第四章 15
初めは、好奇心から帰ろうとしなかった。
魔法や精霊という、彼の知る現実とは乖離した存在に心魅かれ、少しだけガイアを見てから帰ろうと、そう考えていた。
しかし原島スミレと出会い、地球には帰れないことを知らされる。
一人の人間が召喚陣を使えるのは、生涯に一度。
その絶対の縛りを聞かされた。
帰れない。だから帰らない。
できないのだから仕方がないと、一時はガイアに骨を埋める覚悟もできていたのだ。
だというのに、今はそれが揺らいでいる。
抜け穴を、見つけてしまったから。
地球に帰れる可能性を見つけていた。
そしてそれが可能であると、原島スミレから保証されている。
彼女から義利に宛てられた手紙に、書かれていたのだ。
『レパイルの能力を使えば、地球に帰ることもできる』と。
形式上は『年齢』と言われているレパイルの対価。
その実態は『肉体の時間』だ。
過ごしてきた時間だけではなく、経験までをも徴収する。
例えば、だ。
例えばプランは、レパイルの能力を使用した対価で、四年の時間を支払っている。
四年、それは彼女が国務兵になる前にまで遡る。
時間を奪われた結果として、彼女は若返っている。
経験を奪われた結果として、武芸の腕前が落ちた。
四年の年月をかけて身体に蓄積していた『武器を振った』経験を失ったのだ。
元々、卓越していたわけではない。
一般市民と比較すれば十二分に達者だが、兵士としては下の上、といったところだった。
最低限度ではあれど、ナイフはナイフとして、剣は剣として、槍は槍として、扱うことはできていたのだ。
扱いの知識は、未だ記憶に残っている。
体に覚えこませた技術だけが失われたのだ。
今のプランがどんな武器を握ったところで、それは棒切れと大差ない。
経験を無かったことにするとは、そういうことだ。
欠点でしかないその対価。
だが、その欠点が義利にとっては利点になる。
『召喚陣を使った』という経験すら、無かったことにできるのだ。
時が来て、レパイルの能力を使用しさえすれば、帰れるのだ。
地球に。
しかしそれを知った義利は、嬉しさと同時に焦りを強く感じた。
家族に会いたい気持ちは当然ある。
その気持ちと同じだけ、仲間と別れたくない。
家族と仲間。どちらを取るかを、彼は決められないでいた。
だから義利は、先送りにした。
いずれ来るだろう選択を迫られるその日まで、悩むことをやめたのだ。
現状維持と言えば尤もらしいが、要するに逃げたのである。
考えることから、悩むことから、決断することから、逃げ出した。
一度死を経験したというのに、明日が必ず来ると疑ってすらいないのだ。
◆
魔力汚染の浄化。それに特別な準備は必要ない。
「手を繋いで。想像して。魔力が、自分の左腕を通って、相手に流れる」
短い文節ごとに区切り、その末尾を伸ばしながら、フレアがゆったりとした口調で言う。
「川の流れみたいに、絶え間なく、循環していく」
義利とティアナは目を瞑ったまま手を取り合い、魔力が巡って行くさまを思い描く。
それだけで、体内にある汚れた魔力がティアナへと移っていくのを、彼は確かに感じていた。
急激な変化はない。
右手から入ってくるティアナの魔力が、ゆっくりと身体の倦怠感を奪っていくのだ。
ぬるま湯に浸かっているよりも強い安らぎが、義利の身体に広がり始めた。
その時。
「………………ッ!」
ティアナの表情がわずかに曇る。
「はーい、そこまでー」
すかさずフレアは手刀で二人の手を引き離した。
「まだいける!」
「だーめ。アンタは今日、これでおしまい」
「ちょっと指先が痺れを感じただけよ! 嘘じゃないわ!」
「それがダメなんだってば……」
浄化の続行を強く望むティアナが、フレアに詰め寄る。
彼女はこの浄化で、せめて少しでも義利へ恩を返そうとしていたのだ。
義利本人から、恩返しは求めないと言われている。
だがそれではティアナの気がすまないのだ。
少しでも多くの汚染を引き受け、少しでも早く完治させる。
それがティアナの思いついた恩返しだった。
だから彼女は、フレアを押し切ろうと強がりを見せる。
「こんなの本当に問題ないから、お願いフレア。続けさせて」
「……いい? もう一回言うけど、魔力汚染は中毒症状みたいなモノなんだってば。許容量を超えて呪いを受け取り続けたら、アンタも浄化ができなくなるの。お分かり?」
「分かってる。いいから続けましょう」
「全然わかってないじゃない……」
フレアは眉間を抑えてため息を吐く。
浄化と呼んではいるが、要は負担の肩代わりをしているだけなのだ。
精霊術を使えば、必ず身体に呪いが蓄積する。
これは聖人であろうと魔人であろうと変わらない。
ではティアナやプランも魔力汚染に陥るかといえば、否だ。
人間には呪いを浄化する機能が備わっている。
常識の範疇で精霊術を使っている限りは、誰もが持っている浄化作用だけで、呪いが蓄積することはまずない。
だが義利やガルドのように魔人として力を振るうと、それが機能不全に陥る。
常人の百倍以上もの魔力を短時間で使うために、呪いも同じだけ生成される。
抱えきれないだけの呪いが蓄積し、浄化作用そのものまでが汚染されてしまうのだ。
指先の痺れは、あくまで兆しでしかない。
それが全身にまで広がれば手遅れとなる。
浄化のできなくなった義利から呪いを受け取り、ティアナが自身の機能で浄化をする。
これを繰り返して義利の体から魔力汚染の影響を取り去るのが狙いなのだ。
無理をしてティアナの浄化作用までもが停止してしまえば、それが叶わなくなる。
事前に伝えたことを、フレアは頭の中で振り返り、そこに不備がないことを確認した。
確認し、どうすればティアナが納得するかを考え--。
「ヨシトシぃー……。この分からず屋どうにかしてー……」
投げた。
自分の口からでは何を言ったところで折れないと悟ったのだ。
「えーっとぉ……」
面倒ごとを押し付けられた義利は少しだけ悩み、とりあえずとして無難な言葉を思いつく。
「気持ちだけですごく嬉しいよ。また今度お願いするから、今日はここまで。ね?」
「……はーい」
説明も何もなく、たったの一言で素直に聞き分けたティアナに、フレアはじっとりとした目を向ける。
「なーんか、腹立つんですけどー……」
それまでの自身の苦労が無駄だったと見せつけられたのだから当然だ。
フレアは、次からティアナのことで何かあれば、すべて義利に投げ渡すことを決めた。
「……まあいいわ。今日はもうゆっくりしてなさいな。体を休めてたほうが、浄化が早まるのよ」
「ん。わかった。それで、次はいつ頃にできるの?」
「一週間くらいねー」
「長すぎじゃない?」
「……あーのーねー?」
威圧するような作り笑いを浮かべて、フレアはティアナに顔を近づける。
「今まで精霊術を使ってて、どこか体が痺れを感じたことあるー? ないでしょー? ないはずよ。アンタの天使の能力からして、相当魔力の消費が少ないんだもの。一回で万を超えるだけの壁でも張らない限りは、許容できる量の呪いしか生まないはずよ。今のアンタは、それ以上の呪いを抱えてんの。一週間なんて、むしろ短すぎるわ。大事を取って二週間は置きたいくらいよ。だけどアンタが早くヨシトシを治したがると思って、そうやって考えたのが一週間って期間なの。ご理解いただけるかしら?」
言葉遣いこそは丁寧なのだが、その声には隠し切れない怒りが含まれていた。
そんなフレアに詰め寄られ、ティアナは気圧され無言で首を縦に振る。
納得を得て、フレアはようやく自然な笑みとなった。
「よかったー。これでダメなら、ちょーっと痛い目に遭わせなきゃだもの」
気迫から解かれ、ティアナは胸をなでおろす。
殺意とは異なるフレアの威圧は、思わず呼吸を忘れるほどだったのだ。
「そんじゃ、次はそっちのおさげの番ね」
彼女は何事もなかったかのように、プランを指差して言う。
「は、はい」
直前のフレアを見ていたプランは、怯えながらも義利の手を取った。
手を取って、しかし不安気な目でティアナに訊ねる。
「あの、ダンデリオン隊長……。痛いと言っても、それほど痛くはないんですよね?」
気の小さいプランは、それが気がかりだった。
呪いの受け取りを止める目安である指先の痺れ。
それを感じたティアナが顔をしかめるのを見たせいで、尻込みをしていた。
「痛いっていうか、本当に痺れるのよ。ビリってする」
「ど、どのくらいビリっとしますか?」
「んー……。静電気くらい?」
「そ、それなら……」
と、痛みの程度を知ったことで、ようやくにしてプランは取り掛かる。
「はーい、じゃあ目を瞑ってー」
お決まりの台詞で、フレアが二人に向かって優しく言う。
呪いの受け渡しは、すぐに始まった。
「あ……。あったかい……」
ポツリとプランが呟く。
この作業はに集中よりも、くつろぎが必要なのだ。
穏やかな心で、相手との間に流れる魔力を思い描く。
「アダチくんのが入って来てる……」
くつろぎすぎた結果、プランは口が緩んだのだ。
「ちょっとだけ、気持ちいいかも」
思ったことが、本人の自覚なく、言葉として紡がれている。
「あれ? だんだん激しくなって--、あっ」
小さく身震いをしてから、プランは目を開いた。
「今ビリって! 本当にビリってしました! ……ってあれ? アダチくん? どうして前に屈んでいるんです?」
「気にしないでください」
「もしかして、どこか痛むんですか?」
「あの、ホントに大丈夫です……。ただの生理現象なので……」
「おさげ。アンタ、無意識だったかもしれないけど、声に出してたわよ」
「……?」
見かねてフレアが説明するも、プランは首を傾げるばかりだ。
「あったかぁい、とか。アダチくんのが入って来てる……、とか。なんか捉え方次第ではエロい感じになってたの。だから、元気になっちゃったんでしょ」
「え……、あ」
ようやく心の声が心にとどまっていなかったことに気づき、プランはまず、恥ずかしさから顔を赤くする。
どんなに些細なことだとしても、内心を他人に知られることは彼女にとって恥なのだ。
赤く染まった頬を隠すように手で覆い、プランは身もだえる。
しかしすぐに平静を取り戻し、義利の状態に思考が向いた。
前かがみ、生理現象。
そこに自身が考えていたことを付け加え、顔を蒼くする。
「ごごご、ごめんなさいアダチくん! 今回は完全に悪気はなかったんです!」
「……前はあったんですね」
「はい! ……あ、いえ! 前もちょっとしたおふざけのつもりだったので、悪気はありませんでしたよ?!」
「アダチさん。隠れスケベは放っておいて、浄化を進めましょう」
言い訳を続けようとしていたプランを押しのけて、トワが割って入る。
「ちょっと待ってくださいトワちゃん! 隠れスケベって私ですか?!」
「そのままの格好で大丈夫ですから。さ。手を出してください」
むくれながら声を張るプランのことを無視して、トワは差し出された義利の手を取り、浄化を始めた。
三度目ということと、何より物分かりのいいトワが相手だったために、支障なく終了する。
「どうですか、アダチさん? 体、少しは楽になりましたか?」
三人に呪いを渡し終えて、義利は自身の変化を探った。
倦怠感は、抜けていない。
頭痛や体の随所にある痛みもそのままだ。
「うーん……。あんまり実感ないんだけど、体が軽くなったような気が……?」
「ほれ」
横合いから、それまで静観を決め込んでいたガルドが林檎を差し出した。
「食ってみろよ」
「ああ……。うん、ありがとう」
未だにガルドとの距離感が掴めていない義利は、遠慮気味に礼を述べ、丸のままの林檎に齧り付く。
「………………ッ!」
瞬間、義利は目を見開いた。
「甘くて……、酸っぱい」
何を口にしても綿を咬んでいるとしか思えなくなるほどに退化した彼の味覚が、僅かにではあるが味を感じ取っていた。
喜びを顔からにじませる義利に向け、ガルドはニヤリと歯を見せる。
「俺の時も、最初に戻ったのは味覚だった。どうだ? 久しぶりに感じる味は」
「美味しい……。美味しいよ……。味がわかっただけなのに、涙が出そうだよ……」
出そう、ではない。
味を感じるという当たり前の幸福に、彼の目からは涙が溢れていた。
「ま、味覚が戻るのは割と早いんだ。俺と違って相手が少ない分、先はまだ長いが気長に治すといい」
年長者として、そして魔力汚染から回復した前例として、ガルドは先輩風を吹かせる。
「本当に、心強いよ」
ボロボロと泣きながら、義利はガルドに返事をする。
当たり前のことがどれだけ大切なのかを知り、義利は強く思った。
--笑ったり、照れたり、困ったり、泣いたり……。そういう当たり前の毎日が、いつまでも続けばいいのに。
真昼の月が見下ろす中、義利はただただ平和を願っていた。
この仲間たちと笑って過ごせることを、願っていた。




