(1)帰国
三月二日。
吹き抜けて行く風にはまだ幾分冷たさが残っているが、そこかしこではさまざまな植物が芽吹き、春の訪れを待っている。
閑静な住宅が立ち並ぶ落ち着いた区域。
そんな住宅街のとある一戸建ての前にタクシーが停まった。
運転手は車の後方に回り、旅行用の大きなスーツケースやボストンバッグをトランクから下ろしている。
そのタクシーの後ろのドアが開き、一人の女性が降りてきた。
濃紺のスーツに淡い花柄のブラウス、膝丈のタイトスカートから伸びるすらりとした足元を彩るパンプスは、ブラウスに合わせてか春らしい色のライトイエロー。
器用に数本のピンだけでまとめ上げた髪が、きちんとした印象と共に女性らしさをかもし出している。
しかし……。
両手を思い切り上げて、豪快に背伸びをする様子はせっかくのおしとやかな女性像を見事ごとにぶち壊した―――本人の自覚がないのは幸か不幸か。
「うう~ん!!やっと帰ってきたぁ」
高木 理花、10日ほど前の2月23日に誕生日を迎えたばかりの26才。およそ8ヶ月に及ぶ長期海外出張から帰ってきたところである。
久々に見る自宅を懐かしげに見上げているうちに、運転手が彼女の荷物を玄関先まで運んでいた。
「あ、そこに置いてください!」
理花は慌てて小走りで駆け寄った。
「運んでくださってありがとうございました」
礼を言うと、運転手はにこりと笑って一礼し、そしてタクシーへと戻っていった。
「さぁて、我が家に変わりはないかな?」
よいしょ、と声を出して理花は荷物を手に取った。
どっしりと重量感のある木製の扉をグワァッと引いて大きく開ける。
「たっだいまぁっ!」
お年頃の女性にしては少し―――いや、かなり勢いのある帰宅の挨拶である。
すると廊下の奥の戸が開いて、見るからにおしとやかで小柄な女性が現れた。
「おかえり。……もう少し静かに挨拶できないの?」
我が娘ながらあきれるわぁ、と少々困り顔である。
「長旅からの帰宅早々、グチらないでくれる?お母さん」
パンプスを脱ぎながら、顔だけ母親のほうに向けて理花は言う。
「だって、25歳も過ぎれば落ち着いてくれるかと思っていたのに、あなたったらますます活発になってゆくんですもの。グチくらい言っても良いじゃない」
理花の母は頬に手を当ててため息をつく。
「まったく、誰に似たのかしら?」
手を腰にやり、横に立つ娘を見上げる。
娘の身長は中学入学と同時に母親を抜き、今では頭一つ近く大きい。
外見は―――口さえ開かなければ―――おしとやかなお嬢さんで通ると言うのに。
学生時代、中学高校を通してバスケットに明け暮れたためか、性格はサバサバとしている。
いや、サバサバどころではなく“男勝り”と言うほうが正しいのかもしれない。
見た目だけは上品な理花が口を開く。
「お母さんに似たんじゃない?」
少しも悪びれた様子を見せず、しれっと答える理花。
「まったく、何言ってんのよ。はぁ。こんな調子じゃ、あなたにめっぽう甘い雄一さんでもさすがに愛想を尽かすわよ。もう少し、おしとやかになることね。雄一さんに見放されても知らないから」
母親は『最後の切り札』とも言えるセリフを理花に突きつける。
しかし、当の本人はこの程度の言葉で反省するほど、可愛らしい心臓の持ち主ではなかった。
傷ついた素振りなど、微塵も感じさせない。
「おあいにく様ですぅ。雄一はそんな心の狭い男じゃありません~。それはもう優しくって優しくって、私を丸ごと愛してくれているんですからね」
けろりとした表情で言ってのけた後、理花は母親に向かってベェッと舌を出した。
「もう、この子ったら……」
口の減らない娘に対し、もはや反論する気力がない。
「仕方ないわね。まぁ、いいわ」
やれやれ、と苦笑いしながら娘を見る。
見合わせて、理花もフフッと笑う。
「やっぱり我が家は良いなぁ。なんか、いるだけで落ち着くもん。8ヶ月は長かったぁ。」
まめな性格の母親のおかげで、家の中はいつもきちんと片付いている。
そして、季節の花や小さな額縁などが玄関に飾られていて、品があって落ち着く。
理花はほんのりと花の香りが漂う空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
久々に会った娘の元気な様子を見て、母親は嬉しそうに目を細める。
「それで、向こうでの仕事はうまく言ったの?……まぁ、お茶でも飲みながら話でもしましょうか」
「お母さんが入れるお茶が飲みたかったのよねぇ。途中でお団子買って来たから、一緒に食べよ」
小さな包みを母親に手渡す。
「ありがとう。ほうじ茶でいいの?」
包みを受け取った母親は理花に尋ねる。
「うん。じゃ、その前に着替えてくるね」
軽やかな足取りでタタタッと階段を上る―――理花の部屋は2階なのである。
「お茶を入れておくから、すぐにいらっしゃい」
そう言って母親は台所に向かった。
しかし、何かを思い出し、急に立ち止まる。
「ああ、そうそう。理花、ちょっと待って」
すでに5段ほど上った娘の背中に呼びかけた。