契約~異世界転移は命がけ~
「これだよ……コレこれ、この感覚ッ!」
血の滝に打たれながら、彼――あるいは彼女――は歓喜に酔いしれていた。
足首まである長髪は、元の色が判別できないほどに血で汚れ、背中に張り付いている。
「あァ……。気持ちイイ……」
血浴みに満足し、笑みを浮かべた『ソレ』は、二歩下がった。
同時に、血液を垂れ流しにしていたモノが倒れる。
頭部を無くした四本足のモノは、自身が作り出した血の池に沈んでいった。
目の前にある死を見て、彼――足立義利は悲鳴を上げる。
だが声にはならない。
声を出すことも、目を背けることも、逃げ出すことも……指を動かすことすらも、今の彼にはできなかった。
「お望み通り、助けてやったぜ?」
彼の口から紡がれた言葉だが、しかし彼の意思によるものではない。
――どうしてこんなことに……。
呆然と、義利は思い返す。
ことの始まりを。
数分前のことを。
・・・
・・
・
足立義利。
高校二年生。十七歳。
際立った長所がなければ短所もない。
使い古された言い方をすれば『どこにでもいる普通の高校生』だ。
そんな義利が異常事態に見舞われる五分前。
彼は図書館へと向かう途中だった。
肩に下げた空色のエナメルバッグには、勉強道具と、糖分補給のためのお菓子が少しだけ。
いつも通りのことだった。休日の義利はいつも、それらを持って図書館で勉強する。
いつも通りの平凡の中。
異変は、突如として起こった。
「なんだ……これ?」
信号待ちをしていた義利の胸元――祖父の遺品であるお守りから、赤い光が漏れ出していたのだ。
不審に思い、彼は紐を解いて中身を取り出す。
発光装置などはなかった。あるのは小さく畳まれた羊皮紙のみ。
光は、そこから放たれていた。
興味が沸き、好奇心へと変わる。
義利はそれを広げた。そしてすぐに首を傾げる。
「魔法陣……?」
そうだとしか、彼には言い表せなかった。
漫画やアニメでしか見たことのないそれが、なぜ祖父のお守りから出てきたのか。
不思議に思うも、それを上回る不可思議が今も続いている。
魔法陣を描いている線が、光を放っていたのだ。
好奇心に突き動かされ、義利は魔法陣の端に触れる。
その瞬間、彼は軽いめまいを起こした。
よろめき、地面に手をつく。
めまいはすぐに収まった。
慌てて義利は起き上がり、尻もちをつく勢いで後ずさる。
横断歩道の手前にいたため、車に轢かれないようにと取った行動だ。
しかし、そんな心配は不要だった。
「……え?」
たった一瞬のことだ。
彼が立ち眩んでいたわずかな時間だけで、アスファルトで固められた足元が苔むした土に変わっていた。
それだけではない。
電柱、ガードレール、信号機、車、家など。
それまで周囲にあったモノが消え、背の高い木々が乱立していた。
今の義利が立っているのは、まぎれもなく森だ。
瞬きをする。繰り返し、何度も。
しかし目の前の景色が元に戻ることはなかった。
「えっ?」
立ち上がり、周囲を見回す。
文明の欠片も感じられない、自然だけがそこにはあった。
「お、落ち着け、僕……。こんなのあり得ないって。夢……、そう夢だ。きっとそうだ」
市街地から一瞬で森に。
現実的に考えれば、たしかにあり得ないことだ。
だから義利は、夢だと自分に言い聞かせた。
そうすることで平静を保とうとしていた。
「……とりあえず、人を探してみよう」
呟き、彼は森の中を歩き始める。
木漏れ日の眩しさ。
靴を通じて伝わってくる土の感触。
森林特有の湿り気を帯びた空気の匂い。
口の端から侵入してきた汗の味。
かき分けた茂みから鳴る音。
何もかもが夢とは思えぬほどに鮮明で、それが義利の心をざわつかせる。
「はっ……、はっ……」
気づけば彼は走っていた。
目の前の現実を否定する材料を求めて、ひたすらに足を動かす。
その時。
--グニャリ。
地面ではない何かを踏み付けた感触に、思わず足が止まる。
見れば、黒い毛の塊があった。
「……なんだ、これ?」
義利の胴回りほどの太さがあるソレ。
足を退け、触って確かめようと手を伸ばす。
すると突然ソレは動き出し、義利の体を押しのけた。
「うっわ……」
想像以上の力で押されたために、転倒する。
ソレは茂みの中に消えてゆき、変わりに別のものが顔を覗かせた。
「………………へ?」
間の抜けた声を出す。
あまりの混乱から、義利は目をしばたかせた。
ひとことで言えば、犬だ。
しかし普通の犬ではない。
とにかく巨大な犬だった。
先ほどの黒い毛の塊の正体に、そこで義利は気づく。
尻尾だ。
彼の目の前にいる巨大な犬の尻尾だったのだ。
それを踏み付けていたことを思い出し、冷汗を流す。
犬の顔を見上げる。彼の想像通り、そこには怒りが窺えた。
成人男性すら収まりそうなほどに巨大な口が迫る。
「ッ!」
咄嗟に義利は横に跳ぶ。直後に牙が噛み合う音がした。
あと少しでも遅れていれば、無事では済まなかっただろう。
生きていられたかも怪しい。
「なッ……なんッ~~!」
なんだこれ。
その一言すら、うまく言葉にできなかった。
ここがどこなのか、何が起きたのか、目の前の巨大な犬は何なのか。
何もかも、義利にはわからない。
唯一分かるのは、逃げなければ死ぬ、ということだけだ。
「ひぃっ!」
短い悲鳴を発し、彼は駆け出す。
少しでも身軽でいるために、バッグは投げ捨てた。
走りながら、身を隠せる場所を義利は探す。
逃げ続けることは、最初から頭になかった。
普通の犬から追われているのだとしても、人間の足では振り切ることはできない。
今は犬が巨体ゆえに進路を木に邪魔されているためにどうにか生き延びてはいる。
しかし持久力の関係で、いずれは追い付かれてしまうだろう。
「ッ……!」
巨木の根本に隙間をみつけ、義利は身体を滑り込ませた。
すぐに振り向く。
目の前に、鋭い爪が迫っていた。
「うわぁ!」
それを避けられたのは偶然にすぎない。
犬の前足は、その巨体を支えるためか太く大きかった。
人間が通れる隙間に入れないほど。
「グルルルぅぅぅぅぅぅぅ……」
低くうなり、犬が地面を削りだす。
ひと掻き、またひと掻きと土を削り、隙間を広げていった。
「たッ……助けて!」
命乞い、ではない。
犬に言葉が通じるはずがないのだ。
義利は、助けを求めていた。
いるかも分からない誰かに。
「誰かぁ! 誰か助けてッ!」
地面を削る犬の爪が、徐々に義利へと近づいてきた。
そしてついに。
「あギッ!」
爪の先が、彼の足に届いた。
ふくらはぎの肉がえぐられ、そこから血液があふれる。
恐怖と痛みで義利は泣き出した。
「たす……けてッ!」
歯を食いしばり、どうにか声を振り絞る。
「誰か――!」
「助けてやろうか?」
光が差した。
明りのなかった空間に、青白い光の球が浮かんでいたのだ。
「誰でもいいから、お願い助けて!」
目の前にあった光の球が輝きを増す。
それはすぐに弱まり、消え……。一人の少女に形を変えていた。
「その命、アタシに捧げると誓うか?」
少女からの問いに、義利は戸惑いながら返す。
「なんでもいいから、早く助けて!」
そこへ犬の前足が差し込まれてきた。
少女は光の球に戻って回避をするが、義利にそんなことはできない。
二度目の激痛が彼を絶叫させる。
「いいか? もう一回だけ同じことを聞く。それにお前は『誓う』と答えろ。次はないからな?」
諭すようでいて、どこか苛立たしげだった。
義利は痛みに震えながら、首を縦に振って答える。
すると少女は、再度姿を見せた。
「その命、アタシに捧げると誓うか?」
一字一句違わず、同じ言葉で少女は告げる。
藁にも縋る思いで、彼は言った。
「誓う!」
瞬間。
落雷が義利を襲った。
「ぅあ……」
小さく呻く。わずかに痺れただけで、痛みはなかった。
変わりにおぞましい感覚を、彼は味わう。
−−ずるり。
足の裏から生まれた違和感が、徐々に広がり始める。
羽虫が這い上っているかのように、じわじわと。
「ああっ……」
異変はすぐに始まった。
足の感覚が、まったくなかったのだ。
蒸れた靴の不快感も、肉を抉られた痛みさえも。
「ああああああっ!」
得体の知れない恐怖に、彼は思わず叫び上げる。
おぞましい感覚は止まることなく、義利の身体を徐々に侵食していった。
足先から始まり、すでに胴体までが彼の意思では動かすこともできない状態だ。
欠片の理解も許さない異常。
その中でも、彼は一つだけ確信を持って言えることがあった。
――このままじゃ、飲まれる。
生物としての本能が、それを察知していた。
「あああああああああああああああああああああ−−」
声の限りを彼は尽くす。
そうすることで自分の存在を保とうとしていた。
だが、そんな抵抗すらも挫くように、さらなる雷撃が降り注いだ。
身を隠していた巨木が縦に割れる。
土煙が上がり、木片が降り注いだ。
巨大な犬が、異常を前に威嚇をする。
やがて視界が開けると、そこにいたのは変わり果てた姿の義利だった。
短く整えていた黒い髪は、長く伸び放題の白髪に。
日本人特有の淡黄色だった肌は、病的なまでに蒼白く。
恐怖を湛えていた瞳は爛々と輝き、耳や爪は鋭く尖っていた。
「ヒッヒッヒッ……」
服装と、顔の面影だけを残した彼が笑う。
愉快に、楽しそうに、嬉しそうに、笑う。
「ようやく手に入れたぜ……。アタシの契約者ッ!!」
義利の声で発せられたそれは、少女の言葉だった。
『身体が……、動かない!』
わけの分からぬまま、彼は身に起きた異変を口に出す。
しかしそれが空気を揺らすことはなかった。
誰にも――義利にすら、自身の声を聞くことができなかったのだ。
「心配すんな。チョットのあいだ、アタシがアンタの身体を借りるってだけさ」
にんまりと口元を歪め、その場で少女が軽い運動をする。
動くのは当然、義利の身体だ。
屈伸をし、軽く跳ね、手足を振る。
すべてが他者により行われ、その感覚が一切ない。
不気味で、奇妙だった。
『そ、そんなことよりバケモノが……!』
理解のできない現象に驚いてばかりではいられないことを、義利は思い出す。
そんな義利に対し、彼女は呆れたように肩をすくめた。
「ああ、野犬な。ほっとけよ」
先ほどまでは落雷に脅されてか、警戒をするだけだった巨大な犬も、今は臨戦態勢に入っている。
身を屈め、牙を剥き出しにし、跳びかかる機会を伺っていた。
『野犬って……。あんなに大きいんだよ?!』
「あーもー、うるせぇなぁ……」
ガシガシと長い髪をかき乱し、彼女は歩き出す。
『何してるのさ! 逃げなきゃ!』
義利の制止を無視して、少女は巨大な犬へと近づいて行った。
犬は威嚇をしながらも、何かに怯えるように後退してゆく。
知性が低いからこそ、本能で少女の放つ殺気を感じているのだ。
「肩慣らしついでだ。ヤってやるよ」
『何を――』
言い切るよりも先に、彼の見ている世界が霞みがかる。
次に焦点が定まったとき、義利は巨大な犬を見下ろしていた。
落下が始まる。
獲物を探す獣は周囲を見回すも、上に目を向けることはなかった。
義利の手が雷を帯びる。
小さな雷鳴を奏でるそれが、一抱えほどの太さをもった犬の首に触れた。
『……え?』
間の抜けた声を、義利が漏らす。
犬の頭部だけが、宙を舞っていた。
尋常ではない速度で回転していたソレが、重力に従って落ちる。
一拍の間を置き、残された胴体の切断面から生暖かい血液が降り注いだ。
純白だった髪が、赤黒く塗りつぶされていく。
少女が振り向いた。
それまで背中に浴びていた獣の血を顔で受け、彼女は笑う。
「魔人化なんざ、いつぶりだったか……」
両腕を広げ、全身を血で塗れさせる。
そして彼女は言った。
「これだよ……。これコレ、この感覚ッ!」
誓うと言ったその時か。
助けを求めたその時か。
好奇心に負けたからか。
平和な日常から、たった数分。
それだけで、義利の日常は崩れ去ったのだ。
・
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・・・