再戦
「……万事休す、って感じかしら?」
エスト国の北側、比較的気候の穏やかな位置にあるラクス。その国務兵の隊舎の中で爆破音に包囲されつつ、ティアナ・ダンデリオンは小さく漏らした。
現在彼女は、壁際で膝を着いたまま背中を軽く丸め、小さな女の子を後ろに庇うような形で動けずにいた。周囲を囲う光の玉によって、身動きを封じられているのだ。
『動かない限りは安全なの』
彼女の契約精霊であるキャルロットがまるで他人事のように言う。
「問題は全部運任せなところなのよね……。壁がいつまでもつか、それまでにアダチさんたちが戻ってくれるか、アダチさんたちがアイツを倒せるのか、っていうね……」
壁――。それはキャロとの融合時に発現する精霊術だ。見えない壁を作り出し、ある程度の攻撃を無力化することができる。物理的攻撃に対してはもちろん、今のような爆発すらをも、だ。
「いい加減諦めたらぁ?」
無数に起こる爆発の合間に、女の声がティアナの鼓膜を揺らした。それは、魔人と化したユネス・コクスコウムの物だ。
義利の推理通り、エッダのアクターはユネスだったのだ。
義利たちの出発から間もなくの事だった。フラリと起き上がったユネスの瞳に逆三角が現れているのを見つけたのは。直後に魔人はティアナの脇腹を爆破させた。視認による爆破、なのだが当のティアナがそのことを知るはずもなく、混乱しつつもまずは部屋から脱出をした後に、トワを連れ、壁際で球形の防御壁を展開した。
だが、その壁すらも意味をなさず。
壁を張ったことで油断をしていたティアナは、左の脹脛に大きな割創と火傷を負わされる。
当然と言えば当然だ。エッダの爆発は視認することさえできればどこだろうとも可能なのだから、不可視の壁など無いも同じになってしまう。
しかし。
ここで彼女は、咄嗟とはいえトワを回収したことに救われる。
トワの能力は触れた液体を操ることだ。トワはティアナの表情から事態の緊急性を読み取り、念のためにと花瓶の水に触れていた。彼女がその水を操り、さらにその水を別の器、それをさらに……、と繰り返すことでティアナの壁を覆ってなお有り余るほどの水の支配をその手に収めていたのだ。その水の膜が光を歪めることで、内側にいる二人に焦点を合わせられなくしているために、現時点まで生きている。
「時間稼ぎ、かぁ。嫌いじゃないわよ。足掻いて、あがいて、アガイタ挙句に殺される……。その顔を見せて!」
加えて、エッダの狂った性格も、彼女たちの命をつなぎ止めている。最初の一撃が頭を狙ったモノであれば、ティアナは死に、魔人の存在に気づけなかったトワも命を落としていただろう。
『あとは、トワの集中力次第なの』
そう。魔力の行使には集中力を要するのだ。ティアナの場合であれば壁を展開する際にのみ魔力を使えばいいだけなので、たとえ今眠ったとしても融合を解かない限り壁は維持され続ける。しかし常時水を操作していなければならないトワは違う。一度でもその操作から手を離せば、途端に水は壁から離れ、二人の姿をエッダの前に晒すことになってしまうのだ。
「そうね……。どんな能力かはわからないけど、水を張ったら途端に攻撃されなくなっているわけだから、これがなくなったら当然……」
『なの』
既にユネスの魔人化から二日が経過している。守られている身であるためにティアナも睡魔に抗ってはいるが、時折ほんの一瞬だけ意識を失うように眠ってしまうことがあった。訓練を積んできたティアナですらそんな状態だというのに、トワは一瞬たりとも気を緩めることを許されない状態で、同じだけの時間を過ごしているのだ。
「うー……。ウコロ……」
『眠いって』
「それくらいならわかるわよ……」
トワの独り言をキャロが訳し、それに対してティアナが返す。
こうした会話にもなっていない発声によって、彼女たちは眠気を紛らわせてきた。最初の内はまだまともな話し合いが成立していたのだが、二日という長い時間に睡魔が加わったことで、思考力の低下と共に口数も減ってしまっている。限界は、そう遠くないだろう。
『ガンバレなの。キャロはちょっと考え事するの』
相も変わらずマイペースなキャロだが、この中では現在最も思考力の残っているのは彼女なのだから、打開策を思いつくことができるとすれば、それはキャロだけなのだ。トワは『眠い、けど寝たら殺される』とだけを考え、ティアナは『爆破の間隙に……、いや、包囲されてるから無理だ。あと眠い』と一応は頭を働かせようとしているものの、どちらの思考も睡魔に侵されている。
そうこうしている合間に、とうとうエッダが痺れを切らせた。
「流石に飽きちゃったぁ……。そろそろ、終わらせましょうか」
壁の外の様子を、ティアナたちは正確に把握することができない。だがその言葉をどうにか聞き取り、そして内容を理解できたティアナは念のためにと壁の内側に更なる壁を生み出した。
直後のことだ。ガラスの砕けるような音が響き、一枚目の壁が破壊された。
「………………ッ?!」
耐久に限界がきた訳ではない。純粋に、別の攻撃方法によって破壊されたのだ。
そして、それだけには終わらない。
徐々に徐々に、しかし目に見える勢いで水膜が薄くなっている。
「トワ!」
まさかついに眠ってしまったのかとトワの方をみるも、彼女はしっかりと起きている。
「ムバハ!」
『違うって』
「わかってる!!」
わかっているからこそティアナ慌てているのだ。原因がトワにないとするならば、残るはエッダしかない。何らかの方法によって水膜を取り去っているのだ。このままではいずれ敵前に姿を表すこととなり、確実な死が訪れてしまう。
『あと少し……』
小さくキャロが呟く。
「何が!」
『悪魔の反応が物凄い速さでコッチに向かってるの。たぶん、アダチだと思うの』
キャロのしていた考え事とはそれだった。段々と大きくなる嫌な気配の正体が何なのか。それが魔人とわかると、今度はその行方を。それがこちらに向かっているとわかり、ようやくアダチだと断定できたのが今だ。
「本当? あとどれくらいで着きそう?」
『一分……、くらいなの』
「なら、何が何でもそれまで持たせなきゃ……」
一分。
高々一分だが、それが今のティアナにとっては地獄のように長く感じられた。
今のままのペースで行けば、水膜は一分も持たない。ならそれをどうするか。
「キャロ、一回融合を解いて、水に状態保存の魔法を」
潜めてティアナが言う。エッダに聞かれては光弾により攻め落とされると考えたからだ。……どちらにせよ、壁がほぼ無力化されているのだからと、ティアナは防御壁を切り捨て、水膜の保護を優先した。
『はいなの』
「これで、光がきたら即融合、見えなくなったら解除を繰り返して――」
――時間を稼ごう。
そう口にするよりも早く、エッダは動き出した。
「ティアナ?!」
キャロが驚いたように目を見開きながら叫ぶ。ティアナは何事かと周囲に意識を巡らすも、水膜に変化は見られない。キャロの状態保存の魔法によって守られているのだから当然だ。
異変があったのは周囲ではなく、ティアナの身体にだった。
目だけを動かし、キャロの目線の先にある自身の左手を見る。
右手に握ったナイフによって刺し貫かれた、自身の左手を。
「あ……」
そこでようやく、鈍っていた感覚が脳にたどり着いた。
「〜〜〜〜〜〜ッ!!」
眠気覚ましに行った自傷ではない。そうであるならば多少皮膚を傷つけるだけで済ませるはずだ。しかし現在、彼女の握るナイフは手のひらから甲に抜け出ている。
過剰な疲弊と睡魔、そして無意識の行動であったために知覚が遅れたのだ。だが、それと認識してしまえば意識が追いつく。
「ぐうゥゥゥッ!!」
激痛が手の神経を灼く。しかし止血のために手首を抑えることすらも彼女はしなかった。
――いや、できなかったのだ。
「必殺・操り人形、ってぇところかしらぁ?」
エッダが語りだす。左拳の側面を、右手のひらに押し当てながら。
「これは……、確かパトリシア・ペットってヤツの能力よ。自分に触った相手の身体を思うままに操ることができるの。……相手と同じ姿勢を取らないといけないっていう面倒な能力だと思ってたんだけれど……、案外使えるじゃない」
グリ、とエッダは左手を軽く前に倒してみせた。
「あッ! いッ……ヅ!!」
それと全く同じ動きをティアナもする。ナイフを握っていないエッダは顔色ひとつ変えることはないが、ティアナは激痛に涙を浮かべるほどだ。
水膜の減少は姿を薄く見えるほどになっており、それによっておおよその姿勢を見取り、真似、そうして能力を発動したエッダは、まず記憶の中からティアナの装備を掘り起こした。太ももに巻きつけてあるホルスターの中にナイフがあったはず。そこからナイフを取り出すような動きをして、今の状況を作り出したのだ。
エッダは元より武器など手にしない。故に、傷つくのはティアナだけとなっている。
「うふ、ふふふ。クフフフフッ」
嗤い、傷を深めるために手をすり合わせる。
「あああッああ!!」
悲痛な声を上げつつも、ティアナの心は折れなかった。
――早く、速くッ!
キャロの予想でしかないが、彼が近づいてきているのだ。だがこのタイミング、そしてこの場所に向かっているのだから、間違いないとティアナは確信していた。
民間人、それも異邦人である彼に頼らざるを得ない自分を恥じてはいる。出発が決まる前、自ら彼に対して言った言葉と真逆のことを望んでいるのだ。合わせる顔などあるはずがない。
「もうそこにいるの!」
キャロが叫ぶように言う。おそらく中の様子を伺っているのだろう。もしくはエッダの能力を知っているために尻込みをしているのかもしれない。
――エッダに負けないだけの力があれば……!
力があれば彼に全てを任せずに済むのに。力があればこんな窮地に追い込まれることもなかったのに。力があれば、スミレを守ることすらできるのに……。
幾つもの自分に対する恨み言を脳内で繰り返した後、ティアナは一度大きく息を吸い込んだ。
終わったら謝ろう。彼女は心に誓いながら、叫んだ。
「アダチさんっ、お願いっ!!」
瞬間。
青白い雷が眼前をよぎった。
あまりの眩さに目をくらませ、それが収まったとき、エッダの姿が消失していた。
代わりに、白く長い髪を持つ魔人がそこに立っていた。
「ゴメン、待たせた」
その口調は穏やかであるが、全身からはおびただしい量の汗が流れている。注視すれば彼のズボンは無残に裾が裂けており、血が滴っている。魔人化により既に傷は癒えているのであろうが、その痛みは想像を絶するほどのものであるはずだ。
ヘーゲンからここまで走ってきたのだろう。そのことにティアナは胸を痛める。事実として彼女のために、義利はその命を削っているのだ。それもこれも、力がないから。
「大丈夫?」
そんなティアナの暗い表情を見て、義利が声をかける。
「手に穴があいているのを見ておいて、よくそんな言葉が出せるわね」
しかしいつもの調子で返してしまい、咄嗟に口を塞ぐ。それによって彼女は自身にかけられていた能力が解除されていることに気づいた。
「ははっ、それだけ元気なら大丈夫だよ」
ティアナの無礼を笑って流し、彼は一瞬真剣な眼差しになる。
「すぐ終わらせるから」
その彼の顔は今までにないほど真剣なそれだった。彼の発する威圧感に、思わずティアナは背を寒くする。
「アイツに同じ姿勢を取られないように気をつけて。身体を乗っ取られるわよ!」
彼がどこまで知っているか不明なためにまずはその情報を伝える。最も警戒すべきことはそれなのだ。
――だが。
「もう、遅いわよ」
エッダは、既に義利へ件の能力を使用していた。
「うふ、よく分かったわね?」
勝利を確信した余裕から、エッダは微笑みながら彼に問いかけた。
「間抜けはキミだったってことだよ」
体の自由を奪われたはずの義利は、冷静にそう返す。
「間抜け? どういう意味かしら?」
灰の人形とは完全につながっているわけではないらしい。つまり、生み出した瞬間から全く異なる自分自身、というわけだ。意思の疎通はできても、意思の統一はできないと。
疑問は残るが、勝利を確信した彼女にとっては瑣末なことだ。
エッダはくるりと身を翻す。それと全く同じく義利も行動する。
「でも、わざわざ来てくれてありがとう。おかげで仲間に殺される顔と、仲間を殺す顔が見られるわ」
そしてエッダは三歩、前へ進む。それが義利とティアナの距離だと測ったからだ。
「アダチ、さん?」
ティアナが不審そうな声音で言う。
どこまでも冷酷な笑みを浮かべながら、エッダは拳を振り上げた。何もない空間に向かって。
彼女はそこに跪いている人間を思い浮かべ、そしてその頭に目掛けて全力の拳を振り下ろした。
これで女の頭を魔人が打ち抜いたはずだ。そう思い、振り向く。
「やっぱテメェは間抜けだよ」
目の前には支配したはずの魔人が立っていた。
いったい何が起こったのか、そう考えるよりも速く義利の拳がエッダの顔面にめり込んだ。
あまりにも突然の出来事に身を躱すことができず、その威力の全てを受けた彼女は弾かれ、壁に打ち付けられる。脳が揺れ、意識を失いそうになったが、彼女は持ちこたえた。
「なんで……、なんで動けるのよ!!」
彼女の必勝の手である『操り人形』は間違いなく発動している。そのはずなのに動けることが信じられず、殺しの手段を放つでもなく思わず声に出てしまったのだ。
「私に触って、同じ格好を取られたら、他の誰かが私に触るまで、絶対に解けないはずなのに!」
操り人形の効果は、発動後、別の誰かが彼女に触るまでは維持される。ゆえに、義利から最初の一撃を受けた際にティアナへかけた能力は解除されたのだった。
「ダッチ曰く、お前に触ったのはアタシじゃなく、僕だからだ。ってさ」
「意味のわからないことを……!」
冷静さを失いつつある彼女は、目の前に立つ魔人の一人称が変わっていることにすら気づけない。普段の彼女であれば、それを取っ掛りに、魔人がアクターと入れ替わっていることに思い至ることもできただろう。そして操り人形が機能しない理由にも。
「それで、ダッチ。どうするよ?」
彼女からの問いかけに、義利は静かに答えた。
『やるよ』
「あいよ」




