第二章 00 プロローグ
巨大な風車型の大陸、その東側に位置するエスト国には、スコーネという小さな町があった。人口は百人程度。しかし人手の少なさを補うほどに固く強い絆が形成されているため、近隣の農村部に引けを取らぬほどの農業生産量を誇っている。
そんなスコーネで、ティアナは生まれた。
物心のつく前から既に父親の姿はなく、母親のリイン・コニウムによって女手一つで育てられたティアナは、おしとやかに育ってほしいという母親の教育方針とは逸れ、好奇心旺盛な子供になった。
言葉を理解し、自己の認識ができるまでに育った頃。リインはティアナへ幾つかの約束を交わさせた。
一つ。町の外には出ないこと。
二つ。お役人が見えたらすぐに隠れること。
三つ。魔人を見たら二つの約束を破ってでも逃げること。
この三つを約束させ、それ以外のことであれば大抵のことは許された。
スコーネには極稀に、役人が視察に来る。その意味を幼いティアナはもちろん、ほぼすべての町民は知らない。だが何か失礼があってはならないと、役人が見えた時には子供は家に隠れるようにしつけられる。そして、魔人が出たら逃げろ。これも耳にタコができるほど子供は聞かされ、大人は口が酸っぱくなるほどに言い聞かせることだ。
だが、町の外に出てはいけない理由を、リインは一切口にしなかった。とにかく、出てはいけない。ティアナが聞いたところで、返ってくるのはいつもそれだった。
だが小さな町とはいえ、子供からすれば十二分に広い。そのためティアナが三つの約束を破ることは一度もなかった。特に不満を抱くこともなく、日々は過ぎていく――。はずだった。
「この町にダンデリオン卿の御落胤がいるはずだ! その者を差し出せ!」
普段であれば素通りするだけの役人が、その日は町の中心で叫びあげた。
何事かとおおむねスコーネの全員がその場へ集まりだす。当然、大人ばかりが、だが。役人の言葉の意味を理解しようとし、大人たちは首をひねる。御落胤、つまりは隠し子だ。それは理解できたのだが、そんな子供がなぜこんな田舎のスコーネにいるのかという疑問までは解消できずにいた。
「あーあ、白を切るワケ……。あっそう」
腰に差していた剣を引き抜き、空へ高々と掲げると、町民をぐるりと見回し、男は続ける。
「言う気になったら教えてよ」
まるでそうなることを望んでいたかのように、その男は喜々として剣を振るいだした。雑草でも刈るように軽い手つきで、男は身の丈ほどもある長剣を馬上で振るう。馬を傷つけることなく、そして一撃で首を刎ねることなく。苦しみを与えて殺すことに快感を覚えているのだろう。男は一人を死に至らしめるたびに、一つの悲鳴が上がるたびに、顔を恍惚とさせていった。
そんな騒ぎは、ティアナの耳にも届いていた。
「ねえ、ママ。なんだか騒がしくなぁい?」
悲鳴と歓声の区別が曖昧なティアナは、祭りが始まったのかとソワソワしながら母に訊く。
「……ママ?」
質問をすればすぐに何らかの返事をする母からの声がないことに不安になったティアナは、横を――、町の中心の方を見つめている母の顔を、そうっと覗き込んだ。
そこには今までに見たことのない、負の感情をすべて混ぜ合わせたような表情が浮かんでいた。
「……?」
それを理解するには彼女は幼すぎた。少し様子が変だと、そう思うのが精いっぱいだった。
リインはゆっくりとティアナの肩を掴む。その手は焦りからか力の加減ができなくなっていた。ティアナの柔肌に、爪の先が小さく食い込む。
「……いい、ティアナ。今からママが言うことをよく聞いて」
「ママ……、いたい……」
娘の訴えを無視して、リインは続けた。
「キャルロット。出てきて」
その声に応じ、小さな光の球が現れる。それが何であるかなど、好奇心の塊であるティアナは既に知っていた。
「せいれいだ」
「そう。キャルロット。私の契約精霊よ」
「キャロって呼ぶの」
小さな光の球は、リインの周りをくるりと一周すると、輝きを強くし、人の形となった。
「ずいぶん久しぶりに呼ばれた気がするの」
「ええ。七年ぶりね」
「もうそんなに……、なの」
会話についていくことのできないティアナは、声の先を目で追うので精いっぱいだった。二人が何を話しているのかを考える暇すらない。
「早速で悪いけど、キャルロット。契約の破棄を。急いでお願い」
「契約の破棄は、口頭でいいの。だからリインがそう口にした今、キャロとリインはもう他人なの」
「それと、この子と契約をお願いできる?」
「まったく。今までの働きに免じて、そのお願いを聞いてあげるの。特別なの。感謝するの」
「感謝するよ」
そこでようやくリインはティアナの目をしっかりと見つめた。
「キャロは火を防ぐ力をティアナに貸してくれるわ。その力を使って、この町から逃げなさい」
「でも……、町からは出ちゃダメって」
「いい? 魔人が来ているわ。だから、三つ目の約束、覚えてる?」
小さく頷いて返し、ティアナは言った。
「魔人を見たら二つの約束を破ってでも逃げること」
「そ。いい子ね」
娘の頭を優しくなでると、リインは寝室へと向かった。手を引かれるティアナは事態を把握できないまま、母に引かれている。寝室に着くと同時、リインがベッドをひっくり返した。そこには何かにふたをしているかのような鉄板が置かれている。その鉄板の下には、穴があった。そこへティアナを強引に押し込み、リインは静かに告げる。
「外が静かになるまでおとなしくしてること。それと、外に出たらラクスを目指しなさい。そこに私の妹がいるわ。名前はステイム。きっと優しく迎えてくれるから」
「ママは?」
「私はね、やらなきゃいけないことがあるの。それじゃ、お願いだからティアナのことを頼んだわよ」
最後はキャルロットへ向けての言葉だった。リインは、鉄板で穴に蓋をし、それを隠すためのベッドを元に戻す。
そして、騒ぎの元へと向かった。
「さ、ティアナ。リインの言った通り、おとなしくしてるの。話し相手くらいにはなってあげるの」
暗く閉ざされた空間で、潜めながらキャロは新たな契約者候補へ声をかける。
「やだ」
「……、魔人を見たら逃げるって、さっき言ってたの」
「だって、見てないもん」
涙目になり、ほほをむくれさせてティアナは言った。濡れた瞼を手の甲で乱暴に拭い、鉄の蓋を叩く。
「ママ、開けて!」
少女の声にこたえるように、重い蓋は持ち上げられる。
「おやおや、なぁーんか怪しいなァ?」
しかしそこに母の姿は無く、背の低い、少年ともいえる男がいた。赤褐色の髪の少年は、自分より一段低いところにいるティアナの首をわしづかみにすると、持ち上げて引きずり出した。
「いたい! 離して!」
そんな叫びを無視して、少年はしげしげとティアナのことを眺める。
「ふん。こりゃ確定だ。血のつながりってぇのは、まったく恐ろしいよ」
少年はティアナを軽く放り投げると、肩で担ぐように抱えなおした。
「助……、けて、ママ!」
まだリインと離れてからそう時間は経っていない。近くにいるはずとティアナは叫んだ。
「ママってのは、もしかしてそこの女か……?」
「え……」
少年の指さした先を見る。わずかに荒らされた室内、その隅に見慣れぬ何かがあった。
否。見慣れてはいる。あまりにも普段とかけ離れているために認識することができずにいたのだ。
全身の関節が逆に曲がっているそれを、すぐに人と分かることのできる人間は少ないだろう。ましてそれがよく見知った身内であればなおさらだ。
出来の悪い人形のようなそれが母親であることを、ティアナはようやく理解した。
「ママ! ママ?! なんで!」
「あー、くっそ……。名札でも付けとけっつーの」
わめくティアナの口を手で塞ぎ、少年は歩き出した。受け入れがたい現実に取り乱すが、暴れたところで体格差を埋めるほどの力はティアナにはない。大人しく運ばれることしかできないのだった。
「ママ……、ママぁ……」
やがて暴れ疲れたティアナは動きを止めた。無駄だと悟ったのだ。
――私のせいだ……。
幼いティアナは自分を責めた。母親の言いつけを破ったせいでこうなってしまったのだと、関係のない二つの出来事をつなぎ合わせてしまったのだ。
ほどなくして、ティアナは地面に落とされる。
「……これが」
「そうでございます奥様。これこそがダンデリオン卿――、旦那様が犯した過ちの証拠でございます」
それまでの粗暴な言葉遣いを正し、少年は言う。まるで別人のような少年の言動は、その女性が高貴な身分にあるためだ。そしてそんな彼女の機嫌を窺うことで、より思い通りに事を進めるためでもある。
奥様と呼ばれたその女性は、差し出されたティアナの胸ぐらをつかんで持ち上げると、少年がそうしたようにじっくりと観察をし、放り投げた。
「この目、この髪、この肌……。確かにあの人の血を感じるわ」
「では奥様。契約を交わしていただけますな?」
「ええ。誓うわ」
迷うことなく、女性は契約を結んだ。暗色の髪の精霊は悪魔である。そんな子供でも知っていることを知らぬはずがない。悪魔だと知りつつ、女性は契約をしたのだ。
「では奥様。申し上げた通りにお願いいたします」
「ええ。コロナ。『命令』その子の背中に一生消えない傷を付けなさい」
ひとり芝居をするように、魔人は言葉を交わした。
「こんな小さな子供に、気乗りしないなぁ」
精霊の中で悪魔にのみ存在する、三つの命令権。それを用いて女性はコロナを動かす。
命令を受けたコロナは俄然嬉しそうに口元をゆがめると、指の関節を鳴らした。
そこから先、ティアナの意識は薄れる。激痛により気を失いかけたのだ。ただそんな中でも必死で呼びかけてくるキャロの声は、わずかにではあるが聞き取ることができた。
その時に聞こえた言葉を、ティアナは虚ろになった頭でおうむ返しにする。
「ち、かう……」
声にしたと同時、ティアナはついに意識を失った。
そして次に目を覚ますと。
「アハ! ハハハハハハハッ!!」
灰の海で、笑い声だけが響いていた。
右を見ても左を見ても、あるのは灰と魔人の姿のみ。その魔人が笑っていた。
嬉しそうに、楽しそうに、何かを馬鹿にするように、何かを見下すように、笑っていた。
「なぁんにも知らねえんだな、人間は!」
笑いながら叫ぶその魔人は、一度背を丸めると、反り返る勢いで一気に跳び上がり、そのまま姿を消した。
灰の海を、ティアナは揺蕩う。背中の痛みに耐えながら、そこがどこであるかを確かめようとしていた。
行けども行けども、灰の海は途絶えない。だが、ようやくにして生存者を見つけることができた。
背の高い女性だった。黒という珍しい髪と瞳の色を持つその女性は、ティアナの肩を支えるとなだめるような優しい声でティアナに問いかける。
「ここはスコーネじゃ、ないのか……、な?」
女性は、国務兵の腕章を着けていた。小さい子供でもその存在は知っている。悪魔を倒す者。正義の味方。だからこそ、それがティアナにどうしようもない現実を突きつけるのだ。
女性は魔人の存在を察知して来たのだろう。その女性が灰の海を見て地名を聞いてきたのだ。本来そこにあるはずのものがないから、聞いたのだ。
「うあ……、うわあああああああああああっ!!」
ここがスコーネであるということは、そこにあった建物も、そこにいた人も、すべてが灰にされてしまっていることになる。幼いティアナにもそれだけは分かった。もう故郷はない。そこにいた人たちに会うこともできない。そしてそれは取り返しのつかないことで、だからティアナは泣き叫ぶことしかできなかった。
◆
「ッはぁ!」
絞められていた首を解き放たれたような息をして、ティアナは跳び起きた。大量の寝汗と涙で湿り気を帯びた寝具は、つい今しがた見た夢のせいだ。
過去の、スミレと出会う直前の夢だった。
燃えるような赤い瞳、紫色の爪、そして黒い炎と灰の海。
「ティアナ=ダンデリオン」
自身の名を口にし、彼女は自身の記憶の中から夢の続きを掘り起こす。
故郷を失い、意識を失ったティアナは、背中の傷によって生死の狭間を彷徨い、三日もの間眠り続けた。その後、目覚めたティアナは事件の全貌を、灰となったスコーネに現れた女性から聞いた。
国務兵の中枢を担う要人であるベリエル=ダンデリオンの妻が、悪魔にそそのかされたのだ。夫に隠し子がいると知り、その存在を探し、そうして見つけたのがティアナだった。その後彼女は悪魔の力を使い、町を焼き払った。キャロとの契約が間一髪で間に合ったティアナだけが難を逃れることができた、と。
スミレ=エフ=アイランド。魔人狩りの名手として名を馳せている女性からの言葉であり、そして何よりその現場に居合わせたティアナはすぐに納得がいった。
納得はしたが、許すことなどできるはずがなかった。激しい怒りの中で、ティアナは復讐を誓う。
少女の復讐の対象は、あの悪魔だけではない。ダンデリオンの名を持つ者も、その関係者も、彼女にとっては許しがたくあった。
姓をコニウムからダンデリオンへと変えたのは、その怒りを忘れないためだ。
名を名乗るたび、呼ばれるたびに、思い出すためにそうした。
「最近は、あんまり見なくなったのに……」
復讐心が薄れたわけではない。だが年齢とともにその出来事を夢に見る回数は減っていた。それが再び現れたことにどんな意味があるのかを思いふけり、その途中でじっとりとした衣服の不快感により思考を遮られる。
「……お風呂に入って考えよう」
ひとりごち、部屋を出る。
空はようやく太陽が昇り始める頃だ。
こうして、ティアナの一日は始まった。




