隊長に言って貰えるかな?」
姿だけではなく声も、彼の能力は周囲から切り離すことができる。しかし干渉が不可能なのかといえばそうではない。そんな風に絶対無敵の能力ではなかった。彼の姿や声を捉えること自体はできなくなっているが、だからと言って触れられないわけではないのだ。ゴストフは確かにそこにいる。その姿と声だけが世界から切り離されているのだ。その証拠に、ゴストフはティアナの身体を彼の手で支えている。絶対不干渉だというのなら彼からも干渉できようはずがないのだ。彼から触れることができるということは、少なくともその接触面には干渉しているのだから。
抱えあげられている状態にありながら、ティアナはスミレへの伝言を全うしようとしたのだが。
「スミレさん、場所を変えるそうで――、きゃああああああッ!!」
自ら頼んだ伝言が言い終わるより先に、ゴストフは持ち上げていたティアナを肩車すると、細い路地へと向かって走りだした。普段とは高さの違う視点と歩幅、そこから生まれる振動にティアナは悲鳴を上げながら、ゴストフの頭にしがみつく。
スミレは無言でティアナの背を追った。
◆
裏路地、とはいささか安易な表現ではあるが、ゴストフがようやくその能力を解いたのは大通りをはずれた細道、つまりは裏路地に入ってからだった。建物に囲まれて日陰になっており、人通りもほとんどない。ゴストフがそんな場所にティアナを連れ込んだのは、決して彼女を毒牙にかけようとしてのことではなく、単に彼の性格がゆえの行動だった。
「わざわざご足労をかけて済まなかったな、アイランド第二大隊長!」
腰に手を当てて胸を反らせ、まるで威圧するかのような出で立ちでゴストフはスミレに挨拶を述べる。逆立つ頭髪に三白眼、そして肥大した筋肉を持つゴストフが威圧をすれば大人であれども恐怖を覚えるほどだが、それに対してひるむようなスミレではない。……そもそも彼の性格を知るスミレからすれば、そんなゴストフの姿勢も慣れたものだった。
「今は第三大隊だよ。ゴストフ第二大隊員殿」
スミレの国務兵としての階級は『第三大隊長』、そしてゴストフの階級は『第二大隊員』である。階級だけを見るならばゴストフの方が高く評価されているはずなのだが、スミレの彼に対する態度はそうは見えないものだった。
それもそのはず。先ほどゴストフが言い間違えたように、スミレは以前第二大隊で隊長を勤めていたのだ。その時には彼は中隊長だったのだが、今のように部隊に隔たりがあったわけではないのでそれなりに交流もあった。そして人嫌いをしない彼の性格もあって、今のような関係が生まれている。
「そうだったそうだった! しかし俺は今でも貴女のことは尊敬しているのだぞ!」
「……にしては尊大な口調だな」
「これは生来のものだ! 許せ!」
「許すも何も、上官はお前だろうに。……おっと、口調を正すべきですかな? 上官殿」
「今までどおりと行こうじゃないか! なるほど確かに、階級は俺の方が上になったかもしれん。しかし年齢で言えば貴女の方が上なのだ。俺たちの関係は対等でいいじゃないか!」
「お前はいい加減、女性に対する気遣いを覚えろよ。私じゃなかったら引っ叩かれてたぞ」
「おっほん!」
と、会話に参加できずにいたティアナがとうとう我慢の限界に達して、わざとらしい咳払いをすることで強引に割り込んだ。
「ゴストフ先生、何か用があったから私を捜していたんですよね?」
親しい者たちが自分を差し置いて昔話に花を咲かせているのを見ているのは、ティアナにとってあまり気分のいいものではなかった。嫉妬にも似た感情がふつふつと湧き起っているのを自覚し、それを恥じつつも決して表には出さずに、さながら戦闘中のような真面目な顔でいる。
「……とりあえず、そろそろ降りたらどうだ?」
場所が大男の肩の上でさえなければ、もう少し空気も引き締まっただろう。
ティアナは表通りである種の空中浮遊を見せて以降、そのままゴストフの肩の上に乗ったままでいた。
「ゴストフ先生が足を離してくれないと降りられないんです」
「私が離したらダンデリオンくんが降りてしまうからな!」
ゴストフの身長はおおよそ百九十。強引に降りようとすれば怪我は免れられない。
彼の性格上、ティアナが嫌がる素振りを見せれば降ろしているのだが、今のところその様子はない。先生という敬称から現れているように、二人の関係は親密なのだ。ティアナに武器の扱いを教えたのはスミレだが、基本的な戦闘技術はほとんどの部分をゴストフによって鍛えられているのだ。謂わば師弟関係であり、そのティアナが親子のするようなコミュニケーションを拒む理由はどこにもない。
「……もういい。それで、ゴストフ。ティアナにはいったい何の用だったんだ?」
この中で唯一まともで冷静なままのスミレが、遅々として進まない話に鞭を入れる。元をただせば原因の一つであるスミレだが、再会の喜びに少々浮かれていたのだ。たとえそれが表には出ていないとしても。
問われたゴストフはまるで今まで忘れていたかのように手を打ち合わせる。まるっきり忘れていたわけではないのだろうが、おおざっぱな性格であるために伝えること自体は忘れていたとしても不思議ではないために、スミレは呆れた。
「用事、というより伝言だ。以前キミの部下だった彼--、名前は何だったか……」
「ガルド・マニエンですよ」
「そうそう。マニエンの代わりと言ってはアレなんだが、キミも一人では何かと不便だろう?」
本来ティアナの属する第三指団四番隊は、部隊長であるティアナを含め七人で編成されるのだが、人員不足と殉職などの事情があり、実質一人のみの部隊となっているのが現状だ。ひと月前であればガルドがいたのだが、彼は殉職したことになっている。今はスミレがいるのだが、スミレは第三大隊の長を勤める身のうえ、気が付いたらフラッと旅に出てしまう。本部が把握しているティアナの現状をまとめると、「一人でラクスを守っている」ことになっているのだ。それでは緊急時や遠征の際に何かが起これば対応が遅れてしまう。そこで。
「人員配置だ! キミに一人、部下が出来たぞ!」
ゴストフとしてはティアナの喜ぶ姿を予想していたのだが、当のティアナの反応は芳しいものではなく。
「……はぁ」
と、どこか興味のなさげなものだった。
「どうしたのだダンデリオンくん。あまり嬉しそうに見えんぞ?」
見えぬも何も、肩に乗せているティアナの顔は物理的に見ることができないのだが、声音からゴストフはティアナの心情を大雑把に読み取ってそう言う。
一般的な視点で見れば、この人員配置は手放しで喜ぶ出来事だ。一都市を守るという大任をたった一人で行うのは肉体的にも精神的にも荷が重い。そこへ一人とは言え仲間ができるのだ。だというのにティアナの表情はうかないもののままだった。
「全く嬉しくないわけではないんですけれども……」
「ふむ、何か思うところがあると?」
「……私のところって、いつもワケアリな人が来るんです」
「マニエンは普通だったと思うが?」
「彼はその……、家柄を誇りすぎて周囲から浮いていて……」
ガルドは同期や後輩に対し、自らの家系を自慢気味に吹聴していたために毛嫌いされていたのだ。誰だって金持ちは好ましく思いはしない。たたでさえそうであるところを、彼は誇っていたのだからその嫌われ様はいっそ可哀想なほどであった。
「そう言えば、三ヶ月ほど前までいたルーフだったか……? アイツはどうしたんだ?」
スミレは自分が旅に出る直前に配属された者の存在を思い出す。比較的戦闘向きな能力を持つ精霊と契約をしていたために戦死したとは考え難いが、それ以外の理由となると異動くらいのもののはずが、帰ってきて以降そのような話題がなかったために聞きあぐねていたのを、ここに来てスミレは口に出した。
「彼女なら、『楽だって聞いてたのに!』と言って辞めましたよ。配属された四日後に」
「四日後って……」
呆れ果てて笑いをこぼすゴストフだったが、頭の中にあるパズルのピースが少しづつまとまりだし、そして一つの出来事を思い出した。昔話に花を咲かせていたために記憶の掘り出し作業が慣れつつあったこともあるのだろう。三ヶ月前、ティアナの元に人員配置、四日後、辞職。それらのキーワードから、答えを導き出した。
「もしかして魔獣騒動の時にか?!」
「そうです……」
魔獣とは、義利がガイアに訪れた際に襲われた犬型のバケモノなどの総称だ。魔力を多く吸収した動物が巨大化、凶暴化した存在を魔獣と呼ぶ。そしておよそ三ヶ月前、その魔獣が大量発生したために、本来であれば第四大隊の任務である魔獣退治を国務兵総員で行った。それを兵士たちの間では魔獣騒動と呼んでいるのだ。魔獣の大量発生が第4大隊の勤怠が原因とされていることから、戒めの意味合いと冗談の意味合いを込めて、今となっては時折話題に上がる程度の小さな事件だが、その魔獣騒動が原因で激務に耐え兼ねた新人が二人だけ辞職を申し出たのだ。そのうちの一人が、まさかティアナの部下であったことなどゴストフは思いもしていなかった。
「……まあ、なんだ。今度こそそうはならないはずだ。何せ自分から希望して君の元に行くのだからな」
それまで発していたハツラツさに陰りを見せながら、ゴストフはティアナに告げる。
するとようやくティアナの機嫌がわずかに好転した。
「……元はどこにいたんですか?」
「第四大隊の期待の新人だそうだ。階級は指団員だが、仕事熱心と噂だぞ!」
「少しはまともそうですね」
自主志願とは珍しい、とティアナは感心していた。第四大隊から第三大隊への転属というのは危険性が段違い、桁違いなのだ。何せ戦うべき相手が本能のままに生きる魔獣から知性を持ち人間を襲う魔人に変わるのだから。そのために第四大隊から第三大隊へ自主的に異動した者は今までに一人しかいない。そう、ティアナだ。そんな珍しい存在なためにティアナの名前は末端の兵士にも知られているのだった。……ただし、変わり者として。
ガルドとは違った理由で周囲から浮いていたティアナは、同志が出来たと思い一気にその新人への興味が増していた。
「それで、その人はどこにいるんですか?」
ゴストフの頭上から周囲を見回して件の人物を探すも、それらしき人は近くには見当たらなかった。
わざわざ巡回中でどこにいるかもわからないティアナをゴストフ自ら探しに来たのだから、顔合わせのために近くに控えているものだとばかり、ティアナは思い込んでいたのだ。
「うん? 彼女なら、今頃隊舎に着いているんじゃないか? 荷物が多いからと先にそっちへ向かったからな」
その言葉を聞いて、全身から血の気が抜けていくのをティアナは感じた。見れば、スミレも動揺を隠せずにいる。
今の隊舎には足立義利という名の魔人がいるのだ。もし、新たに配属されたというその人が、隊舎にある人の気配を不審に思い天使に探知をさせたのなら、戦闘は避けられないだろう。それだけでも十分な不安材料となり得るところ、さらにティアナを不安にさせるのが、それを相手取るのが戦闘好きのアシュリーだということだ。
これは完全にティアナの憶測でしかないが、第四大隊から異動を許されたということは、新人の実力は確かな物である。もしもその新人が出会い頭に義利を襲撃し、それが成功して彼の意識を喪失させたとすれば、アシュリーを止められる者がいなくなってしまう。その結果戦闘が激化し、街にまで被害が及び、さらに騒ぎが広がってラクスに強力な魔人が出現したと本部に知らせが届き、そこから派遣されるであろう国務兵をもアシュリーが殺害してしまい、それをきっかけとして全面戦争になるのではないだろうか。一瞬でそこまでの空想を広げ、ティアナは慌てた。
「ご、ゴストフさん! 降ろしてください!!」
「ぅおッ! 暴れるな、落ちるぞ!」
「急がないとなんです!」
「わかったわかった! 今しゃがむから暴れるな!」
落ちそうになるティアナを怪我をさせないぎりぎりの力で押さえ込みつつ、ゴストフはその場で屈んだ。するとティアナは飛ぶようにゴストフの肩から降りると、そのまま走り出した。
そして曲がり角の直前でふと振り向き、叫ぶ。
「ゴストフせんせーいッ! また今度、次は腰を落ち着ける場所で話しましょう!!」
それに対してゴストフも声を張って返す。
「おーう! たぶん、次の週にでもなー!!」
別れの挨拶もなしに去ったスミレの背もまとめて見送り、一人になったゴストフは少しの間その場で留まった後、オーアイルに帰るために歩き出した。
彼とて暇なわけではないのだ。仕事の合間を縫ってかつての戦友と弟子の顔を見るためにラクスへやってきたのであって、この直後、魔人討滅の任務に向かうのだった。
「おっと。生きていたら、を付けるのを忘れていた」
独りごち、彼は人ごみに紛れ込む。




