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婚約破棄? 責任者をお呼びしますわ 〜スキル《呼び鈴》で王宮が大変なことになりました〜

作者: 桜めんと
掲載日:2026/05/17


【連載版】を始めました。

連載版のアドレスはこちらになります。

https://ncode.syosetu.com/n2826mf


よろしくお願いいたします!


   

   


「――レイベルナ・ファリス。私は今宵、この場をもって君との婚約を破棄する!」


 王宮の大広間に第一王子エドガルの声が響いた。


 春の祝宴。

 国王夫妻が諸侯をねぎらい、各地の収穫と平穏を祝う夜も終わりに差し掛かっていた。


 儀礼的な挨拶を終えた国王は執務室へ、王妃は茶会の開かれる別室へ向かったが、宴そのものはまだ続いていた。

 天井の魔晶灯は白金色に輝き、磨かれた床には花の模様が映っている。楽団は演奏を止め、貴族たちは扇や杯を持ったまま大広間の中央へ目を向けていた。


 そこにはエドガル王子がいた。

 その腕には淡い桃色の髪を揺らした子爵令嬢ミレーヌ・モーントが寄り添っている。


 少し離れた場所にレイベルナ・ファリスは立っていた。

 ファリス公爵家の長女であり、第一王子の婚約者。

 少なくとも、つい先ほどまではそうだった。

 淡い青のドレスの裾を整え、レイベルナはゆっくり膝を折った。


「……理由を伺ってもよろしいでしょうか」


 声は乱れなかった。

 その落ち着いた態度が気に入らなかったらしい。王子は露骨に顔をしかめた。


「理由だと? まだ分からないのか。君はいつもそうだ。何を言っても書類だ、規則だ、手続きだと……婚約者なら少しくらい私の気持ちを考えたらどうなんだ!」


 ミレーヌが王子の袖をそっとつかんだ。


「殿下……もうおやめください。私のことでレイベルナ様を責めるなんて……」


「君が気に病む必要はない。悪いのは君を追い詰めたレイベルナだ」


 大広間に小さなどよめきが走った。

 レイベルナは王子から目を逸らさなかった。


「私がミレーヌ様を追い詰めたとおっしゃるのですか」


「とぼけるな。君はモーント家の借金を勝手に調べ、ミレーヌへ帳簿まで送りつけただろう。王子の婚約者という立場を使って彼女を脅したも同然だ!」


「確認したのは王太子執務室の封蝋が押された支払い保証が市場に出回っていたためです」


「またそれだ! なぜ君はいつもそうやって書類の話しかできない!」


「支払い保証の件ですので、書類を確認しなければお話になりません」


 どこかで短く咳き込む音がした。

 笑いを飲み込んだ者でもいたのだろう。

 王子の顔が一段赤くなる。


「黙れ! そもそも君には王子妃としての華がない。神殿で授かったスキルだって、ただの《呼び鈴》ではないか!」


 その言葉に広間の空気がわずかに緩んだ。

 昔から囁かれてきたレイベルナのあだ名を思い出した者もいるのだろう。


 呼び鈴令嬢。

 そんな呼び名がついたのは、彼女が授かったスキルがあまりにも地味だったからだ。


 レイベルナが一生にひとつだけ授かったスキルは《呼び鈴》だった。

 神殿で授かった日、彼女の手には小さな銀の鈴が現れた。丸くて軽く、指先で揺らせばチリンと可愛らしい音が鳴る。


 ――当時はそれ以上の使い道が分からなかった。


 侍女を呼べるわけでも魔物を退けるわけでも、花を咲かせるわけでもない。

 幼かったエドガル王子も鈴をしばらく眺めた後、困ったように笑った。


「……ずいぶん可愛らしいスキルだな」


 言葉だけを聞けば優しかった。

 それでも、その目に浮かんだ落胆まで見なかったことにはできなかった。


 だからレイベルナは学んだ。

 王子妃として必要になる礼法や法律だけではない。王家の系譜を覚え、領地経営を学び、国庫や交易についても教師たちに食い下がった。

 各貴族家の関係を頭に入れ、外交文書も一人で読めるようになった。


 スキルが役に立たないのなら、それ以外のところで役に立てばいい。

 鈴しか持っていなくても、王子の隣に立って恥ずかしくない人間にはなれる。


 そう思って続けてきた全てを、エドガルは今必要なかったと言おうとしている。


「ミレーヌの《癒し花》を見ただろう。傷をふさぎ、疲れた者を癒やせる力だ。実際に助けられた者だっている。それに比べて君の鈴は何だ?」


 ミレーヌは涙ぐんだ瞳で王子を見上げた。


「殿下……私はそんな……」


「君はもっと誇っていいんだ。人を救える力を持っているのだからな」


 王子はレイベルナへ向き直った。


「王子妃にふさわしいのはミレーヌだ。君ではない」


 人を癒やす力が尊いことくらい、レイベルナにも分かっている。

 だからこそ、それと王子妃として背負う責任を同じものとして語られることには納得できなかった。


「これで分かっただろう、レイベルナ。君のような冷たい女を王家に迎えるつもりはない」


 広間の端で近衛騎士の一人がわずかに眉を動かした。

 ――セドリック・オルブライト。

 近衛騎士団の若き副隊長で、王族警護の場では必要以上に口を開かない男だ。

 黒髪を後ろで束ね、背筋はまっすぐ伸びている。剣の柄に添えられた手も動かなかった。


 彼の視線が王子からレイベルナへ移る。

 周囲の貴族たちのように面白がっている様子はなく、ただこの場で何が起きているのかを確かめるような目だった。

 その視線があるだけで、レイベルナは少し呼吸がしやすくなった。


 レイベルナは右手を開いた。

 銀の鈴が手のひらに現れる。

 大広間のあちこちから抑えきれない笑い声が漏れた。


「本当に出しましたわ」

「こんなときに、あの鈴を?」

「まさか侍女でも呼ぶつもりかしら」


 レイベルナは王子に向き直った。


「殿下」


「何だ」


「念のため確認いたします。今おっしゃった婚約破棄は、王家とファリス公爵家の間で結ばれた正式な婚約をこの場で解除するという意味でよろしいのですね」


「くどいぞ。そう言っている」


「承知いたしました。ではこの件について判断できる方をお呼びします」


 王子は鼻で笑った。


「好きにしろ。宰相でも公爵でも呼べばいい。誰が来ようと私の決定は変わらん」


「では、お言葉に甘えます」


 レイベルナは銀の鈴を持ち上げた。

 そして鳴らした。


 ――チリン。


 可愛らしい音が大広間に響く。

 その音が消えるより早く、何もなかったはずの広間の中央に人影が現れた。


 国王だった。

 すでに礼装から着替えていたらしく、絹の夜着に濃紺のガウンを羽織っている。片手には読みかけの政務書、もう片方の手には銀縁の眼鏡。足元に至っては室内履きのままだった。


 大広間が凍った。

 王子も凍った。

 国王だけが突然変わった景色を前に何度か瞬きをした。


「……なぜ私は祝宴の中央で寝間着なのだ」


 低く響く声にざわめきかけた広間がまた静まり返った。

 夜着姿であろうと目の前にいるのはこの国の王だった。

 諸侯が一斉に膝を折る。

 レイベルナも深く礼をした。


「陛下。夜分に失礼いたします」


「レイベルナ嬢か。私は確か……祝宴の挨拶を終えて執務室で西部砦の報告書を読んでいたはずだ」


 国王の視線が王子へ向く。


「エドガル。説明しろ」


「ち、父上、これは、その……」


「なぜ私はここにいる」


 レイベルナは静かに答えた。


「殿下がこの場で私との婚約破棄を宣言なさいました。王家と公爵家の婚約契約における最終承認者は陛下ですので、私のスキルが『責任者』としてお呼びしたものと思われます」


 国王の眉間に深い皺が刻まれた。


「婚約破棄だと?」


 王子の喉が鳴った。


「父上、これは私の意思で――」


「お前の意思だけで王家の婚約を破棄できると誰に教わった」


 返事はなかった。

 レイベルナは手の中の鈴をそっと持ち直す。


「殿下。ご安心くださいませ。まだ一度しか鳴らしておりません」


「な、鳴らすな!」


「では婚約破棄もおやめになりますか?」


「それとこれは別だ!」


「承知しました。それでは別の責任者にも確認いたします」


「やめろと言っている!」


 ――チリン。


 王子が止めるより早く鈴の音が響いた。

 今度は大広間の入口付近に王妃が現れた。

 深紫の夜会着に白い肩掛けを纏い、手にはまだ茶器を持っている。

 別室での茶会の途中だったのだろう。


 湯気の立つ茶器を手にしたまま、王妃はしばらく動かなかった。


「……まあ?」


 夜着姿の国王へ目を向け、膝をつく諸侯を見回す。

 最後に王子とそのすぐそばにいるミレーヌを見たところで、王妃の表情が止まった。


「エドガル」


 その声は静かだった。

 静かすぎて、広間の温度が一段下がった気がした。


「あなた、私がお茶を置いてまで来るようなことをしたのですね?」


「母上、これは誤解で……」


「何が誤解なのかは後で聞きます」


 王妃は茶器を近くの侍女へ渡した。

 侍女は緊張した様子で両手を差し出す。


「レイベルナ嬢。まず私が呼ばれた理由を教えてちょうだい」


「王太子妃教育の監督責任者は王妃陛下でいらっしゃいますので」


「ええ。間違いありません」


 王妃はゆっくり王子へ向き直った。


「それで私が長年教育を見てきた婚約者に対して、この子は大勢の前で何をしたのかしら」


 ミレーヌの肩がびくりと跳ねた。

 王妃の視線がそちらへ移る。


「そちらのお嬢さんは?」


「ミレーヌ・モーント子爵令嬢でございます」


「エドガルの腕に触れてよい立場ではありませんね」


 ミレーヌが慌てて手を離した。

 王子は一歩前に出る。


「母上、ミレーヌを責めないでください。彼女は純粋で」


「純粋な方は他人の婚約者の腕にすがりません」


 扇がどこかでぱたりと落ちた。

 ミレーヌの顔が真っ赤になり、すぐ青ざめた。


「もういいだろう」


 王子が耐えかねたように声を上げた。


「父上と母上が来たなら十分だ」


「いいえ。殿下は私がミレーヌ様へ嫌がらせをしたともおっしゃいました。その告発について確認する方がまだ必要です」


「必要ない!」


「公爵家の人間が公衆の面前で告発された以上、必要ございます」


 ――チリン。


 次に現れたのは王子の教育係だった。

 白髪交じりの老学者で片手に分厚い本、もう片手に赤ペンを持っている。

 頬にはインクがつき、寝る前まで答案を直していたらしい。


「な、何ですかな。私は今、採点の途中で――」


 老学者の目が広間を巡った。

 寝間着姿の国王、静かにこちらを見る王妃、大広間の中央に立つ王子とミレーヌ。その先で銀の鈴を持つレイベルナを見つけた途端、顔からすっと血の気が引いた。


「……殿下」


「先生、これは違う!」


「違いません」


 老学者は即答した。


「この空気……この立ち位置、そしてこの顔ぶれ。王家の婚約解除手順を無視した時に起きる最悪の例として、私が授業で三度説明した状況そのものです」


 広間がざわめいた。

 老学者はその場で深々と頭を下げた。


「陛下。王妃陛下。申し訳ございません。これは間違いなく、私の教育不足でございます」


 国王の眉がわずかに動いた。


「まだ何も聞いておらんぞ」


「王家の婚約解除手順や王太子権限、国庫予算、私的署名、公的告発の危険性。全て三年前から教えております。ですが殿下は契約や署名に関する試験で、50点満点中4点でした」


「先生!」


 王子の叫びにも老学者は首を横に振るだけだった。


「殿下。今の叫び方で礼節点も失いました」


「今ここで採点するな!」


「採点せずに済む段階は婚約破棄を宣言する前に終わっております」


 老学者は分厚い本を抱え直し、王子をまっすぐ見た。


「私は何度も申し上げました。署名は剣より重いのです。婚約も借金保証も決して軽く扱ってよいものではございません」


「借金保証?」


 国王の声がさらに重くなる。

 王子の顔が引きつった。

 レイベルナは鈴を胸の前に持つ。


「その件につきましては財務上の責任者をお呼びした方が早いかと」


「待て、レイベルナ」


 王子の声が裏返った。


「はい」


「待てと言った」


「待っております」


「その鈴を下ろせ!」


「下ろしますと責任者を呼べません」


「呼ぶなと言っている!」


「ではミレーヌ様のご実家への支払い保証を殿下がこの場で取り消してくださいますか」


 王子から返事はなかった。

 ミレーヌが彼の袖をつかむ。


「殿下……」


 レイベルナは鈴を鳴らした。


 ――チリン。


 今度は財務卿が現れた。

 寝間着の上に毛布を羽織り、腕には灰色の猫を抱いている。どうやら自宅で寝る前の確認書類を片づけていたところらしい。

 突然の明かりに猫は目を細め、財務卿の胸元で迷惑そうに鳴いた。


「なっ、何事ですかな!? 私は今、寝る前に猫へ挨拶を――陛下!」


 財務卿は国王を見て固まった。

 王妃へ目を向けたところで顔がさらに強張り、大広間の中央に立つ王子とミレーヌを見つける。


「……まさか、金ですか」


 レイベルナは静かに頷いた。


「はい。モーント子爵家の借金について、王太子執務室の支払い保証が出ている件です」


 財務卿の顔から眠気が消えた。


「……金ですね」


「はい」


「猫を置きますぞ」


 財務卿は近くの侍女に猫を預けようとしたが、猫は袖に爪を立てて離れない。

 国王の視線がその前足へ落ちた。


「呼ばれたということはその猫も責任者か」


「いえ。これは私の睡眠の責任者です」


「……置け」


「はい」


 財務卿が猫の前足をそっと外そうとすると猫は不満そうに「みゃ」と鳴いた。

 王妃が淡々と言う。


「猫は無罪ですわ。先に報告を」


「承知いたしました」


 結局財務卿は猫を抱いたまま、肩からずり落ちた毛布を脇へ置いた。

 先ほどまでの眠そうな顔はもう残っていない。


「殿下」


「財務卿……誤解だ」


「金の誤解はたいてい誤解ではございません」


 財務卿は毛布の下から折り畳まれた薄い覚え書きを取り出した。


「正式な帳簿ではございません。寝る前に確認していた未決案件の控えになりますゆえ」


 紙を広げた財務卿の目が上から順に記録を追っていく。


「モーント子爵家への支払い保証が三通。殿下の私的署名が三つ。王太子執務室の封蝋も三つ。おかげさまで私の頭痛も三日目です」


 王子の顔が引きつった。


「正式な王家保証ではないだろう!」


「はい。正式な王家保証ではございません」


 王子がほっと息をついた。

 財務卿はそのまま続ける。


「ですから問題ない――とはなりません。殿下の私的署名と王太子執務室の封蝋を使った支払い約束状が商会へ渡っております。受け取った側が王家による支払いと考えても不思議ではございません」


 王子の表情が固まった。


「私的ならよいという話ではありませんね」


 横から王妃の声が鋭く飛んでくる。


「はい。さらに一通は西棟結界修繕費の仮払金と同じ日に作成されております。現在調査中でしたが、宴遊費へ一部が流れた疑いもございます」


「財務卿!」


 王子の叫びはほとんど悲鳴だった。

 財務卿は猫を抱いたまま困った顔をする。


「殿下。私も好きで呼ばれたわけではございません。猫も寝ておりましたゆえ」


 猫が「みゃ」と鳴いた。

 張りつめていた広間のあちこちから小さな笑いが漏れる。

 レイベルナはミレーヌへ目を向けた。


「ミレーヌ様」


「な、何でしょう」


「先ほど私はあなたのご実家の借金を調べたことで、嫌がらせをしたと告発されました。ですが王子殿下の署名が使われていた以上、確認しないわけにはまいりません」


「私……そんな大きな話だなんて、知らなくて」


「支払い保証を使うよう勧めたのはどなたですか?」


「お父様が……王子殿下にふさわしい装いをしなければ、皆に軽く見られるって」


「なるほど」


 レイベルナは一度だけ鈴へ視線を落とした。

 それを見た王子がすぐに首を振る。


「もう呼ぶな。本当にやめろ。会場がめちゃくちゃだ」


「殿下」


「何だ」


「めちゃくちゃにした責任者も必要でしたらお呼びできます」


「呼ぶな!」


 国王は笑っていなかった。

 王妃も笑っていなかった。

 財務卿の腕の中で猫が大きなあくびをした。

 レイベルナは鈴を鳴らす。


 ――チリン。


 今度は小柄な宝飾商が現れた。

 派手な緑の寝間着に外套だけを引っかけ、片手には帳簿、もう片方には羽ペンを握っている。現れた途端、貴族だらけの大広間を見回して腰を抜かしかけた。


「ひっ……! わ、私は何も悪いことは……たぶん、しておりません!」


「お久しぶりです。マルタン商会長」


「レ、レイベルナ様!? これはいったい……」


「モーント子爵家の未払いについて確認が必要になりました」


 商会長の顔つきが変わった。


「未払い」


 低い声が漏れた。


「未払いの話ですね」


「はい」


「では倒れている場合ではございませんね」


 商会長は寝間着の襟を正し、帳簿を開いた。


「まずモーント子爵家の未払い総額は金貨834枚でございます。そのうち半分近くがミレーヌ嬢の装飾品、夜会衣装、香水、観劇席の手配。こちらから三度催促し、二度泣かれ、最後には王太子殿下の署名を見せられました」


 大広間がどよめいた。

 金貨834枚。

 下級貴族家なら屋敷の維持すら危うくなる額だ。

 それを聞いていたミレーヌの顔から血の気が引いた。


「そんなに……?」


 レイベルナはその反応を見た。

 少なくとも今の驚きまで演技には見えない。父親がどこまで娘へ事情を伝えていたのかは改めて調べる必要がありそうだった。


「ミレーヌ様。あなたがどこまでご存じだったのかは後で確認されるでしょう。今ここで問題なのは、殿下の署名が実際に借金の支払い保証として使われたことです」


 ミレーヌは俯いて小さく頷いた。


「……はい」


 そのとき大広間の魔晶灯が揺れた。

 白金色だった光が青く濁り、床に映っていた花模様が歪む。

 窓の外から低く唸るような風の音が響いた。

 セドリックの手が剣の柄へ伸びる。


「全員、壁際へ!」


 声が飛んだ直後、西側の大窓が内側へ砕け散った。

 悲鳴と冷たい夜風が広間へ吹き込み、その中を黒い影が飛び込んでくる。


 狼に似た姿だった。

 背中から煙のような毛が立ち上り、赤い目が暗く燃えている。四肢が床に触れるたび、磨き抜かれた石がじゅうっと黒く焦げた。


「あれは……影狼だ!」

「なぜ王城にそんなものが!」

「結界はどうした!?」


 近衛騎士たちが一斉に王族の護衛にかかる。

 セドリックはその中央へ出て剣を抜いた。


「皆さん早く下がってください」


 影狼が吠えた。

 空気を震わせる声を浴び、何人かの貴族がその場に崩れ落ちる。

 エドガル王子はミレーヌの腕をつかんで後ずさった。


「れ、レイベルナだ! あの鈴だ! あれが人を呼ぶなら……あの魔物も呼んだに違いない!」


 視線が一斉にレイベルナへ集まる。


「違います」


 セドリックの声がすぐに飛んだ。


「魔物の侵入は鈴より前に始まっています。西窓の外の結界も少し前に落ちました」


 レイベルナは彼の背中を見た。

 騒ぎの中でも結界の変化まで見ていたらしい。


「ありがとうございます」


「礼は後にしましょう。下がってください」


「いいえ。ここで下がると殿下の発言が事実のようになります」


 セドリックが一瞬だけ振り返った。


「今、それを気にしますか」


「はい。大事ですので」


 一瞬だけ言葉を失ったような顔をした後、セドリックはすぐ影狼へ向き直った。


 影狼が跳んだ。

 セドリックが正面から受け止め、剣と爪がぶつかって火花が散る。彼の靴底が床を削り、近衛騎士たちも左右から斬り込んだ。

 影狼の輪郭が煙のように揺らぎ、刃が浅く抜けていく。


「実体が薄い!」


「契約された魔獣です!」


 騎士の一人が影狼の首元を指した。


「誰かが城内へ呼び込んだ可能性があります!」


 国王の表情からわずかな驚きが消えた。


「西棟結界か」


 財務卿は猫を抱く腕に力を込めた。


「まさか修繕費の流用で……」


 レイベルナは鈴を握り直す。


「では此度の魔物侵入に関する『責任者』をお呼びしましょう」


「こ、今度は何が出る!」


 王子が叫ぶ。


「責任者です」


「それが怖いんだ!」


 ――チリン。


 現れたのは王城結界管理官だった。

 初老の男は寝間着ではなく作業服姿で、手には工具箱を持ち、顔には煤までついている。西棟へ走っていた途中だったのか、現れた勢いのまま床を二歩ほど滑った。


「わっ、どこですかここは!? 私は今、西棟の結界盤へ――」


 そこで寝間着姿の国王に気づき、管理官の声が止まった。


「陛下……ね、寝間着?」


 王妃へ目を移したところでさらに目を見開き、最後に砕けた窓と影狼を見つける。

 工具箱を抱える腕に力が入った。


「工具箱を持っていて正解でした。結界以外にも直すところが多そうです」


 財務卿が猫を抱えたまま力なく返す。


「まず王宮の財務から直していただきたい」


「財務卿」


 国王の低い声が飛んだ。


「……失礼いたしました」


 猫が「みゃ」と鳴いた。

 財務卿は腕の中へ目を落とす。


「猫も同意しております」


「財務卿」


「申し訳ございません。報告を聞きましょう」


 管理官の顔から戸惑いが消えた。


「陛下。西棟結界が落ちました。修繕用の緋晶石が粗悪品に差し替えられております」


「……粗悪品だと?」


 国王の声が低くなる。

 管理官はその場で膝をついた。


「本日夕刻、王太子執務室から緊急納入の指示書が届きました。従来の納入業者ではなくモーント子爵家推薦の商会から緋晶石を受け取るようにとの内容です。印章は本物でございました」


 ミレーヌの顔から血の気が引いた。


「お父様の……商会?」


 エドガルの唇がわずかに開いたまま動かない。

 レイベルナは静かに尋ねた。


「殿下。西棟結界の修繕費を別用途へ流用なさいましたか」


「し、していない」


「では緋晶石の納入変更指示は」


「知らない、知らない!」


「王太子執務室の印章は」


「知らないと言っている!」


 レイベルナは鈴を鳴らした。


 ――チリン。


 王子付きの侍従が現れた。

 まだ若い男だ。

 姿を現したときにはすでに膝が震えていた。手には封筒の束を抱えている。

 その顔を見た王子が露骨に青ざめた。


「お前……」


 侍従は泣きそうになりながら頭を下げた。


「陛下、お許しください。私は殿下に頼まれて印章を押しただけでございます。モーント子爵から緋晶石の業者を替えれば余剰金でミレーヌ様の支払いを整理できると聞き、殿下もそれなら一時的にと……」


「黙れ!」


「一時的では済みませんでした!」


 侍従の声が裏返る。


「今夜の祝宴で婚約破棄が成立すれば、公爵家からの支援金を別名目で動かせると……モーント子爵が」


「黙れと言っている!」


 影狼が再び吠えた。

 セドリックが押し返され、爪が腕をかすめる。裂けた袖の内側から赤い血がにじんだ。

 レイベルナは思わず一歩踏み出した。


「来ないでください」


 セドリックは振り返らなかった。


「……ですが」


「あなたが倒れると誰が責任者を呼ぶのですか」


「それは責任が重すぎますね」


「ならば、そこに」


 こんな時にまで返ってくる言葉は真面目だった。

 レイベルナは震えかけた指を握り直す。

 影狼が身を低くした拍子に、首元で黒い金属が光った。


 ――契約輪。


 野生の魔物ではない。

 誰かが契約し、結界の穴から王城へ送り込んだ魔獣だった。

 管理官もそれに気づいて青ざめる。


「契約魔獣です。結界が落ちたところへ偶然入り込んだのではありません。誰かが王城へ招き入れています」


 国王の目が細くなった。


「モーント子爵家の商会。王太子執務室の印章。そして契約魔獣か」


 財務卿が猫を抱き直して言う。


「点と点が嫌な形につながってまいりましたな」


 猫が「みゃ」と鳴いた。

 王子は何度も首を横に振る。


「私は知らない。本当に魔獣など知らない」


「殿下」


「何だ」


「先ほどから知らないことが多すぎます」


 老学者の眉間にまた深い皺が寄った。


「知ろうとしなかったことも責任の一部です」


「せ、先生まで!」


 王妃の冷えた声が王子を止める。


「エドガル。今は黙っていなさい」


 その間にも影狼は床を爪で削っている。

 赤い目がぎらりと光り、セドリックが剣を構え直すと近衛騎士たちも左右へ散った。


「契約魔獣と契約した責任者をお呼びします」


 結界管理官が顔を上げた。


「レイベルナ様、危険です! 契約魔獣の場合、呼ばれる相手が犯罪者である可能性があります!」


「存じております」


 レイベルナは鈴を持ち上げた。

 何度も鳴らしたせいか、腕の奥に重い疲労がたまっている。最初は軽かった銀の鈴も今では指にずしりと重かった。


 それでもここで止めれば、誰が何をしたのかは曖昧なまま残る。

 王子は知らなかったと言い、侍従は命じられただけだと言う。モーント子爵本人はこの場にすらいない。

 結界に穴を開けた者を残したままにはできなかった。

 レイベルナは鈴を鳴らした。


 ――チリン。


 鈴の音が影狼の咆哮を裂いた。

 大広間の中央へ太った男が転がり出てくる。

 豪奢な上着の前をはだけ、片手に酒瓶を持ち、もう片方の手には黒い封筒を握っていた。

 床に尻もちをついた男は何が起きたのか分からない顔で周囲を見回す。


「な、何だ! ここはどこだ!」


 その姿を見たミレーヌから悲鳴に近い声が上がった。


「お、お父様!」


 モーント子爵だった。

 子爵は戸惑う娘から慌てるエドガル王子へ目を移した。寝間着姿の国王と深紫の夜会着の王妃まで確認したところで、その視線がぴたりと止まる。

 赤く目を燃やす影狼がいた。

 子爵の顔から一瞬で血の気が引いた。


「なぜ、あれがここに……?」


 その一言で広間のざわめきが消えた。

 レイベルナは子爵から目を離さない。


「ご説明いただけますか」


「わ、私は何も」


 モーント子爵は勢いよく首を振った。


「何もしておらん! 私はただ……殿下のために、娘のために」


「影狼をご存じなのですね」


「し、知らん!」


「今、あれ、とおっしゃいました」


「見れば分かるだろう! 魔物だ!」


 声だけは大きかったものの、先ほどまでの勢いはもうなかった。

 国王の目がわずかに細くなる。


「モーント子爵。王城に契約魔獣が入った理由を知らぬと申すか」


「もちろんでございます、陛下! 私はこのような恐ろしいことなど」


 言い終わるより早く影狼が床を蹴った。

 再び前へ出たセドリックの剣と黒い爪がぶつかり、火花が床へ散る。近衛騎士たちが横から牽制する間にも影狼の動きは荒くなっていった。


 首元の契約輪が赤く明滅し、ひびの入った金属から耳障りな音が鳴っている。

 結界管理官の声が戦う騎士たちの背後から飛んだ。


「契約が暴れています! このままでは命令を無視して近くの人間から襲います!」


 レイベルナは鈴を握り直した。

 指先にはまだ重さが残っている。それでもここで止めるわけにはいかなかった。


「では契約魔獣を実際に手配した責任者をお呼びします」


「やめろ!」


 モーント子爵の叫びに重なるように、エドガル王子も声を上げた。


「呼ぶな!」


 財務卿は腕の中の猫を撫でながら二人を見比べる。


「止める声が増える時ほど鳴らした方がよい時ですな」


 猫が「みゃ」と鳴いた。

 レイベルナは鈴を鳴らした。


 ――チリン。


 今度現れたのは黒い外套の男だった。

 片目に傷があり、腰には短剣を差している。現れた瞬間に逃げようとしたが、セドリックが影狼を弾きながら投げた短剣が男の外套を床に縫い止めた。


「動くな」


 逃げようとしていた男の動きが止まった。

 その顔を見たモーント子爵の頬が引きつる。


「知らん。私はそいつを知らん」


 黒外套の男は床を蹴って怒鳴った。


「ふざけるな! 緋晶石を粗悪品に替えろと言ったのはあんただろうが!」


 広間のあちこちからどよめきが上がった。


「あんたが言ったんだろ! 婚約破棄で騒ぎになったところへ魔獣を入れて、王子にミレーヌ嬢を助けさせる。そうすれば皆の前で英雄になれるって!」


「黙れ!」


 モーント子爵の声が裏返る。

 黒外套の男は床に縫い止められた外套を乱暴に引っ張った。


「黙るものか! 支払いもまだだ! 粗悪な結界石の手配も契約魔獣の誘導も黒札の準備も全部やらせておいて、失敗したら知らん顔か!」


 ミレーヌは信じられないものを見るように父を見つめた。


「お父様……?」


「違う。違うのだ、ミレーヌ。私はお前を王子妃にするために……」


「――人を……襲わせようとしたのですか」


 細い声だったが、広間の隅まではっきり届いた。

 モーント子爵の口は動いたものの言葉は出てこない。


 エドガル王子も必死に首を振った。


「私は知らなかった。魔物を入れるなど本当に」


 老学者の眉間に深い皺が寄った。


「殿下。知らなかったことを増やしても署名した責任はなくなりません」


「先生!」


 財務卿も猫を抱え直しながら続けた。


「金も同じですぞ」


 猫まで頷いたように見えた。

 そのとき影狼の契約輪が強く光った。

 黒外套の男の顔から血の気が引く。


「まずい。契約不履行だ」


 セドリックは影狼から目を離さないまま問い返した。


「何が起きる」


「報酬が払われず命令も破綻した。契約魔獣が契約を食い破ろうとしている。輪が完全に割れたら、あれは誰の命令も聞かないぞ!」


 影狼の背中から立ち上る黒い毛が膨れ上がった。

 煙のようだった体に重さが戻り、床を踏む足音まで変わる。赤い目は人の顔ではなく、近くにある熱と血だけを探しているようだった。


 セドリックの指示が大広間へ響く。


「陛下と王妃陛下を壁際へ! 魔術師は動きを止めろ! 実体が濃くなった今なら当たる!」


 近衛騎士たちが一斉に配置を変えた。

 氷の魔術が床を走って影狼の前脚に絡み、槍が左右から突き出される。

 その隙に剣士が背後へ回った。

 影狼は氷を砕き、槍まで弾いて黒い爪で床を削った。

 レイベルナは黒外套の男へ向き直る。


「契約を止める方法は?」


 男は唇を噛んだ。


「言えば、俺が」


 セドリックの声が戦闘の合間から飛んだ。


「言わなければ今この場で全員が危ない」


 男は影狼へ目を向けた。

 契約輪がまたきしみ、赤いひびが広がっていく。


「……契約書だ」


「契約書?」


「支払い主の血印がある。そこを破棄すれば輪が緩む。契約書は俺の隠し部屋だ」


 レイベルナが鈴を持ち上げると男の顔が歪んだ。


「……まさか」


「契約魔獣を縛っている契約書をお呼びします」


「物まで呼ぶのかよ!」


 王子が叫ぶ。財務卿が猫を撫でながら言った。


「契約書が責任の中心になる場合もありますからなぁ」


「そんな理屈があるか!」


 レイベルナは鈴を鳴らした。


 ――チリン。


 大広間の床に古い羊皮紙が一枚落ちた。

 人ではなかった。

 レイベルナも一瞬息を止めた。

 直後に視界が大きく揺れ、膝から力が抜けかける。


 呼ばれたのは責任を負う人間ではなく、契約そのものだった。

 どうやら《呼び鈴》が届く先は人だけではないらしい。

 それを理解するより先に激しい頭痛が走った。

 手にした鈴も急に重さを増す。


 床へ滑り落ちた羊皮紙には血のような赤い文字で契約文が書かれていた。

 端には黒い獣の紋があり、中央にはモーント子爵の血印と黒外套の男の印、さらにエドガル王子の私的署名まで並んでいる。

 王子の顔から血の気が消えた。


「なぜ、私の名が……」


 黒外套の男が吐き捨てる。


「支払いの信用が必要だったんだよ。王子の名があれば契約魔獣を扱う連中も動く」


「私はこんな契約書に署名した覚えは」


 モーント子爵が露骨に視線を逸らした。

 それを見逃さなかった財務卿の声が低くなる。


「殿下。白紙に署名なさいましたか」


 王子の口は開かなかった。

 老学者は額に手を当てたまま首を振る。


「白紙署名は契約の授業で最初に禁じたはずです」


「先生、今は」


「今だからこそです」


 王妃の冷えた声が王子へ向けられた。


「エドガル。あなたは何も知らなかったのではありません。知ろうとしなかったのですね」


 王子は俯いて顔を上げなかった。

 影狼の咆哮が再び広間を震わせる。

 契約書が呼ばれたことで契約輪のひびはさらに広がり、報酬を受け取れない魔獣が契約そのものを食い破ろうとしていた。


「解除方法は!」


 セドリックの声に黒外套の男が肩を震わせる。


「第三節だ! 支払い主の血印を破棄すれば輪が緩む! 契約当事者か現場責任者の刃でしか切れない!」


 レイベルナは震える手で羊皮紙を拾った。

 第三節にはモーント子爵の血印がある。指をかけて引いてみても薄い膜に弾かれ、紙は少しも裂けなかった。


「現場責任者の刃……」


 顔を上げたレイベルナとセドリックの目が合った。

 影狼の爪を受け流しながら彼がわずかに頷く。


「投げてください」


「届きますか」


「届かせます」


 迷いのない返事だった。

 レイベルナは契約書を両手で持つ。

 影狼がセドリックへ食らいつこうとした。

 騎士たちが横から牽制するものの、暴走した魔獣の勢いはほとんど衰えない。


「セドリック卿!」


 レイベルナは渾身の力で契約書を投げた。

 薄い羊皮紙が空中でひらりと舞い、影狼がそれを追うように首を向ける。


 セドリックが床を強く蹴った。

 銀の剣が光を引き、爪の内側から牙の下を抜けて落ちてくる羊皮紙だけを捉える。


 刃が血印を斬った。

 赤黒い印が裂けると同時に影狼の首輪が砕けた。

 魔獣の喉から上がった声は先ほどまでの咆哮とは違っていた。

 怒りよりも解放に近い声だった。

 煙の毛がほどけ、赤い目の光も薄れていく。

 影狼はモーント子爵を睨んだ後、黒外套の男へ顔を向けた。

 最後にその赤い目がセドリックの上で止まる。

 剣を構えたセドリックはその場から動かなかった。

 影狼は床を焦がす足跡を残し、砕けた窓から夜へ跳び出した。


 広間から音が消えた。

 誰もすぐには声を出せない。

 レイベルナはゆっくり息を吐いたが、足にも手にもほとんど力が残っていなかった。


 セドリックが剣を下ろすと裂けた袖の下から流れた血が手首を伝って床へ落ちた。

 それを見た瞬間、レイベルナの胸が強く鳴る。


「セドリック卿、腕が」


「浅い傷です」


「浅い傷は床に血を落としません」


「では浅くない傷です」


「認め方が雑です」


 こんなときでも彼の表情は変わらない。

 レイベルナはほんの少しだけ笑い、すぐ大広間へ目を戻した。


 まだ終わっていない。


 足に力を入れてなんとか姿勢を整えると、大広間の中央にはモーント子爵が座り込んでいた。床には斬られた契約書の切れ端が残っている。

 黒外套の男は外套を縫い止められたまま動けず、侍従もその場で震えていた。エドガル王子は何か言いたげに口を開いたまま声を出せない。


 国王がゆっくり大広間の中央へ進み出た。

 寝間着の上に羽織ったガウンが歩みに合わせて揺れる。その姿は滑稽なはずなのに誰も笑わなかった。

 国王の足がエドガル王子の前で止まった。


「……エドガル」


 王子の肩が目に見えて震えた。

 低く抑えた声が静まり返った大広間へ響く。


「ここからは王として聞く」


 その顔にはもう父親としての色はなかった。


「父上、私はそこまでのことになるとは」


「署名したのか」


「……それは」


「したのか?」


 王子は答えなかった。

 国王はしばらくその顔を見つめた後、ゆっくり目を閉じた。隣では王妃も視線を外している。


「エドガル第一王子の王位継承権を当面停止する。王太子執務室の権限も凍結。詳細は明朝、枢密会議にかける」


「父上!」


「黙れ!」


 国王の一喝に王子の口が閉じる。


「モーント子爵は王城結界破壊、契約魔獣持ち込み、王家資金詐取の疑いで拘束する。黒外套の男も同様だ。侍従は証言保護下に置く。財務卿」


「はい」


「猫も一緒でよい。記録を取れ」


 財務卿の強張っていた顔がわずかに緩んだ。


「陛下。猫も記録係に?」


「猫は近くで寝かせておけ。お前がしっかり記録を取れ」


「承知いたしました」


 腕の中から「みゃあ」と不満そうな声が上がった。


「猫は異議を申し立てておりますが」


「却下だ」


「はい。国庫のため猫の異議を退けます」


 張り詰めていた広間のあちこちから小さな息が漏れた。

 王妃は床に座り込んだミレーヌへ目を向ける。頬は涙で濡れ、先ほどまで王子の腕に寄り添っていた面影はもうなかった。


「ミレーヌ・モーント」


「は、はい」


「あなたは今夜、自分の父が何をしたかを見ましたね」


「……はい」


「あなた自身がどこまで知っていたかは後で調べます。ただ、ひとつ覚えておきなさい。知らなかったことは時に罪を軽くします。ですが何も知ろうとしなかったことまでは消してくれません」


 ミレーヌは両手で顔を覆った。

 その指の隙間から嗚咽が漏れる。

 エドガル王子はまだ何か言いたげだったものの、近衛騎士に両側を固められると力なく膝をついた。

 その姿を見てもレイベルナの胸には以前のような痛みはなかった。今夜傷ついたのではなく、もっと前から少しずつ終わっていたのだろう。

 国王がレイベルナへ向き直る。


「レイベルナ嬢」


「はい」


「今夜のこと……王家として深く詫びる。婚約破棄については王家側の重大な瑕疵として扱う。ファリス公爵家には正式に謝罪と補償を行う」


 レイベルナは膝を折った。


「承りました」


「そして君のスキルについてだが」


 広間にいる者たちの視線が再び銀の鈴へ集まった。

 小さく可愛らしいだけの鈴だ。

 ただ鳴るだけだと何年も笑われてきた。それが今夜は国王から王妃、財務卿、商人、犯罪者、ついには契約書までこの広間へ呼び寄せた。


「恐ろしい鈴だ」


 誰かのつぶやきが聞こえた。

 レイベルナは聞こえないふりをした。


「恐ろしいのは鈴ではない。責任を見ない者たちだ」


 国王の声にざわめきが消える。


「レイベルナ嬢。君はただ人を呼んだのではない。誰が何に責任を負うべきかを正しく見極めた。これは王宮に必要な力だ」


「もったいないお言葉です」


「婚約は解消される。君さえ望むなら王宮監査室に席を用意したい。もちろん公爵家と相談のうえだ」


 思いもしなかった言葉にレイベルナは目を瞬いた。

 王妃はその反応を見ながら静かにうなずく。


「あなたほど逃げる責任者を捕まえられる方は貴重ですもの。書類を見る目もありますし」


 財務卿が上着についた猫の毛を払いながら口を挟んだ。


「できれば財務に来ていただきたいですな。金の流れで怪しいところを見つけるたび、私が猫ごと呼ばれるのは困りますゆえ」


 腕の中からすぐに「みゃ」と返事が聞こえた。


「財務卿自身ではなく猫のためですか」


「もちろん国庫のためです。そして猫の安眠はその次でございます」


「順番が逆に聞こえます」


 財務卿は真面目な顔で猫を抱き直した。


「正直に申し上げますと半分は猫のためです」


「財務卿」


 国王の低い声に財務卿は深々と頭を下げた。


「国庫のために記録へ戻ります」


 とうとうレイベルナの口から小さな笑いが漏れた。

 ほんの少し笑っただけなのに、胸の奥に残っていた硬いものまで一緒にほどけていく。


「考えさせていただきます」


 国王の表情もわずかに和らいだ。


「レイベルナ……」


 かすれた声に振り向くと、エドガル王子は床に膝をついたまま顔を歪めていた。


「私は、ただ……君がいつも正しくて、息が詰まったんだ。ミレーヌは私を責めなかった。私を王子として見てくれた」


 レイベルナはしばらくその顔を見ていた。


「殿下」


「何だ」


「私はあなたを支えるべき王子として見ておりました」


 エドガルの目が揺れる。


「だからこそ、間違えば止めようとしました。署名の重さを知ってほしかった。国庫の金が民の税であることを忘れないでほしかった。あなたが王になるかもしれないお方だったからです」


 エドガルの唇が動いたが声にはならなかった。


「責めなかった方が優しかったのではありません。責任から目を逸らさせる言葉は時にとても甘いだけです」


 レイベルナは右手から銀の鈴を消した。

 何度も鳴らして重くなっていた手が急に軽くなる。


「私はもうあなたの婚約者ではございません。ですのでこれ以上は申し上げません」


 エドガルは俯いたまま近衛騎士たちに連れられ、大広間を出ていった。

 ミレーヌも侍女たちに支えられて後へ続く。モーント子爵と黒外套の男には縄がかけられ、侍従は証言のため別室へ向かった。


 残された大広間には砕けた窓と焦げた床がある。

 春の祝宴の面影はほとんど残っておらず、そのまま中止となった。

 貴族たちは控室へ移され、王宮の使用人たちが片づけと警備に走り回る。

 結界管理官は工具箱を抱えて西棟へ戻り、財務卿も猫を連れたまま記録係のもとへ向かった。


 レイベルナはようやく広間の端まで歩き、そこで深く息を吐いた。

 疲れた。

 とても疲れた。

 婚約を破棄されたことよりも、何人もの責任者を呼び続けたことと最後の魔獣騒ぎの方が体に響いている。

 鈴を消したはずの右手にもまだ微かな重さがあった。


「座りますか」


 声の方へ顔を向けるとセドリックが立っていた。

 裂けた袖の上から白い布が巻かれている。どうやら応急処置だけ済ませて戻ってきたらしい。


「セドリック卿こそ医務室へ」


「後で行きます」


「それは医務官に怒られる返答です」


「承知しております」


「承知しているなら今行くべきでは?」


「あなたが倒れないのを確認してから行きます」


 真顔で返され、レイベルナは次の言葉を失った。

 セドリックは近くの椅子を引いた。

 少し迷ったもののレイベルナは素直に腰を下ろす。座った途端、思っていた以上に膝から力が抜けた。


「助かりました」


 先にそう言ったのはセドリックだった。

 レイベルナは首を横に振る。


「助けていただいたのはこちらです」


「いいえ。あなたが契約書を呼ばなければ影狼は止められませんでした」


「セドリック卿が斬ってくださらなければ契約書はただの紙でした」


「紙ではありません。証拠です」


「騎士の方がそうおっしゃると少し重く聞こえますね」


「実際、重いものです」


 セドリックは砕けた窓の向こうへ目を向けた。


「署名も印も……証言も。剣で斬れるものより重いときがあります」


 レイベルナは隣に立つ彼の横顔を見た。

 責任がどこから生まれ、どこへ向かうのか。この人はそれを知っていて、その重さから目を逸らさない。


「セドリック卿」


「はい」


「私の鈴はうるさかったでしょうか」


 彼は少し考えてから答えた。


「いいえ」


「本当に?」


「はい」


 広間の騒ぎが去った後だからこそ、その声はよく聞こえた。


「私はあなたの鈴の音が嫌いではありません」


 レイベルナは返事に困った。

 胸の奥で鈴より小さな何かが鳴った気がする。


 ――チリン、と。


「それは褒め言葉として受け取っても?」


「そのつもりでした」


「セドリック卿は褒め言葉が少し硬いのですね」


「よく言われます」


 彼は平然と答えたものの、視線だけがほんの少し横へ逃げた。

 今夜浴びたどんな賛辞より、その小さな変化の方が不思議と心に残る。


「医務室へ行ってください」


 レイベルナの言葉にセドリックは静かに頷いた。


「ではあなたも控室へ。しっかり休息をとってください。お一人で歩けますか」


「……歩けます」


 椅子から立ち上がろうとした途端、膝が頼りなく震えた。

 セドリックは何も言わず手を差し出す。大げさに支えるのではなく、必要なら掴める位置に置かれただけの手だった。

 レイベルナは少し迷い、その手をとった。


「……ありがとうございます」


「こちらこそ」


「セドリック卿が礼を言うところではないと思います」


「言いたかったので」


 また返事に困ってしまった。

 広間の中央では国王たちがまだ厳しい声で指示を出している。

 砕けた窓から入る夜風は冷たく、床には影狼が残した焦げ跡が続いていた。

 それでもレイベルナの胸の奥には先ほどまでなかった温かさが残っている。


「私の鈴は……人を呼ぶ音なのだと思っていました」


「違うのですか」


「……たぶん、それだけではないのです」


 右手を開くと銀の鈴が現れた。

 小さく軽い。何年もの間、役に立たないと笑われてきた姿も何ひとつ変わっていない。それでも今は隠したいとは思わなかった。


「誰でも何でも私の望むままに呼べる鈴ではありません。逃げた責任や隠されたものがどこかに結びついている時だけ……そこへ音が届くのだと思います」


 セドリックは銀の鈴を見た後、レイベルナへ視線を戻した。


「では私が必要なときは」


「セドリック卿は鈴でお呼びする方ではないと思います」


「なぜです」


「あなたは逃げておりませんから」


 口にしてから少しだけ恥ずかしくなった。


「では鈴ではなく、あなたの声で呼んでください」


「責任者として?」


「必要ならばそれでも」


 一拍置いて彼の声が少しだけ柔らかくなる。


「できれば別の理由でも参ります」


 レイベルナの指先が鈴の上で止まった。

 胸の奥にまた小さな音が鳴る。今度は聞こえないふりができなかった。


「……では、いつか」


「はい」


「お茶にお誘いしても?」


 セドリックの目が一瞬だけ大きくなった。

 それから今夜初めて、はっきり分かるほど柔らかく笑った。


「喜んで」


 レイベルナは手の中の銀の鈴へ目を落とした。

 鳴らそうと思えば鳴らせる。

 けれど、今はその必要がなかった。


 目の前の騎士は鈴に呼ばれたからここにいるのではない。

 自分の意思で残り、自分の声で返事をしてくれている。


 レイベルナは鈴を鳴らさず、その手をそっと下ろした。

 かつて役立たずと笑われた銀の鈴は剣にはならず、炎も生まず、人を癒やす花も咲かせない。

 それでも今夜、その小さな音が隠されていたものを次々と表へ引き出した。


 砕けた窓から吹き込む夜風の中で、レイベルナは銀の鈴を握り直した。

 今度は誰かに呼ばれるのを待つのではなく、自分の足で先へ進めばいい。

 


 

 


―――――

【連載版】を始めました。

連載版のアドレスはこちらになります。

https://ncode.syosetu.com/n2826mf


※こちらの短編を読み終えた方は【連載版】の第7話〜お楽しみください。

 よろしくお願いいたします!

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― 新着の感想 ―
読んでいると真剣な話し合いですが、絵面的に国王と財務卿だけくつろぎスタイルというギャップが、面白かったです。 トイレとか着替え、お風呂など呼ばれては困るタイミングがありますが、《呼び鈴》は条件を整え…
大勢の貴族の前でやらかした王子の罪に対して罰が軽すぎますね。
猫の下僕な財務卿w。
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