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婚約破棄? 責任者をお呼びしますわ 〜スキル《呼び鈴》で王宮が大変なことになりました〜

作者: 桜めんと
掲載日:2026/05/17

【連載版】を始めました。

連載版のアドレスはこちらになります。

https://ncode.syosetu.com/n2826mf


よろしくお願いいたします!


   

   

 

「レイベルナ・ファリス。私は今宵、この場をもって、君との婚約を破棄する!」


 王宮の大広間に、第一王子エドガルの声が響いた。


 春の祝宴。

 国王夫妻が諸侯をねぎらい、各地の収穫と平穏を祝う夜も終わりに差し掛かっていた。


 天井の魔晶灯は白金色に輝き、磨かれた床には花の模様が映っている。

 楽団は演奏を止め、貴族たちは扇や杯を持ったまま固まり、誰もが大広間の中央を見ている。


 そこにはエドガル王子がいた。

 その腕には、淡い桃色の髪を揺らした子爵令嬢ミレーヌ・モーントが寄り添っている。


 そして少し離れた場所に、レイベルナ・ファリスは立っていた。


 公爵家の長女。

 第一王子の婚約者。

 今日までは、そう呼ばれていた令嬢である。


 淡い青のドレスの裾を整え、レイベルナはゆっくり膝を折った。


「承りました。理由を伺ってもよろしいでしょうか」


 声は乱れなかった。


 その冷静さが気に入らなかったのか、王子は眉を吊り上げた。


「理由だと? 自分の胸に聞くがいい。君は冷たい。可愛げがない。婚約者でありながら、私を支えるどころか書類だの規則だのと口うるさいことばかり言う」


 ミレーヌが王子の袖をそっとつかんだ。


「殿下……レイベルナ様を、そんなふうに責めないでください。私のせいで……」


「君は悪くない、ミレーヌ。悪いのは、君を傷つけたこの女だ」


 大広間に小さなどよめきが走った。


 レイベルナは目を伏せなかった。


「私がミレーヌ様を傷つけた、と」


「そうだ。君はミレーヌの家の借金を調べ上げ、帳簿を送りつけ、侮辱した。王子の婚約者という立場を使って、か弱い令嬢を追い詰めたのだ」


「借金の確認は、王太子執務室の封蝋つき支払い保証が出回っていたためです」


「ほら見ろ! すぐにそうやって書類の話をする!」


「支払い保証は書類でございますので」


 どこかで、誰かが咳き込んだ。


 笑いをこらえたのかもしれない。


 王子の顔が赤くなる。


「黙れ! だいたい君には王子妃としての華がない。授かったスキルも、ただの《呼び鈴》ではないか!」


 その言葉で、広間の空気がわずかに緩んだ。


 貴族たちの中に、昔の噂を思い出した者がいたのだろう。


 呼び鈴令嬢。

 鈴の姫君。

 鳴らすだけの婚約者。


 レイベルナが一生にひとつだけ授かったスキルは、《呼び鈴》だった。


 神殿で授かった日、彼女の手には小さな銀の鈴が現れた。丸く、軽く、指先で揺らすと――チリンと可愛らしい音が鳴る。


 ただ、それだけ。


 侍女を呼べるわけでも、魔物を退けるわけでも、花を咲かせるわけでもない。


 幼かったエドガル王子は、その鈴を見てこう言った。


「……ずいぶんとみすぼらしいスキルだな」


 笑っていた。

 その目に浮かんだ嘲笑と落胆を、レイベルナは今でも思い出せる。


 それから何年も、彼女は学び続けた。


 礼法。

 法律。

 王家の系譜。

 領地経営。

 国庫の流れ。

 交易品の相場。

 各貴族家の利害。

 外交文書の読み方。


 スキルが駄目なら、知識で補えばいい。

 恥ずかしくない自分になればいい。


 ずっとそう思って努力してきた。


 だが今、王子はその努力ごと、広間の中央で踏みつけようとしている。

「ミレーヌのスキルは《癒し花》だ。傷をふさぎ、疲れた者の体を楽にする。人を救える力だ。鈴を鳴らすだけの君とは違う」


 ミレーヌは涙ぐんだ瞳で王子を見上げた。


「殿下……私、そんな立派な者では……」


「謙遜しなくていい。君の力には、実際に救われた者がいる。夜会で倒れた令嬢も、訓練で怪我をした騎士も、君が手を取れば笑顔を取り戻す。王子妃にふさわしいのは君だ。レイベルナではない」


 人を癒やす力が尊いことは、レイベルナにも分かっていた。


 可憐な名前に反して、《癒し花》は王宮でも十分に重宝されるスキルだ。傷を治し、痛みをやわらげ、疲れた体を支える。王子が誇らしげに語るだけの価値はある。


 だが、傷を癒やせることと、責任を取れることは別の話だった。

 王子は勝ち誇ったようにレイベルナを見た。


「分かったか、レイベルナ。君のような冷たい女は、王家に必要ない」


 広間の端で、近衛騎士のひとりがわずかに眉を動かした。


 セドリック・オルブライト。

 近衛騎士団の若き副隊長で、王族警護の場ではいつも無駄口を叩かない男だ。黒髪を後ろで束ね、背筋はまっすぐで、剣の柄に置いた手に浮つきがない。


 彼は王子を見ていた。

 それから、レイベルナを見た。


 同情ではない。

 興味でもない。

 ただ、何が起きているかを見極めようとする目だった。


 レイベルナはその視線に少しだけ救われた。


 そして、右手を開いた。


 銀の鈴が現れる。

 大広間のあちこちで、含み笑いが漏れた。


「出ましたわ」

「令嬢の呼び鈴よ」

「この場で侍女でも呼ぶのかしら」


 レイベルナは王子に向き直った。


「殿下」


「何だ」


「婚約破棄は、王家と公爵家の正式契約を解除する重大な行為でございます。この場の責任者をお呼びしてもよろしいでしょうか」


 王子は鼻で笑った。


「好きにしろ。誰を呼んだところで、私の決定は変わらん」


「ありがとうございます」


 レイベルナは微笑んだ。


 そして、鈴を鳴らした。


 ――――チリン。


 可愛らしい澄んだ音が広間に落ちる。


 次の瞬間、大広間の中央に国王が現れた。


 絹の夜着に濃紺のガウンを羽織り、片手には読みかけの政務書、もう片手には銀縁の眼鏡を持っている。足元は室内履きのままだった。


 大広間が凍った。

 王子も凍った。


 国王だけが、数秒ほど状況を理解できずに瞬きをした。


「……なぜ私は祝宴の中央で寝間着なのだ?」


 とても低く、重い声だった。

 寝間着でも国王は国王だった。


 諸侯が一斉に膝を折る。

 レイベルナも深く礼をした。


「陛下。夜分に失礼いたします」


「レイベルナ嬢か。私は確か、祝宴の挨拶を終えて、執務室で西部砦の報告書を読んでいた」


 国王の視線が王子へ向く。


「エドガル。説明しろ」


「ち、父上、これは、その」


「なぜ私はここにいる」


 レイベルナは静かに答えた。


「殿下がこの場で、私との婚約破棄を宣言なさいました。王家と公爵家の婚約契約における最終承認者は陛下ですので、私のスキルが陛下をこの事態の『責任者』としてお呼びしたものと思われます」


 国王の眉間に深いしわが刻まれた。


「……婚約破棄だと?」


 王子の喉が鳴った。


「ち、父上、これは私の意思です」


「お前の意思だけで王家の婚約を破棄できると、誰に教わった」


 王子は答えられなかった。

 レイベルナは鈴をそっと持ち直した。


「殿下、落ち着いてくださいませ。まだ一度しか鳴らしておりません」


「おい、レイベルナ、鳴らすな!」


「では、婚約破棄もおやめになります?」


「それとこれは別だ!」


「では、別の『責任者』を確認いたします」


「やめろと言っている!」


 ――チリン。


 王子の声を追い越すように、鈴が鳴った。


 今度は大広間の入口付近に王妃が現れた。


 深紫の夜会着に白い肩掛けをまとい、手にはまだ茶器を持っている。どこかの控室で諸侯夫人と茶を飲んでいたのだろう。湯気が細く立っていた。


「……まあ?」


 国王を見た。

 大広間を見た。

 膝を突く諸侯を見た。

 そして、王子の腕にすがるミレーヌを見た。


 王妃の目から、すっと温度が消えた。


「エドガル」


 その声は静かだった。

 静かすぎて、広間の温度が一段下がった気がした。


「あなた、何をしましたの?」


「母上、これは誤解で――」


「私がここに呼ばれている時点で、誤解では済みません」


 王妃は茶器を近くの侍女へ渡した。

 侍女は震える手でそれを受け取る。


「レイベルナ嬢。私が呼ばれた理由を」


「王太子妃教育の監督責任者は、王妃陛下でいらっしゃいます。先ほど婚約破棄を宣言されてしまいましたのでお呼びしました」


「監督責任者、ええ、その通りよ。そして婚約破棄……?」


 王妃はゆっくり王子へ向き直った。


「私が長年目をかけてきたレイベルナ嬢を、公衆の面前で侮辱したのですね」


 ミレーヌの肩がびくりと跳ねた。


 王妃の視線がそちらへ流れる。


「そちらのお嬢さんは?」


「ミレーヌ・モーント子爵令嬢でございます」


「私が知らないということは、エドガルの腕に触れてよい立場ではありませんね」


 ミレーヌが慌てて手を離した。


 王子は一歩前に出る。


「母上、ミレーヌを責めないでください。彼女は純粋で――」


「本当に純粋な方は、他人の婚約者の腕に祝宴の中央ですがりません」


 扇がどこかでぱたりと落ちた。


 ミレーヌの顔が真っ赤になり、すぐ青ざめた。


「もういいだろう」


 王子は苦し紛れに声を上げた。


「父上と母上が来たなら十分だ」


「いいえ。殿下は私がミレーヌ様へ嫌がらせをしたとおっしゃいました。その告発にも『責任者』が必要です」


「ひ、必要ない! やめろ!」


「公爵家令嬢への名誉毀損ですので」


 ――チリン。


 次に現れたのは、王子の教育係だった。


 白髪交じりの老学者で、片手に分厚い本、もう片手に赤ペンを持っている。

 頬にはインクがつき、寝る前まで答案を直していたらしい。


「な、何ですかな。私は今、採点の途中で――」


 老学者は大広間を見回した。


 寝間着姿の国王。

 静かにこちらを見ている王妃。

 大広間の中央に立つ王子。

 その腕にすがるミレーヌ。

 そして、銀の鈴を持つレイベルナ。


 老学者の顔から、すっと血の気が引いた。


「……殿下」


「先生、これは違う!」


「違いません」


 老学者は即答した。


「この空気、この立ち位置、この顔ぶれ。王家の婚約解除手順を無視した時に起きる最悪の例として、私が授業で三度説明した状況そのものです」


 広間がざわめいた。


 老学者はその場で深々と頭を下げた。


「陛下。王妃陛下。申し訳ございません。これは間違いなく、私の教育不足でございます」


 国王が低く言った。


「まだ何も聞いておらん」


「王家の婚約解除手順、王太子権限、国庫予算、私的署名、公的告発の危険性。すべて三年前から教えております。ですが殿下は、契約や署名に関する試験で、50点満点中4点でした」


「先生!」


 王子が叫ぶ。

 老学者は悲しそうに首を振った。


「殿下。今の叫び方で、追試の礼節点も失いました」


「今ここで採点するな!」


「採点せずに済む段階は、婚約破棄を宣言する前に終わっております」


 老学者は分厚い本を抱え直し、王子をまっすぐ見た。


「私は何度も申し上げました。署名は剣より重いのです。婚約も、借金保証も、王家の印も、軽く扱ってよいものではございません」


「借金保証?」


 国王の声がさらに重くなる。


 王子の顔が引きつった。


 レイベルナは鈴を胸の前に持つ。


「その件につきましては、財務上の責任者をお呼びした方が早いかと」


「待て、レイベルナ」


 王子の声が裏返った。


「はい」


「待てと言った」


「待っております」


「その鈴を下ろせ!」


「下ろしますと、責任者を呼べません」


「呼ぶなと言っている!」


「では、ミレーヌ様のご実家への支払い保証を、殿下がこの場で取り消してくださいますか」


 王子は黙った。


 ミレーヌが彼の袖をつかんだ。


「殿下……」


 その沈黙が答えだった。


 レイベルナは鈴を鳴らした。


 ――チリン。


 財務卿が現れた。


 寝間着の上に毛布を羽織り、腕には灰色の猫を抱いている。どうやら自宅で、寝る前の確認書類を片づけていたところらしい。


 猫は強い光に目を細め、財務卿の胸元で迷惑そうに鳴いた。


「なっ、何事ですかな!? 私は今、寝る前に猫へ挨拶を――陛下!?」


 財務卿は国王を見て固まり、王妃を見てさらに固まり、最後に大広間の中央に立つ王子とミレーヌを見た。


 それから、銀の鈴を持つレイベルナを見る。


「……まさか、金ですか」


 レイベルナは静かに頷いた。


「はい。モーント子爵家の借金について、王太子執務室の支払い保証が出ている件です」


 財務卿の顔から、眠気が完全に消えた。


「金ですね」


「はい」


「猫を置きます」


 財務卿は近くの侍女に猫を預けようとした。


 だが、猫は財務卿の袖に爪を立てた。


 国王は財務卿を見た。


「その猫も責任者か」


「いえ、これは私の睡眠の責任者です」


「置け」


「はい」


 財務卿は猫の前足をそっと外そうとしたが、猫は不満そうに「みゃ」と鳴いた。


 王妃が淡々と言う。


「猫は無罪です。先に報告を」


「承知しました」


 財務卿は猫を抱いたまま、毛布を肩から落とした。


 その顔は、もう眠る前の老人ではなかった。国庫の金を預かる者の顔だった。


「殿下」


「財務卿、誤解だ」


「金の誤解は、たいてい誤解ではございません」


 財務卿はかけていた毛布の下から、折り畳まれた薄い覚え書きを取り出した。


「正式な帳簿ではございませんが、寝る前に確認していた未決案件の控えです」


 財務卿はそこに並んだ短い記録へ目を落とした。


「モーント子爵家への支払い保証、三通。殿下の私的署名、三つ。王太子執務室の封蝋、三つ。ついでに私の頭痛、三日分です」


 王子の顔が引きつった。


「正式な王家保証ではないだろう!」


「はい。正式な王家保証ではございません」


 王子がほっとした顔をする。


 財務卿は続けた。


「ですが、正式でなければ問題ない、という話ではございません。殿下の私的署名と王太子執務室の封蝋を用いた支払い約束状が、商会側へ渡っております。受け取った商人が王家の支払いと誤認するには十分です」


 王子の顔がまた凍った。


「私的ならよい、という話ではありませんね」


 王妃の声が刺さる。


「はい。特に一通は、西棟結界修繕費の仮払金と同日に作成されております。現在調査中でしたが、どうやら宴遊費へ一部流れた疑いがございます」


「財務卿!」


 王子の叫びは悲鳴に近かった。


 財務卿は猫を抱きしめたまま、情けない顔をした。


「殿下、私も呼ばれたくて来たわけではございません。猫も寝ておりました」


 猫が「みゃ」と鳴いた。


 緊張しきった広間に、妙な笑いが漏れた。


 レイベルナはその隙にミレーヌを見る。


「ミレーヌ様」


「な、何でしょう」


「先ほど、私はあなたのご実家の借金を調べたことで、嫌がらせをしたと告発されました。ですが王子殿下の署名が使われていた以上、確認は必要でございました」


「私……そんな大きな話だなんて、知らなくて」


「では、どなたに勧められて支払い保証を使いましたか」


「お父様が……王子殿下にふさわしい装いをしなければ、皆に軽く見られるって」


「なるほど」


 レイベルナは鈴を見下ろした。


 王子が首を振る。


「もう呼ぶな。本当にやめろ。会場がめちゃくちゃだ」


「殿下」


「何だ」


「めちゃくちゃになった責任者も、必要でしたらお呼びできます」


「呼ぶな!」


 大広間の数か所から、明らかに笑いが漏れた。


 国王は笑っていなかった。

 王妃も笑っていなかった。

 財務卿の猫だけが、退屈そうにあくびをしていた。


 レイベルナは鈴を鳴らした。


 ――チリン。


 今度は小柄な宝飾商が現れた。


 派手な緑の寝間着の上に外套だけを羽織り、片手に帳簿、もう片手に羽ペンを握っている。現れた瞬間に貴族の群れを見て腰を抜かしかけた。


「ひっ」


「お久しぶりです、マルタン商会長」


「あ、レイベルナ様。これは一体」


「モーント子爵家の未払いについて、こちらで確認が必要になりました」


 商会長の顔が商人のものに変わる。


「未払い総額は金貨834枚。うち半分近くが、ミレーヌ嬢の装飾品、夜会衣装、香水、観劇席の手配でございます。支払い保証として、エドガル殿下の『署名』入り書状を受け取っております」


 大広間がどよめいた。


 金貨834枚。

 下級貴族家なら屋敷ごと傾く額だ。

 ミレーヌが震える。


「そんなに……?」


 その反応を見て、レイベルナは少しだけ目を細めた。

 知らなかったのかもしれない。

 あるいは、知ろうとしなかっただけかもしれない。


 どちらにせよ、彼女はただの悪女ではない。

 だが、ただの被害者でもなかった。


「ミレーヌ様。あなたが何を知り、何を知らなかったかは後で確認されるでしょう。今ここで大事なのは、殿下の署名が借金に使われた事実です」


 ミレーヌはうつむいた。


「……はい」


 そのときだった。


 大広間の魔晶灯が、一斉に揺れた。


 白金色の光が青く濁る。

 床の花模様が歪み、窓の外で低い風が鳴った。

 セドリックが剣の柄に手をかける。


「全員、壁際へ」


 短い声だった。

 次の瞬間、西側の大窓が内側へ砕けた。


 悲鳴が上がる。

 冷たい夜風とともに、黒い影が飛び込んできた。


 狼に似ていた。

 だが、普通の狼ではない。


 背中から煙のような毛が立ち上り、赤い目が暗く燃えている。四肢が床に触れるたび、磨き抜かれた石がじゅうっと黒く焦げた。


「あれは、影狼だ!」

「なぜ王城に!」

「結界はどうした!」


 近衛騎士たちが一斉に前へ出る。

 セドリックはレイベルナの前に立った。


「下がってください」


「私は」


「議論は後です」


 彼は剣を抜いた。

 影狼が吠える。

 その声に、何人かの貴族がその場に崩れ落ちた。恐怖を直接胸に押し込まれたような音だった。


 王子はミレーヌの腕をつかんで後ずさる。


「レイベルナだ! あの鈴だ! あれが人を呼ぶなら、魔物も呼んだに違いない!」


 視線が一瞬、レイベルナへ集まった。


 セドリックが即座に言った。


「違います。魔物の侵入は鈴より前に始まっています。西窓の外の結界光が少し前に落ちました」


 レイベルナは彼の背中を見た。

 この混乱の中で、彼は見ていた。

 誰が叫んだかではなく、何が起きたかを。


「ありがとうございます」


「礼は後です。下がってください」


「いいえ。ここで下がると、殿下の発言が事実のようになります」


 セドリックが一瞬だけ振り返った。


「今、それを気にしますか」


「はい。大事ですので」


 彼はほんのわずかに目を細めた。

 呆れたのか、感心したのかは分からない。


 影狼が跳んだ。

 それをセドリックが正面から受ける。


 剣と爪がぶつかり、火花が散った。彼の靴底が床を削る。近衛騎士たちが左右から斬り込むが、影狼の体は煙のように刃を逃がした。


「実体が薄い!?」


「契約された魔獣です!」


 騎士のひとりが叫んだ。


「誰かが城内へ呼び込んだ可能性があります!」


 国王の顔が変わる。


「西棟結界か」


 財務卿が震えた。


「まさか、修繕費の流用で……」


 レイベルナは鈴を握った。


「では此度の魔物侵入に関する『責任者』をお呼びしましょう」


「こ、今度は何が出る!」


 王子が叫ぶ。


「責任者です」


「それが怖いんだ!」


 ――チリン。


 現れたのは、王城結界管理官だった。


 初老の男で、寝間着ではなく作業服姿。

 手には工具箱を持ち、顔には煤がついている。どうやら西棟へ向かう途中だったらしい。


「陛下! 西棟結界が落ちました! 修繕用の緋晶石が粗悪品に差し替えられております!」


「粗悪品だと」


 国王の声が低くなる。

 管理官は膝を突いて言う。


「本日夕刻、王太子執務室から緊急納入の指示書が届きました。従来の納入業者ではなく、モーント子爵家推薦の商会から緋晶石を受け取るように、と。印章は本物でございました」


 ミレーヌの顔から血の気が引いた。


「お父様の……商会?」


 王子は言葉を失っている。


 レイベルナは静かに尋ねた。


「殿下。西棟結界の修繕費を、別用途へ流用なさいましたか」


「し、していない」


「では、緋晶石の納入変更指示は」


「知らない、知らない!」


「王太子執務室の印章は」


「知らないと言っている!!!」


 レイベルナは鈴を鳴らした。


 ――チリン。


 王子付きの侍従が現れた。


 まだ若い男で、現れた瞬間から膝が震えていた。手には封筒の束を抱えている。


 王子は絶望したような顔をした。


「お前……」


 侍従は泣きそうになりながら頭を下げた。


「陛下、お許しください。私は、殿下に頼まれて印章を押しただけでございます。モーント子爵から、緋晶石の業者を代えれば余剰金でミレーヌ様の支払いを整理できると聞き、殿下も、それなら一時的にと」


「黙れ!」


「一時的では済みませんでした!」


 侍従の声が裏返る。


「今夜の祝宴で婚約破棄が成立すれば、公爵家からの支援金を別名目で動かせると、モーント子爵が」


「黙れと言っている!」


 影狼が再び吠えた。


 セドリックが押し返される。彼の腕に爪がかすり、袖が裂けた。赤い血が白い布の内側に広がる。


 レイベルナは一歩踏み出しかけた。

 セドリックが見ずに言う。


「来ないでください」


「……ですが」


「あなたが倒れると、誰が責任者を呼ぶのですか」


「それは、責任が重すぎますね」


「ならば、そこに」


 こんなときにまで真面目な返答をする。

 レイベルナは震えかけた指を握り直した。

 影狼の首元には、黒い金属の輪があった。


 ――契約輪。


 野生の魔物ではない。

 誰かが金で雇い、結界の穴から王城へ入れた魔獣だ。


「契約魔獣と契約した責任者をお呼びします」


 結界管理官が顔を上げた。


「レイベルナ様、危険です! 契約魔獣の場合、呼ばれる相手が犯罪者である可能性が」


「存じております」


 レイベルナは鈴を持ち上げた。

 胸の奥に細い疲労がたまっている。


 何度も鳴らしたせいだ。

 呼ぶ責任が重いほど、鈴を持つ手も重くなる。

 だが、ここで止めれば、責任は曖昧なまま散る。


 王子は知らなかったと言う。

 ミレーヌは泣いて済ませる。

 侍従は命令されただけと言う。

 モーント子爵は病を理由に逃げる。


 そして、王城の結界に穴を開けた者が、また別の穴を開ける。


 レイベルナは鈴を鳴らした。


 ――チリン。


 大広間の中央に、太った男が転がり出た。


 豪華な上着の前をはだけ、片手に酒瓶を持ち、もう片方の手には黒い契約書を握っている。

 モーント子爵だった。


「な、何だ! ここはどこだ!」


 ミレーヌが叫ぶ。


「お、お父様!」


 モーント子爵は娘を見た。

 王子を見た。

 国王夫妻を見た。

 最後に影狼を見た。


 顔が土色になった。


「なぜ、あれがここに」


 レイベルナは静かに言った。


「ご説明いただけますか」


「私は何も」


 レイベルナは鈴を少しだけ持ち上げた。


「では、契約魔獣を実際に手配した『責任者』をお呼びします」


 ――チリン。


 レイベルナは間を置かずに鳴らした。


 今度現れたのは、黒い外套の男だった。


 片目に傷があり、腰には短剣を差している。現れた瞬間に逃げようとしたが、セドリックが影狼を弾きながら投げた短剣が、男の外套を床に縫い止めた。


「動くな」


 短い一言で、男は固まった。


 モーント子爵が震える。


「知らん。私はそいつを知らん」


 黒外套の男が怒鳴った。


「ふざけるな! 緋晶石を粗悪品に替えろと言ったのはあんただろうが! 王子の婚約破棄で会場が混乱したところへ契約魔獣を暴れさせる。そこで王子がミレーヌ嬢を守れば、美談になる。そういう話だった!」


 大広間が完全に凍った。


 ミレーヌが父を見る。


「お父様……?」


 モーント子爵は汗を流した。


「違う。私は、ただ、借金を返すために」


 国王が言った。


「王城の結界に穴を開け、魔物を入れ、王子の美談を作るために諸侯を危険にさらしたのか」


 モーント子爵は口を開けたが、言葉にならなかった。

 そのとき、影狼の契約輪が赤く光った。

 黒外套の男が顔を引きつらせる。


「まずい。契約不履行で暴走するぞ!」


 影狼の体が膨れ上がった。

 煙のようだった背中の毛が実体を持ち、爪が床に深く食い込む。赤い目がさらに暗く燃え、契約輪にひびが入った。


 セドリックが剣を構え直す。


「全員、さらに下がれ! 陛下と王妃陛下を中央から離せ!」


 国王が動こうとしたが、王妃が腕をつかんだ。


「あなた、今は騎士に任せなさい」


「だが」


「あなたが前に出ると、責任者がさらに増えます」


 国王が一瞬だけレイベルナを見た。

 レイベルナは首を横に振った。


「陛下をこれ以上お呼びする予定はございません」


「そうか」


 国王は少しだけ安心した顔をした。

 影狼が突進してくるのをセドリックが受ける。


 今度は重かった。

 剣が軋み、彼の腕から血が散る。それでも彼は退かなかった。後ろにはレイベルナがいる。さらにその後ろには、動けない貴族たちがいる。


 レイベルナは唇を引き結ぶ。


 魔物を雇った者は呼んだ。

 結界を落とした者も呼んだ。

 印章を悪用した者も呼んだ。


 だが、今この瞬間、この魔獣を止めるために必要なものは何か。

 『契約』そのものだ。


「契約魔獣の契約解除に必要なものをお呼びします」


 黒外套の男が叫んだ。


「やめろ! それを呼ぶな!」


 レイベルナは鳴らした。


 ――チリン。


 大広間の床に、古い羊皮紙が一枚落ちた。


 人ではなかった。

 レイベルナ自身も、一瞬だけ息を止めた。

 鈴は人だけを呼ぶのではない。


 責任を負うべき者だけではなく、その責任の中心にある物まで呼ぶ。

 今この瞬間、レイベルナはそれを初めて知った。


 羊皮紙には、血のような赤い文字で契約文が書かれていた。


 契約魔獣への報酬。

 王城侵入の条件。

 結界の穴を通す時刻。

 支払い主。


 モーント子爵の名。

 王子の私的署名。

 黒外套の男の印。


 国王が低く言った。


「十分だ」


 王妃が扇を閉じる。


「ええ。十分ですわ」


 だが、影狼は止まらない。


 契約書が呼ばれたことで、契約輪のひびはさらに広がった。報酬を受け取れない魔獣が、契約そのものを食い破ろうとしている。


 セドリックが叫ぶ。


「解除方法は!」


 黒外套の男が震えながら答えた。


「第三節だ! 支払い主の血印を破棄すれば輪が緩む! だが契約当事者か、現場責任者の刃でしか切れない!」


 レイベルナは羊皮紙を拾った。


 第三節。

 そこには、モーント子爵の血印がある。

 指で破ろうとしても、薄い膜に弾かれた。


 現場責任者の刃。


 レイベルナは顔を上げた。

 セドリックと目が合う。


 彼は一瞬で理解した。


「投げてください」


「届きますか?」


「届かせます」


 短い返答だったが、不思議と迷いは消えた。

 レイベルナは契約書を両手で持つ。


 影狼がセドリックへ食らいつこうとする。騎士たちが横から牽制するが、暴走した魔獣はほとんど止まらない。


「セドリック卿!」


 契約書を投げた。


 薄い羊皮紙が空中でひらりと舞う。

 影狼がそれを追うように首を向けた。

 セドリックが素早く踏み込む。


 一歩。たった一歩で、彼は影狼の爪の内側へ入った。


 剣が銀色に走る。

 契約書の血印だけを、正確に斬った。


 赤黒い印が裂けると同時に、影狼の首輪が砕けた。


 魔獣が激しく吠える。

 だが、その声は先ほどまでと違っていた。


 怒りではなく、解放に近い音。


 煙の毛がほどけ、赤い目の光が薄れていく。影狼は最後にモーント子爵を睨み、黒外套の男を睨み、それからセドリックを見た。


 セドリックは剣を構えたまま動かない。


 影狼は床を焦がす足跡を残し、砕けた窓から夜へ跳び出した。


 静寂が戻った。


 誰もすぐには声を出せなかった。


 レイベルナはゆっくり息を吐く。

 右手が震えていた。

 怖くなかったわけではない。

 ただ、怖がる順番が後になっただけだ。


 セドリックが近づいてくる。

 剣を収め、彼女の前で足を止めた。


「お怪我は」


「ございません。セドリック卿こそ、腕を」


「浅い傷です」


「浅い傷は、袖を赤く染めません」


「では、浅くない傷です」


「認め方が雑です」


 セドリックは真顔だった。


 レイベルナはこんな状況なのに、少し笑ってしまった。


 国王が大広間の中央へ戻る。

 その顔は、父親ではなく王のものだった。


「エドガル」


 王子は震えた。


「父上、私は、そこまでのことになるとは」


「署名したのか」


「それは」


「したのか」


 王子は黙った。

 沈黙は、肯定だった。


 国王は目を閉じた。

 王妃が王子から視線を外す。

 それが何より重かった。


「エドガル第一王子の王位継承権を当面停止する。王太子執務室の権限も凍結。詳細は明朝、枢密会議にかける」


「父上!」


「黙れ」


 国王の一言で、王子は口を閉じた。


「モーント子爵は王城結界破壊、契約魔獣持ち込み、王家資金詐取の疑いで拘束する。黒外套の男も同様だ。侍従は証言保護下に置く。財務卿、猫を置いて記録を取れ」


 財務卿は慌てて猫を侍女へ渡した。

 猫は「みゃあ」と、不満そうに鳴いた。


 王妃がミレーヌを見る。

 ミレーヌは床に座り込んだまま、涙で顔を濡らしていた。


「ミレーヌ・モーント」


「は、はい」


「あなたは今夜、自分の父が何をしたかを見ましたね」


「……はい」


「あなた自身がどこまで知っていたかは、後で調べます。ただ、ひとつ覚えておきなさい。知らなかったことは、時に罪を軽くします。だが、何も知ろうとしなかったことまでは消してくれません」


 ミレーヌは声を上げて泣いた。

 ミレーヌは今初めて、自分が寄りかかっていた甘い言葉の下に、何が埋まっていたのかを知ったのだろう。


 王子はまだ何か言いたげだった。


 だが、近衛騎士に両側を固められ、力なく膝を突いた。


 その姿を見ても、レイベルナの胸は痛まなかった。

 たぶん、もっと前に痛み終えていたのだ。


 国王がレイベルナへ向き直る。


「レイベルナ嬢」


「はい」


「今夜のこと、王家として深く詫びる。婚約破棄については、王家側の重大な瑕疵として扱う。ファリス公爵家には正式に謝罪と補償を行う」


 レイベルナは膝を折った。


「承りました」


「そして、君のスキルについてだが」


 大広間の視線が再び銀の鈴へ集まった。


 小さな鈴。 ただ鳴るだけだと笑われたもの。

 今夜、その音で国王も王妃も財務卿も商人も黒幕も契約書も呼ばれた。


 誰かが小さくつぶやく。


「恐ろしい鈴だ」


 レイベルナは聞こえないふりをした。

 国王は少しだけ口元を動かす。


「恐ろしいのは鈴ではない。責任を見ない者だ」


 広間が静かになった。


「レイベルナ嬢。君は、ただ人を呼んだのではない。誰が何に責任を負うべきかを正しく見極めた。これは王宮に必要な力だ」


「もったいないお言葉です」


「婚約は解消される。だが、君さえ望むなら、王宮監査室に席を用意したい。もちろん、公爵家と相談のうえだ」


 レイベルナは少し驚いた。

 王妃が静かにうなずく。


「あなたほど、逃げる責任者を捕まえられる方は貴重ですもの。書類を見る目もありますし」


 財務卿が猫の毛を上着から払いながら言った。


「できれば財務にも来ていただきたいですな。金の流れで怪しいところを見つけるたびに、私が猫ごと呼ばれるのは困ります」


 腕の中の猫が、同意するように「みゃ」と鳴いた。


「財務卿ではなく、猫のためですか」


「もちろん国庫のためです。猫の安眠は、その次でございます」


「順番が逆に聞こえます」


 レイベルナがそう言うと、財務卿は真面目な顔で猫を抱き直した。


「正直に申し上げますと、半分は猫のためです」


「財務卿」


 国王が低く呼ぶ。


 財務卿は深々と頭を下げた。


「国庫のために、記録へ戻ります」


 レイベルナは今日初めてふふっと声を出して笑った。


 ほんの少しだけ。

 だが、その笑いで、胸の奥に残っていた硬いものがほどけた気がした。


「考えさせていただきます」


 国王は少し安心したように頷いた。

 そのとき、王子がかすれた声で言った。


「レイベルナ……」


 彼女は振り向いた。

 王子は床に膝をついたまま、顔を歪めている。


「私は、ただ……君がいつも正しくて、息が詰まったんだ。ミレーヌは、私を責めなかった。私を王子として見てくれた」


 レイベルナはしばらく黙っていた。

 それから静かに答えた。


「殿下」


「何だ」


「私は、あなたを王子として見ておりました」


 王子の目が揺れた。


「だからこそ、間違えば止めようとしました。署名の重さを知ってほしかった。国庫の金が民の税であることを忘れないでほしかった。あなたが王になるかもしれない方だったからです」


 王子は何も言えなかった。


「責めなかった方が、優しかったのではありません。責任から目を逸らさせる言葉は、時にとても甘いだけです」


 レイベルナは鈴を消した。


 右手が軽くなる。


「私はもう、あなたの婚約者ではございません。ですので、これ以上は申し上げません」


 王子はうつむいた。


 近衛騎士たちに連れられ、大広間を出ていく。


 ミレーヌも侍女たちに支えられ、泣きながら連れていかれた。モーント子爵と黒外套の男は縄をかけられ、侍従は震えながら証言のため別室へ向かう。


 大広間には、壊れた窓と焦げた床と、妙に現実感のない空気が残った。

 祝宴は当然、中止になった。


 貴族たちは控室へ移され、王宮の使用人たちは慌ただしく動き回る。結界管理官は工具箱を抱えて西棟へ走り、財務卿は猫を探して一度戻ってきた。


 レイベルナは広間の端に立ち、深く息を吐いた。


 疲れた。

 とても疲れた。


 婚約破棄されたことより、人を何人も呼んだことより、最後の魔獣騒ぎが体に響いている。


 右手にはまだ、鈴の感触が残っていた。


「座りますか」


 声をかけられ、振り向く。

 セドリックが立っていた。


 腕には白い布が巻かれている。応急処置だけ済ませたらしい。


「セドリック卿こそ、医務室へ」


「あとで行きます」


「それは医務官に怒られる返答です」


「承知しています」


「承知しているなら、今行くべきでは?」


「あなたが倒れないのを確認してから行きます」


 真顔で言われ、レイベルナは言葉に詰まった。


 セドリックは近くの椅子を引く。

 彼女は少し迷ったが、素直に座った。 膝が思ったより頼りなかったからだ。


「助かりました」


 セドリックが言った。


 レイベルナは首を横に振る。


「助けていただいたのはこちらです」


「いいえ。あなたが契約書を呼ばなければ、影狼は止められませんでした」


「セドリック卿が斬ってくださらなければ、契約書はただの紙でした」


「紙ではありません。証拠です」


「騎士の方がそうおっしゃると、少し重く聞こえますね」


「実際、重いものです」


 セドリックは壊れた窓の方を見る。


「署名も、印も、証言も。剣で斬れるものより、重い時があります」


 レイベルナは彼の横顔を見た。


 この人は、分かっている。


 責任がどこから生まれ、どこへ向かうのか。

 それを正しく怖がれる人だ。


「セドリック卿」


「はい」


「私の鈴は、うるさかったでしょうか」


 彼は少し考えた。


 そして、真面目な顔のまま答えた。


「いいえ」


「本当に?」


「はい」


 彼の声は、広間の騒ぎの後だからこそ、よく通った。


「私はあなたの鈴の音が嫌いではありません」


 レイベルナは一瞬、返事に困った。


 胸の奥が、鈴より小さく鳴った気がした。


 ――チリン、と。


「それは、褒め言葉として受け取っても?」


「そのつもりでした」


「セドリック卿は、褒め言葉が少し硬いのですね」


「よく言われます」


 彼はまったく照れずに答えた。

 だが、少しだけ視線を外した。

 本当に少しだけ。


 そのわずかな変化が、今夜のどんな賛辞よりも不思議と心に残った。


「医務室へ行ってください」


 レイベルナが言うと、セドリックは静かに頷いた。


「では、あなたも控室へ。ひとりで歩けますか」


「歩けます」


 そう答えた直後、立ち上がろうとした膝が少しだけ震えた。


 セドリックは何も言わず、手を差し出した。


 大げさに支えるわけではない。

 ただ、必要なら掴める位置に置かれた手だった。


 レイベルナは少し迷い、その手に指を重ねた。


「……ありがとうございます」


「こちらこそ」


「セドリック卿が礼を言うところではないと思います」


「言いたかったので」


 真面目な顔で返されて、レイベルナはまた言葉に困った。


 広間の中央では、まだ国王たちが厳しい声で指示を出している。

 砕けた窓から入る夜風は冷たく、床には影狼の焦げ跡が残っていた。


 それでも、レイベルナの胸の奥だけは、さっきより少し温かかった。


「私の鈴は、責任者を呼ぶ音なのだと思っていました」


「違うのですか」


「今は、少しだけ違う気がします」


 レイベルナは右手の中に、銀の鈴を呼び出した。

 小さく、軽く、何年も笑われてきた鈴。

 だが、もう恥ずかしくはなかった。


「必要な人を、必要な時に呼ぶ音なのかもしれません」


 セドリックはその鈴を見てから、レイベルナを見た。


「では、私が必要な時は呼んでください」


「責任者として?」


「それでも構いません」


 少しだけ間を置いて、彼は続けた。


「できれば、別の理由でも」


 レイベルナの指先が止まった。

 胸の奥で、また小さく音が鳴る。

 今度は聞こえないふりができなかった。


「……では、いつか」


「はい」


「お茶にお誘いしても?」


 セドリックは一瞬だけ目を見開いた。

 それから、今夜初めて分かるほど柔らかく笑った。


「喜んで」


 レイベルナは鈴を揺らした。


 ――チリン。


 その音は、国王も王妃も財務卿も呼ばなかった。


 ただ、目の前の騎士が一歩だけ近づいた。

 かつて役立たずと笑われた鈴は、今も小さな鈴のままだ。


 剣にもならない。

 炎も出ない。

 人を癒やす花も咲かせない。


 だが、その音は逃げた責任を呼び戻し、必要な人をそばへ呼ぶ。


 レイベルナは銀の鈴を胸の前でそっと握った。


 婚約破棄された夜。

 彼女の未来は、終わったのではない。

 小さな鈴の音とともに、ようやく始まったのだ。



―――――

【連載版】を始めました。


短編版を加筆・再構成し、婚約破棄後のレイベルナが《呼び鈴》を鳴らしていく物語を進めていきます。


連載版のアドレスはこちらになります。

https://ncode.syosetu.com/n2826mf


※こちらの短編を読み終えた方は、【連載版】の第7話〜お楽しみください。

 よろしくお願いいたします!

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― 新着の感想 ―
読んでいると真剣な話し合いですが、絵面的に国王と財務卿だけくつろぎスタイルというギャップが、面白かったです。 トイレとか着替え、お風呂など呼ばれては困るタイミングがありますが、《呼び鈴》は条件を整え…
大勢の貴族の前でやらかした王子の罪に対して罰が軽すぎますね。
猫の下僕な財務卿w。
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