第四章 02
旅支度、と言っても義利には必要なモノなどない。
水と、最低限の武器としてナイフを持てば、それで支度は完了だ。
フラムに行くときもスコーネへ行く時も、それだけで事足りている。
ただし今回に限っては、そこに空の瓶とコルクの栓が加わっていた。
スミレの手紙に書かれていたのだ。
『泉の水を汲んでおけ』
義利に宛てられた手紙の内容は、簡単にまとめれば泉のことまでである。
精霊の泉に行け、泉の水を汲んでおけ。
それ以外は、謝罪と感謝の言葉がつづられていた。
「アダチさん。私も行きます」
手紙の内容を思い返していた義利に、背後から声がかかる。
トワだった。
「だーめ。できるだけ早く帰ってくるから、今回は待ってて」
「……足手まといだからですか?」
「違う違う。遠出したら悪化しちゃうかも知れないでしょ」
トワの発熱は、疲れによるものだ。
ラクスからスコーネへの片道二日の移動。
そして到着後は灰の除去作業のために、長時間能力を使用している。
未だ二次性徴を迎えていないトワが、肉体としては大人になっている義利やティアナと同等以上の働きをしたのだ。
途中で倒れなかっただけでも、彼女の体力は賞賛に値する。
「私は平気です」
トワはグッと、ありもしない力こぶを作って見せる。
「そんな真っ赤な顔で言われても……」
そうして平静を装ったところで、不調であることは顔に現れてしまっていた。
「これは……、その……」
隠しきれない変化を誤魔化そうと、トワは考えを巡らせる。
「病は病でも、恋の病です!」
「その言い訳には無理があるかな……」
熱に浮かされているトワの思考は、平時とは比べるべくもなく穴だらけだ。
こうしている今も、彼女の体調は悪化しつつある。
視線は定まりきっておらず、足元も不安定になっている。
どうにか諦めさせられないだろうか、という義利の思いを汲んでか、アシュリーが手に電撃を蓄えて見せた。
「あんまり駄々こねんなら、前みたいにバチッとやんぞ」
彼女の言葉が単なる脅しでないと、トワは身をもって知っている。
だからと言って簡単に諦めることはできなかった。
移動の都合上、最低でも八日。
それだけの期間を意中の相手と離れなければならないことが、トワには我慢できなかったのだ。
さらには同行するのがティアナだということもある。
近頃、彼女が義利に向ける視線には、友好以上の好意が込められていた。
それを見抜いているからこそ、トワは無理を押してでもついて行こうとしているのだ。
当の義利はと言えば、トワからの好意には気づいているものの、ティアナからのそれには気づいていない。
敵意だろうと悪意だろうと、恋心だとしても、他人からの想いに鈍感なのだ。
言葉にして、声にして、明確に示さなければ、彼には伝わらない。
「アダチさん……」
トワは最後の手段『泣き落とし』を実行した。
涙で潤んだ目を向けて、彼の心に訴えかける。
しかし、義利の答えが変わることはなかった。
「……ごめんね」
優しさにつけ入る、というトワの作戦は失敗に終わる。
彼の性格からして涙を見せればついていけるモノと思っていたために、肩を落とした。
しかし、それもつかの間。
「今度、ちゃんと埋め合わせするから……。ね?」
ピクリ、とトワの肩がわずかに上がる。
「埋め合わせ……?」
「他に行きたいところがあったら一緒に行こう? もちろん熱が引いてからだけどね」
「それって、アダチさんに何かをしてもらうのでもいいですか?! 例えば手をつないでお散歩に出かけるとか!」
「それくらいならお安い御用だよ」
「本当ですね?! 約束ですよ!」
ここにきてトワが巧みな話術を用いているのだが、やはり義利は気づかない。
念押しが強いことに疑問を抱いてはいる。
それが何故なのかを考えもせずに、彼は頷いて返してしまった。
「う、うん」
押しに弱い性格を利用した今度の作戦は成功し、トワが顔を伏せてニヤリと笑う。
「お散歩だね。わかっ――」
「あ、いえ。お散歩はあくまで例えです。埋め合わせは口付けでお願いします」
一瞬、義利は呆気にとられる。
耳を疑ってトワを見れば、彼女は唇を指さして、年齢にふさわしくない艶めかしさを持った笑みを浮かべていたのだ。
聞き間違い、という可能性は早々についえる。
「……えっと、それはさすがに………………」
とっさに彼の脳裏によぎるのは、初めて唇を重ねた時のことだった。
当時は息も絶え絶えだったトワからのお願いとあり、迷うことなく口づけをしていたが、もう一度できるかと聞かれれば、彼は首を横に振るだろう。
嫌悪感ではなく、背徳感がそうさせるのだ。
義利が言い訳を作り終えるより先に、トワがダメ押しをする。
「『何かをしてもらう』のは、お安い御用なんですよね?」
「だけど……」
「約束、しましたからね」
そう残し、彼女は部屋を出ていった。
「いーじゃねぇか。荒事にならずに説得できたんだし」
二人のやりとりを面白おかしく楽しんで見ていたアシュリーが、ニヤニヤとしながら義利の背にもたれかかる。
「いや、だけどさ……」
「人間ってのは好きな相手としかしねぇんだろ? 良かったじゃねぇか」
「好意を持たれてるのは嬉しいよ。けど、僕とトワの場合はちょっと……」
彼が気にしているのは、その出会い方だ。
当初は奴隷として扱われていたトワを、鎖を解くことで自由にしたのが義利である。
素直に少女からの好意を受け取れないのは、それが恩義を取り違えたモノかもしれないからだった。
加えて、彼には既に恋心を抱いている相手がいる。
「どうしても気になるってんなら、こう思えばいい。口だって肌だ、手をつなぐのと大差ねぇ。ってな」
意中の相手からのそんな言い草に、義利は深いため息を吐いた。
「まぁ……、うん。今は悩んでても仕方ないし、どうするかは追々考えるよ」
まずは目の前の問題を片づけるのが先だと割り切り、義利は荷物をバッグにまとめ、ティアナの部屋へと向かう。
「ティアナー。僕はもういけるよー」
ドアをノックし、外から声をかける。
旅支度で着替えをしていることを考えそうしていた。
「はーい。こっちも今、ちょうど準備ができたわー」
返事のすぐあと、ドアはティアナによって開かれる。
それでも念のためにと、義利は視線を下げた。
そのため、ソレに気づく。
「あれ……。義手、着けるんだ?」
コロナとの一戦で失った腕に代わり、彼女の右腕には包帯で表面を覆った義手がはめられていた。
「ええ。手綱を握るのに、片手じゃあ少し厳しいもの」
義手を目線の高さまで持ち上げて、ティアナは指の開閉をしてみせる。
「それに、案外わるくないものね。今まで何となく避けてたけど、ずっと着けていようかしら……?」
木製であるため動かすたびに小さく軋みはしているが、それ以外に問題はないらしい。
満足げに頷いたティアナは、ポンと義利の肩に手を置く。
「それじゃ、行きましょうか」
前を行くティアナの目を盗み、義利はシャツの襟を持ち上げた。
手を置き、軽く揉むようにされた彼の肩は、皮膚がめくれて血をにじませ始めている。
思い通りに動かせる義手だが、皮膚感覚までは備わっていないのだ。
加減を誤り、結果が義利の負傷である。
「……調節、覚えてもらわなきゃ」
やるべきことが次々と積み重なっていくことに、義利は胃を痛めていた。




