入浴
ガイアでは電力の供給は行われていないために、生活は日が沈み切る前に済ませようとするのが一般的だ。
そのためラクレットを食した後に、ティアナの家では夕飯の準備が始まった。……と言っても、キャロの言ったようにティアナは料理が苦手なようで、市街地で購入した煮物を全員でつまんだ。
夕飯後は眠るだけであるから、ティアナは健康管理のために少量で済ませるらしい。五人の中に大食らいはいないためにそれに関して特に不満は上がらなかった。
「あの、アダチさん。これからお風呂にしようと思うのだけれど、先と後、どっちがいい?」
義利が食器を洗っている横で、洗い終わったそれらを拭いていたティアナが問いかける。
「うーん……。じゃあ、僕は後でお願いしようかな」
「その理由は?」
「長風呂したいから、後の方がいいんじゃないかと思って」
「ふーん。私、お客さんを泊めるのって初めてのことだからどっちがいいのか気になってたのよ。参考にさせてもらうわね」
言い終わるとほぼ同時に食器は片付けは終わった。
木製のスプーンを水切りカゴに立てると、ティアナはそそくさと二階の自室に向かい、着替えを持って玄関に向かう。風呂場が離れになっているためだ。
「念の為に言っておくけど、覗いたら追い出すからね」
それだけ言うと、キャロと共にトワを連れて彼女は母屋を出た。トワは計二回の食事を経て、ティアナも無害であることを理解したのか、特に嫌がるそぶりもなく同行する。
「………………」
三人を送り出した義利は少しだけ浮かない顔をしていた。
彼は、小さな嘘を吐いていたのだ。
入浴の順番で後を選んだのは、長風呂だからではない。自分の汚した湯に家主である女の子が浸かるのは気が咎めたのだ。しかしそれをそのまま言えば、ティアナは自身の浸かっていた湯を義利が使うことに若干の嫌気を示し、どっちつかずの状況が出来上がることになると思い至り、それらしい言い訳をしたのだった。
――適当に時間を潰してからお湯に浸からず済ませよう。
せめてもの気遣いとして、彼はそんな風に決めた。
「おーいダッチー。なんか飲み物とってくれー」
食器を洗うために使っていた桶の水を外に捨てていると、ダイニングからそんな声が上がった。
「はーい」
彼は軽い調子で返事をすると、キッチンに戻り棚からティーカップとティーポットを取り出した。ティーキャディーの位置は事前にティアナから教えられていたので、用意で時間を無駄にすることはない。
火にかけていたケトルを持ち、お湯をまず二人分のカップについだ。湯の温度を下げるためだ。次にティーポットに茶葉を入れると、そこにカップから湯をゆっくりと移してゆく。体内時計で一分間を計り、ポットから色の着いた湯を注ぎ分け始めた。つぎ始めは薄く、後になるほど濃くなるので、濃さが同じになるように注ぎまわす。
「よし」
そんな風に、聞きかじり程度の知識でしかない作法で紅茶を淹れると満足気に頷いた。残念ながら、彼の淹れ方は緑茶のそれだったが……。
滞りなく二人分の紅茶を用意し、それを砂糖の器と共に盆に乗せてアシュリーの待つダイニングに向かった。
「お待ちどおさま」
「早いな……」
「僕も飲みたかったから下準備だけはしてたし」
照れたような笑みを浮かべつつ、片方のカップをアシュリーの前に、砂糖の器を二人の間にそれぞれ置くと、彼女が口にする前にと自分の淹れた紅茶の味を確かめた。
「うーん、初めてにしては……、普通」
義利は紅茶に詳しくないが、味の良し悪しくらいの判別はつく。自分だからと贔屓をせずに、彼はそう評した。
それを聞いた上でアシュリーも紅茶を口に含んだ。
「……なんだ、うまいじゃん」
お世辞抜きに、彼女は言う。そもそもおべっかを使うような質ではない。
「そうかな? あ、砂糖は?」
「いらねー。食後だし、これで丁度いいよ」
アシュリーはカップを傾けて紅茶を少しづつ飲み込んでゆく。カップがカラになるまでの間二人は無言だったが、悪い雰囲気ではなく、ゆったりと暖かい時間が流れていた。
◆
「しまった……」
憩いの時間を過ごす中で、唐突に義利は立ち上がった。
「……どうかしたのか?」
深刻な表情を浮かべる彼を前に、アシュリーはわずかに気を引き締める。
時折垣間見せる義利の先見の明を、彼女は高く評価しているのだ。
追い込まれたような顔をし、口を開きかけては閉じて言い淀む。それほどまでの一大事なのかとアシュリーは固唾を飲んだ。
数秒の沈黙。
そして義利は意を決してその問題を口に出した。
「着替えがないんだ」
「なんだ……、そんなことかよ」
「あんまり不潔にしてると病気とか怖いじゃないか」
「ああー……」
肩透かしをくらって気落ちするアシュリーだったが、思ったよりも重大であることに気づき、しかし深刻ではないので気のない返事をした。
義利は召喚陣に導かれてからずうっと同じ服で過ごしている。ジーンズとパーカー、下着も替えていないので、潔癖症ではない彼も流石に嫌な感じがしていた。特に、パーカーは初日に浴びた返り血によって大半が赤黒く染まっているために不衛生極まりない。ジーンズは手で払っていたためにそこまで汚れは目立っていないが、それでも清潔とは言い難い状態にある。
トワは自身があまり清潔にはしていなかったためかあまり気にしておらず、ティアナもそういったことにはズボラなのか指摘してはこなかった。
「ティアナのヤツ、そういう模様だと思ってそうだよな」
パーカーを指さしてアシュリーが笑う。血染めのパーカーは見ようによっては奇抜なファッションにも映らなくはない。元々義利以外から見れば奇妙な服装なのだから、ティアナがそう考えていたとしても不思議はなかった。
「たしかに。僕だったらこんな服装でいる人をそのまま家に上げないし……」
どころか食事まで共にしている。
ふと、義利は首元を引っ張り臭いを嗅いでみる。すると既に鼻が慣れているのか、僅かな汗の臭い程度しか感じられなかった。
「臭いなんか気にしてんのかよ」
と嘲笑すると、おもむろにアシュリーは義利の胸元に顔を埋めてスンスンと鼻を鳴らした。
「アシュリー?!」
突然のことに対応しきれなかった義利が一拍遅れて抗議の声を上げる。
「別に臭くねーよ。フツーフツー」
あっけらかんと振舞うアシュリーだったが、義利は羞恥と僅かな憤りで顔を戦慄かせている。酸素を求めるように口を開閉して、それから彼は赤面しながらそっぽを向いて言った。
「か、嗅ぐなら嗅ぐで一声かけてよねっ!」
「乙女かっつーの」
「アシュリーだって許可もなく身体を嗅がれたら嫌でしょう?」
「別に? なんなら嗅いでみろよ」
会話の弾みでアシュリーの身体を嗅ぐ流れになってしまい、義利は動揺を強く示す。
「いや、それはちょっっっと……」
義利はもしも実際に行動に移した場合の絵面を思い浮かべた。
見かけ十代前半の少女に鼻を近づけて臭いを嗅ぐ十代後半の男。
限りなく変態的だった。言い逃れのしようがないほどに。
「うん。かなりダメだ」
「うりゃ」
空想から帰還したばかりの義利の頭を、アシュリーは胸に抱え込んだ。
「んむぅ?!」
ジタバタと暴れる義利を逃すまいと、彼女は腕に込める力を強めた。すると必然的に顔面はさらに押し付けられてしまう。
アシュリーの力の入れ方は実に絶妙で、口での呼吸のみを塞ぐような形で義利は押さえ込まれていた。
「ンーーーッ!!」
体を離そうと必至になるが、それは叶わなかった。腕力勝負で義利に勝ち目がないことがハッキリとする。
「ほれ、観念しなって」
呼吸を止め続けるのも限界になり、彼は止むを得ず鼻からの呼吸をすることに。極力嗅覚に意識を置かないようにしても、感覚器官を遮断するのは不可能だった。
「あ、普通だね」
思わず感想を口走る。
「だろ」
「人の家で何をやってるのよ……」
体を密着させる二人を見て、呆れたようにティアナがこぼした。
「ティアナ、いつの間に……!」
義利が再び赤面をする。
「ついさっきからだけど」
正確には義利がアシュリーの胸元で大きく息を吸い込んだ辺りだ。玄関のひらく音も聞き逃すほどに彼は慌てていたため、ティアナの接近に気づけなかった。
「あんまりイチャイチャしないでよね」
「嫉妬か?」
「まさか」
軽い掛け合いの後にティアナが二組の衣服を投げて渡す。
「お風呂、空いたから」
義利は渡された衣服を広げてサイズを確かめようとした。
「私のだから少し大きいかもしれないけど、我慢してもらえる?」
「………………」
男のプライドがボロボロになった。
義利の体型はティアナよりだいぶ劣る。男女差のため肩幅やウエスト周りではいい勝負になるが、身長ばかりはどうしようもない問題だ。
「そんじゃあ、行こうぜダッチ」
落ち込んでいたこともあり、彼は自然とアシュリーに追従しようとした。
「ちょっと待って」とそれをティアナが止める。「まさか一緒に入るつもり?」
「ったり前だろ。一人でいてどっちかが襲われたらアタシらはお終いなんだし」
「理には適ってるけど……」
「別になんもしねーっつーの」
不承不承でティアナは二人を見送った。
「え、あれ? ええッ?!」
義利が驚き叫んだのは、頭からお湯をかせられてからだった。
◆
「え、ななんでアシュリーとお風呂に??」
「なんでって--、まあいいだろ」
説明する手間を、彼女は惜しんだ。
「いや、よくないでしょ!」
「今さら裸なんて気にすんなよ」
「あのさ、僕は男で、アシュリーは女だよ? 何か間違いが起きたらどうするのさ」
「ダッチはそんなことしねーだろ?」
「……まあ、しないけどさ。でも魔が差すってこともあるだろうし」
「そん時はアタシが押さえ込んでやるよ」
「あー……」
力量の差はすでに証明されているので頷かされる。が、それはそれで納得し難い理由であった。元が隊舎であるため複数人での使用を想定してか、浴室は十分に広く、軽いストレッチをしていたとしても十分に余裕がある。それだけの空間であれば不意打ちで襲いかかったとしても抵抗することは可能だ。狭いとそれだけ行動が制限されてしまうが、ここでその心配はない。
「それに少し話しときたいこともあるんだよ」
「それはティアナたちの前では言えない話しってこと?」
「聞かれても問題はないけど、一応二人っきりで話したいんだよ」
「それじゃあ、わかったよ……」
「んじゃあさっさと体を流して浸かろうぜ」
アシュリーに促されて義利は石鹸やシャンプーを探したが、見当たりはしない。
「アシュリー、体を洗うモノって何を使うの?」
「うん? そっちの甕の湯で汚れを洗い流したら湯船に浸かるだけだぜ?」
浴室には大きな甕が一つと、広い風呂釜が置かれている。その甕から桶で湯を汲んで被り、それから風呂釜に入るのが作法なのだそうだ。
「……郷に入っては郷に従えってことかな」
気分としてはヘチマでも使って全身を掻き毟るように洗いたいところではあるが、無い物ねだりをしたところで意味はない。
バシャバシャと数回体を流し、特に毛髪を念入りに洗ってから義利は湯船に浸かった。
髪が長い分時間のかかったアシュリーもわずかに遅れて義利の隣に座る。
湯の温度はおよそ四十二度。少々熱いが浸かっていられないほどではない。
「それで、話って?」
湯気が立ち込めて視野は薄れているが、義利は視線を斜め上に固定して会話を切りだした。
「あー、まずだな……。契約したろ、アタシたち」
「うん。命を捧げる、だっけ?」
「その内容、ダッチは知らないだろ?」
「まあ、うん」
流れと勢いで結んだ契約だ。確認などしている暇はなかった。
「その説明をしておこうと思ってな」
悪魔も天使も、元を辿れば同じ精霊だ。それなのに天使との契約ではおおむね平等で、悪魔との契約が完全に一方的なものであるとは義利も考えていなかった。
「悪魔がアクターに身体の行使権を渡さない理由にもなるんだけど、三回だけ、魔人化してる状態でアクターは悪魔に命令を強制できるんだ」
混浴という状況に浮かれていた義利だったが、そこで思考を切り替えた。
「三回だけ?」
「そ。契約の解消と、悪魔の力量以上のことは無理だけどな」
「それって、例えば僕は『殺すな』って何回か言ってるけど、あれで使ってたりするのかな?」
義利の問いに、アシュリーは首を横に振る。
「作法があるんだよ。その悪魔の名前を言ってから、『命令』って言って、それからしたいこと、させたいことを言う」
「魔人の状態じゃないとできないの?」
「いや、別にアクターがアクターの意志で、直接発声できればいつでもできる」
「魔人化してる時も僕らは会話をできたけど、あれじゃあダメなの?」
「ああ、口を動かすってのが重要らしいぜ」
「……へぇ」
命令の話を聞き、義利の頭にある憶測が生まれた。悪魔である全員が全員、人間を殺戮したいなどと思っているとは限らない。現にアシュリーは人間に興味があり、こうして自身が不利になる命令のことを伝えてくれている。つまり、今までに魔人が起こした事件の中にはアクターの命令によって無理やりやらされていた物もあるのではないだろうか。
奴隷の制度があるのだから、人間に殺意を抱いている者もいるだろう。そういった者が悪魔と契約をし、例えば『街を滅ぼせ』などと命令をして起きた事件だって、あり得なくはない。
もちろん、悪魔の意志で起きた物の方が多いのだろうけれども、人間と手を取り合いたい悪魔だっているのではないだろうか。
そんな風に、思った。
「……アシュリーは、なんでそれを教えてくれたの?」
伝えなければ、悪魔に詳しい者でも知り得ない情報だ。ティアナから魔人に関する説明を受けた時にもそんな話は一切されていない。
義利に伝えることでアシュリーに得は一切ないはずだ。
「アタシは人間を試すのが好きなんだよ。これを言うと大抵のヤツは本性を見せる」
湯船に映った自分の顔を見ながら、彼女は続けた。
「今までに受けた命令で一番デッカいのは『バセバルを滅ぼせ』かな。あ、バセバルってのはサウラズにある都市の名前な。あとはだいたい、誰それさんを殺せだの、限界まで苦しめろだの、命ごいをさせてから殺せだの、そんなんばっかだよ」
つまらなさそうにアシュリーは言う。
「まあお前なら、何か面白い命令をしてくれそうだし、期待してるぜ」
それだけを言うと彼女は立ち上がった。義利は目を背けるのも忘れてアシュリーを見上げる。彼の気のせいでなければ、アシュリーの目には悲しみが宿っていた。
しかしその理由を考える余裕まではない。
義利は静かに湯船に沈んだ。
「ダッチ?」
アシュリーが不審に思い首を傾げていると、プクプクと呼気が浮かんでは消えて行った。その気泡もすぐに上がって来なくなる。
義利はすっかりのぼせてしまっていた。
「……シマらねぇなあ、おい!」
足立義利の異世界生活二日目は、こうして幕を閉じた。




