分断
ダカダカと蹄が地面を叩く。義利のいた日本とは違い、ガイアの道はアスファルトで舗装されていない。地面の凹凸を通過する際に発生する振動は、車輪からそのまま馬車の荷台にも伝わる。当然、振動を軽減させるための加工は施されているが、すべてを吸収できるはずもなく、結果。
「ぅげっ……、えぇ……」
少年が小さな声で嗚咽を漏らす。胃の内容物はすでに吐き出し切っているが、しかし吐き気は止まることを知らない。
ラクスを発ってからまだ一日。ヘーゲンまでの道のりは遠い。
「しっかりしろよ……」
背中をさすっているアシュリーも、どこか辟易として見える。
何となく、予想はしていたのだ。出発の直前に馬車に乗った際の反応がどこかぎこちなく、そして同時に好奇心に満ち溢れた眼差しをしていたことから、もしや初めて乗るのでは、と。
テーレ大樹林からの帰路については、彼は馬車に到達するはるか前に疲労によってオチていたため乗った内には数えない。
スミレが手綱を操り、道なりの緩やかなカーブを曲がる。遠心力によって荷台に負荷がかかり、それは搭乗者にも伝わる。
「ご……、ごめぇぇぇ……」
謝罪の言葉も嗚咽に飲まれる。
吐き気のみが、彼を苦しめていた。吐瀉こそしないものの、それにより大量に分泌された唾液は彼の口内から溢れ、地面へと落ちて行く。
「おいスミレ。気付け薬」
見兼ねたアシュリーが、行者台に座るスミレに声を掛ける。
「悪いな。酒は嗜まないんだ」
「そっちじゃねーよ。これ以上酔わせてどうすんだ」
「ああ。それならホラ」
懐をまさぐり、小さな布の袋を差し出すと、アシュリーがひったくるように受け取る。
口を開けると、中には赤く小さな粒が幾つか収められていた。アシュリーは豆粒よりも小さなそれを見て、効果のほどを疑う。しかし頼れるものは他にない。
「ほらダッチ。これ。あと水」
力なく荷台の側面にもたれ掛かる義利を、彼女は腿に彼の頭を乗せさせ、空に向かってだらしなく開いている口の中にザラザラとそれを入れ、そして水を注ぎ込む。
「ほれ、ごっくん」
子どもをあやす風な彼女の声に合わせて嚥下する。胃の中に物を入れたことにより嘔吐感が蘇ったのか、義利の顔色がさらに悪くなった。しかし薬を戻しては意味がなくなると、アシュリーが両手で口を塞ぎ抑え込む。
「おっと」
それから間も無く、義利の吐き気の第一波が治まった頃に、スミレが思い出したような声を上げた。
馬を操っているために視線を前から外すことのできない彼女は、進路を見ながら荷台の二人に注意を促す。
「言い忘れたがその薬、かなり強力なヤツだから一粒だけにしておけよ」
「遅えよアホッ!!」
すでに手遅れなスミレの言葉にアシュリーが怒り交じりに返した。
「ちなみに即効性抜群」
「最悪だチクショウ!!」
慌てて義利を抱え起こすと、アシュリーは彼の口に手を突っ込んだ。苦しみ悶える義利を押さえつけ、そのまま嘔吐を促すように喉奥を刺激する。
「悪いけど我慢しろ。そんで吐け」
「ゴェッ!! ゲベッ!!」
と、えづきはするが吐き出されず。アシュリーの手は義利の唾液によってベタベタになっているが、彼女はそれを気に留める様子もない。
だが義利は気にしている。彼女の手をこれ以上汚してなるものかと、込み上げる体液を意思の力で留めていた。
「吐くのは我慢しなくていいんだよ!」
ぐいっ、とさらにアシュリーの腕が義利の体内に侵入するが、彼は吐瀉しない。
そしてとうとう気付け薬の効果が現れ出した。
ーーツウ
アシュリーの腕に伝う唾液に赤が混じる。思わず歯を立ててしまったのかと、不安になる義利だったが、そうではない。
「おいッ、ダッチ大丈夫か?!」
ようやくアシュリーが腕を抜いたが、痛みによる反射とはもちろん違う。たとえ腕が吹き飛ぼうが胴体を高温に焼かれようが物ともしない彼女にとって義利の噛みつき程度、何もないも同然だ。
ではいったいどこから? と考えながら義利は口元を拭う。唾液まみれのままではみっともないだろうと、すでに散々醜態をさらしておきながらも取り繕おうとしたのだが、それにより事態を把握する。
拭った手の甲がべっとりと血で汚れていた。
血の出処は、義利だ。
アシュリーが力の加減を間違えて歯を折ったのではないかという想像が脳裏にチラつくが、口内に痛みはない。
ふと、鼻下に水気を感じ再び手の甲をあてがう。すると彼の手はより一層血で汚れた。
「あ、鼻血……」
それも数滴で治まるような勢いではなかった。壊れた蛇口のように、ダラダラと耐えることなく流れ出続けている。
「スミレ! 飲ませすぎた! どうしたらいい?!」
アシュリーは薬の所有者であるスミレへ対処を求める。
「安心しろ。身体に害はない」
「鼻血が止まらねえぞ!」
「興奮作用で血管が広がって切れたんだろ」
「なら……」
アシュリーは霊態となり、義利の身体に溶け込んだ。
義利の髪が伸び、それと同時に根元から色素が抜け落ちる。貧弱に見える肉体もどこか引き締まった印象を与えるものに、耳は空想上の悪魔を彷彿つとさせるように尖り、爪は獲物の肉をえぐり取りやすいように鋭く、それぞれ変化し、そして最後に瞳の形が変わる。
融合だ。
興奮作用によるものだとしても怪我は怪我。魔人となればその程度、瞬く間に修復される。
「これでよし」
気付け薬の効果は魔人になったとしても切れることはない。今もなお、義利の中にある細い血管は破裂している。しかしそれら全てが破裂と同時に魔人の修復能力によって再生されているのだ。
魔人の修復能力は、身体の異常を全て正常にしようとする働きがある。薬も、そのままでいるよりは早く抜けるだろう。
『あのさ、アシュリー』
「なんだよ」
融合したことにより心に余裕のできた義利は、あることに気づく。
『今思ったんだけど、最初っから融合してれば酔いも収まってたんじゃないかな?』
「あ……」
乗り物酔いに関しては諸説あるが、それらの多くは三半規管の異常が主たる理由とされている。慣れない乗り物の振動によるものとする説もあり、新米の頃は酔ってまともに仕事のできない漁師が慣れによって酔いを克服する例もある。
三半規管の異常を魔人の修復能力で常時正常化しているのか、馬車に慣れていない義利の身体に馬車に慣れているアシュリーの人格が入ったからなのかは不明だが、結果として乗り物酔いは治まった。
それまで堪えていた苦痛がこうも簡単に解消できたのだから、なぜそうしてくれなかったのかと、非がないと分かっていてもアシュリーを恨まずにはいられない。
そもそもの原因は自分が馬車に酔ったことだというのに。
「伏せろ!」
唐突にスミレが叫んだ。
義利との談話からすぐに意識を切り替えようにも、油断し切っていた瞬間の指示だったために反応が遅れる。スミレの声から一拍。それがアシュリーが行動を起こすまでにかかった時間だ。膝の力を抜き、姿勢を低くする。スミレの声音から緊急性を感じてその時にできる最高のパフォーマンスをしたアシュリーだったが、ほんの一拍の間によって、危うく命を落とすところだった。
「融合しといて助かったな……」
などとアシュリーは事も無げに呟くが、義利の身体には人間であれば致命傷に至る傷が刻まれている。
鎖骨から肩にかけての肉が爆ぜ、左腕が脱落するという重傷だ。
ジュグリ、と傷口の肉が内側から隆起して少しづつ元の形状を取り戻してゆく。
「大丈夫か?!」
振り向かずにスミレが声を張る。後ろを見る余裕などないのだろう。
「大丈夫だ! 何があった?!」
「魔人のお出ましだ……」
スミレの背中越しに、アシュリーは進行方向を睨みつける。
そこには、紫色の髪をしたヒトが立っていた。
◆
「あれが、魔人か?」
完全に再生した左腕を慣らしながら、アシュリーが問う。
「ああ。レパイルに感知させたから間違いない」
アシュリーから見てその人物は、人間なのか魔人なのか、区別が付かない。まだ距離があるために瞳の形までは確認できず、そのためスミレに尋ねた。聖人になっているスミレであれば、その判断を正確にできるからだ。
紫色の髪をした人物は、特に構えるでもなく悠然と馬車の進路上に立っている。服装はありふれた町娘風の物で、武器や防具は見当たらない。――スカートの中に隠しているやもしれぬが、取り出す際にはアシュリーたちからもはっきりと視認できるために、今は警戒をする必要はない。
問題は、肩口を抉った攻撃の方法だ。
音も形もない何かによって爆発させられたのだ。その手段がわからなければ、対策の立てようがない。
『なんでこんなに早く……』
「やるぞ、ダッチ」
問題は山積みだ。だが思考に耽っていられる余裕はない。
スミレからの確証を得て、アシュリーは一度握りこぶしを作り、そこから親指と人差し指をピンと伸ばし、手を銃の形にした。
「いくぜ……。必殺--」
『殺しちゃダメだって』
「わーってるよ」
緊迫した空気を薄められたが、それで戦意を失うほどアシュリーの戦いに向けた情熱は弱くない。
「非殺・飛雷!」
伸ばした人差し指の先端に青白い光が収束する。豆つぶほどの大きさから徐々に膨れ上がり、眼球ほどの大きさに達した時、打ち出された。
魔力によって生成された電撃の塊は大気に分散されることなく直進し、目標である魔人の肩に命中する。
瞬間、魔人の身体が弾かれたように横へ飛んだ。
「ヨッシャ! スミレ、馬車止めろ!」
彼女にとって戦いに準備など必要ない。相手が居ればそれでいいのだ。アシュリーは意気揚々と次の攻撃に向けて全身へ魔力の充実を計る。
--が。
スミレは速度を緩めることなく進行させ続けた。
「おい、スミレ!」
肩を掴んで振り向かせると、彼女の瞳には正気を感じられなかった。
「おいっ!!」
肩を激しくゆするも、スミレからの反応は返ってこない。口も目も、半分だけ開かれており、薬物常用者のようである。
『アシュリー、いったんここから離れよう!』
虚を見ているような目により、義利が事態を推察する。
『たぶん幻覚か何かだ! ここにいちゃマズイ!』
「そういう事かよ!!」
アシュリーはストックの首根っこを掴んで荷台を蹴り、跳び上がった。荷台の床はその衝撃を受けきれずヒビ割れる。
馬車は何事もなかったかのようにそのまま進行を続けた。スミレと、彼女と融合したままのレパイルを乗せて。
◆
あーあ、と義利は思った。
スミレと言う戦力を、レパイルという回復役を、仲間を二人、一時的にとは言え失って、彼が思うのはそれだけだ。『あーあ、スミレさんたちとはぐれちゃったなあ』と。
それがスミレに対して全幅の信頼を寄せているティアナの感想であれば、問題にはならない。むしろ自身の身を案じていても違和感がないだろう。
しかし義利はそうではない。
アシュリーと彼女の戦闘を客観的に見、そして体験した彼は、スミレの実力はストックという精霊あってこそのモノだと考えている。未来を見るという能力あってこそのモノだと。
確かに『素のままで魔人と渡り合った』と言えば恐ろしいまでの力の証明に聞こえるが、その相手がアシュリーであったなら話は変わる。魔人でありながら、不殺という制限があるのだ。つまり義利の中でスミレの戦闘能力は『殺さぬように手加減をしている魔人相手であれば、聖人化することで互角に戦える』程度でしかない。
今回の依頼で指定されている悪魔は好戦的で、殺しを楽しんでいるのだ。加えてストックは現在、義利の元にいる。スミレの勝率はかなり低いと踏んでいて、なお彼が思うのは『あーあ』の一言だけなのだ。これがティアナであれば多少は違った感想を抱いたのだろう。
彼にとってスミレとはその程度の存在でしかなかった。
「さーて……。作戦でも立てるか」
「すかー……」
まるで米俵でもそうするかのようにストックを肩に担ぎ、アシュリーは平原を駆けながら言った。身を隠すものが何もないために、常に移動をしていなければ再び奇襲を受ける恐れがあるために、立ち止まることは許されない。スミレからの指示がなければ、おそらく一撃で頭部を爆破されていたのだ。どんな能力かも分からぬ相手にアシュリーは好奇心よりも警戒心が強くなっていた。
『作戦?』
「アタシにゃ幻覚相手なんてどうすりゃいいか、わっかんねーぞ?」
見えない攻撃をどう防ぎ、どのように幻覚を見破って本体を叩くのか。それを考えようと、アシュリーは言っている。
『ああ、そういう事ね』
「名案でもあるのか?」
『ない』
「………………」
あまりにも義利が平然としているために策があるのかと思い問えば、帰ってきたのはそんな短い言葉だった。しかし、彼の言葉はそれで終わりではない。
――けど。
と小さく言って付け加える。
『打つ手が無い訳じゃないよ』
「へえ」
彼ならではの奇抜な発想に、アシュリーは一目置いている。フレアの手に捕らえられた際の脱出方法など、キャロの助力あってのことだが、アシュリーでは思いつきもしないことだった。いったい今度はどんなことをしでかしてくれるのだろうかと、緊張の中でもワクワクとさせられるほどだ。
『幻覚っていうのはあの様子だと、たぶん夢見心地っていうかぼんやりしてる状態なんだと思う』
スミレの表情を思い出す。何も見えていないような、暗く澱んだ瞳を。確かにあれは義利の言うような状態だろう。夢を見ているような、意識を失っているような。そんな状態だ。
『だったら目を覚ませばいいんだ』
と、簡単そうに彼は言う。
「どうやってさ? 揺すってもダメだったじゃねーか」
『気付け薬、まだずいぶん残ってるでしょう?』
「まあな」
スミレから受け取った小さな包を取り出し、吉利にも見えるようにと目線を下げて視界に収める。
『それを口に含んでおいて』
「スミレの状態見ただろ? あれじゃあツバだって飲めねえだろうよ」
『だから――』
そこで彼は秘策を授けた。たとえ幻覚で身体が自由に動かせなくなったとしても、そこから持ち直せる可能性が残る術を。
「おまっ――、そんなのできるのかよ」
『やってみる価値はあると思わない?』
「よく思い付くな、そんなテ」
義利の言ったその方法は、普通の人間であればまず至れない発想だ。異常とも思えるその方法は、アシュリーですらも試したことがなく、故に実行できるかどうかも定かではない。それでも、試す価値は確かにあるとアシュリーを納得させるだけの有用性があった。
『上手く行くといいけど』
「ダメならそん時だ。それと、とりあえず定期的に着付け薬は飲んでおこうぜ。どこまで効くかわかんねーけど、無いよりはましになるだろ」
『でもそれ、薬を飲んだっていう幻覚を見せられた瞬間に終わりなんだよね……』
それを言いだしてしまえば何もかもが幻覚である可能性も考慮しなければならないのだが、彼は目先の問題とその一歩先までにしか焦点を置いていないのでそこまで飛躍した予測は立てることができなかった。
「ダッチは用心深いんだか、頭が緩いんだかわかんねーな」
細く呟いただけの彼女の言葉は、更なる予防線を模索する義利には届かなかった。




