第1話 幽霊ピアノ (中)
四人は音楽室の前に立つ。廊下の空気がわずかに冷たい。
ドアノブには水滴、鍵穴は黒く濡れていた。
透はノブをひねり、肩で軽く押す。硬い抵抗のあと、ドアはあっさり開いた。
「……施錠済み?」優香が小声で笑う。「どこが」
「鍵はかかってたのよ」
紗月が床のプレートを指さす。
「ここの“ラッチ”が湿気で噛んで、閉まりにくいだけ。閉めた人は“ガチャッ”って音を聞いて安心した。よくある」
「つまり“鍵の音=施錠”という思い込み」
透は頷いた。
「人間って音で判断しがち」
中は、湿った木の匂いと古いニスの甘さが混じっていた。
ピアノの蓋は半開き。鍵盤には薄い埃。
青木が近づいて、白い鍵盤に息をかけた。
「ふー……ほら、埃動いた! ってことは、最近は弾かれてない!?」
「青木くん、息はやめなさい。実験条件が乱れる」
紗月がハンカチで軽く拭く。
「え、実験?」
優香が目を輝かせる。
「もしかして、昨日の午後四時を再現する?」
「そう。校内のチャイムは午後四時に鳴る、“きらきら星”の短いフレーズ」
紗月は手帳をぱらりとめくった。
「それに合わせて、ピアノのダンパーを上げておけば、共鳴が起きるかもしれない」
「理屈はいいから、段取り」
透はピアノのペダルを確かめる。
「右のペダル、踏みっぱなしでダンパー上げる。スマホは二台、録音と騒音計アプリ。窓は半開き、換気ダクトの向き確認」
「おお、急に現場監督」
優香が笑う。
「こういうとき頼りになるよね、桐原」
透は肩をすくめた。褒め言葉は、たまに面倒の見返りになる。
時計の秒針が、四を目指して音もなく進む。
廊下の向こうから、湿った風がひと息入ってきた。温度が一度、落ちたように感じる。連日振り続けた雨の影響もあるのだろう。
「窓枠、触って」
透は青木に言う。
「ここ、結露が乾きかけ。外気に引っ張られて室内の湿度が下がるタイミングだ」
「わ、ちょっと冷たい」青木が指先を振る。
「午後の西日が去って、風が入る。響板がわずかに縮む。弦の張力が変わる」
「……来るわよ」
紗月が囁いた。
右足でペダルを踏み込み、鍵盤からダンパーが離れる、あのかすかな“ふっ”という音がした。
午後四時ちょうど、校内に短いメロディが流れ始めた。簡素で、誰もが歌える星の歌。
同時に、ピアノの中で空気が震えた。
最初は気のせいかと思った。
けれど確かに、誰も触れていない弦が、極細の蜂の羽音みたいに震え、音が“ぴん”と立つ。
メロディのある音だけが、指で選ばれたみたいに共鳴した。
「い、いま鳴ったよね?!」と、青木の声が跳ねる。
「幽」
「共鳴」
透が被せた。
「校内放送のスピーカー音が空気を揺らし、開いた蓋の内側で反射、弦の固有振動数に近い成分だけが拾われる。右ペダルでダンパーが離れてるから、止めるものがない」
「それだけじゃ弱い。条件が重なっている」
紗月の目は興奮で少しだけ潤んでいる。
「さっきの湿度ドロップで響板が縮み、張力がほんの少し上がって、共鳴しやすい“窓”が開いた」
「ダクトもある」
透は壁の高い位置をあごで示した。
「音楽準備室の換気ダクトがここに繋がってる。管は音を運ぶ。ここは“鳴りやすい”間取り」
優香がスマホの波形を見て、口笛を吹いた。
「すご。外のチャイムとピアノの波形、重なってる。数百ミリ秒だけ遅れて増幅……“遅れて響いたきらきら星”。だから三人が“同じタイミング”で聞くわけか」
青木が鍵盤に顔を近づけ、目を丸くした。
「ピアノが自分から歌ってる……ロマンだ……」
「ロマンじゃなくて現実」
透は言いつつ、胸の奥で小さくざわめく何かを認めた。
理屈で説明がつくのに、確かに“うつくしい”。
この齟齬が、気持ち悪くて、少し気持ちいい。
でも、美しいものに心が動く感覚が、最近はあまり続かない。
「でも待って。目撃情報の“施錠済み”は?」
優香が前髪をかきあげる。
「鍵閉まってたのに中から音が──ってとこが、怪談の肝じゃない?」
「鍵の問題は“音”の問題と別に考えるべき」
紗月がドアのラッチを指で押す。
「このタイプは“半ドアでも鳴る”の。閉める人は“ガチャ”の音で思考を止める。ドアの構造も、人間の認知も、だいたい音に弱い」
「現場保存が甘いのも学校あるある」
透は肩で笑う。
「掃除の人が点検で開けたかもしれないし、そもそも“施錠済み”って紙が貼ってあるだけで、今日のことじゃない可能性も」
「つまり……」
優香がスマホを掲げる。
「まとめ!午後四時のチャイムぷらす湿度ドロップぷらすダクトの導音!! えっと……右ペダルできらきら星が遅れてピアノで鳴る!!そんで鍵は誤認っ!!」
「よく噛まずに言えるわね」
紗月が微笑した。
そして音楽室を眺めながらこう呟く。
「偶然は条件の集合。条件は観察できる。だから面白い」
「俺は、早く終わるのが面白い」
透は椅子から立ち上がる。
「原因が分かれば、次に行ける」
「うわ、現実主義。情緒を置いてくタイプだ」
優香が苦笑する。
「情緒は置いてないよ」
透は窓の外を見た。
雨上がりの水たまりに、空の破片がいくつも浮かんでいる。そこに映る自分の肩が、ほんの一拍遅れて揺れた気がした。
「最後に検証、いい?」
紗月が微笑み、譜面台にスマホを置き直した。