第四章 07
足立義利。
性別、男。
年齢、十七。
職業、高校生。
特記事項、なし。
それが全てだ。
語るべきことなど何もない。
どこにいてもおかしくない。
どこにいなくてもおかしくない。
そんな人間だ。
「おはよん、ヨッシー!」
「おはよ、あかり。今日も朝からテンション高いね」
朝の挨拶と共に横から跳びつこうとしてきた友人をサラリと躱し、何事もなかったかのように義利は笑顔で返した。
「月曜日だもん、月曜日! 新しい週の始まりだよ! ハッピー・ニュー・ウィーク!」
義利の、いつも通りの朝だった。
中学以来の友人である月島あかりと適当な会話をすることから、義利の学校生活は始まる。
そして、それ以上のことは何もない。
いや、あることにはある。
しかしながら、特筆すべきことがないのだ。
普通に授業を受け、普通に休み時間を過ごし、放課後となる。
それだけなのだ。
足立義利の日常には、何一つとして問題がない。
そんな日々を義利は繰り返した。
起きて、学校に行き、帰宅し、家族との団欒をして、眠り、また起きる。
その繰り返しの中で、彼はずっと違和感を抱え続けていた。
それは始め、ごく小さなモノだった。
「ヨッシー、また泣いてる?」
「え……?」
何の理由もなしに、涙が流れるのだ。
「最近ずっとじゃん。どったの?」
聞かれたところで義利には答えようがない。
彼の意思とは無関係に、ふとした時に流れ出すのだ。
「なんだろ……。涙腺が緩んでるのかな……」
「おじいちゃんじゃないんだから〜」
そして、涙を流すと必ず頭痛が起きる。
何か病気なのではないかと疑うも、それらはすぐに治まり、そしてすぐに忘れてしまうのだ。
違和感は、涙と頭痛だけではない。
「………………あれ?」
『ソレ』に初めて気がついたのは、全校集会の時だった。
義利の見知った顔以外が、黒い靄に覆われていたのだ。
「……涙と同じで、目の病気なのかな?」
小さな違和感から、義利は次第に異変に気付き始める。
街中や廊下ですれ違う、関わりのない誰か。コンビニのレジ店員。
それら全てが、黒い靄に覆われていた。
「……ねえ、あかり。あの子ってなんて名前だっけ?」
「あの子? −−−−だよ?」
顔の隠れた人物の名前を知ることも、できなかった。
クラスの名簿に目を通せば、義利の知る人物以外の名前には、やはり黒い靄がかかっているのだ。
「なんだコレ……」
もはや『違和感』などという言葉では誤魔化すこともできない事態に、義利は直面させられた。
これは異変ですらない。
明らかな異常だ。
「知らないことを知れない……?」
端的に言えば、それが彼に襲いかかっている異常だ。
知識にないこと、記憶にないことは全てが黒く染め上げられる。
身近なモノ--例えば名前は不明のクラスメイトの顔−−であれば、見ること自体はできる。
ただし名前は、どうやっても知ることができない。
持っている荷物の記名欄を見ても、誰かから聞こうとしても、本人に聞いたとしても、どのような手段を取っても、不明なままなのだ。
更に。
「これは……」
学校に隣接されている図書館で、義利は唖然とする。
通い慣れているはずのその場所の一角。
彼が今まで見向きもしなかった海外ミステリーを取り扱っているはずの棚。
そこは一面が黒くに塗りつぶされていた。
「まさか……!」
思い立ち、義利は駅へと向かった。
そして行ったこともない場所までの切符を買い、乗車する。
「はっ……。ははっ」
帰宅した彼は、ベッドでうつ伏せになって笑った。
いよいよ自分の頭がおかしくなってしまったのだと悟ったからだ。
着いた先は、暗闇だった。
三百六十度、どこを見ても、何もなかった。
自身の病名を知るためにインターネットを使おうにも、知らないことを知れない性質により、検索結果を見ることも叶わない。
「……そうだ」
携帯電話を取り出し、義利はあかりの番号を入力する。
『しもし・もしもし?』
「ああ、あかり? 悪いんだけどさ、調べ物をしてもらえる?」
『ふぇ? 何故にホワイ?』
「説明すると長いんだけど、知らないことを知れない病気かもしれないんだ」
『ええ〜! ヨッシー病気なの!?』
「かもしれないってだけ。とりあえず、人の顔が黒く見える病気が無いか調べて」
『おけおけ。しばし待たれよ』
物分かりの良い友人に感謝を浮かべながら、義利は自身の知る病名であることを祈り待った。
『え〜……、あ〜……。ヨッシー? うつ病?』
「たぶん違う……、と思いたい」
『あとは脳の障害かもだって……。ヨッシー、ホントに大丈夫?』
「……ごめんあかり。いったん切る。落ち着いたらまた電話する」
機械的な返事をして通話を終わらせた義利は、ごろんと寝返りを打って天井を見上げる。
うつ病、あるいは脳障害。
二つの選択肢から、義利は後者であるとあたりをつけていた。
だが解決策が見当たらないのだ。
専門の病院に行くことも考えたが、今の生活を手放したくはないという強い思いがそれを躊躇わせる。
「……今の生活?」
チクリ、と小さな頭痛が義利を襲う。
そして『ある光景』が脳裏に浮かび上がった。
大樹の森。石造りの街並み。血まみれの平原。瓦礫の街。暗闇の洞窟。灰の町。
どれもがノイズまみれの掠れた記憶だった。
そして、見覚えすらない光景だ。
海外どころか自分の住む県から出たこともない義利には、知るはずのない光景のはずだった。
だが――。
「……あれ?」
涙が、あふれ出した。
次から次に、彼の瞼から零れ落ちてゆく。
ズキン。
胸のあたりが、痛みを訴えた。
先ほど感じた頭痛など比べるまでもない。
押しつぶされるのではないかと錯覚するほどの激痛だ。
覚えのない記憶に、激痛。
義利は自身に襲い掛かる病に恐怖を抱く。
「なんだこれ……。なんなんだ……」
湧き出る涙を拭いながら、義利は繰り返しつぶやく。
そして何度となく浮かび上がる『知らない記憶』がちらつくたびに、恐怖以外の感情が芽生え始めていった。
「……帰りたい」
郷愁、だった。
おぼろげにしか映らないその場所に、何故だか義利はひどく懐かしさを覚えるのだ。
「ほんとに……、どうしちゃったんだよ……」
鼻をすすり、泣きながら、義利は自分が本当に狂ってしまったのではないかと不安になる。
そして、そんな不安よりも強く彼の心に浮かび上がるのは『帰りたい』という気持ちだった。
◆
「ねえ、母さん……」
ようやく涙が収まって、義利は居間でくつろぐ母親に声をかけた。
「なぁに? ……って、どうしたのその目? 嫌な夢でも見た?」
幼子を相手にするように、泣きはらした目の義利を心配する。
親にとっては、子供はいつになっても子供なのだ。
母親として、それはごく自然なモノである。
しかし思春期のただ中にある義利は、それにわずかながら反抗心を見せた。
「……なんでもないよ」
「なんでもないのに泣くことなんてないでしょ? お母さんに話してみて?」
にっこりと柔らかな笑みを浮かべる母親にも、義利は懐かしさを受ける。
ずっと一緒に過ごしているはずなのに、それを懐かしいと、彼は感じていた。
「……僕って、外国に行ったこととかって無いよね?」
「ないわよ?」
即答だった。
それもそのはず。
「だって、パスポート持ってないでしょ?」
国境を超えるためには無くてはならないそれを、義利は作っていないのだ。
海外になど、行ける訳がない。
「……だよね」
義利も、パスポートのことを考えはしたのだ。
しかし事実を記憶が否定してくるため、母親に確認をした。
結果は、やはり記憶を否定するものであったが。
ひとつ溜め息をしてから、義利は零れそうになる涙をこらえ、訴えた。
「なのにさ、どこか――、日本じゃない景色が、さっきから頭に浮かんでくるんだ」
「……テレビで見たとかじゃなくて?」
「うん……。なんか、すっごい懐かしいって思うんだ……」
そこまで言うと、再び涙が頬を伝い始めた。
「ああ……。また……」
脱水症状も起こしてしまうのではないかと思うほどに、彼は大量の涙を流した後だ。
それでもなお、あふれ続ける。
「懐かしくって泣いてたの……?」
「……うん」
若干の恥ずかしさを覚えながら、義利は頷く。
泣いている姿を見られることは、彼にとって恥であった。
「その場所に、どうしても帰りたい?」
「うん」
母親からの質問に、義利はやや熱を込めて返事をする。
できることなら今すぐにでも帰りたいというのが、彼の本心だった。
「……もうお母さんたちに会えないとしても?」
「どういう意味?」
「だって、お父さんには仕事があるし、お父さんが行けないなら、お母さんもいけないわ。だって、一人じゃご飯も作れないし。それと海もよね。あの子、出不精だし」
現実的な問題を連ね、遠回しに義利が『帰る』ことを断念させようとする。
「でも、一回行って、帰ってくればいいだけじゃないかな」
「う~ん……。でも、海外なんでしょ? 旅行に行くだけのつもりが殺されちゃうなんて、最近のニュースでしょっちゅうやってるでしょ? それだけじゃなくて、義利がどこかに行ってる間に、地震とかでお母さんたちが死んじゃうかもしれない」
「そんなまさか……」
ごくわずかな可能性を挙げられ、義利はそれを笑った。
しかし、母親の顔は真剣そのものだ。
「それに、行った先で大切な人ができちゃうかもしれないし」
大切な人。
その言葉が、義利の記憶を刺激した。
浮かび上がるのは、地に着くほどに長い黒髪をした少女の姿だった。
涙が、勢いを増す。
「ど、どうしたの? ええっと、お母さんのせい!?」
慌てる母親だが、その声は義利に届いていなかった。
ノイズまみれだった記憶が、少女の記憶を基にして鮮明さを取り戻しつつあったのだ。
「くッ……!」
万力で締め上げられるような痛みの中、義利は懸命に記憶を手繰り寄せる。
あるはずのない記憶だ。
だが彼は、その面影を思い出してしまった。
事実がどれだけ否定しようとも、彼の心が決してそれを認めはしない。
「……あったはずなんだ。思い出せ……!」
母親の目も気にせず、口に出して言い聞かせる。
ようやく、少女の顔が浮かび上がった。
いたずらっぽく、無邪気な笑顔だ。
少女の声を、思い出した。
凛として、透き通った音色だ。
少女の言葉が、蘇る。
――許してやるよ。
初めはやはり、ノイズのかかったものだった。
指先の届いた思い出に、義利は懸命にしがみつく。
繰り返し、その言葉を回想し続けた。
――お前を許してやるよ。
その言葉がどれだけ彼の心を救っただろう。
強い想いが、激痛をも無視させていた。
――アタシがお前を許してやるよ。
「……そうだ」
彼女は自分のことを『アタシ』と呼ぶのだ。
顔と声、それらを思い出せたことで、ついに義利にとって決定的だった記憶は、完全なモノとなる。
――たとえ誰もお前を許さなくても、お前がお前を許さなくっても、アタシがお前を許してやるよ。
「アシュリー……」
想い人の名を、口にする。
その瞬間、彼の記憶にかかっていたノイズは霧散した。
怒涛のように押し寄せる記憶の波にのまれ、涙を流しながら、義利は何度もその名を声に出して言う。
「アシュリー……、アシュリー……。ああ、アシュリー……」
声にするたび、想いがあふれる。
夢や幻ではない。
ガイアで過ごした日々が、彼の記憶には確かにあった。
「よし……、とし? どうしたの?」
嬉しそうに泣き、誰かの名をつぶやき続ける息子に、怪訝な顔をしながら母親は聞く。
「あ……、かあさん……」
しかし今、こうして地球にいることを思い出し、義利は混乱させられた。
ガイアに行っていたのであれば、こうして地球にいるはずがない。
幻覚であれば、その可能性に気づいたことで解けているはずだ。
掘り返した記憶と、現実。
その相反する二つを前にして、義利は晴れ晴れとした顔で、母親に宣言した。
「僕さ、好きな人ができたんだ」
「な、なに? 藪から棒に?」
「その人は日本じゃない、遠い国にいるんだ」
だから。
そう言って、彼は続けた。
「もう帰ってこれないかもしれない。母さんにも、父さんにも、海にも会えなくなるかもしれない。だけど――、僕、行くね」
思いを言葉にした瞬間。
世界は、暗転した。
 




