悪役にされた公爵令嬢 ――“世界最悪”になったのは、弟でした。
姉さんの部屋の前を通るたび、僕は扉を見ないようにして歩く。
視線を床に落とし、足音だけを頼りに廊下を抜ける癖がついたのは、いつからだったか。
あの夜から、もう三ヶ月が経った。
それなのに、姉さんは今もベッドから起き上がれないままだ。
それなのに、あのシャンデリアの光は、今もまぶたの裏から消えない。
王立学院の大広間──卒業祝賀パーティーの夜。
笑い声とグラスの触れ合う音で満ちていたはずの空間が、たったひとつの宣言で一瞬にして凍りついた瞬間を、僕は今でもはっきりと思い出せる。
「……公爵令嬢セシリア・フォン・アーデルハイト。そなたとの婚約を、ここに破棄する」
壇上の中央で、第一王子ユリウスが静かに告げた。
その隣には、怯えた小動物みたいに肩をすくめた聖女マリア。
ざわり、と大広間の空気が揺れる。誰かが小さく息を呑む音がして、楽団の演奏が、途中で糸を切られた人形みたいに、不自然に止んだ。
視線が一斉に、壇上の三人へと突き刺さる。
その真ん中で、姉さん──セシリアだけが、絵画みたいに微動だにしなかった。
王立学院の元・生徒会長にして、剣術科の主席。
公爵家の令嬢セシリアは、礼儀作法も魔法も剣術も、一切の綻びを許さない「完璧な公爵令嬢」として、この場にいる誰もが知っている人物だった。
学院の剣術大会では、公爵領代表として隊を率いて、王都大会を制覇した。
剣を抜いた姿は凛として、冗談抜きで、「ああ、英雄ってこういう人のことを言うんだ」と、当時の僕は思った。きらびやかなドレスよりも、血と汗にまみれた礼装軍服の方が似合う姉さんを、僕は密かに誇りに思っていた。
けれど、本当にすごかったのはそこじゃない。
病に伏せる父に代わって、公爵家の執務を支え、母と一緒に領地の財政立て直しに奔走しながら、それでも公の場では一度も微笑みを崩さなかったことだ。
増え続ける借財の処理も、王都への献金の段取りも、その大半が、まだ学院生だったセシリアの細い肩に乗っていた。
そして何より──出来の悪い「僕」を、最後まで庇い続けてくれたことだ。
礼儀も魔法もさっぱりで、社交界では「公爵家の落ちこぼれ」と陰で笑われる僕を、姉さんは一度だって責めなかった。
舞踏会でステップを踏み間違えて令嬢のドレスを踏んだときも、講義で魔法陣を暴発させて教授に怒鳴られたときも。
いつだって、姉さんは当たり前の顔でその場を収めてくれた。
「レオンは、まだ若いのだから。失敗なんて、いくらでもするものよ」
そう言って、周囲にさりげなく話題を変え、裏では僕の失敗の後始末をひとつひとつ片づけて回っていたことを、僕が知ったのはずっと後になってからだ。
そのセシリアが──今、王子の前で「罪人」のように立たされている。
「聖女マリアを執拗に迫害し、己の権勢を振るった罪は、もはや見過ごせない」
ユリウスの声が、妙にクリアに会場に響いた。
読み上げられていく“罪状”は、どれもこれも、噂話で聞いたことのある言葉ばかりだった。
マリアへの嫌がらせ。陰湿ないじめ。魔法の授業での妨害。舞踏会での侮辱。
――全部、作り話だ。
喉まで出かかった言葉を、僕は飲み込む。
その代わりに、胸の奥がぎゅうっと縮んだ。
会場中の視線が、「冷たくて怖い公爵令嬢」へと向けられているのがわかる。誰も真実を確かめようとしない。誰も、あの噂の出どころなんて気にしない。
『冷たくて怖い公爵令嬢セシリア』
『優しくて健気な聖女マリア』
──いつからだろう。この安っぽい構図が、まるで戯曲の既定路線みたいに語られるようになったのは。
王都下町出身の平民でありながら、奇跡のような治癒魔法の才を持ち、「神に愛された乙女」と教会に認定された少女、マリア。
たどたどしい所作と、誰にでも向けられる人懐っこい笑顔で、彼女はあっという間に学院の人気者になった。
貴族令嬢たちでさえ、彼女を「聖女様」と呼び、その隣に立つことをひそかな誇りにしていた。
最初の頃、ユリウスはまだセシリアを気遣っていたはずだ。
婚約者としての責任を口にし、僕の目から見ても「一応は」姉さんを立てていた。
けれど、マリアと過ごす時間が増えるにつれ、その均衡は少しずつ、しかし確実に崩れていった。
「マリアを押したのは、セシリアの取り巻きだろうか」
「マリアにあんな言い方をするなんて……背後にいるのは、やっぱりセシリア様?」
そんな囁きが廊下で交わされるたび、姉さんの周りの空気は、ほんの少しずつ冷えていった。
当人──セシリアは、噂を否定もしなければ、言い訳もしなかった。ただ淡々と、これまで通りに生徒会の仕事と、公爵家の仕事をこなしていた。
完璧な公爵令嬢として、振る舞い続けるために。
僕の前でも、姉さんはいつもの笑顔を崩さなかった。
「心配いらないわ、レオン。こういうのは、そのうち飽きられるものよ」
そう言って笑っていたくせに。
今、壇上に立つ姉さんの横顔は、ひどく遠く見えた。
「セシリア。何か弁明はあるか」
王子の問いかけに、姉さんは少しだけ目を伏せた。
あれは、ほんの一瞬の逡巡だったと思う。
長年、誰よりも誇り高く生きてきた公爵令嬢が、この場で何を言えばいいのか──その答えを探して、ほんの瞬き一つ分だけ、言葉を失っただけだ。
「……殿下。私は──」
「言い訳は聞きたくない」
食い気味に遮るユリウスの声が、容赦なく姉さんの言葉を断ち切る。
隣でマリアが、涙ぐんだふりをしながら、小さく首を振った。
それだけで、会場の空気は完全に決まってしまう。
優しい聖女を守ろうとする王子。
その前に立ちはだかる、傲慢で冷酷な公爵令嬢。
──そういう「物語」なんだと、誰もが思い込む。
違う、と叫びたかった。
違う。姉さんはそんな人じゃない。
家を支えて、父を支えて、僕を支えて、それでも最後まで淑女であろうとした人だ。
誰よりも、不器用なほど真っ直ぐで、誰よりも、自分に厳しい人だ。
なのに、僕は。
その場で一歩も動けずにいた。
柱の陰に隠れるみたいに、人混みの影へ身を押し込み、ただひたすらうつむいていた。
視線が怖かった。
公爵家の「落ちこぼれ」だと笑ってきた連中と、目を合わせるのが、どうしようもなく怖かった。
姉さんの味方をすれば、その嘲笑が、今度は僕じゃなくて姉さんに向かう気がして──いや、本当は、ただ自分が傷つきたくなかっただけなのに。
あの夜、僕は何をしていた?
姉さんが一人で壇上に立たされているのを見ていながら。
セシリアの人生も、評判も、誇りも、玩具みたいに踏みにじられていくのを、ただ眺めていただけだった。
拳ひとつ握らなかった。声ひとつ上げなかった。名前を呼びもしなかった。
その晩を境に、セシリアは部屋から出てこなくなった。
翌朝になっても、昼になっても、あれほど規則正しかった姉さんは執務室に現れず、扉の向こうから返事はない。
豪奢な寝室の厚い扉を隔てて、重い沈黙だけが屋敷に張り付く。
宮廷付きの侍医は、静かに首を振った。
「ご令嬢は、長年ご自身を追い込みすぎたのです。完璧な公爵令嬢としての重圧、聖女殿との比較、そして殿下の婚約破棄が、とどめとなりました。……心が、限界を超えてしまわれたのでしょう」
心が、壊れた──。
たった一言で片づけられたその結論に、僕は何も言い返せなかった。
否定したところで、壊れてしまったものが元に戻るわけじゃないからだ。
それでも、ひとつだけ、どうしても飲み込めないものがあった。
「面会は、しばらく控えていただきたい。今は静かな休息こそが薬です。ご家族であっても、刺激は避けるべきでしょう」
侍医はもっともらしい言葉でそう告げた。
僕はうなずきながら、その場を離れた。
従順な「公爵家の子息」としては、正しい態度だったのかもしれない。
……医者なんて、金と権威にいくらでもなびく。
王家と教会の顔色ひとつで診断を変えられる奴らを、心のどこかで俺は信用していなかったはずなのに。
それでも僕は言われるまま、姉さんの部屋の前を素通りし続けた。
扉の前まで来ては足を止め、罪悪感に耐えきれず、踵を返す日々を、何度も何度も繰り返した。
──そうして、三ヶ月が過ぎた。
現在に意識が引き戻される。
姉さんの部屋の前。
見慣れた木目の扉を前に、俺はようやく立ち止まった。
後悔は、もう十分すぎるほど噛みしめた。
あの夜、壇上で何もできなかったことも。
三ヶ月もの間、医者の言葉に隠れて、扉を開ける勇気から逃げ続けてきたことも。
これ以上逃げるなら、俺は一生、あのときの「僕」のままだ。
「……姉さん、入るよ」
医者の制止も、家臣たちの視線も振り切って、俺は拳で扉を軽く叩いた。
返事はない。
慎重にノブを回し、軋む音を立てて扉を開く。
ベッドの上で上体を起こしていた姉さんの顔は──半分は想像通りで、半分は、まるで知らない人みたいだった。
目の下には大きな隈が刻まれ、頬は痩せこけ、肌は紙みたいに青白い。
それなのに、こちらを向いたときの笑顔だけが、驚くほど無邪気だった。
子どものような、力の抜けた笑顔。
作り物の社交用の微笑とは違う。決して「無理をしている」ようには見えない、空っぽな明るさ。
「……レオン?」
呼ばれた名前に、胸がちくりと痛む。
声の出し方を忘れたみたいに喉が固まって、それでもなんとか笑ってみせた。
「ああ、俺だよ。……じゃなくて、ほら、寝てていいから。来なくていい、姉さんは寝てて大丈夫だよ」
自分の口から出た言葉が、やけに他人行儀に聞こえる。
そっと姉さんの肩を支えて、ベッドに横たえ直す。
乱れた枕元を整え、掛け布団をきちんとかけ直す。
「うん……わかった」
返ってきた声は、あの頃のハキハキした威勢のいい調子じゃなかった。
むにゃむにゃと寝言のような、小さな、小さな声。
目を閉じたまま、少しだけ口元を緩める様子は、酔いが抜けきらない子どもみたいで、ほんの少しだけ、ほっとしてしまう。
──回復してきているのかもしれない。
そう思いかけた、そのときだった。
ふと見下ろした部屋の中は、姉さんにしては信じられないほど散らかっていた。
机の上には読みかけの書類が山積みになり、床には脱ぎ捨てられたカーディガンやらタオルやらが落ちている。
几帳面だった姉さんの面影はなく、まるでここだけ時間が止まって腐りかけているみたいだ。
そして、その乱雑さの中に紛れている“何か”を見つけた瞬間──俺は、ぎょっと目を見開いた。
ベッドの脇、椅子の足元に転がっていたそれは、手に取るまでもなく「嫌な形」をしていた。
硬く撚られた木綿の感触を、指先が勝手に思い出す。
反射的に、すり足で二歩、後ろに下がる。
あくまで自然に見えるように、背中を向けるふりをしながら、後ろ手でそれをつかんだ。
服の内側へ押し込むようにして隠す。
心臓が、ドクン、と大きな音を立てた。
横目で、睨むようにして姉さんを見る。
穏やかに目を閉じていた。長い睫毛が震えもせず、寝息だけがかすかに上下している。
……大丈夫。気づかれてない。
けれど、その「大丈夫」が、まるで嘘みたいに頼りない。
──何を、しようとしてた?
肺の奥で冷たい空気がひっくり返る。
三ヶ月間、「静養が大事だ」という言葉に縋って現実から目を逸らしてきた自分の甘さが、恥ずかしさを通り越して恐怖に変わる。
まだだ。
まだ油断なんてできない。
選択を間違えるな。
選択を間違えるな。
手の中の、硬質な木綿の感触が現実を主張する。
それをぎゅっと握りしめて、俺は必死に呼吸を整えた。
姉さんは、時折ぱちりと目を開けて、無邪気な笑みを浮かべる。
かと思えば、次の瞬間には虚空をじっと見つめて、表情から血の気が引いたみたいに無表情になる。
話しかければ最初の一言こそ俺をまっすぐ見つめるのに、そのあとは視線が合わない。部屋の隅や窓の外をキョロキョロと追いかける、挙動不審な動き。
……どっちが本当の姉さんなんだ?
今までがんばって張っていた仮面が剥がれただけなのか。
それとも、いま目の前にいるこの幼い笑顔こそが、壊れてしまった結果なのか。
考えれば考えるほど、胸の奥がきしむ。
思えば、社交的に見えた姉さんは、忙しさを言い訳にして、あまり人を家に呼ぼうとしなかった。
魔法も剣術も、「才能があるから当然」と皆は言ったけれど、その裏で姉さんがどれだけ積み重ねてきたかを、僕は知っている。
夜遅くまで灯りの消えない訓練場。早朝の静まり返った書斎。そこにいる姉さんの背中を何度も見てきた。
あれは、才能なんかじゃない。
努力の結晶だ。血反吐を吐いて、それでも誰にも弱音を見せなかった結果だ。
「……姉さん」
小さく呼びかけると、姉さんはゆっくりとこちらを向いた。
焦点の定まらない瞳が、僕の顔のあたりをふわりと漂う。
「なあに?」
くすりと笑う。その笑みが、本物かどうか、俺にはもう判断がつかない。
ただひとつだけ、はっきりしていることがある。
「僕は、姉さんの味方だから」
喉の奥からしぼり出すようにして言葉を落とす。
どんなふうに見えていようと。どんな噂が流れていようと。
たとえ、姉さん自身がもう自分を信じられなくなっていたとしても。
「どんなことがあっても。……僕だけは、姉さんの側にいるから」
返ってきたのは、意味を結ばない、眠たげな返事だった。
それでも、いい。
今は、それでいい。
部屋を出るとき、服の内側に隠した“それ”の重みが、ずしりと胸にのしかかる。
この重さを忘れたら、きっと取り返しのつかないことになる。
そう直感しながら、僕は静かに扉を閉めた。
廊下にひとり取り残されて、ようやく、頭の中でさっきの問いがはっきりと形になる。
……本当に姉さんを壊したのは誰だ?
ユリウスか。
聖女マリアか。
噂を面白がって流した貴族たちか。
それとも、それを見て見ぬふりをし続けた、この俺自身か。
答えの出ない問いに、胸が焦げるみたいに痛む。
息を吸うだけで喉が締めつけられる。
何もできなかった。
何一つ、守れなかった。
その事実だけが、今になって牙をむく。
いつまでも姉に頼って、守られて、庇われてばかりいる「僕」のままじゃ、もういられない。
あの日、姉さんからもらったものを、恩を、全部なかったことにして生きていくなんて──そんな生き方を、この胸が許してくれない。
だから、ここで区切りをつける。
セシリアの部屋の扉に背を預けたまま、俺は静かに、自分の中の呼び方を変えた。
守られる側の「僕」は、ここで終わりだ。
今度は──「俺」が返す番だ。
理不尽に踏みにじられた、この家の名も。
婚約を奪われ、心を壊された、公爵令嬢セシリアの人生も。
そして、あの日、柱の陰で震えていた、情けない「僕」自身のことも。
全部まとめて、俺が取り返す。
……たとえその結果、世界中から「悪役」と呼ばれるのが、今度は俺の番になるのだとしても。
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