ストック
本気で小説を書こうと思っています。これが私の初めての作品です。どうか厳しい評価をお願いいたします。
町のはずれの深い森が、ユウジと彼女が出会った場所だった。
森は木々がお互いのテリトリィーを意識し合うかのように、間隔を開けて体を伸ばしていた。
森の中を進んでいくといくつもの切り株に出会ったし、森の入口には三角に積み上げられた丸太の山が並んでいたことから、この森が誰かに管理されているものだとわかる。
踏む度に沈む腐葉土はやわらかで心地よかった。青々とした木々が枝を伸ばし天井を作っている。葉と葉の隙間から降る太陽の光が森の中に光の線を作っている。
森は人が管理していないと程良い太陽の光が入らなくなり荒れ果ててしまう。森の様子からこの森は誰かがしっかりと管理しているというのは明らかだった。この森は海の近くにあり、すぐ目と鼻の先には大きな港があった。港の周囲は沢山の工場が立ち並んでいる。工場からのびる煙突は灰色の煙を吐き出し続け、晴れの日には青い空を汚していた。でも本当にひどいのは夜中だ。一度、煙の排出量が多すぎて大気汚染されているのではないかという住民が工場側に訴えたことがあった。それ以来は日中の煙の量は減ったのだが、深夜になるとまるで雨雲を作っているのではと思えるくらい大量の煙を排出していた。そのせいで星空はいつもぼやけて見えた。
煙を排出し続ける煙突は丘の上にあるユウジの高校の教室の窓からも見ることができた。
工場でなにが作られているのかなんて知らないが、そこで作られた物が港から全国へ、そして全世界へと運ばれていくということだけは知っていた。
工場の周辺は港以外にも交通網が発達しており、毎日沢山の中型から大型のトラックが不快な振動を町に振りまきながら何かを運んで行く。いくつものバイパスや高速道路が大蛇のようにうねっている。
ユウジはそこで作られている物も、それがどこに運ばれていくかも興味はなかったし、この森がなぜ工業地帯の中で残され続けているのかさえ関心はなかった。
とにかく静かで、だれにも見つからない場所で時間を過ごす事が今の彼の関心のすべてだった。
ユウジはもう一か月以上も高校へ行っていない。高校に行って何になるのだろうかわからない。
授業で教えられる数学も英語も歴史も社会で何が起きているのかする興味はなかったし、テレビで見たコメディアンの真似ごとばかりする友人達のことを理解することも面倒で仕方が無い。
友人たちとの関係が薄れて行くたびにユウジは孤立を深めて行った。
それからイジメが始まり、クラスの不良グループに絡まれるようになった。
だから、ユウジにとって学校は何の意味も持たない所であり、恐怖とストレスを感じるだけの場所になった。
だからといって、口うるさい母がいる家の中ではくつろぐ事ができない。
ユウジは毎日のように町をさまよってはありもしない自分の居場所を探していた。
そうやってこの森を見つけ出したのだった。
切り株の上に座って空を見上げると、木々の葉っぱの向こう側に青々とした空とやわらかそうな雲が見える。
それを見ながら煙草に火をつけて、肺を煙で満たす。煙草は特に好きではなかったが、法律で年齢禁止されている事を犯すことで自分が強くなったような気になれた。ユウジはそうすることで自分自身に、自分がどれほど強いのかを教えたかった。
一週間ほど前にこの森を見つけてから毎日、切り株の上で煙草をふかすのが日課となった。
肺から出て行った煙は木々に吸い込まれるように消えて行く。
そのときユウジはフッとある事を思った。
この森の奥には何があるのだろうか。
ユウジは森の奥にある地面に空いた暗黒の洞窟を想像していた。その洞窟の中には怪物が居て、夜な夜な町に出てきて人をさらって食べてしまう。人と言っても、もちろん食用人間ではなく、普通の人間の事だ。その化け物は大きく口が裂け、目は闇の中で銀色に輝くのだ。
体の皮膚は、熱で溶けてぐにゃりと曲がったまま固まってしまったプラスチックのように垂れ下がっている。いや、それとも美しい美女に化けた悪魔が住んでいて、人を騙しては肉を食らうのかもしれない。
食用人間以外の普通の人間はまずくて食えないというのが社会の常識ではあるが、毎年のように普通の人間の肉に興味を持つイカレタ奴が人を襲ってその肉を食べてしまう事件が後を絶たない。
食用人間以外の人間を食べたいだなんて思う奴が居ること自体ユウジは信じられなかった。
この森の奥になにもないのはわかってはいるが、好奇心は無限に広がっていく。その好奇心は木々の間をすり抜けて、森の奥にありもしない妄想の産物を造りだした。
気付いた時にはユウジは切り株から腰を上げ、腐葉土の上を歩き出していた。好奇心に合わせて有り余る時間がその背中を押していた。妄想したもの達がそこにいないことは分かっていたが、それでもよかった。じっとしているよりは妄想を追って足を動かしたかった。なによりも、やわらかな腐葉土の上を歩く心地良さをユウジの体は求めていた。
森の中には、木々の葉の合間を縫って差し込んで来る太陽の光の線が柱のようにいくつも伸びているのが見える。それらは空から森に向かっていくつもの刃を突き刺したようだった。
森の奥へと進んでいくとやがて遠くの方にここには不似合いな物が見えてきた。木々の幹と幹の合間に白っぽい壁のようなものが現れたのだ。何かの建物のようだ。いったいこんな場所になんの建物があるというのだろうか。暗黒に満ちた洞窟や、美女に化けた怪物に比べれば劣るものの、その建物はユウジの好奇心を強く刺激した。
機械的なモーター音がその建物の方から聞こえてくる。
ユウジは少しだけ躊躇したものの、彼の好奇心を止める程のものではなかった。恐怖心や疑念は、むしろ彼の胸を熱くさせる。
近づくにつれてその建物がどんなものなのか分かってきた。元は白だったはずの壁は、雨風にさらされ所々薄黒く汚れていた。その建物の前には自分の背丈の二倍はある高い緑色のフェンスが設置してあり、上の方には有刺鉄線が牙をむいている。
フェンス越しから見える建物の壁の下の方には、四角い大きな箱が四つほど並べて設置してある。どうやらそれらがモーター音を立てているようだ。それらはクーラーの室外機のようだ。とはいっても一つ一つの大きさがユウジの胸のあたりまであり、一般家庭に設置してあるものとも大きく形が違っていた。扇風機の刃のようなものがついた空気の排出口は天辺に設置してあり、上を向いている。
ユウジはフェンスのすぐ側まで行き、中の様子を覗いた。窓もない殺風景な建物だ。
どれくらい前からココに建っているのだろうか、壁の汚れから年月を感じる。右の方を見る、100メートル近くフェンスと建物の壁が続いている。
上の方は木々の葉に隠れていて見えないが、建物の高さもかなりあるようだ。
「誰ですか?」
突然、左の方から女性の声が聞こえた。左の方を振り向くと、大人二人が腕を広げて抱きついても、お互いの手と手が届かないくらい太い幹をもった大木があった。その向こう側に、パイプ椅子に座る誰かの白い足が見えた。
先ほどまで好奇に満ちていた胸の鼓動が激しく乱れ、全身の筋肉が今までにないほどに硬直した。さきほど想像を膨らませた化け物の姿がユウジの胸を圧迫する。
ユウジは頭を動かして太い幹の向こう側に目を向けた。フェンスの向こう側だが、椅子に座る人影があるのがわかった。
そこに居たのは白いワンピースを着てパイプ椅子に座った少女だった。肩から伸びる腕はワンピースの白と同じくらい汚れのない美しいものだった。髪は黒く、そして長い。豊富な胸に合わせて髪が曲線を作っている。高校生だろうか。いや、それとももう少し上かもしれない。
豊富な胸のせいだからだろうか、それとも顔の骨格が丸いからだろうか少しだけふっくらとした印象を受けた。
「あの、ごめんなさい」
ユウジが精いっぱいに口から絞り出す事の出来た言葉はそれだけだった。好奇心に駆られ、面白半分で建物に近づいた。なにか自分が悪いことをしているような気になっていたから、ユウジはそう口にしたのだ。
森で見慣れぬ建物を見つけ、そこで女に出会った経験はもちろん彼には無かったし、女性に話しかけられたという記憶もあまりなかった。それに女に化けた怪物に出会う想像はできていても、まさか美しい女に遭遇することなど思いもしなかった。
女に出会った困惑と混乱から理由の無い罪悪感に襲われ、ユウジは走りだしたいという衝動に駆られていた。
「こちらへ来てお話しましょう」
女は柔らかそうな頬を斜めに持ちあげて、優しい笑顔を作って見せた。それはユウジが今までに見たどんなモノよりも美しく高貴なものに見えた。
女が言葉を発した瞬間に、ユウジのこの場から立ち去りたいという衝動はあっというまに森の木々が吸い上げていった。
次の瞬間には彼の足はスイッチを入れられた機械のように自然と女の方へとぎこちなく歩き出していた。
ユウジが女の側まで来ると、女はまた小さく笑った。その美しい表情に、一瞬だけ呼吸の方法を忘れた。
ユウジは何か話さなければと必死に言葉を発しようとしていた。だが、大きくて吸い込まれてしまいそうな瞳で見つめられると、舌が結ばれたみたいに言葉が上手く出てこない。
「どこからきたの?」
女は、木々の葉が触れ合うような柔らかな声で言葉を発した。女の言葉はこの森とシンクロしているようにさえ思える。
「僕は、光が丘に住んでいます」
「高校生かしら?」
ユウジはその問いにはコクリと頭を動かす事で答えた。
ユウジが女に向けた目線は、釘で打ち付けられたみたいに動かなくなってしまっていた。
女はメデューサで、もしかしたらすでに体が石になっているのかもしれないとさえ思えた。
「ねぇ、よかったらそこの切り株に座って。あなたの話が聞きたいわ?」
女はユウジの足元にある切り株を指差して、そこに座るようにと促した。それは人が一人やっと座れるくらいの大きさの切り株だった。
ユウジは魔法の言葉で操られるみたいに素早くそこに座った。
二人はフェンスを挟んで向き合う形で座った。
「あなたの学校はどんなところかしら?楽しい?」
好奇心に輝く彼女の顔はとても愛嬌のあるものだった。女の表情はユウジの胸を一瞬で満たし、あらゆる疑問を彼に抱かせなかった。
「えぇ、まぁそれなりに楽しいですよ」
ユウジは少しだけ強がりと見栄を女の前で見せた。本当は楽しいことなどないし、現に学校へは行っていない。
それからも女の質問は続いた。家族はいるのか?住んでいる家はどのような建物か?どんなことをして遊んでいるのか?
質問は日常的でどうでもいいような事ばかりであったが、ユウジの返答を女は目を輝かせながら聞いていた。話を聞く女の楽しそうな顔を見て、ユウジは自分が話し上手になった気がして気分が良かった。
なぜこんなことを聞くのかということはその時は疑問には思わなかった。
女に聞かれた事を答えたい。その一心で彼は必死に女の質問に答え続けたのだ。
いくつ目かの質問の返答をユウジがしていた時、どこからか「キーンコーンカーンコーン」というありきたりなチャイムが鳴り響いた。それはユウジが通っている高校でも流れているようなチャイムだった。
その音に女は反応し、ユウジの言葉を遮って「ごめんね、御祈りの時間だわ」と言って困ったような顔をして見せた。
「またここに来て、お話を聞かせてちょうだい」
そう言って女は立ちあがり、風に流れるようにワンピースの裾をゆらゆらと揺らしながら歩き始めた。
建物の壁に沿って歩き、やがて角を曲がって女は姿を消した。
女の姿が消えると、あたりの色が急に濃くなったような気がした。いままで森の緑も、建物の白い壁も色を失っていた。女の表情がユウジの関心のすべてを奪っていたからだ。
夢の中にずっと浸っていたような、そんな不思議な気分だった。
ユウジは、その建物が何で、女が何者かなど考える事もしなかったし、そんなことはどうでもいいことだった。
ただ女の姿をもう一度見たいという思いが胸をいっぱいに満たしていた。
切り株の上で少しの間ボーっとしていたが、やがて日が沈み森に闇が訪れようとする頃、ユウジはようやく現実の世界へと戻るように来た道を歩き森を出た。
『お肉♪お肉♪お肉のやまむら~♪人肉のやまむら~♪』
テレビでは陽気な音楽と共に子供二人と、その親に扮した男女が楽しげに歌い踊っている。
それは世界的に有名な「お肉のやまむら株式会社」のコマーシャルだ。
海外ではヴィレイマンという名前で通っているが、日本ではやまむらの名前が定着しているので、そのままになっている。
もう何十年も昔から流れているコマーシャルで、お年寄りから幼児に至るまでこの音楽を知らない者はいない。
ちょうどユウジが家に帰って来たときにこのコマーシャルが流れていた。
「ユウジ、どこにいっていたの?今日、先生からお電話があってまた学校に来てませんっていわれたんだけど」
台所のカウンター越しに、母がそう言った。 言葉には無理に刺を取り去りって発するような慎重さがあった。
「ちょっと、今からテレビ見てるから後にして」
ユウジは少し強めな口調でそう言って、ソファーに座りチャンネルをいじった。
それ以上母親はユウジに何も言わなかった。
テレビはワイドショーへと変わった。ワイドショーでは、最近起きている事件について語られている。
『最近、東京都で起きている事件を皆さんご存知ですか?』
テレビの司会者が眉間にしわを寄せてそう言った。
『女性を襲ってその肉を食べる変質者がいるという事件ですね』
コメンテーターの男性がすぐに反応してそう言う。
『その犯人って、頭がおかしいんじゃないの』
男性の隣に居るコメンテーターの女性が続けてそう言った。
「人間と食肉用人間の違いもわからないのでしょうか。しっかりとした教育を受けてない人間かもしれませんね」
またコメンテーターの男性がそう言った。
「なるほど、そうですね。やはり教育はしっかりとして、反社会的な人間を生まないようにしなければいけませんね」
司会者が言う。
「えぇ、近年教育の質が落ちているようですし」
最後に付け加えるようにコメンテーターの女性が言う。
普通の人間の肉を食うなんて、なんて気味の悪い事件なのだろうか。毎年のように普通の人が変質者に殺されて食われる事件が起きている。理由は簡単で、食肉用人間が美味しいのだから普通の人間はもっと美味しいはずだと思い込んで、食べたいという欲求から犯行に及ぶのだ。
事件の報道を見て不快な気分になってチャンネルをまた変えた。
好きなアイドルが歌い踊っている番組で手を止めた。
数分するとテーブルに料理が運ばれてくる。サラダと唐揚げと米だ。サラダの上には肌色をしたドレッシングがかけられている。唐揚げはどうやら軟骨のようだ。
軟骨がどこの部分の肉なのか、どんな食用人間の肉なのか考える人などいない。食肉用人間の肉など、下等生物の肉だというのが一般的な常識だ。生きる価値などない無意味な生命体の肉だ。誰が育て、誰が切り刻み、誰がお店に並べているかなんてどうだって良かった。それよりも野菜に、植物の生成を促進させるための妙な薬品が使われているのかどうかのほうがよっぽど人々にとっては関心が強い。ユウジもまた多くの人と同じようにそうだった。
だがそんなことよりも、今のユウジにとってはテレビの中で歌っているアイドルの表情の方が気になっている。
手を可憐に腰のあたりで振り、音楽に合わせて可愛い踊りを踊って見せた。テレ画面いっぱいに彼女の顔がアップで映し出されると、待っていましたと言わんばかりに笑顔を見せた。
その瞬間、ユウジは森で出会った女の事をふっ思い出していた。
壁に押し付けられて、胸をギュッと抑えつけられているような息苦しい気持ちになった。自然と口からため息が漏れる。
ベッドに入り、横になってからもその苦しみは続いた。とはいっても、その苦しみはどこか心地のいいものだった。今まで感じたことの無い、胸が押さえつけられるような切ない感覚にユウジは酔っていた。
目をつぶっていても、なんどもなんどもあの女の笑顔がよみがえってきた。その不思議な感情は熱した鉄を体に押し付けられ、取ることのできない跡になってしまったようだった。その夜は眠る事さえ忘れていた。
朝になると、朝ごはんも食べないままに制服に着替えて自転車にまたがって走り出した。いつもなら、どこで時間を潰すのか考えなければならないのに、彼の心はすでに行き先を知っていた。
工場地帯を走る。途中で赤信号を無理に横断し、トラックにクラクションを鳴らされたがそんなことは気にも留めなかった。
自転車は放り投げるように森の外に置いて行き、昨日座って煙草をふかした切り株を超えて森の奥へ奥へと入っていく。
あの女は今日もあそこに居るだろうか。その事だけがユウジを支配していた。
腐葉土のばねが彼の靴底を押し上げるかのように体がはずむ。心が弾む。木々の間から洩れる光を浴びながら、ユウジは走る。
ついに昨日のフェンスが見えてきて、白い建物の壁が姿を現した。ユウジは呼吸を整える。
そこからは、忍者にでもなったかのように忍び足で進んだ。フェンス越しに建物の敷地内を覗く。そこに女の姿があった。昨日と同じ場所に、同じ恰好で座っていた。
女は本を読んでいた。そう言えば昨日も手に持っていたような気もする。
女は昨日よりもさらに輝いて見える。何かの魔法のせいで、彼女自体が発光しているようでもあった。実際はそこに陽だまりがあったからなのだが、ユウジには女が温かで柔らかな光を放っているように見えていた。
「こんにちは」
本に熱中している女にユウジは声をかけた。ハッと女は早く大きく息を吸い込み、本から顔を上げる。ユウジの顔を確認すると、女は昨日よりもさらに柔らかな笑顔を向けてくれた。
それはすべてを吸い込んでしまいそうな、または強い風を起こして飛ばされてしまいそうな、包み込まれるような、そんな笑顔だった。
「今日も来てくれたのね、さぁここへ座って」
ユウジはずっと昔からここへ通っているかのような錯覚を受けた。女は幼いころからの友を招き入れるように自然に彼を切り株へと促した。
ユウジも何かの糸に引かれるかのように女のそばまで行き、そこにある切り株に座る。
それから昨日と同じように女からの質問が繰り返され、ユウジは必死にそれに応えた。
少し拡張して答える場面もあったが、女が喜ぶ顔が嬉しくてたまらなかった。
女はユウジのちょっとした話でも大きく驚いて見せた。わざと大袈裟に見せているのか、本当に驚いているのかはわからない。ただユウジはそのどちらでも構わないと思っていた。
女が笑顔で自分の話を聞いてくれている、その事実だけがユウジを幸福にしてくれたのだ。
「ねぇここは何の建物なの」
ユウジがそう聞くと、女はキョトンとした顔をした。それから手を口元に当ててクスクスと笑って見せた。
「あなた、ここの事知らないの?」
知っていて当たり前だというような女の口調に、ユウジは少しだけ自尊心を傷つけられた。生まれてからずっとこの土地で生活しているが、森の中にある建物の事など聞いた事が無い。
「じゃあ、なんだっていうのさ」
「学校よ」
「学校だって?そうは見えないな、まるで工場みたいじゃないか。それに森の中にある。こんな学校みたことないよ」
「そうなの?私はここから出た事が無いからわからないわ。でもきっと建物の正面から見たらわかるはずよ」
「ちょっとまって、ここから出た事が無いだって?そんな馬鹿な」
「バカなことなんて何もないわ。エディエル様にお仕えする者は皆そうよ。生まれた時から運命でそう決められているの。それってとてもすばらしいことよ」
ユウジは女の言っている意味が分からなかった。当たり前かのように語る女は狐か狸で、ユウジは自分が騙されているのではないかとさえ思えてきた。
幸せな時間も長くは続かなかった。また昨日と同じチャイムが鳴り響いたのだ。音は長く響いて森の奥に消えて行った。
「御祈りの時間だわ。ごめんなさい、私行かなきゃ」
「ちょっとまって、どうしていつもここに座っているの?」
彼女が椅子から立ち上がろうとした時、ユウジは慌てて女に質問してみた。質問の意味は大して重要ではなく、あと一秒でも二秒でも構わないからここに居て欲しかったからだ。
「表には国道が通っているでしょう。排気ガスは体に良くないから、森に面している建物の裏で時間を過ごすのよ」
排気ガスが体に悪いというのは定説で知ってはいるが、それを気にして森の近くで時間を過ごすなんて聞いた事が無い。
「今まで、体をすごく大事にしてきたわ。その努力が実って、もうすぐAクラスになれるかもしれないの」
女は嬉しそうに、そして自慢げにそう言ったがユウジには意味が分からなかった。
「ねぇ、御祈りって何に祈るの?」
ユウジは背中を向けて歩きだしている女に向けてそう言った。
「もちろんエディエル様よ」
女は顔だけをこちらへ向けて微笑みながらそう言った。女は小走りに建物角を曲がって姿を消した。
彼女の後を追って行きたかったがユウジは女の姿を見送った後、すぐに森の中へと戻ることにした。
もし女を追っていったら嫌われるかもしれないし、これ以上は何も見てはいけないような気がした。そんな危険な雰囲気がこの建物からは感じられた。
あの建物はどんな宗教学校なのだろうか。女が読んでいる本も聖書のような物に見えた。ユウジの学校の近くにもキリスト教の宗教学校があるのを思い出した。そこの学校にも清楚な女生徒が多く通っている。その姿と、女が被って見えた。だが、どうしてもそれらと同じような学校にはどうしても思えなかった。
「もちろんエディエル様よ」と女はそう言ったが、エディエルなんて神様をユウジは聞いた事が無かった。
次の日、ユウジは学校の授業に出席していた。もちろん自分の意志では無い。
本当はあの森へ行って、女とずっと喋っていたかった。ユウジにとって、あの場所に居るときだけが自分の存在を確かなものにしてくれる。
だが、森へ行く途中でユウジは学校の先生と偶然に遭遇してしまった。いや、もしかしたら偶然ではなかったのかもしれない。
前にもこういう事があった、その時は母が学校の先生に事前に連絡をして、ユウジを無理やりにでも学校へ連れて行って欲しいとお願いしていたのだ。もしかしたら今回もそうなのかもしれない。
ユウジを発見して学校へ無理やりに連れてきたのは、体育教師の見山という熊のように体格の大きな先生だった。大学時代には有名なラグビー選手だっただけあって体格も声も桁違いの大きさだった。
見山にみつけられて「おい!」と声をかけられた瞬間にユウジは完全に固まってしまった。それは抵抗が無意味であるという事を知っていたからだろう。
授業の途中で教室に連れて行かれたユウジの姿を見てクラスの生徒の数人がクスクスと笑いだした。ユウジはできるだけ、彼らと目を合わさないように自分の席へと座る。
授業は世界史の時間だった。第三次世界大戦によって使用された兵器によって草木が枯れ、世界の陸地の三分の一は砂漠化しており、現在もその砂漠化は進みつつある。
陸地の野生生物は食物が無くなり死に絶え、海の生物は放射能や兵器の毒性によって汚染されしまった。家畜も例外ではなく、牛は2060年に、豚は2059年に、ニワトリは2062年に絶滅している。
野菜を工場で作っている人類は、なんとか安全な食べ物を摂取することはできているが動物性たんぱく質を摂取できないことから病気にかかりやすくなり、当時は人類が生存していけるかも危うかった。
それらは今から約100年も昔の話だ。そんな昔の事を学んで何になるのか。今、こうして人間はしっかりと生きているし、毎年人口も増加しつつある。それに誰が100年も昔に起きた事を真実だと証明できるだろうか。きっと戦争だって勝った国が自分達の都合のいいように歴史を作り変えているはずだとユウジは考えていた。
だから、嘘か本当かもわからない歴史の話にユウジは興味が持てなかった。
関心が薄いのは歴史だけではなく、その他すべてのものに共通している。これをやれと言われれば、ユウジはそれに難癖をつけて決してやろうとはしなかった。
唯一、ユウジが今、興味を持てるのは森の奥に居る女だけだった。
黒板に書かれた文章を必死に書き写す生徒達の中で、ユウジは何の関心もなさそうに、ただ外を眺めていた。そのうちに「キーンコーンカーンコーン」というチャイムが鳴り、授業が終わった。このチャイムを聞くと、ユウジはすぐに女の顔を思い出す。
「では2067年から行われた食肉人間計画について、予習を含めたレポートを次の授業までに書いてくるように」
先生は最後にそんな事を言って、生徒からブーイングが出る前に教室を後にした。
ユウジは自分には関係ないといった感じでその言葉を受け流した。
授業が終わってすぐに、ユウジの席は三人のクラスメイトに囲まれた。
「久しぶりだな、お前学校休んで毎日何をしてるんだ?」
三人の中でもリーダー格の亮太がニヤニヤしながら吐き捨てるように言う。
ユウジは心の中に不安と恐怖を抱えながらも、彼らの言葉を無視し続けた。だが、ユウジを取り囲んだ三人はそれを許さなかった。
「さっきの食肉人間計画についてのレポート書いてくれないかな?もちろん俺たち三人分のレポートだ。どうせ、お前学校に来ないんだから暇だろ?」
ユウジは下を向いたままじっとしていたが、やがて三人はユウジの頬を引っ張ったり耳をつねったりし始めた。
それは暴行が始まる予兆を表している。ユウジが言う事を聞かなければ徐々に暴行をエスカレートさせていくのはいつものことだった。
「わかったよ。書くよ。レポート書くよ」
ユウジの声は上擦っていた。
「はぁ?きこえねぇよ」
亮太が俯くユウジの顔を覗き込みながら、相手を脅すような低く威嚇的な口調でそう言った。
「書きます。レポートは俺が書きます」
怯え、焦るようにユウジはそう返した。彼らは満足したように「さっさと書いて持ってこいよ」と吐き捨てるように言ってユウジの席を後にした。
三人分のレポートを書くということは容易なことではない。だが、書かなければ何をされるか分からなかった。以前、彼らからジュースを買ってくるように言われて無視した。そのせいでユウジは酷い暴行を受けた事があった。その時の恐怖が、彼らに逆らうというユウジの中の選択肢を塗りつぶしてしまっていた。
ジュースの件で逆らった日、亮太達はユウジの家に来てユウジを呼び出し、公園へ連れ出して暴行した。暴行は足と腹と胸に集中して行われた。それは他人に暴行がバレないようにという彼らなりの配慮であった。
亮太達は地元でも有名な不良グループだった。亮太自身は不良グループでも権力的には下の方なのだが、それでもこの学校ではデカイ顔をしていられた。
彼らが学校に来る理由は、ここで彼に逆らうものが居ないという優越感に浸る事ができるからだろう。
ユウジもまた亮太が優越感を得るための道具にしかすぎなかった。実際に彼らがレポートを提出しようがしまいが特に問題は無い。なぜならば、亮太の父親は町で一番の食肉人間加工工場の社長をしており、広く顔が利くらしい。もちろん先生達もそれを知っており彼を「触らぬ神にたたりなし」の神として扱っているのだった。
彼らの言う事を聞かなかったら何をされるか分からない。ユウジは放課後に学校のコンピューター室に籠ってパソコンでレポートを書き始めた。図書館で借りてきた「食肉人間計画と人類の歴史」という365ページからなる本からレポートに書けそうな部分を見つけ出して、適当に文章にまとめた。
食肉用人間の定義が書かれているところでユウジは目をとめた。
「食肉用人間とは下等遺伝子をもつ人間を指し、食用以外では経済的・社会的価値のない生命体のことである」
本にはそのような事が書かれていた。これは周知の事実であり、誰もがそれを知っていることである。
その本には食肉用人間がどれほど下等生物で人間とは異なる性質を持つ生命体なのかが延々と66ページから110ページまで書かれていた。
食用人間は通常の人としての倫理的な思考、道徳的感情などが欠落しており、社会適応能力がない。通常の人間に比べて食用人間が起こす犯罪は約7倍にもなる。これらはもうすでに社会的常識であった。
その他には食肉用人間が普及するまでの歴史とこれからの展望が書かれている。
それをパソコンでまとめ、三人分のそれぞれ異なるレポートを作り上げた。それらを教室の亮太の机の中に置いて学校を後にした。彼の机にそれを置いてきたのは、次の日も学校に行く気などなかったからだ。
図書室へ行き本を返そうとしたが、すでに図書室は施錠されており返却する事をあきらめて学校を後にした。
靴箱から靴を取り出し、履こうとしてしゃがんだ時、脇に抱えていた図書館の本を床に置いた。
スニーカーの解けた靴ひもを結び直しているとき、フッと床に置かれた本に目が行った。なにかがひっかかったのだ。
パラパラと何度かページをめくってみる。なにを気にしているのだろうか。それはユウジ自身にも分からなかった。
次の日、ユウジは昨日よりも早く家を出た。まだ、母親も寝静まっている時間帯だった。もちろん向かったのはあの森だった。
ユウジの心のすべては森の奥にいるあの女に浸食されてしまっていた。それは初めての恋であった。なにげなく寝転んで見上げた天井の白い壁や、窓を開けた時のひんやりとした風も、朝の光も、すべてが女を思い出させる要因となった。
関連など曖昧でよかったのだ、一つ一つの何気ない刺激があっさりと女の事をユウジに思い出させた。
女が何者で、いったいあそこがどんな学校なのか、エディエル様とはどんな神様を指すのか。そんなことはどうでもよかったし、考える暇も無かった。女の笑顔が胸の奥の方から湧き出しては、頭の中で何度も爆発を繰り返す。
その度に無意味なため息が緩んだ口元から這い出しては、当ても無く辺りをさ迷うのだった。
次の日の朝、ユウジは冷蔵庫から袋に入ったウィンナーを取り出して、ボイルしてからパンと一緒に口に運んだ。ウィンナーの袋には『お肉のやまむら』のロゴと笑顔の食肉用人間のキャラクターが印刷してあった。キャラクターは口を大きく開けて笑っており、二本の大きな八重歯が剥き出しになっている。さらに体中は以前に図鑑で見たニホンザルのように毛むくじゃらだった。
絶滅してしまった猿が生きていたら、きっと食肉人間と似ているのかもしれない。そういえば、昨日読んだ本に食肉用人間のルーツは猿だったなんて事も書いてあった気がする。
さらに、食用人間のルーツが猿だという証明がなされた化石も発見されたと書かれていたし、その頭蓋骨の写真も掲載してあった。
猿から進化したなんてなんて可哀想なのだろうか。ユウジはそう思い、自分が普通の人間であることに優越感を覚えた。
朝食を終えると、ユウジは静かに玄関から外へ出た。外は少し肌寒く感じるほどの気温だったが、その時のユウジには何も感じなかった。脳内を支配する女の笑顔が彼の五感を奪って行ったようであった。
静かで肌寒い森の中。フェンスの向こうに女はいなかった。女がいつも座っている椅子が寂しそうにたたずんでいるように見える。誰も座っていない椅子がこんなにも寂しモノだとは知らなかった。
ユウジはフェンスに手をかけて建物の敷地内を見回した。エアコンの室外機らしきものがフゥーっと静かに音を立てているだけだった。
少し早すぎただろうか。ユウジは女の椅子が目の前にある切り株に腰をおろして、小さくため息をついた。ため息は女の事を思えば思うほど深く濃いものになった。
いつの間にか座ったまま寝てしまっていたのだろう、ユウジが目を覚まし、顔を上げると目の前に女の姿があった。
「フフフフ」と柔らかな笑い声をあげてこちらを見ている。もし彼女が「実は私は天使よ」といっても、きっと疑う心などユウジの中には芽生えることはないだろう。女の言葉や笑顔は一瞬で疑う心を枯らし、まっさらなイノセントへと人を変えてしまうだろう。
ユウジは思考が曖昧なまま「君に会いたかったんだ」と小さく言葉を漏らした。自然に笑みがこぼれている。
「昨日は、どうしてこなかったの?」
女の唇が生き物のように優しく動いた。
その問いは、ユウジを幸せにしてくれた。女が、自分が来るのを待っていてくれたのだと思ったからだ。それが確かなことかどうかなど関係は無かった、ただ恋心がそれをユウジにとって都合のいい意味へと変えてしまっていた。
ユウジは昨日の事を簡単に話してから、どれほど女に会いたかったのかを切々と伝えた。 この曖昧で溢れだしそうな思いを言葉にして形にしなければ、いつかそれが自分のすべてを飲み込んでしまいそうでユウジは恐ろしかった。女に思いを伝える事で、それを回避できると思ったが、思いは一層に強くなるばかりだった。
この森と、ユウジと女を隔てるフェンスが彼を大胆にさせた。女性と上手く話す事さえできないユウジが、一人の女性に会いたかった思いを伝えた事など一度も無かった。だが、この女に対しては違っていた。自分のすべてを受け入れてくれる。ユウジはそう確信できたからこそ、素直になる事ができた。
「私もあなたに会いたかった」
女は確かにそう言った。ユウジにとってはこの世で最も美しい言葉のよう聞こえていた。
だが、次の言葉がユウジの頭の中で、何か不思議な迷路を作り上げて行く事になる。
「私ね、とうとうAランクに上がる事ができたのよ。私、Aランクストックになれたの。だから嬉しくて嬉しくてね、それをどうしても誰かに伝えたくって」
『Aランクストック』その言葉が、彼の左脳を素早く駆け抜けて行く。その言葉は昨日読んだ本の表紙を思い出させた。それから鮮明に、本の中で見た文章がよみがえる。ユウジの頭の中で誰かが握手したみたいに、何かと何かがギュッと繋がった。
そう、あれは本の中で見た。食肉用人間をランク付けしたABCの文字。
『Cランクストック―一般家庭用の食肉用人間で、多くは輸出されているが薬の人体実験に使われる事もある。加工前(生前)は体の機能に一部欠陥がある者や怪我で肉が傷ついたもの多い。
Bランクストック―飲食店や家庭で幅広く使われる食肉用人間である。臓器移植などにも使われる。病歴のない(軽度の疾患を除く)物に限り使用されている。
Aランクストック―この食肉用人間に関しては、限られた者の間でしか食す事を許されていない。一般で出回る事はほとんどなく、生まれた時よりAランクに上がる可能性のあるものを教育して生産する。もし、生育途中に病気を発症する、又は、その可能性がある場合はBランク及びCランクへ格下げされる。見た目も重視されるため怪我などで傷痕がある者も除かれる。
※ストックとは家畜を意味することばであるが、2067年以降は食肉用人間を指す』
本の中には確かにそう書かれていた。不思議とユウジは自宅に持ち帰ったあの本に書いてあったこの文章を何度も何度も読み返していた。さらに本のなかにはこんなことも書かれていた。
『主に、国際会議の場で食される事が多く。Aランクの食肉用人間を提供できる国は、経済的に優れた国である事が言える。国際人肉食会議では、32人のAランクストックの麻酔食いが行われた。
麻酔食いとは、麻酔をかけられたAランクストックが、意識のあるままに食されていくというものであり各国の要人たちの間では、最高の娯楽として知られている』
女の言葉が、その本に書かれていた文章をユウジの脳内から引っ張り出したのだ。
全身の毛穴が開き、汗がふわりと発汗し、森に蒸発していくと、全身を寒気が襲う。
そんなことがあるはずはない。本に書いてあるAランクストックと、女の言うAランクストックが同じはずがないではないか。ユウジはそう自分に何度も言い聞かせる。だが、一度脳裏をよぎった妙な胸騒ぎは収まらなかった。むしろ不安は足元からユウジを侵食し始めていた。
この建物を女は学校だといった。学校にしては、自分の知っているイメージとは大きくかけ離れている気がする。学校というより、工場だ。この辺りは工場地帯で、沢山の工場や倉庫が建っている。その建物達と同じ雰囲気を、この学校は醸し出していた。
ここに学校があるというのも不自然だった。その不自然さが、彼の不安をさらに煽る。
女に聞いえてみようと思った。そうすればすぐに疑惑は取り除かれるはずだ。ここは少し変わっているけれど、きっと学校なのだ。妙な宗教でエディエルという神を信じているようだが、ただそれだけの事だ。女の素晴らしさには変わりは無い。そう思う事でユウジは脳裏に抱いた不安を遠ざけようとしたができなかった。
それに、「もしかして君は食用人間ですか」なんて聞けるはずがなかった。そんな失礼な事を冗談でも言うものはいない。食用人間など下等生物なのだ。食べる以外に生きる価値など無い生命体なのだ。彼女がそれのはずがないとユウジは思っていた。世間一般で認知されている食用人間とは似ても似つかない。
思い立ったようにユウジは切り株から腰を上げて走り出した。
「どうしたの?」という女の問いかけに一瞬足を止めそうになったが、その言葉を振り払って足を進めた。腐葉土やそこから這い出た木の根に何度か足を取られそうになったが構わず走った。
フェンスに沿って建物の角を曲がった。建物には相変わらず窓は無く、いくつもの室外機が並んでいる。
やはり学校では無いのではないか。そんな不安が頭をよぎった。では、この建物が何だというのだ。
ユウジは木々を縫って走り、建物の表を目指していた。この建物の表側を見れば、この建物がいったいなんなのか分かるはずだ。
木々の間から森の外の光が見え、大きな車が走るような音と振動が伝わって来た。ユウジが森を抜けるとそこには大きな通りがあった。道を走っている車のほとんどは大型のトラックで、辺りに排気ガスと振動を振りまいていた。
辺りには工場が立ち並んでいた。建物からは、煙突がのびている。やはり雨雲製造機のように延々と灰色の煙を空に放っていた。
港の近くという事もあり、磯の香りもする。
ユウジは建物の方を見た。さっきと同じように窓は無かったが、赤く大きな文字で「お肉のやまむら」の文字が書かれていた。ユウジはその文字から目を話す事ができなかった。
頭が真っ白になったまま、建物の入口の辺りまで歩いていた。
入り口の門に「お肉のやまむら株式会社 食肉用人間生産施設」と書かれた鉄のプレートがはめ込まれていた。
気づくとまたユウジは森の中を走っていた。一度、土から這い出ていた木の根に足を取られ、派手に転んだがユウジはすぐに立ち上がり走り出す。手をすりむいた事や、頭や顔についた腐葉土など気にならなかった。
ユウジは女の所へと戻り、息を切らせながら女を見つめた。女はその様子を不思議そうに見ている。
「ねぇ、君ってさ。食用の……」
息を切らし、喉が枯れ果て言葉が続けない。
いや、そんなはずはない。なにかの間違いだ。女は自分をからかっているんだ。ユウジは自分にそう言い聞かせ、それ以上の言葉を飲み込んだ。
きっとここの職員なのだ。ここで働いているのだ。では、なぜいつもここで本を読んでいるのだろうか。きっと休憩時間だから違いいない。女が食肉用の人間のはずがない。ユウジはそう自分に信じ込ませようとしていた。
だが、真実はそうではないことを、ユウジの中にいるもう一人の自分は理解しかけていた。
息を整えて、口に溜まった唾液を飲み込み、喉の渇きを少しだけ潤した。
「君はもしかして、食用……?」
そこまで言ってまたユウジは唇をぎゅっとヘの字に結んだ。
「えぇ、私はエディエル様に仕える食用人間よ。世界中の人の飢えを救うために、神に選ばれた人間なの」
ユウジが言い終わる前に女は自慢げにそう答えた。誇り高き戦士であるかのような、そんな強い目をしていた。
「エディエル様って誰だい?」
「エディエル様を知らないなんて、あなた常識が無いのね。エディエル様は世界を救った御方よ」
女は眉間に皺をよせて、怒ったようにそう言った。それからエディエルという神について教えてくれた。
エディエルは世界の人々が飢えに苦しみ、餓死していった時代に天から降りてきて、自分の肉を世界の人々に分け与えた神だという。それが、2067年のことだそうだ。
人々が永遠に飢えに苦しまなくて済むように、エディエルは自分の子孫を地上へ残した。それが自分達のような食用人間だったと女は説明した。
ユウジは怖くて怖くてしょうがなかった。怖かったのは女の怒った表情では無い。エディエルなどいるはずもない神を信じ続ける女が怖かったのだ。
女は騙されている。そして洗脳されている。ユウジはそう思った。
2067年に行われたのは食肉人間計画だった。世界中で動物が死に食べるものを失った人間は、劣悪で人間として生きていけないような人種を食肉用に家畜として育成する計画を始めた。
姿かたちは人間に似ていても普通の人間として生きて行くには困難な人種で、食す以外には利用価値のない生命体である。これが、社会一般の常識である。女も同じようにその劣悪な人種なのだろうか。何かの間違いでここに居るのではないだろうか。ユウジが何度自問を繰り返しても、自答しなかった。答えてしまったら、自分が知っている世界をすべて否定してしまうような気がしたからだった。
食肉用人間がどんな姿をしているのか誰も知らないが、お店に並ぶ肉が詰められた袋には毛むくじゃらの人間が描かれていた。ユウジは勝手にそれを食肉用人間の姿としてイメージしてしまっていた。
今まで培われてきた食肉用人間のイメージと女が全く重ならなかった。だから、そんな考えも浮かんではこなかった。
「他の食用人間もここで一緒に暮らしているの?」
「そうよ。みんなエディエル様に愛される神の子よ」
「みんな、どんな姿をしているの?全身毛むくじゃらだったりする?すごく野蛮で攻撃的だったりする?」
ユウジの問いに彼女は少しだけムッとした顔を見せた。
「毛むくじゃらって、動物じゃあるまいしそんな事があるわけないじゃないの。エディエル様に仕える私たちだって同じ人間なのよ」
ユウジは女だけが特別な食用人間であると思いたかった。食用人間が女と同じように、そしてまた自分と同じように普通の人間である事を認めたくはなかった。
ユウジは女の言葉を信じるのを必死に拒否しようとしていた。今までTVや学校の情報から形成された食肉用人間とは異なるからだ。
ユウジもまた、メディアと学校の教育から食用人間とこの世の中のことについて都合の良い事実を植えつけられていた。歴史の教科書に書かれている事と一緒だ。強い者が自分達に都合のいいように事実を捻じ曲げられてしまっていた。
食用人間が普通の人間であるはずがない。それなら誰も人間の肉を食べたりしない。しかし、女が言っている事が真実なら自分達はいったい今まで何を食べていたのだろうか。そんな葛藤がユウジの中で続く。
不安がユウジに吐き気を催させる。
その時だったまたあのチャイムの音が辺りに響いてきた。女はスイッチが入ったように立ちあがり「御祈りの時間だわ」といった。
「まって!」
ユウジは金網のフェンスを掴んで叫んだが、女は笑顔で「また明日ね」と言って歩き出した。ユウジは女が歩くのに合わせて追って行こうと思ったが足が上手く動かない。
自分の足を見ると、小刻みに震えていた。それは恐怖に近い驚愕のせいだった。
体が動かないまま女が建物の角を曲がって消えるのを見送り、そしてユウジはゆっくりとその場に崩れ落ちた。
助けなくては。あの女を助け出さなくては。この世界から女を救いだす。心の底から湧きあがる正義感にユウジは満たされていた。
ユウジは家に戻ると父親が使っている工具箱を父の部屋から持ってきて中を漁った。昔、日曜大工にこっていた頃に使っていたもので、最近ではほとんど見た事も無かったがユウジの記憶の中ではハッキリとその存在を覚えていた。
箱の中から金属用の鋸とニッパを取りだした。あの建物の金網フェンスはそこまで厳重な物ではなかった。一般的で、学校や公園でも見る事のできるようなフェンスだった。
女は騙されている。あの子は普通の人間だったではないか。食用人間などでは無かった。おそらくあの建物の中で教育され、洗脳されているのだ。エディエルという神は「お肉のやまむら」が作り出したモノのはずだ。神という存在を作り出す事で人を従わせようとしているに違いない。そう思うとユウジの胸はぎゅっと締めつけられた。
ユウジは女を外へ連れ出して、世の中の本当の姿を見せる事ができれば、洗脳が溶けるかもしれないと思っていた。もう誰も飢えているものなんていない。飲食店では余った人食肉を簡単に捨てるし、スーパーでは320円で大量に販売されている。だれも肉を食べることに感謝している者なんていないし、ましてエディエルなどという神様もいない。
外の世界を知れば肉を差し出す事がどれほど価値のない物かを知るはずだ。女が食肉用人間でなくてはならない理由などないではない。それに気づかせてやることができるとユウジは思い、女を助け出す事を強く心に決めた。
太陽が昇り始めると、木々の間から柔らかな光が漏れてきた。ひんやりとした空気を太陽に温められていく。
ユウジは女がいつも座っている椅子に腰をかけて、女が来るのを待っていた。
フェンスは人が一人通れるくらいに切り取られている。彼の手には金属用のこぎりが握られていた。昨日の晩にもう一度ここへきてフェンスを切って中に入りずっと女を待っていたのだ。
女は必ず感謝するだろう。外の世界を見て、そして女が騙されている事を知った時、洗脳が解けた時、助けた自分を愛するに違いない。命の恩人として自分の事を敬ってくれるに違いない。ユウジはそう確信していた。
時間がひどく長く感じられた。ユウジはなんどもなんども携帯を取り出しては時間を確認した。これほど時間を長く感じた事など無かった。一分が酷く長い時間に思えて、一時間経つことなど一生あり得ないのではないかとさえ思えた。
建物へ乗り込んで女を助けようという考えは無かった。それは確実性を欠く事がわかっていたからだ。捕まってしまっては女を助けられないし、自分も食用人間として皮を剥がれ、小さく切り刻まれてスーパーに並ぶ事になるかもしれない。
女を助けたいという気持ちは強かったが、死にたくは無い。だから、ひたすらに女が来るのを待っていた。
建物の角から女が現れた時、酷く驚いたような表情をしていた。
木々の間がから洩れた光の線が女の顔を照らし、それが神秘的で美しかった。
いますぐ自分の物にしたい。もう二人を遮るフェンスは無い。走って行って女を抱きしめたい。それを女も望んでいるとユウジは思い込んでいた。
だが女は逃げだしたのだ。ユウジは反射的に彼女の後を追い建物の角を曲がった。女の走る後ろ姿を見つけ、ユウジはさらにスピードをあげる。
ユウジと女の間はすぐに縮み、簡単に追いついてしまった。女の手を握った瞬間に、女は「きゃー」という悲鳴を上げた。逃げ出すことと叫びをあげることはユウジの予想の範囲には無い行動であった。
女はそのまま地面に倒れ込み、這いながら逃げるように暴れていた。女の掌と顔の辺りに血がついているのが見えた。どうやら転んだ時に地面に落ちていた石で切ったようだ。
「聞いて欲しい。君は騙されている。エディエルなんて神はいないんだよ」
ユウジは叫ぶようにそう言った。
「ここに入って来てエディエル様を侮辱するってことは、あなたは悪魔だったのね。先生達が言っていたわ!この敷地内に入って来るものは嘘をついて私たちを惑わす悪魔だって。あなたがそうだったのね!」
「なにを言っているんだ。とにかくここを出て外の世界を見るんだ。そしたらすべて分かる。エディエルなんて神もいないし、食肉用の人間がもう世界を救うことなんてないんだ。飲食店やスーパーではいらない肉を簡単に捨てる。誰も食肉用人間に感謝なんてしてないんだよ。Aクラスストックだって、お偉いさん達が、楽しむためだけに生殺しにする食肉用人間の事なんだ」
「この悪魔!手を離して。私は騙されたりしないわ。私は世界の人々に喜んでもらうために生まれてきて、食肉用の人間として世界の人々のお腹と心を満たすために食べられるのよ。世界の人々の血と成り肉と成ることが私の夢なの。離して!」
彼女は激しく暴れた。女の足がユウジの膝を直撃した。
「ヴヴゥ」という声をあげてユウジはその場に倒れ込む。
彼女の洗脳は完璧なものだった。もし、女に真実を吹き込む者が居ても、それを言う人間は悪魔だと教えこまれている。そして、食用人間が高貴な使命を持って生まれてきていると教えこまれている。
ユウジはもう女を追うことはしなかった。女をここから連れ出すことはできないのだと確信したからだ。
女の揺れる後ろ髪を目で追うと、さらに愛おしさが膨らんでいく。女の洗脳を自分なら解き放つ事ができるとユウジは信じていた。女は自分の言葉を信じてくれると確信していた。だがそれこそが哀れな幻想だったのだとユウジは気付いた。
どれくらいの間、そこに座りこんでいたのか分からない。気づくと数人の警備員に囲まれていた。肩を掴まれ、ユウジは無理やりに立たされた。抵抗などしなかった。
自分はいったい今まで何の肉を食べていたのだろうか。あの女のような普通の人間を食べていたのだろうか。教育によって自分達は食肉用人間を食べる事を当たり前のこととすりこまれ、食肉用人間は食べられることを素晴らしい事だとすりこまれていた。現実はこんなにも違うというのに。
だが、社会が作り上げた嘘はお互いを傷つけない領域で保たれていた。食肉用人間を悪とすることで自分達は人間を食べているのではない、罪悪感など必要はないと思う事ができていたのだ。
もし、女のような普通の人間を食べている事を知ってしまったら、多くの人は罪悪感にさいなまれるだろう。それを和らげるための嘘を世界はついていた。
彼女達にも同じように嘘がつかれた。食肉用人間を教育する事で、食肉用の生物として生きて行く事への不満を覚えさせないための嘘だ。
嘘はお互いの中で真実へと変化し、一定の境界線を引いていた。もしそれを破ってしまったら、均等は崩れてしまう。真実を知り人間を食べなくなれば多くの人が動物性たんぱく質を摂取できなくなり病気が蔓延するかもしれない。食肉用人間に関しては、自分達が食肉用の人間として育成されることに不満を覚え抵抗するかもしれない。
多くの利益のために嘘が生まれ、そして一種の真実へと姿を変えた。社会へ根づき、一つの形として生成された。それは多くの人間を守り、多くの人間を犠牲にする。だがそうしなければ、人は生きてはいけないのだ。誰かが犠牲にならなくてはならないのだ。
ユウジはもう二度と肉を口にはできないだろうと思った。
女の事を思い出してしまうのが恐ろしい。きっと女は多くの人の前で体に麻酔をかけられ、肉を切り刻まれるのだろう。生きたまま目の前で自分の肉を食べられるのを見るのだろう。そして幸せに満たされた中で死んでいくのだ。
ユウジは捕まり、独房へ入れられていた。
鉄格子の入った小さくて四角い窓が、天井近くにある。両手を広げれば壁に手がついてしまうほど狭い。
鉄格子の窓からは淡く優しい月明かりが流れ込んでいた。明りは、やせ細り今にも朽ち果てそうなユウジの足を照らしている。ユウジは壁にもたれかかったまま、その枝のような足を見ていた。
死が徐々に近づいてくる事に恐怖心は不思議と無かった。
ここに閉じ込められた当初は、独房の闇に塗りつぶされた壁に浮かぶのはいつもあの美しい女の横顔だ。
女にあってお喋りがしたい。
そうすれば今の辛い事などすべて忘れられる気がする、そうユウジは信じていた。
だが、今となっては女がどんな顔をしていて、自分にどんな笑顔を向けてくれたのかもユウジは覚えていなかった。
そして、今ユウジの頭のなかを旋回ものは食べ物の事だけだ。
口に入る物なら何でもよかった、虫でもハ虫類でもいい。昔図鑑で見たカブト虫の姿を思い浮かべた。あれは美味しいのだろうか。堅そうな体だったが、きっとあの体の奥には柔らかな繊維が隠れているのだろう。ユウジはそんな事を考えながらうっすらと月明かりに照らされた壁にその妄想を投影していた。
口にできるものならなんでもよかった。ユウジは空想しながら顎を動かし咀嚼するそぶりを見せたが、空腹感が増すだけだった。
ユウジはもう30日以上も水以外を口にしていない。目元は陥没したようにへこみ、頬は薄黒く淀んでいる。胸の肋骨はハッキリとした起伏をむき出しにして、今にも彼の胸から飛び出そうとしているようだ。さらに全身の皮が剥け始め、全身に白い粉をかけたかのようだった。横たわったユウジの姿は、まるで一本の木の枝だ。
空腹などもう完全に通り越してしまっていた。自分の排泄物を食べる事もあったが、吐いてしまうのがほとんどだった。壁に生えたカビなのかコケなの分からないような物を口に運ぶ事もあった。
たまたま天井付近にある窓からハエが入って来る事もあった、ユウジは必死に目を見開いて追い掛けて、捕まえては躊躇せずにそれを胃の中に流し込んだ。それでもユウジの胃袋は満たされる事は無かった。
「なにか、何か食べたい」
口から出るのはそんな言葉ばかりだ。
呪文のように繰り返す。
時に発狂したように叫ぶ事もあったが、体力を失った彼の体はすぐに冷たい床へと倒れてしまう。
ついには女を助けようとした事や、社会に対して疑問を持ってしまったことすらも間違いだったのではないかと思うようになり始めていた。
何故あのような事をしたのだろうかと、彼は静かな独房の中で悲鳴を上げるように泣いたが、それも長く続かない。
時折、目の前に短い蝋燭が見える事があった。今にも消えてしまいそうな蝋燭だ。きっとこれは自分の寿命なのではないかとユウジは悟った。
もうすぐ、自分の命も消えてしまうのかと思うと、悲しみと恐怖で涙がこぼれ、カサカサに乾いた肌を少しだけ濡らした。
鉄格子の窓から強い日差しが差し込み、独房の中を柔らかな光が包み込む頃に、ユウジは目を覚ました。
また朝が来た。
昨日と同じ恰好のまま、冷たい独房の床に体を倒している。
ユウジは自身の体が冷えている事などに関心はなかった、できるだけ早く死んでしまえた方が楽だとさえ考えていた。
独房の厚い扉の向こう側で誰かの足音がする。それはユウジを担当している看守の足音だ。毎朝、看守の男は水を一杯だけプラスチックのコップに入れて独房の鉄扉を開ける。
初めは逃げだそうとその看守に体当たりした事もあったが、大きなその体を倒すことはもちろん少しも動かす事ができなかった。
その後はその看守から酷い体罰を受けてしまい、それ以来恐怖からユウジはその男と目を合わすことさえできないでいた。
厚い鉄の扉がゆっくりと開く。今日も看守が水を届けに来た。そう思っていたのだが、その日は違った。
扉が開いた瞬間に、独房の中が食欲を刺激する肉の香りで満たされた。その香りに胃が最初に反応し、熱い胃酸を放出し始めるのがわかった。続いて全身に張り巡らされた血管を、血液が恐ろしいスピードで駆け巡るのがわかった。
気付いた時には、ユウジは看守めがけて飛びかかっていた。いや、正確には看守が持ってきたトレイの上に乗せられている皿をめがけてだ。
それは肉だった。
一瞬で独房の中を駆け巡り、血管がはち切れんばかりに血液を暴走させたその香りは、肉の香りだった。
ユウジが飛びかかった瞬間、看守はその大柄な体には似つかわしくない高い声で何かを叫んだ。だが、ユウジの耳には届かなかった。
トレイごと床に転がったそれをユウジは狂った獣のように食らった。固い筋を引き千切り、口の中で咀嚼する前にのみ込んだ。
一瞬で肉はユウジの胃の中に姿を消した。胃の中で胃酸が肉を溶かしていく。
体全体の温度が上昇し、力がみなぎっていくような感覚だった。
ユウジが肉を食べ終わるのを待って看守は彼の耳元に口を近づけて言った。
「美味しかったか」
フゥフゥという声をあげてユウジは看守の服を掴んだ。
「もっと食わせてくれ」
肉の脂で口は潤ったが、長く声を出していなかったために、嗄れたようなガラガラの声が出た。
「それ、誰の肉だと思う」
看守は不愉快な笑みをこぼしながらそう言った。ユウジは看守の言っている意味が分からなかった。それにそんなことはどうでもよかった。とにかくもっと肉が食べたいという欲求が湧き出してくる。
「お前が29089番を連れ出そうとしたのは猥褻目的だったって言う奴もいるが、本当は恋心を抱いていたんじゃないのか?そうだろ?俺はそう思っているんだ。もしそうだったら面白過ぎるよな。だって好きな女の肉をお前は食っているんだぜ。どんな気分だ?」
29089番の意味はすぐに分かった。あの女の事だ。
ユウジは女の名前を聞いた事が無かったことにその時気付いた。恋心が彼を支配していた。それは、彼から正常なコミュニケーションを奪っていた。恋しているという事実に舞い上がり、相手の事など何一つ考えていなかったのだ。
もっと早く女のことについて気づいていればこのようなことにはならなかったのだろう。
そして先ほど胃の中へ消えた肉はあの女の肉だったのだ。やわらかく、優しい肉だった。
だが、なぜあの女の肉を自分が食べたのだろうか。その疑問は看守が解き明かしてくれた。
「お前が29089番の顔を傷つけたせいで、Aランクじゃ使い物にならなくなっちまってよ。そのせいで精神的までおかしくなって、やせ細りやがってな、Cランクまで落ちてしまったのさ。ずっとAランクを夢見て頑張って来たのにな。可哀想に。29089番はずっと悪魔のせいだって嘆いていたぜ。お前さんはよぉ、自分の価値観を押し付けてあの女の夢を奪ったのさ。食われる事が最大の幸せだったっていうのに、身勝手な行動でお前はあの女のすべてを奪ったんだ」
看守はまた卑屈な笑みを浮かべてユウジを見下ろした。
不思議と悲しみは浮かんでこなかった。むしろユウジは妙な高揚感に抱かれていた。彼女がこの中に居るのだと気づいて胃をさする。自然と笑みが漏れ、体が歓喜に震えた。ずっと欲しかった彼女が自分の中に居るのだ。気づくとユウジは勃起していた。
「ちょっと前にも、お前みたいに工場の職員が食肉用人間に恋心抱いちまってよ。その女を犯しちまったんだ。もちろんお前と同じようにここで罰を受けたし、女の肉も食わせてやった。そしたら、そいつ頭おかしくなってな。あれは見ていて傑作だったぜ。それでよ、そいつどうなったと思う?」
看守はユウジの所々抜けた髪を掴んで頭を
持ち上げた。ユウジと看守の目があった。看守はニヤリと笑った。看守は前歯が一本欠けており、その奥は真っ黒だった。看守の不気味な笑みは何かを期待するような怪しげな笑みだった。
ユウジが解放されたのはそれから数日後のことだった。何故、解放されたのか理由は分からない。解放されたユウジは家には戻らなかった。彼の消息を知る者は誰もいない。
『最近、光が丘で起きている事件を皆さんご存知ですか?』
テレビの司会者が眉間にしわを寄せてそう言った。
『あぁ、あれでしょ?女性を襲ってその肉を食べる変質者がいるって』
コメンテーターの男性がそう言った。
『いったいどんな変態がこんな事件を起こしているのでしょうかね?』
コメンテーターの女性がそう言った。
『人間と食肉用人間の違いもわからないのでしょうか。おそらくしっかりとした教育を受けていない反社会的な人間が犯人だと思います』
またコメンテーターの男性がそう言った。
「なるほど、そうですね。やはり教育はしっかりとして、反社会的な人間を生まないようにしなければいけませんね」
司会者が言う。
「えぇ、近年教育の質が落ちているようですし」
コメンテーターの女性が言う。
ユウジは一人暮らしの女性の家でそのテレビを見ていたが、すぐに電源を落とした。
目の前の肉に集中したかったからだ。
あの日以来ずっと彼女を追い求めていた。彼女のような肉をもう一度、胃が欲していた。だが、まだ一度もあの時の高揚感や満足感を感じることはできていない。
目の前に転がる女性が、自分の追い求める肉体ではないという事に気づくと、彼は女性の家を出てまた次の肉を探し始めるのだった。






