【第5章】さよならと言わないで
「……という訳で進路希望調査、来週までに出しておくようにー」
僕らは学校で、来年の進路に向けて林先生から説明を受けている真っ最中であった。
「……おーい、お前ら聞いてるのかー?」
そう林先生が僕らに向かって問いかける。
(もう六月も後半か……)
気付けば、ミナミとのデートから数週間が経過しようとしていた。ユーリも忙しいのか、最近は毎日ログインする事も少なくなってきており、頻繁に話す回数も減りつつあった。
(あのデートからもうすぐで一ヶ月か……)
あれからもうすぐで一ヶ月が経つというのに、未だに僕の頭の中ではミナミのあの言葉が反芻していた。
(そんな馴れ合いで付き合ったって、誰も好きになんかなってくれないよ)
「……っ!」
……分かってるよ。そんなの、分かってる。
ふと思い出したミナミの言葉に対し、眉をひそめる。
そんな事を考えていると先生が手に持っていた資料を机に置いた。どうやら進路についての話が終わったようであった。
「それじゃあ、ホームルーム終わり!」
先生の合図に合わせて、学級委員が号令をかける。
『起立。気をつけ、礼』
『ありがとうございましたー』
周りの挙動に合わせるように、僕も同じように挨拶をする。
「ありがとうございましたー……」
ホームルームが終わると、僕は次の授業の教材を持って教室を後にした。
「……ん?」
僕は次の授業の為に教室を移動していた。すると、廊下の向こう側から榛野さんが歩いてきた。
「……あ!」
どうやら榛野さんもこちらに気づいたようだ。ぱあっと表情を明るくさせると、こちらに向かって小さく手を振ってくれた。
「はは……!」
嬉しくなって、僕も小さく手を振って挨拶を返す。初めて話したあの時以降、僕らは廊下ですれ違うと挨拶を交わす程の関係になっていた。
目的の教室に着いたのだろう、榛野さんはそのまま近くの教室へと入っていった。
「はは……はは……!」
心臓がいつもより早く脈動しているのを感じる。
微かな繋がりかもしれないが、このちょっとしたコミュニケーションが僕は嬉しかった。
この腐った学校生活の中で、少しでも現実を忘れられる時間が出来た事が、榛野さんに人として扱ってもらえたことが、僕は嬉しかった。
(もしかして……本当に『モテ期』なのか!?)
安直で浅い考えが頭をよぎる。
(ユーリとは仲良くなったし、ミナミとはデートしたし、榛野さんとも知り合えた……!)
(もしかして……本当にモテ期なんじゃないか……!?)
僕はそんな下らない事を、目的の教室に着くまでのしばらくの間、考えていた。
***
「ただいま〜……」
いつも通り学校から帰宅すると、台所で母さんが料理を作り始めていた所であった。
「あっおかえり皐月! ごめんね、まだご飯できてなくて……今作り始めるからね!」
何を作るのか、母さんの目の前ではお湯が沸かされている。
「学校はどうだった? 楽しかった?」
母さんの問いかけに対し、いつもと同じように素っ気なく返す。
「別に……特になんにも変わんないよ」
「そっか……! ごめんね、今作るからね!」
母さんの言葉を聞くと、僕は再び歩き始めた。
台所を通り過ぎて、自分の部屋に向かおうとしたその時だった。
「あぁっ!」
母さんの短い悲鳴と共に、鍋が落ちる音がする。
その声が聞こえた瞬間、僕はバッグを捨てすぐに踵を返して母さんの元へと向かった。
「熱い……っ」
台所へ戻ると、母さんが左手を抑えてうずくまっていた。地面にはひっくり返った鍋と大量のお湯が零されている。どうやら沸騰させていた鍋を倒してしまったらしい。
僕は近くにあったバスタオルを手に取り、すぐに地面のお湯へ覆いかぶせる。
「だっ……大丈夫?」
コンロの加熱を止め母さんに駆け寄ると慣れない口調でそう言った。いつも素っ気ない会話をしていた為、母さんを気遣う言葉が口から出るとなると、どうしてもたどたどしい口調になってしまうのだ。
母さんを気遣うように立ち上がらせながら、蛇口から水を出し火傷してしまった手に当てる。
「ごめんねぇ……」
火傷しているというのに、母さんは泣きながらそう言った。
「…………っ」
情けないことに、僕はなんて言葉をかけたらいいのか分からなかった。
「ごめんねぇ……ごめんねぇ……」
蛇口の水の音と共に母さんの謝罪の言葉が切なく響き渡る。僕はただその言葉が痛かった。母さんへの申し訳なさ、自分への情けなさとやりきれなさで胸がいっぱいになるのを僕は痛切に感じていた。
***
部屋に戻ると僕はいつものようにqQuitにログインした。個人チャット欄を確認してみるがユーリからのメッセージは届いていない。
「今日もいないか……」
ガストロの方も確認してみる。
「ガストロも……誰もいない」
「……最近は、ユーリから声を掛けられることも少なくなったな」
深呼吸をして、qQuitをログアウトしようとした、その時だった。
『kanon56がログインしました』
「あ……! カノさんだ……!」
ガストロのメンバーであるカノさんがログインしてきたのだ。
カノさんは僕よりも先にガストロにいた、いわば僕の『先輩』のような人である。ログインする事も珍しく、実際にログインした所を見るのはこれを合わせて数回しかない。
「珍しいな……!」
『satuki329:お疲れ様です!』
『kanon56:お疲れ様です!』
『kanon56:サツキさん一人ですか?』
『satuki329:そうみたいです笑笑』
『kanon56:せっかくなら一緒にクエスト行きませんか?』
「あー……」
ふと、頭にユーリの事がよぎる。
「……まぁ、大丈夫か」
そう口にすると、僕は承諾の連絡をカノさんへ向けて送信した。
『いいですよ! 一緒に行きましょう』
***
「あはははははっ。あはははは」
クエストを終えた僕たちはたわいもない会話に花を咲かせていた。
『kanon56:気付いたらこんな時間』
『kanon56:ごめん! もうそろそろ寝るね』
『satuki329:いいよ! おやすみなさい』
『kanon56:うん! また遊ぼうね。おやすみなさい』
カノさんはそう言うとログアウトしていった。
「はぁ……楽しかったな」
再び頭の中にユーリの事がよぎったが、別にと僕はそこまで深く気にしなかった。
ユーリの個人チャット欄を見つめる。
「……まぁ、大丈夫だろ」
そう言って僕はqQuitの画面を閉じた。
***
『kanon56:今日もありがとう〜! 楽しかったよ、サツキ君!』
『satuki329:いえいえこちらこそ! ありがとう』
気付けば僕達は、時間が合ったらクエストへ共に向かう友達へと変わっていった。
『kanon56:そういえば私、サツキ君って呼び方でいいのかな? サツキ君より一個下なのに』
『satuki329:いいんだよ笑笑』
『satuki329:気にしないで、そんな事』
『kanon56:サツキ君は今週の土日予定とかあるの?』
「土日? 土日かぁ〜……」
思い出してみるが、こんな僕に誰かとの予定など存在する訳もなく。
『satuki329:ううん。何にもないよ』
『kanon56:本当に〜? 彼女との予定とかあったりするんじゃないの〜?』
「はははっ。彼女なんて……」
彼女。腐った学校生活を送っている僕には縁もゆかりも無い話だ。僕はありえないと言ったばかりに笑いながら返信する。
『satuki329:彼女なんていないよ笑笑』
『kanon56:えぇ〜? なんか意外だなぁ』
『kanon56:サツキ君はちゃっかり彼女とかいそうなタイプだと思ったけど笑』
「そ、そんな事……」
『satuki329:そんな事ないよ笑』
それにしても意外だった。ログインしている事すら珍しい為、話している姿もあまり見た事はなかったが、まさかカノさんがここまで気さくに話す人だとは思いもしなかった。別に良い人という印象はガストロで話している時もあったし、悪い人だとは思っていなかったが、ここまで親しみやすく話せる人だとは。
話し始めた頃の『あまり話したことの無い人』で止まっていたカノさんに対する印象は、最初の頃に比べて大きく変わっていた。
『satuki329:カノさんは何か予定無いの?』
『kanon56:何も無いよ。私も暇』
「そっかぁ〜……」
伸びをして体をほぐす。僕は通知のこないユーリのチャット欄に目を向けた。
「……そういえば、ユーリはこの時何してるんだろう」
ユーリと話した事は何回もあるが、ユーリが普段何をしているかは聞いた事がない。
普段ユーリに付き合わされている僕だが、よくよく考えてみればqQuit上での関係という事を除けば、僕はユーリについて何も知らないも同然なのだ。
僕がユーリについてそんな事を考えていると、カノさんから思いもよらないメッセージが送られてきた。
『kanon56:ねぇ、会ってみよっか』
「……えっ!?」
予想外のメッセージに僕は不意を突かれた。
「あ……会うって……」
動揺しながらも、返信を入力していく。
『satuki329:会うって、どうして急に』
『kanon56:うーん』
『kanon56:なんとなく!』
「な……なんとなくって……」
なんとなくとか気分とか、僕はこういった突発的な衝動に振り回されている事が多い気がする。
『kanon56:会ってみたくなったんだもん』
『kanon56:お互い今週暇だし、住んでる場所も近いしでちょうどいいじゃん』
『kanon56:サツキ君、澄川に住んでるんでしょ?』
「なっ……」
なんでカノさんが、その事を知ってるんだ……!?
……いや、待てよ? 確か前にもこんな流れを見たような気がする。
僕は頭に浮かんできた名前を試しに入力してみる。
『satuki329:もしかして、豚骨野郎さんに聞いた?』
『kanon56:そうだけど……なんで分かったの?』
「……はぁ」
あまりにも予想通りだった事、そして豚骨野郎さんのあまりのネットリテラシーのなさに、僕はがっくりと頭を下げた。
『kanon56:どう? 会う?』
カノさんからのメッセージに頭を悩ませる。
「うぅーむ……」
そして僕は、カノさんと会う事に決めたのだ。
***
電車で一時間をかけた所に、目的の場所は存在した。目的の駅に着き自販機で飲み物を購入すると、僕はもう一人の到着を待つ事にした。
知らない誰かと会うのはこれで三回目だ。流石に慣れたのか、僕の呼吸は落ち着いていた。
(ユーリと話し、榛野さんと関わるようになり、ミナミとデートし、そして今度はカノさんと会う事になった……!)
最近になって、突然色んな女性と関わる機会が多くなった。
(もしかして……本当に来てるのか……! モテ期が……っ!)
……いや、下らない事を考えるのはやめよう。
そんな事を考えていると、後ろから声を掛けられた。
「もしかして……サツキ君?」
声の方に振り向くと、そこには落ち着いた雰囲気の可愛らしい格好をした女性が立っていた。
「かっ……カノさん?」
僕自身、女性に対する耐性があまり無い為か、目の前にいる女の子のふわっとした雰囲気に圧され、つい言葉に動揺が表れてしまう。
「……ううん。カノでいいよ」
その女の子――カノはそう言うと、静かにふふっと笑った。
「ふふっ。サツキ君、分かりやすいね」
「なっ……一体、何が?」
「だって、あまりにも動揺してるから」
「女の子に対する耐性無さすぎ」
なっ……バレてる……。
恥ずかしいことに、僕はどうやら、女性に対する耐性の無さを一瞬で見抜かれてしまったらしい。
「それじゃ、行こっか」
そうして、僕らは目的地の無い散策へと足を運び始めたのだ。
***
「ねぇ、サツキ君って趣味とか無いの?」
僕らはあてもなく、ただぶらぶらと街を歩いていた。
「趣味かぁ……特に無いなぁ」
「それこそ、暇な時はqQuitぐらいしかしてないや……カノは?」
「私は〜、散歩とか甘い物食べたりとか、買い物とか、ゲームとか!」
「あとは……こうやって、デートしたり……とかかな?」
カノはそう言いながらこちらを振り返ると、まるでからかうように僕の顔を覗き込んでくる。
「……っ」
カノの弄ぶような攻撃に対し、つい顔を逸らしてしまう。
「や……やめろよ……っ」
僕は何とかそう返すのが精一杯だった。おそらく今の僕の表情は見るに堪えないものになっているだろう。僕の反応を見て楽しんでいるのか、カノはそれを見てあははと笑った。
「あははっ。やっぱりサツキ君面白ーい」
「は、反応を見て楽しむな!」
「あははははははっ」
「……ねぇ、サツキ君は私といて楽しい? 私、ちゃんとサツキ君の事、満足させられてるかな?」
「なっ……」
突然、カノが予想外の方向から質問した事により、僕は少し困惑した。僕はすぐにカノの質問に答える。
「たっ……楽しいよ! 一緒にいて楽しい! そんなの当たり前だろ?」
「そっか……。ねぇ、どこか座れるとこ探さない? ちょっと座りたい気分かも」
カノの提案で、僕らは近くにあったベンチに座る事にした。
「……ねぇ、聞いてくれる? 私の話」
「……うん」
ベンチに座ると、カノはそれまでのからかうような口調とは打って変わって、静かに語り始めた。
「私ね……親が再婚してるの」
「今のお父さんは優しいんだけど、前のお父さんはちょっと荒い人で。自分の機嫌で、お母さんや私に手を出すような人だった」
「それでなんだけど……」
言葉がそこで少し途切れたかと思うと、カノは覚悟を決めたように話し始めた。
「これはお母さんも、今のお父さんも知らないんだけど……私、その前のお父さんに、性暴力を振るわれたことがあって」
「そ……それって……っ!」
性暴力。その言葉の意味が分からない僕ではなかった。
「そう。レイプの事」
動揺する僕に、カノは静かに答えた。
「その日は雨の日で、家には私とお父さんしかいなかった」
「私はまだ幼くて……その日は確か、お父さんが仕事で上手くいってないか何かで、すごく機嫌が悪かったの」
「怒ったお父さんは、無理やり部屋に入ってきて……」
「私は……どうする事も出来なかった」
「ただ怖くて……これ以上……殴られるのが怖くて……」
「その時の私には……どうしようも出来なかった」
「ただ……怖くて……怖くて……」
ふと見ると、カノの強く握り締めていた両手が震えていた。
僕はこんな時、なんて言葉をかけたらいいのか分からなかった。
「……なんで、話してくれる気になったの?」
そう勝手に口が言葉を紡いでいた。
「……何でだろう」
「サツキ君には、打ち明けてもいいかなって気になれたの」
そう口にするカノの手は、未だに強く握り締められたまま震えている。
「怖くて……怖くて……」
こんな時だと言うのに、僕の頭は必死に総動員してもどんな言葉を紡げばいいか分からずにいる。
それでも……。
それでも……っ!
「…………っ!」
「……え?」
気付けば、カノの手を握っていた。
理由は無い。考えるより先に、体が動いていた。
「えっ……あ……」
理屈も無しに動いてしまったので、何を言おうにも言葉が追いついて来ない。
「……おっ、俺は!」
ぎこちない口調で声を上げる。
「カノと一緒にいると楽しいし! カノには……もっと笑っててほしいなって思うよ!」
いくら咄嗟に絞り出した言葉とはいえ、なんて言葉を吐いてるんだ。僕は。
「……ぷっ」
自分で自分のあまりの不器用さに失望しかけた所で、カノが突然吹き出した。
「あはははっ! 何それ。いきなり言い出したと思ったら……あははははっ!」
自分で言っておいて、自分の言葉に恥ずかしくなる。
「それで……いつまでこの手は握ってくれてるの?」
そう言われて、ようやくカノの手を握っていた事を思い出す。
「あっ! いや、これは、その……」
パッと手を離すと僕は弁明の為に何とか言葉を絞り出そうとした。
「ふふ、いいんだよ。気持ちは嬉しかったから」
僕は、少し考える。
「ねぇ。もし良かったら俺の事も話していいかな? カノだけに話させてるのも申し訳ないからさ」
僕が提案するとカノは立ち上がってこう言った。
「分かった! じゃあもっと人気の無いところに行こ! サツキ君の話はその間にしてよ」
***
「あははっ! それにしてもまさかサツキ君がメイド服を着てたとはね〜」
「あ、あんまり言うなよ! 聞かれるかもしれないだろ……」
気付けば僕達は、街を一望できる高台の上へとやって来ていた。街の景色を見に来たのか、周りにはカップルや見物人などがちらほらと見えていた。
「うわぁ〜良い景色〜! サツキ君も見てみなよ!」
「本当だ……。綺麗だね……」
街の景色に見惚れていると、カノが話し始めた。
「ねぇ……サツキ君」
「……ん? 何?」
「今まで私は、自分一人でいるのが自分にとって一番良いんだって……それが一番幸せなんだって思って生きてきた」
「だって……それが一番楽だから」
「でももしかしたら……本当はそうじゃないのかもしれない」
「サツキ君が……そう教えてくれたから……」
カノは、真剣な眼差しでそう言った。
僕がカノの言葉に答えようとした、その時だった。
首に感じる冷たい感覚。
「あっ……!」
首の違和感に気付いた次の瞬間、突如として打ちつけるような大雨が降り出した。
「うわっ……!」
そういえば、テレビの天気予報で今日は突発的な雨が降るかもしれないと言っていた事を思い出す。
それにしても、わざわざこんなタイミングで降るなんて。最悪だ。
カノと一緒に近くの木の下へ避難する。
『もう〜、何〜?』
『うわっ! 最悪!』
近くにいたカップルや見物人なども突然の雨に、散り散りに去っていった。
「……雨、降ってきちゃったね」
カノがそう口にする。
「止むかなぁ……雨」
僕が雨空を見て呟くと、一体何を思ったのか、カノは突然バッグを捨てて雨の中に飛び出したのだ。
「なっ――」
「あはははははははっ!」
動揺する僕を気にもしないで、カノは篠突く雨の中で幼児のようにはしゃいでいる。当然、その体はあっという間に大粒の雨によってずぶ濡れになっていく。
「なっ……何やってんの!?」
降りしきる雨の轟音の中で、僕は何とかカノに聞こえるように大声で質問した。
「サツキ君も来なよー! 楽しいよー!?」
そう言うとカノはまるで我を忘れたかのように、降り注ぐ雨の中でくるくると回っていた。
その姿を見ていると、不思議な事に僕も何だか真面目に考えているのが阿呆らしくなってきた。
僕は意を決すると持っていたリュックを捨て、カノのいる土砂降りの雨の中に飛び込んで行った。
「うわぁーっ!」
無防備な体に大粒の水滴がこれでもかと言わんばかりに打ちつけられ、その体は瞬く間に雨によって濡れていく。
「うわぁぁーっ!」
雨の轟音で自分の声さえも明瞭ではない。
「サツキ君!」
「カノ!」
降りしきる雨の中で、お互いの名前を呼び合う。
「あははははははっ! あははははは!」
「はははははは! はははははははっ!」
僕らは時間も忘れて、狂ったように土砂降りの中ではしゃぎ合い、そして笑い合っていた。
その瞬間、僕らを隔てるものはこの世のどこにも存在しない事を僕は心の中で理解していた。
僕は目の前にいるカノと、心で繋がり合えたような気がしていた。
***
集合場所である駅に着くと、私はその中に目的である人の姿を見つけた。服装もチャットで言っていた通りの格好だ。私は後ろから声を掛けてみる。
「もしかして……サツキ君?」
声を掛けられたその人が振り向く。
「かっ……カノさん?」
その人はぎこちない話し方でこちらに質問してくる。その振る舞いで、私はこの人が先日までチャットで話していた目的の人――サツキ君であるという事を直感で感じ取っていた。
動揺気味のその声と表情は、なんだか初対面の私にとっては少し変わっているように見えて、面白かった。
私が分かりやすいねと少しからかうと、彼は言葉に詰まりながら返事をした。
「なっ……一体、何が?」
ふふっ。なんか面白い。
会話を交わしながらサツキ君の姿を見る。
……ふーん。この人がサツキ君かぁ。
何故だか、この人をからかっていたくなる気持ちになるのはどうしてだろうか。
***
「ただ……怖くて……怖くて……」
……あーあ。本当の事を話しちゃった。
私の本当の事を話すのなんてこの人が初めてなのに。
「……おっ、俺は! カノと一緒にいると楽しいし! カノには……もっと笑っててほしいなって思うよ!」
……何それ。そんな事、初めて言われた。
一緒にいて楽しいなんて。しかももっと笑っててほしいなって?
私はなんだか、彼がぎこちない口調で一生懸命に言葉を伝えてくれているのが可笑しくて、つい笑ってしまった。
でも、それは本当は照れ隠しで。
私はサツキ君のその純粋な気持ちが素直に嬉しかった。
……真面目な人なんだな。
***
「あははっ! それにしてもまさかサツキ君がメイド服を着てたとはね〜」
「あ、あんまり言うなよ! 聞かれるかもしれないだろ……」
ふふ。素敵な人。真面目な人。
「うわっ……!」
サツキ君と話していると、突然雨が降り出した。
……最悪。こんな時に。しかも雨なんて。
私の人生において、ついてない時はいつも雨が降る。今だって、あの時だって……。
目の前で轟々と降り続ける雨を見ていたら、なんだが段々と考えるのが馬鹿らしくなってきた。
私はバッグを捨てると、激しく降り続ける雨の中へとその身を放り出した。
「あはははははははっ!」
「サツキ君も来なよー! 楽しいよー!?」
何も考えたくなかった。
「あははははははっ! あははははは!」
「はははははは! はははははははっ!」
今はただ、この人と――サツキ君と笑い合っていたかった。
***
私達は、再び集合場所の駅前に戻って来ていた。
大雨の中ではしゃいだせいで、お互い服はずぶ濡れだけど、そんな事を気にしてはいなかった。
時間も忘れて笑い合った事で、私達の中には楽しかったという純粋な満足感だけが残っていた。
「今日はありがとう! すっごく楽しかった!」
「……二人ともびしゃびしゃだけどね」
ははは、と二人で笑い合う。
「それじゃあ、またね。 また何かあったら連絡するから」
そう言って、サツキ君は別れを口にする。
「うん。それじゃあね」
終わってしまう。楽しかった時間が。楽しかった一日が。
サツキ君が、だんだんと離れていく。
「サツキ君!」
そう言って呼び止める。
「……ん? どうかした?」
サツキ君はこちらを見て首を傾げている。
……でも。やっぱり。
ごめんね。もう決めちゃったから。
「……ううん! 何でもない!」
「……そっか! またね!」
サツキ君が、離れていく。
小さくなっていくサツキ君の背中を見送りながら、私は静かに呟いたのだった。
「――サツキ君は」
「サツキ君は……私の事、忘れないでね」
***
カノと会ってから数日が経った。
『satuki329:今日はありがとう! すごく楽しかった! また話そうね!』
カノと会った当日のメッセージには返信がついていない。忙しいのだろうか。
「今日も連絡は無いかぁ〜」
そう言ってqQuitからログアウトしようとしたその時だった。
『kanon56:最後にどんな顔をしていましたか』
「……え?」
カノから送られてきたのは謎のメッセージだった。
「顔……? 何言ってんだ?」
一体なんの事だか、さっぱり分からない。
何の事だと返信を送ろうとしたら、さらにメッセージが送られてきた。
『kanon56:娘は、最後にどんな顔をしていましたか』
「……娘? お母さんか?」
お母さん? カノの? 一体どうして?
更に謎が深まり、こちらから連絡しようとした次の瞬間、信じられないメッセージが送られてきた。
『kanon56:娘は、亡くなりました』
「…………え?」
僕は、その目の前の文字が信じられなかった。
『kanon56:娘は首を吊って、亡くなりました』
『kanon56:最後まで娘と仲良くして下さり、ありがとうございました』
当然のように送られてくるその文字列に、僕は腰を抜かしてしまった。
「はっ……! はぁ……っ!」
呼吸が乱れて、その場にうずくまる。
「はっ……! はっ……! はっ……! はっ……!」
あまりの衝撃に、呼吸が出来ない。
僕はしばらく、その場から動く事が出来なかった。
焼け付くような夏がやって来ようとしていた。