【第6章】クリーピー
焼け付くような日差し。むせ返るような暑さ。開け放たれた窓からは、しつこいくらいに蝉の声が入り込んでくる。
時季は七月に突入し、僕らはうだるような暑さに曝されていた。
『今日暑すぎだよな〜』
『本当だよな〜。やってらんねぇよ〜』
クラスメイトの声が耳に入ってくる。
僕はいつもと変わらずに自分の机に突っ伏していた。
カノの死を知ってから一週間。嫌になるほどの蒸し暑さの中、僕はまだカノの死から立ち直れずにいた。未だに僕はカノが死んだ事が信じられなかった。
何をしていてもカノの事が脳裏によぎる。
その表情、仕草、言葉。
目を閉じればまるで昨日の事のように思い返せるのに、死んでしまったという事実だけがその思い出を黒く濁らせて深い闇の中に沈み込ませてしまうのだ。
僕はまだ忘れられていないというのに、やるせない気持ちともしかしたらもっと他に何かしてやれたのではないかという後悔の気持ちが、僕の心に残ったまま黒く染み付いてしまっているのだ。
僕は憂鬱でやるせない気持ちを抱えたまま、毎日を過ごしていた。
ちなみにカノの母親とは数回やり取りをして以降、連絡は返ってきていない。おそらく、もう返ってくる事は無いだろう。何となくだが、そんな気がする。
机に突っ伏した僕はカノが死んでしまったという事実から逃れるように、目を瞑ったのであった。
***
家に帰宅すると、僕はいつものようにqQuitにログインしていた。画面ではクランのメンバーの会話がいつもと同じように流れている。
『tonkotsu yarou:この前始まったイベントのクエスト、楽しかったですねぇ。今度また一緒に誰か行きませんか?』
『kirimiya48:良いですね! 来週辺りはどうですか?』
『salmon-da1oh:出来れば僕も行きたいです!』
『salmon-da1oh:そういえば、最近カノさん見ないですね』
『salmon-da1oh:予定が空いたから今度のイベントにはログインすると言っていたのに』
『tonkotsu yarou:そういえば最近ログインしてないですねぇ。リアルの方が忙しいんでしょうか』
僕はチャット欄に流れる文字を見ていた。
カノに関するチャットを見て、心が薄暗い感情に支配されていくのを感じる。
このやり取りを見るに、どうやら豚骨野郎さん達はカノが死んでしまった事を知らないらしい。
『salmon-da1oh:サツキさんは、何か知ってますか?』
薄暗い気持ちを抑えながら、僕はキーボードに文字を打ち込んだ。
『satuki329:いいえ。僕も分かりません』
連絡が送信された事を確認すると、僕はパソコンの前に突っ伏した。
僕の脳裏には、カノとのやり取りが浮かんでいた。
*
『サツキ君!』
『……ん? どうかした?』
『ううん! 何でもない!』
*
あの時本当は、一体何を言おうとしていたんだろうか。
今となってはいくら考えても、もうどうしようもない。答えがないのはわかっている。だが、どうしても考えてしまうのは、やっぱり僕が未だにカノを忘れられないからだろうか。僕が忘れてしまったらカノは一体、どうなってしまうのだろうか。
答えの出ない問いが頭の中で反響し続けている。
僕は目を閉じ、そんな問いから気を紛らわすように呟いた。
「……あの時、本当はなんて言おうとしたんだよ……」
***
いつものように机に突っ伏して次の授業が始まるのを待っていると、他のクラスの生徒の話が聞こえてきた。
『ねぇ〜夏祭りどうする〜!?』
『今年着る浴衣買った〜? もうすぐだもんね〜』
(夏祭り……そういえばもうそんな時期か……)
僕の街では、毎年決まった時期に夏祭りが開催されている。気付けば、周りの生徒の会話は夏祭りの話題で持ちきりだった。
『なぁ〜。お前は誰と行くんだよ』
『行く人決まった? 今年一緒に行かない!?』
(夏祭りか……)
少し考えたが、僕には関係の無い事だ。恋人はおろか、友達すらいないこの僕に夏祭りなんて特大イベントは似合わない。証拠と言っては何だが、僕は人生で一度も夏祭りに行った事が無いのだ。
今年も同じ。ただ周りが騒いで勝手に過ぎていくだけ。
(まぁ……関係ないか……)
僕は無意識の世界へ飛び立つ為、再び目を閉じる事にした。
***
暗くなった六畳の部屋に、電子の光が小さく灯る。
僕はqQuitへログインしていた。
届いていたメッセージの差出人を見てつい愚痴をこぼす。
「うわ……」
メッセージの差出人はユーリだった。
『yuuri123456:久しぶり。元気にしてた?』
やや憂鬱な気分になりながら返信する。
『satuki329:まぁまぁだよ』
『yuuri123456:特に変わった事はなかった?』
一瞬カノとの事が頭によぎったが、それは言わなくていいだろうと僕はいつも通りに返信する。
『satuki329:特にないよ』
カノとの思い出が脳裏をよぎるだけでやるせない気持ちになる。黒く濁った感情を隠しながら僕はユーリとやり取りしていた。
『yuuri123456:ごめんね。最近ログインできなくて』
『yuuri123456:暇だったでしょう? 私がいなくて』
ただユーリと話しているだけなのに詮索されている気持ちになるのは何故だろうか。
『satuki329:まぁね』
『yuuri123456:私がいない間は何してたの?』
ユーリからの直球的な質問に狼狽える。
「うっ……なんて言おう」
『satuki329:特にいつもと変わらないよ。一人でクエスト行ったり、ガストロの人達と話したりとか』
『yuuri123456:ふーん』
『yuuri123456:そういえば、ガストロのチャットでカノさんと楽しそうに話してたね』
「ぐっ……!」
痛いところを突かれた。妙に勘の良いユーリの詮索にも似た質問につい声が漏れてしまう。
『yuuri123456:随分楽しそうに話してるけど、今もカノさんとは仲が良いの?』
『yuuri123456:カノさん最近ログインしてないって言うけど、もしかしてその事が関係してたりして』
ユーリの質問に心臓が大きく脈打つ。
『yuuri123456:なんて』
『yuuri123456:私の考えすぎか笑笑』
「……はぁ」
どうやら、なんとか納得してくれたみたいだ。
そう思い、ほっと胸を撫で下ろしたその次の瞬間の事だった。
『yuuri123456:笑笑』
「……ん?」
『yuuri123456:笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑』
「なっ……な……!?」
唐突に送られてくるおびただしい数の『笑』。画面いっぱいに埋め尽くされたそれは嫌悪感を示す程であった。
「な、何だこれ――!?」
『yuuri123456:許せない』
『yuuri123456:私に許可も取らないで他の奴と話して』
『yuuri123456:しかもその事を隠そうとするなんて』
「な……」
焦った僕は慌ててチャットで弁明しようとする。
『satuki329:本当にカノとは今は話してないよ! なんでログインしないのかも分からないし』
『yuuri123456:カノ?』
「あっ……しまった」
焦って連絡を送った為か、ついカノと呼び捨てで呼んでしまった。
『satuki329:確かに、仲良くはなったけど今は何にも話してないよ! ログインしない理由も分からないし』
急いで弁明のメッセージを送る。
流石に、カノの死について明かす気にはなれなかった。他人の僕やユーリがそう簡単にカノの死について触れていい気はしなかったからだ。
僕とユーリの間に沈黙が流れる。
しばらくするとユーリからメッセージが届いた。
『yuuri123456:ふーん、分かった』
『yuuri123456:いいよ、納得してあげる』
ユーリからの返信を見て、よかったと胸を撫で下ろすのがまだ早い事は分かっている。
『yuuri123456:その代わり、学校の誰かの写真を撮ってきてよ』
「だっ……誰かって……!」
『yuuri123456:別にクラスメイトじゃなくてもいいよ』
『yuuri123456:ただしその分、とっておきのやつを撮ってきてね』
『yuuri123456:言っておくけど、つまんないやつ撮ってきたら本当にバラしちゃうからね、あの写真』
『yuuri123456:それとも、本当にバラしてほしい?』
「うっ……」
言い返したい気持ちもあるにはあるが、言い返したらそれこそこの女がどうなるか分からない。今でさえここまで様子がおかしいのだ。僕が反抗したらおそらく本当にあの写真をばら撒かれてしまうだろう。それだけは何があっても避けなければならない。
頭の中から『反抗する』という選択肢を除外すると、僕は写真を撮る為に一体どうしたらいいかと考え始めた。
(学校の誰かの写真……とっておきのやつ……!)
必死に頭を悩ませていると、ふと脳裏に今日の昼に学校で聞いたあの会話が浮かんできた。
*
『ねぇ〜夏祭りどうする〜!?』
『今年着る浴衣買った〜? もうすぐだもんね〜』
*
閃いたかのようにハッとする。
そうだ、夏祭りだ!
夏祭りに乗じて写真を撮れば、誰かにバレる事も無いし安全に撮れるぞ!
そうして僕は、これだと言わんばかりに夏祭りというものに活路を見出したのだ。
そうと決まれば僕を止めるものは存在しない。
僕は、人生初の夏祭りに行く事を決めた。
刻一刻と、目的の時間が迫ってきていた。
***
辺りを包む暖かな光。地表から微かに漂う熱気。通りすがる人々。通りいっぱいに並ぶ屋台の数々。そしてスピーカーから流れる賑やかな音楽。
僕は人生初の夏祭りに来ていた。
「うっ……うぅ……」
本来一般的な高校生ならこういった場合、初めての夏祭りというものに対して興奮したり、期待をよせたりというのが普通なのだろうが、僕は全くもってその枠組みの中には入っていなかった。
行き交う人。他人の目線。止まない騒音。
僕は慣れない環境に緊張してばかりだった。
まるで周りの人間全員が僕を見ているかのように感じられる。落ち着かない環境に身を置いている為か、冷や汗まで垂れてきた。
(こ、ここに居たら……頭がおかしくなりそうだ……!)
やはり僕にはこういった場所は向いていないらしい。自分の人間に対する耐性の無さを改めて痛感する。
そんな事を考えながら人混みの中を歩いていたら、群衆の向こう側からある人物が歩いてきているのを見つけた。
その顔を見た瞬間、僕は反射的に顔を逸らす。
(あ……あれは……!)
向こう側から歩いてきた人物、それは同じクラスの石田だった。その後ろには新井と上戸も見える。
僕はすぐに人混みから外れ、通りの脇の小道に逃げ込んだ。
「な、何でこんな所にいるんだよ……!」
こんな所でも群れていやがって。
心の中で毒を吐きながら、僕は石田達に見つからないように近くの林に隠れた。
石田達が通り過ぎて行くのを確認すると、僕は安堵のため息をついた。
「はぁ……」
人通りが多い場所はやはり苦手だ。何をしようにも緊張してしまって撮影どころではない。
それに、まさかこんな所で石田達と出くわすとは。
石田達の顔を見てしまったせいで学校での事を思い出す。学校内での扱い、悪口の事、消しカスを投げられている事。
「……っ!」
こんな事、思い出したくないのに。
頭に浮かんできた暗い思い出を振り払うかのように目の前の事に集中する。
僕は写真を撮るにあたって大きな問題に差し掛かっていた。
「そもそも、写真を撮るったって一体誰の写真を撮ればいいんだ?」
そう、写真を撮影するにあたって被写体、つまりモデルがいないのだ。
僕には友達もいないし恋人もいない。こんな事を頼める人間もいなければ、こんな事を引き受けてくれる人間も当然いないわけで。
一体誰の写真を撮ったらいいのか。
クラスメイト? しかしつまらない写真を撮れば今度はユーリが何を言うかが分からない。
三井の写真でも撮るか? そもそもこんな所にいるのかどうかという話だが。石田は無論、ありえない。
夏祭りに乗じて写真を撮ろうにも、写真を撮影する被写体がいない為、僕は頭を悩ませていた。
そんな時だった。僕の目の前に『あの人』が現れたのは。
「……ん?」
隠れていた林から見える人混みの中に、確かにその人が歩いている所を僕は確認した。
「あ……!」
整った容貌、華奢な体つき、華やかな浴衣。間違いない、隣のクラスの榛野さんだ。
榛野さんはりんご飴を片手に持ちながら、隣を歩いている友達と楽しそうに会話している。
「榛野さん……っ!」
ふと、脳裏に卑劣な考えがよぎる。
……いや、ありえない。まさかよりにもよって、榛野さんの写真を撮るなんて。
榛野さんは唯一あの学校で僕に優しくしてくれた人間だぞ? 隠れて写真を撮るなんか、ありえない。
ありえない。分かってる。分かっているのに。
気付けば僕は、スマートフォンのカメラを構えてしまっていた。
ダメだと分かっているのに。
こんな事、許されないと分かっているはずなのに。
僕は既に取り憑かれてしまっていた。
榛野さんに魅了され、その魅力から目が離せなくなってしまっていた。
ずっと、心の奥で引っ掛かっていた。
カノの死を伝えられたあの日以来、僕の心の奥底では常にカノの死が絡み付いたまま永遠に離れなかった。
僕は、カノの死で生まれたやるせない気持ちをどうにかしたかったのだ。
ストレスを解消したかったのだ。
誤魔化したかったのだ。
逃げ出したかったのだ。
カメラの小さな枠の中に榛野さんが囚われる。
囚われた枠の中で榛野さんは純粋無垢に笑っている。
まるで遮断されているかのように、周りの音は一切僕の耳には入ってきてはいなかった。その代わりに、自分の中で大きく脈打つ心臓の音だけが僕の脳を支配していた。
脂汗が僕の頬を伝う。
僕は榛野さんから目が離せなかった。
そんな事、その時の僕には到底無理な話だった。
震える指先でスマートフォンの画面に触れる。
カメラのシャッター音が鳴ったかと思うと、友達と笑い合っている榛野さんがフォルダに一枚の写真として保存された。
その写真を見た瞬間、僕は堰を切ったようにカメラのシャッターを切り始めた。
何度も、何度も、何度も、何度も。
僕はカメラのシャッターを切り続ける。
榛野さんの表情、仕草、その一挙一動。
その全てを収めんと、僕は無我夢中でカメラの『撮影』のボタンをタップし続けた。
榛野さんの全てが、一枚一枚の写真となってフォルダに保存される。
その時の僕を抑えるものは何者も存在しなかった。
我を忘れたように、僕はシャッターを切り続けていた。
歪で醜悪な時間が、蝉の声と共に流れていった。
***
あの夏祭りから、数日が経った。
僕は通常通りに学校へやってきていた。
「あ……!」
廊下を歩いていると、向こう側から榛野さんが歩いてきているのが見えた。
一瞬、その顔を見て夏祭りでの写真撮影の事が頭をよぎる。榛野さんを撮影する醜い自分。僕はそんな記憶を取り払うかのように雑念を思考の外へ追いやった。
僕はいつも交わしている挨拶のように、榛野さんに小さく手を振った。
榛野さんがこちらに気付く。
「……っ」
すると榛野さんはどういう訳か、気まずい表情をしながら足早に教室へと入っていってしまった。
「……あれ?」
(どうしたんだろう……)
榛野さんの振る舞いが少し引っかかるが、僕は特に気にせず教室の中へと入っていった。
僕が教室に入った途端、それまで各々自由に話していたはずの教室内のざわめきがピタリと止んだ。
(……? 何だ……?)
言いようのない不安感を抱えながら、僕は自分の席に向かう。その途中で石田達の嫌悪感を覚えるような薄ら笑いが目に入る。
「きたよ……」
「きっしょ」
石田達からの悪口を耳にしながら、席に座る。
すると周りからクラスメイトの声がひそひそと聞こえてきた。
『ねぇ……知ってる?』
『うん。知ってる』
その次の瞬間、信じられない事が耳に飛び込んできた。
『榛野さんの事でしょ?』
その名前を聞いた瞬間、僕は全身の毛が総毛立った。
(えっ…………!?)
『マジありえないよね』
『最悪』
(は、榛野さん……!?)
『撮影してたって話でしょ……?』
『マジでキモいわ』
(なっ……何で僕が……榛野さんを撮影した事がバレてるんだ!?)
周りのクラスメイトから発せられる悪口や非難の声は絶えず僕の耳に入り込んでくる。
『三井さんが見たっていうんでしょ?』
(三井……!? 三井早紀の事か……!?)
『そうそう。夏祭りの時に飯田が榛野さんを撮影してる所をたまたま見てたんだって』
(三井早紀……! 本当にあの場に居たのか……!)
姿を見てはいなかったが、まさか本当にあの場所にいたとは。
『この事、もう他のクラスの人も知ってるらしいよ』
『飯田やばすぎだろ……』
『マジでキモい』
周りから聞こえてくる声に、僕は全身の震えと冷や汗が止まらなかった。
「きっしょ」
「マジできめーわ」
石田達の声が背中に刺さる。
(違うんだ。僕はユーリに脅されて仕方なくやるしかなかったんだ)
頭の中で必死に言い訳をする。
(仕方なく……仕方なく……)
『きっしょ』
『気持ち悪』
『やばすぎだわ……』
『キモ』
四方八方からクラスメイトの非難が飛んでくる。
クラス中が僕を睨んでいるような気がした。
僕は頭の中で必死に言い訳を繰り返していた。
(違う! 違うんだ! 僕はユーリに脅されて仕方なくやっただけなんだ!)
(ユーリに脅されて……)
『飯田きっしょ』
『キモすぎ』
『やばいわ……』
『学校来んなよ』
悪口と非難が飛び交うクラスの中心で、僕はただひたすらに自分の頭の中で弁解を唱え続けていた。
違うんだ! 僕は本当にそんなつもりじゃなかったんだ! 本当にそんなつもりじゃ……。
本当に、そんなつもりじゃ……。